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第二話

「佐藤君は、もう部活何に入るか決めたの?」


「え、と……君は……」


「ああ、俺の名前? 俺、悠瀬。悠瀬美雄」


「あ、ごめん、席隣なのに」


 僕は頭を掻いた。

 入学式の次の日のロングホームルーム。

 僕たち特別進学クラスの仲間同士の自己紹介があった。

 僕はボクシング部にはいることが目的で入学してきたわけだから、正直クラスのことには関心なかったけど、同じクラスで勉強するわけだから、やっぱり仲のいい友達は必要だよね。

 だから僕は、隠すことなくこの学校に入学した目的を話したんだ。


「僕は、ボクシング部に入部するつもりなんだ」


「……ボクシング部……それ、本気でいってんの?」


 ?

 どうしたんだろ。

 悠瀬君の表情が曇ったぞ?


「あーっと……佐藤君は、この辺の出身じゃないんだっけ」


「うん。僕は越境組だから」


 越境入学する生徒には特待生や奨学金が出やすい。

 僕と同じようにこの定禅寺西に入学するために越境入学してくる生徒はたくさんいて、“越境組”なんてこの学校では呼ばれている。


「俺はこの辺出身だから……ていうか、佐藤君は特待生で特進クラスにいるんだよね? ボクシングなんて、やってる暇ないんじゃない?」


「まあ、そうかもしれないけど……」


「……佐藤君は他県の出身者だからわからないかもだけど……正直、ここのボクシング部、評判悪いよ?」


「そうなの?」


 僕の脳裏に、十か月前のインターハイでの出来事が蘇る。


「……うーん、まあ、ボクシングって、結構柄の悪そうな人たちも多いしね」


 ……そっか……今まで考えないようにしてたけど、あの鈴木選手みたいな人たちが、このボクシング部にもいる可能性があるってことか……。

 けど僕は負けない。

 それでも僕は、ここのボクシング部に入部すると決めたんだ。

 僕の目指す人、それは


「僕さ、ボクシング部にあこがれてこの定禅寺西高校に入ったんだ。だから、僕は誰が何といおうとこのボクシング部に入部するよ。悠瀬君は?」


「……俺は陸上部あたりに入ることにするよ。専門でやってたわけじゃないけど、勉強ばかりじゃ滅入っちゃうし、体は動かしておきたいからね」


「そっか。お互いがんばろうね!」


 僕はバッグを抱えて、勢いよく教室を飛び出した。



「えっと……ボクシング部の部室って……」


 僕は玄関横の構内見取り図に目を凝らす。

 僕たちがいる特進クラスは三号館、学校ではみんな新刊って呼んでる校舎にある。

 何度か顔を上下してボクシング部の部室を確認してみたけど……うん、おかしいな、やっぱりない。


「ん?」


 なんだろ、左上の方に……ガムテープで目張りされているところが……。

 左上だから……一号館、旧館だ。

 旧館は、普通科と体育科がある校舎で、僕たちのいる校舎よりもだいぶ古い。

 そこに、なんだか意味ありげなガムテープ。

 ……誰も……見てないよね?

 僕は慎重に周囲を見回し、ぺりぺりとガムテープをはがした。


「……ボ……ク……シ……ン……」


 そこまで確認したら、すぐにそのガムテープを元に戻した。

 間違いない。

 ガムテープの下に隠された文字は、ボクシング部、の文字だ。

 けど、なんであんな風にわざわざ隠されてるんだろ?

 インターハイ優勝者を輩出した、名門ボクシング部の部室が。

 まあいいや、とにかくこれでボクシング部の部室が確認できたわけだし。

 僕はまたバッグを抱えて、その地図に隠されたボクシング部部室に向かって歩き出した。



 ……うわー、話には聞いてたけど、本当にぼろいな、この校舎……。

 ……しかも……なんだか、先輩たちの表情も、すさんでるっていうか……。

 定禅寺西高校は、特進コースと普通科・体育科はまったく別学校だ、なんて言われてるみたいだけど……何となくわかる気がするな……。

 たまに、ちらちら睨むみたいに先輩たちが僕を見るのがわかる。

 そう言えば、先輩たちは、結構ラフに制服を着崩している。

 僕みたいにぴっちり制服を着込んでると、特進コースの生徒だってばれちゃうのかな……。

 僕は何となしに、制服の詰襟の部分を外した。

 旧館の一階の校舎を、僕はおっかなびっくり歩いていく。

 誰とも目を合わせず、下を向いたまま、早足で。

 三年生の教室を抜けて左手に曲がると、体育科の人たちが使っている部室棟がある。


「たしか……この辺、だったとおもうけど……」


 部室棟の階段を上がって、三階だったはず。

 三階に立つと、各部活の表札が掲げられていた。

 ……まあ、男子校の部室棟だから当たり前なのかもだけど……


「……やっぱり、汗臭いなあ……」


 中学校までは共学校だったから、やっぱりこの男子校の雰囲気には、ちょっとまだなれないなあ。

 三階を適当に歩けば、ボクシング部の部室も見つかるよね。


 ……ない。

 ……何度か三階を往復してみたけど……やっぱり、ない。

 表札とかいろいろ探したけど、“ボクシング部”の名前が、どこにもない。

 僕の見落としかもしれない。

 僕は電車の運転手みたいに、指差し確認で一つ一つ表札を確認して歩く。


「……卓球部……違う……バドミントン部……違う……」


 ……一つ一つを確認したけれど、やっぱりない。

 おかしいなあ……。



「え? ボクシング部の部室?」


「はい」


 こくり、僕は頷いた。

 ここは教員室。

 僕は近場にいた先生を捕まえて、なぜボクシング部の部室が見当たらないのかと訊ねた。

 その先生は、何か珍しいものを見たかのように、じろじろと僕の姿を見つめて言う。


「……君は……特進の新入生だよね。そんな君が、ボクシング部の部室に何の用だい?」


「……あの、僕、ボクシング部に入部したくて……」


「ボクシング部? 君が?」


 心底驚いたような、ちょっとだけ馬鹿にしたような眼でその先生は僕を見た。

 失礼だな、確かに僕はボクシングどころか運動もあまりやったことがないけど、それでもそれを目標にこの学校の特待生までとったんだ。

 それをとやかく言われたくはない。

 その先生はなんともいえない表情に変わると、教員室の中に声をかけた。


「あのー、石切山先生、ちょっとお願いできますか?」


「はーい」


 太い声が響いたかと思うと、のしのし、きしきしと地面を揺らして、一人の先生が近づいてくる。

 あれ?

 この先生、見覚えがあるぞ。


「どうかいたしましたか?」


「あっ……」


 ひげもじゃの顔に、でっぷりと太った巨体、そうだ、あのインターハイで拳聖を呼びに来た――


「……あのですね、この新入生の子が――」


「イシさんですよね!」



「そうか、君はあの時、インターハイの会場にいたのか……」


 のっしのっし、という擬音がぴったりの様子で、イシさん、石切山先生が歩く。

 その姿に、旧館のちょっとワルぶった感じの上級生達が、蜘蛛の子を散らすように消えていく。


「はい。あのとき、拳聖さんにいろいろとお世話になって、試合も見させてもらって。それに、ほら……」


 僕はポケットから、僕にとってこの世で一番大切な“宝物”を見せた。


「……それは……もしかして……」


「はいっ! 拳聖さんからもらった、インターハイ優勝のメダルです! だから僕、佐藤拳聖さんみたいになりたくて、それでこの学校を受験したんです!」


「……拳聖、か。それはまた罪作りな……」


「?」


 罪作り?

 どういうこと?


「あのインターハイの会場にいたということは、君は“越境組”、ということか。だったら、知らないのもし方がないのだろう」


「はあ……」



 旧館の校舎、先ほど僕が行き来したフロア、そして階段を僕たちは連れ立って歩く。


「特に、君は特進を目指してきたからわからないかもしれないが、正直言ってこの学校の普通科、一部の体育科の生徒は、それほどできのいい生徒たちがではない。成績の点からいっても素行の面から言ってもな」


 僕たちは部室棟の三階にたどり着いた。

 石切山先生はまたのっしのっしと、その奥のほうまで歩いていく。

 左手には、さっき確認した卓球部やバドミントン部の表札が見える。


「ここはさっきも……うわっぷ?」


 左手を眺めながら歩いていた僕は、急に立ち止まった石切山先生の大きな背中にぶつかる。

 すると先生は、表札もにもない白塗りの扉に前に立つ。

 ……そういえば、さっきもこんなの見た記憶があるけど……。

 石切山先生は、ポケットから鍵の束を取り出し、ジャラジャラとその中をより分ける。


「ボクシング部は、その中でも特に問題のある生徒が集まりやすい。競技の特性によるものなのだろうがな。それでもこの定禅寺西高校ボクシング部は、県内でも、いや日本でも有数の伝統を誇り、そして強豪校として知られていた」


 右端にある南京錠にその鍵を差し、そして、がちゃり、開場する。

 ……ギイィ……、先生はゆっくりと、その白塗りの扉を開けた。


「……去年のインターハイまではな……」


 

「あれ、えっと……佐藤君だっけ?」


「あ……悠瀬、くん……」


 中庭のベンチで、ペットボトルのお茶を片手に座る僕に声をかけたのは、クラスメートの悠瀬美雄くんだった。


「どうしたの? なんか元気ないみたいだけど」


 そういうと、悠瀬君は僕の隣に座った。


「? なんか手汚れてないか? 真っ黒だけど。そういえば、ボクシング部の部室は確認できた?」


「……はぁ」


 悠瀬君の問いかけにも答える気力がない。

 だって……だって……


――


「……入りたまえ……」


「……はあ……って、うわっ!?」


 うわっ、なんだこれ!

 なんだろう、予想はしてたけど、汗臭いし、それ以上に……


「げほっ、げほっ、げほっ、何か、こげたようなにおいしませんか? なんていうか……」


 すると石切山先生は、部室の奥を指差した。

 その一角は、焚き火をしたように真っ黒にすすけた部室の壁があった。

 僕はそこに散乱する瓦礫の山に近づき、その一つを手に取る。


「……これ……もしかして、グローブですか?」


「ああ」


 そういうと、石切山先生は何かにいらだったように、こちらも焼け焦げたカーテンを力任せに引きちぎると、がらり、と部室の窓を開けた。

 吹き込む風に、すすと埃、そしてカビのにおいも混じった空気が舞う。

 ようやく僕は、その中央にしっかりとしたリングやサンドバッグ、そして大きな姿見の存在を認識できた。


「ここは、伝統ある定禅寺西高校県東部の部室兼ジムさ」


 なんだって?


「ここが……ここが? なんでこんなに荒れ果てているんですか? インターハイに出場して……インターハイだけじゃない、国体や選抜大会にも優勝した、あの佐藤拳聖さんの所属していた、あの定禅寺西ボクシング部の部室が?」


 どむっ


 石切山先生の太い腕が、サンドバッグにめり込む。

 ギシッ、ギシッ、ギシッ、サンドバッグが大きくよれる。

 よく見るとそのサンドバッグの表面も焼け焦げたように変色していた。


「あのインターハイの後のことだ。まともに練習もせず、ついてもこれないような連中が、ぼや騒ぎを起こしたんだ」


 え?

 てことは、この焼け焦げたところ、そのぼや騒ぎの痕?


「さっきもいったが、うちの学校でも特にたちの悪い連中がボクシング部には近寄ってきやすくてな。そのたび俺や拳聖、真面目にやってる連中がそういう連中をたたき出すんだが、その残った連中ですらも、とてもじゃないが褒められた連中じゃなかった。そいつらが、インターハイの後、あてつけのようにこのジムで喫煙をやらかしてな。その不始末が、このざまってわけだ」


「で、でも、悪いのはその人たちなんですよね? なんで部室をこんなふうに封印したり……なによりこんなに荒れ果てたままにしておくんですか?」


 じろり


「ひっ!」


 お、思わず悲鳴を上げちゃった。

 石切山先生が鋭い目で僕を睨んだからだ。


「……その後、停学処分を受けた連中が、謹慎期間中に家を抜け出して街中を遊び歩いているという通報が入った。わざわざ、定禅寺西高校ボクシング部のジャージーを来たままな」


「は、はい……」


「警察から連絡を受けていってみれば、その連中は酒盛りをして、他の高校の生徒と乱闘騒ぎを起こしていた。もうそれですべてが終わりだ。ボクシング部は、無期限活動停止。国体出場も選抜出場も、すべてが水の泡だ」


――


「そうか、やっぱり君は知らなかったのか」


 悠瀬君は腕組みをして頷いた。


「その事件、けっこうな大騒ぎになっちゃってさ。ほら、この校舎、新館も本当は体育か進学科関係なく使えるはずの校舎だったんだけど、学校が特進科の評判が落ちるのを怖がって、特進だけの校舎にしたらしいし」


 ……そっか、だから旧館の先輩達が、特進の僕を敵意むき出しで睨んできたのか……。


「……それでね、結局ボクシング部は活動休止のまま半年以上そのままみたい。学校のほうも、このまま廃部にしようと考えているんじゃないかって話しだし……僕のこの十ヶ月間は一体なんだったんだよ……あれだけ努力して、県外の高校を受験して夢をかなえようとしたって言うのに……」


 ああもう、今までのことを思い出したら、なんだか自分がすごく惨めで情けない男に思えてきたよ……。


「……ごめんな、俺にはどうしてやることもできないからさ」


 申し訳なさそうに僕に声をかける悠瀬君。

 僕はぐしぐしと目をこすると、とりあえず元気だよ、ということを示すために、悠瀬君に笑顔を返した。


「ありがと、別に君が悪いわけじゃないってのに、ごめんね」


「……いやー、なんだかんだで俺の生まれ育った県だからさ、嫌いになられるとちょっとへこむしね」


「大丈夫。別に静岡のこと、嫌いになったりはしないから。それに、ボクシング部はまだ活動休止しているだけで、完全に廃部になったってわけじゃなさそうだしね」


「……その辺はあまり期待しないほうがいいんじゃないのかな……この辺に住んでる俺からするとさ……」


 まあ、この近所の人にとっては、悪夢のような出来事なのかもしれない。

 けど、僕は違う。

 ある意味では、この高校のボクシング部には、憧れしかなかったから。

 確かにあの部室の様子を見たら、ちょっとへこんじゃったけど、まだまだ僕の中にある憧れの感情のほうが強いから。


「それより、佐藤君も俺と一緒に陸上部はいらない? 特進の生徒も結構いるから、楽しいと思うぜ?」


「いろいろ心配してくれてありがとう。けど、僕は諦めないよ。だって、僕には目標とする人がいるんだから」


「目標?」


「うん!」


 ふと見ると、校門の前に数人の人だかりができている。

 ?

 あれは……女の子だ。

 なんで男子校の定禅寺西に女の子がいるんだ?

 ……よく見ると、一人ひとり制服のデザインが違うな。

 みんな別の学校の女の子たちってことか。

 一人の女の子が、何かに気づいたように手を上げて大きく振る。

 それに気づいたほかの女の子たちも、きゃあきゃあ言いながら、手を振ったり小さく飛び跳ねたりし始めた。

 こういう光景どこかで見たような……そうだ、テレビで見たアイドルのコンサートで熱心にうちわかなんかを振っている女の子たちの姿にそっくりだ。


「なんだろ、何であんなに女の子が打ちの校門に集まってるの?」


「ああ、この学校の進学科の生徒はけっこうトッぽい感じの生徒が多いし、うちの校門で待ち合わせてこのまま遊びにいたりするんじゃないのかな」


 そっかー、僕は男子校に入学しちゃったんだよなーって改めて思うよ。

 そういえば受験のとき、何で県外の、しかも男子校なんて受験するのかって変な目で見られたけど……冷静になってみれば、僕ってかなりおかしなことやったんだな。

 まあ、女の子がいようがいまいが、僕には関係なかったんだけどね。


「佐藤さーん!」


 ん?

 なんか僕の名前が呼ばれたような……まあ、佐藤なんて苗字は、それこそ日本中で一番ありふれてる名前だから、こんなことはしょっちゅうだったけど。


「あ、本当だ! 佐藤くーん!」


 ……違うとわかってても、やっぱりドキッとするな……僕があんなにかわいい女の子たちに名前を連呼されるなんて、ありえないからさ。

 なんて考えてたら、黄色い感性がひときわ大きくなった。


「誰か来るのか?」


 悠瀬君も気になったみたいだ。

 誰が来るのかな……僕は女の子たちの視線の先を追ってみた。

 すると、肩にバッグを掛けた男の人の姿が見えた。

 ……うわー、スタイルいいなあ。

 なんだろ、雑誌の読者モデルとかやってる人なのかな。

 髪の毛がちょっと長いから、顔は確認できないけど、明らかにもてそうなオーラをぷんぷんさせてるぞ。

 その人が小さく手を振っただけで、女の子が失神しちゃうんじゃないかってうらい舞い上がってる。

 その人が、まるで世界を支配する王様みたいに。

 ん?

 なんかこの雰囲気……どこかで……。


「待たせて悪かったな」


 声にも聞き覚えがある。

 そうしたら、一人の女子生徒が待ちかねたようにその男の人のところに駆け寄っていく。

 その彼女が制服のすそをぎゅっと掴む。


「遅かったじゃん。メールもくれないし。待ってたんだよ――」


 うーん、なんだか青春して――「――拳聖」

 ……。

 ………。

 …………え?


「悪いな、今日掃除当番だったもんでな」


 その男の人が、甘い仕草でやや長めの髪を掻き揚げる。

 ……そんな……。

 ……けど、間違いない。

 だって、あの綺麗な顔立ちと甘い笑顔、ずっとこの人を、夢に見るくらいまで思い続けてたんだから……。


「佐藤くん?」


 悠瀬君の言葉にも耳を貸すことなく、僕は一目散にその人の下に駆け出した。

 あの日、僕を助けてくれた人。

 甘い笑顔で、微笑みかけてくれた人。

 そして、リングの上でのとびっきりのパフォーマンスで、僕をあなたの世界に引きずりこんでくれた人。


「拳聖さん!」


 僕はそれまでの思いのたけをこめて叫んだ。


「……誰この子。拳聖の知り合い?」


 拳聖さんの前に立つお姉さんが、僕のことを指差した。

 あなたは関係ない、ちょっと黙ってて欲しい。

 僕はその女の人の指を振り払うようにして拳聖さんの前に近づいた。


「……拳聖さん。お久しぶりです!」


「……あー……っと……お前、誰だっけ?」


 拳聖さんは戸惑ったような、困ったような表情を見せる。

 そりゃそうだ。

 一年近く前に、ほんの数十分くらい話をしただけの中学生を、そういつまでも覚えているはずはない。

 だから僕は、いつも肌身離さず持っているあれを見せようと思って、ポケットをまさぐる。

 そして、それを拳聖さんの目の前に突きつけた。


「これです! これ、覚えてますか? あの時、拳聖さんにこれをもらったんです! 僕、これをずっと大切にして、肌身離さず持ち歩いてるんです!」


「……」


 拳聖さんは、目を細めてメダルを見つめている。

 インターハイ優勝の記念メダル、これをわざわざくれた相手、さすがに拳聖さんだって覚えて――


「……悪ぃ、やっぱ思い出せねーわ」


 ……。

 ………。

 …………え?


「そ、そんな! インターハイ優勝のメダルですよ!? 」


「ああ、そういえば、私ももらったことあるわ」


 ?

 どういうこと?


「拳聖くんってね、物に全然執着しない人だから、メダルとかトロフィーとか、すぐに人にあげちゃうのよねー」


 気がつくと、数人の女の人が回りに群がっていた。


「そうだよね。けどこの間家に遊びに言ったら、それでもたくさん賞状とかメダルあったけどね」


 ……さすが天才ボクサー……なんて感心してる場合じゃないっ!


「こ、このメダルは去年のインターハイのときのもので、僕はあの時……あの時、拳聖さんに助けてもらって……覚えていらっしゃいませんか?」


「……ああ。そういや、そんなこともあったな。お前、あのときの少年か」


 ようやく思い出してもらえたので、僕は胸をなでおろした。


「けどよ、あれ県外開催だったよな。なんで少年はうちの学校の制服なんか着てんだ?」


「あ、あの! ぼ、僕、拳聖さんの試合を見て! 感動して! それで、定禅寺西高校のボクシング部に入りたくて! それで!」


「……もしかして少年、お前、それだけのためにうちの高校受験したのか?」


「そ、そうです! 僕は、この定禅寺西高校ボクシング部に入るために、毎日死ぬほど苦労して……それで、拳聖さんみたいなボクサーになりたくて! ボクシング部に入ろうって決めたんです!」


 セクシーに髪を掻き揚げた拳聖さんは、ちょっとだけ困ったような、だけど甘い笑顔を浮かべて僕の頭をポンポンなでた。


「悪いな。俺、あの後ボクシングやめたんだ」


 ……。

 ………。

 …………は?


「ど、どうしてですか? あんなに強くて……あんなに格好良かったのに!」


「なあ少年、もしお前がこの学校を受験したってのが俺のせいだってんなら、謝るよ。悪いことは言わねえ。今のうちに転校するための準備をしておきな」


 一体この人は何を言っているんだ?


「いったいどうしちゃったって言うんですか? 僕はあなたにあこがれてこの学校に入部したんですよ? そんなこといきなりできるわけないじゃないですか!」


「そいつぁすまないが、俺には関係ないさ。見たところ、お前特進科だな。転校が嫌だったら、一生懸命勉強していい大学目指せよ。それにうちはボクシング部以外にも、いろんな部活あるからさ」


 ……やばい、涙がにじんでくる……。


「……いやです……僕は……この定禅寺西で……拳聖さんとボクシングをすることだけを考えてこの一年近くを過ごしてきたんです……それを……それを今さら断念するなんてできません!」


「ねえ拳聖、さすがにかわいそうだよ。泣いちゃってるよこの子」


 うるさい!

 お前ら外野が口を出すな!

 ……くそう、なんで……なんでこんなことになっちゃったんだ。


「……なあ少年、お前も見たろ。あの部室の様子をさ。これ以上うちのボクシング部に期待したって仕様がねえよ。な? 辛いかもだけど――」


「理由を教えてください!」


 いきなりはいそうですか、って、納得できるわけないじゃないですか!


「何で拳聖さんがボクシングをやめなきゃいけなかったんですか!?  やっぱり、あの不祥事があったからなんですか!?」


「……それに関しては、お前と何か話し合うつもりはねえよ」


 そういうと拳聖さんは、バッグを抱えて振り返った。


「んじゃな少年。とにかく、俺は二度とリングの上に立つことはねえ。お前が受け入れようが受け入れまいが、それは揺るぎのない事実だ」


 そして、女の子たちを引き連れて校門の奥へと歩いていった。

 ……あれ?

 なんだろ、体に力が入んない。

 頭がぼおっとする。

 視界がゆがんで、くらくらする。


「あっ……」


「あぶない!」


 地面にへたり込みそうになた僕を、誰かが抱えてくれた。

 朦朧とする意識の中振り返ると


「……悠瀬君……」



「……成程。それはショックだったね」


 悠瀬君は僕を抱きかかえたまま、さっきまで座っていたベンチまで歩き、そして座らせてくれた。


「けど、しょうがないよ。その、えっと、拳聖先輩だっけ、はもうボクシングをやめちゃったわけだし、それに、肝心のボクシング部自体があんな感じなんだからさ」


「……なんでこんなことになっちゃったんだろ……」


 悠瀬君の慰めは、僕の心をますます深い落胆の中に叩き込んだ。

 悔しい気持ちと悲しい気持ち、それ以上に、情けないやら可笑しいやら、とにかく僕は負け犬になったように惨めな気持ちだった。


「……勉強したいなら、地元にだって進学校はあるよ……けど、そこを蹴ってまで、僕はこの学校を目指してきたんだ……特待生を取れば入学してもいいって……だから、この一年近く、漫画だってゲームだって封印して……友達と遊ぶことだって全然ないくらい頑張って勉強したのに……」


「佐藤君はボクシング経験あるの?」


「……ぜんぜんないよ。運動だって、ろくにしたことない。けど、三年間このボクシング部で頑張れば……少しでも拳聖さんに近づけるって信じて……」


「……そっか」


 悠瀬君が困った表情をしている。

 ……ああ、僕って嫌な奴だ。

 これじゃあまるで、悠瀬君に苛立ちをぶつけているみたいじゃないか。

 ……なんだかもう自己嫌悪で消えてしまいたい。

 あ、また目に涙が浮かんできた……。

 僕はまたぐじぐじとまぶたをこすって涙をぬぐう。


「ごめんね悠瀬君。なんだか八つ当たりみたいな愚痴言っちゃって」


「あ、ううん、全然。俺は全然気にしてないから」


 僕はゆっくりと立ち上がる。

 よかった、もうめまいとか立ちくらみはないみたいだ。


「ごめん、今日は、もう帰るよ。ありがとね。悠瀬君がいなかったら、きっと僕倒れて汚しちゃってたとこだったよ」


「そういえば、佐藤君ってどこに住んでるの?」


「駅前のマンション。一人暮らしだから、これから帰って家事やらなきゃ。それじゃあね」


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