第十六話
――カァ――ン――
会場を震わせるゴングの音。
――オッキッツッ――パンパンパパパン――オッキッツッ――パンパンパパパン――オッキッツッ――パンパンパパパン――
――パンパンパパパン――シュガー!――パンパンパパパン――シュガー!――パンパンパパパン――シュガー!――
“最終戦ウェルター級、両選手の紹介をいたします”
その瞬間、会場中に響く、もはや不気味と言ってもいいほどの地鳴り。
そこにあるのは、表現という形態を奪われた、純粋な感情のほとばしり。
むせ返るような汗と体臭、八月の炎天下な熱気、そしてこれからリング上で展開されるであろう光景への期待。
そのすべてが、熱病の嵐のように狂おしく渦を巻いた。
“赤コーナー、半田君。興津高校”
――オッキッツッ――パンパンパパパン――オッキッツッ――パンパンパパパン――オッキッツッ――パンパンパパパン――
相変わらずの勇壮な、一糸乱れぬ声援。
けど、この熱狂の中ではもはや物足りなくすら感じられる。
半田、悪いけどあなたじゃないんだ。
ここにいる人たちが、救世主を待ちわびるように渇仰しているのはこの人なんだ。
“青コーナー――”
コールを行うのは興津高校の女子生徒なんだろうけど、わざわざフルネームで呼ぶその声色には、どこかうっとりと艶めいた香りすら感じさせた。
“――佐藤拳聖君。定禅寺西高校”
その直後、ヒステリックな叫びととろけきったようなため息が、渾然一体の形容しがたいエネルギーとなって爆発した。
リングという“約束の地”に、今“シュガー”は舞い戻った。
――パンパンパパパン――シュガー!――パンパンパパパン――シュガー!――パンパンパパパン――シュガー!――
――パンパンパパパン――シュガー!――パンパンパパパン――シュガー!――パンパンパパパン――シュガー!――
鳴り止まない“シュガー”のコールに、拳聖さんはあの日のように自身満々に、しかし一切の驕りを感じさせることなく微笑む。
僕たちはもはや、拳聖さんに率いられる仔羊の群れに過ぎない。
今日今この場所で失神してしまった人がいたとしても、僕は一切疑うことはないだろう。
だって僕も玲於奈も拳聖さんの振りまく甘い陶酔に、立っているのすらやっとだったんだから。
「ええー、この試合はあくまでも対抗戦であるから――」
拳聖さんと半田は、リングの中央に向かい合った。
こうして並んでみると、両者のサイズの違いが一目瞭然だ。
拳聖さんだって、百八十センチあるって言うのに……。
「――お互いに正々堂々、スポーツマンシップに乗っ取り――」
半田はその鋭い眼光を、見下ろすようにして拳聖さんに突き刺す。
しかし拳聖さんは、飄々と視線を受け流し続けた。
「――それでは、両者、グローブを合わせて」
ボンッ
心地よい音が会場に響いた。
「何度立っても格別だな。試合前のリングってのは」
青コーナーのポストにもたれかかる拳聖さんは、ぬるい水の中をたゆたう魚のようだ。
「……どうしたんだよ玲於奈。そんなに俺の姿が眩しいか」
「……うん、すごく素敵。このお兄ちゃんの姿、すっと待ってたんだから」
玲於奈の中の心の迷いは、リングの上の拳聖さんのスウィートな姿に、どこかに吹き飛んでしまったみたいだ。
ううん、玲於奈だけじゃない。
「僕も……あの日から、あなたの姿が目に焼きついてはなれないくらい、ずっとあなたの姿を追っていました」
「そうか」
そういうと拳聖さんは、僕たちの頬に優しく自分の頬を当てた。
ほんの少しだけにじんだ汗が、僕の右頬にしっとりとした感触を残した。
「セコンドアウト!」
そして、僕たちの耳元には、甘く、少しだけくすぐったいささやきを残した。
「瞬きなんかするな。息だってするな。俺だけを見ていろ」
――カァン――
“第一ラウンド”
先に仕掛けたのは半田だ。
ヒュンッ――ピシィン!
「な、何今のジャブ?」
だらりとたれた長い腕が、ゴムのように伸び、ムチのようにしなり襲い掛かった。
そもそも、構えからして異様過ぎる。
「あんなに左ガードを下げて、顔面をがら空きにしちゃうなんてありえるの?」
「“フィリー・シェル”よ」
「? なにそれ?」
「“フィラデルフィアの貝”、本来は左の顔面ガードを腕ではなく、肩をロールさせながら行うディフェンシブなスタイルのことよ」
ディフェンシブってことは……ディフェンス重視のスタイルってこと?
「これにクロスアームディフェンスを用いれば、それはさらに固くなるわ」
けど、これはどう見たって……。
ヒュンッヒュンッヒュンッヒュンッ
「どう見たって、攻撃重視のスタイルにしか見えないよ!」
「あの反則的なサイズだからこそできる、攻撃的なフィリー・シェルよ」
玲於奈……さすがに冷静だな。
「あれだけのリーチと懐の深さがれば、そもそもめったにパンチを食らわないわ。だから本来はガードがメインの左手を大胆に開いて、完全に攻撃に専念させることが可能なの」
異様に長いあの左腕が、ボディーから顔面に、縦横無尽にジャブを繰り出し続ける。
ものすごくやりづらそうだ……あの拳聖さんが……。
「お兄ちゃんはボクサーファイターだけど本来はボクサースタイルだから、リーチを考えると相性はあまりよくないわ。馬呉並のサイズか石神並の強打がなければ、突破口は開きづらい」
ヒュンッ――パアンッ!
「拳聖さん!」
半田の左ジャブが、拳聖さんの左顔面で弾けた。
ただでさえ左目が見えていない中で、この変幻自在の左ジャブを捕らえるのは至難の――
「危ないっ!」
ゴッ
半田の打ち下ろすような右ストレートが拳聖さんの左のガードごと体を揺らした。
「あられのようなジャブで相手のガードをひきつけて、打ち下ろしの“チョッピング・ライト”を叩き込む。半田の必勝パターンよ」
……石神さんの言ったとおりだ。
拳聖さんは一度も負けたことがないって言ってたけど、むしろどうやってこの“怪物”に勝てたのか不思議な気分にすらなってくる。
「それでもお兄ちゃんは常に勝って来たわ」
リング上の拳聖さんは悠々とバックステップを取ると、再び軽快にリズムを刻み始めた。
「だからこそ、お兄ちゃんは“シュガー”なの」
?
拳聖さんが、くるくると左手を回し――パァン
え?
「速っ!?」
気がつけば半田の顔の右側面が弾けた。
「な、な、な、何今のぉ!?」
「何って……あんた目悪いの?」
「いやいやいや! 見えるわけないよあんなの!」
「あたしだって完全に捕らえられたわけじゃないけど……スマッシュね。フックとアッパーの中間軌道で繰り出されるパンチのことよ」
な、なんでこんなに速いパンチが繰り出せるの?
そ、それに、何で玲於奈はそれを目で追えるの?
「ただ速いだけじゃないわ」
え?
どういうこと?
「普通の人はパンチを受けるとき、予備動作で動きを予測するの。だけど、お兄ちゃんはあの細かいボディーワークでその予備動作を全部消しちゃってるから、どんなに動体視力がよくっても反応できるものじゃないわ」
え、えと……すべての動きがナチュラルにフェイントになっているってことか……。
拳聖さんは一気に距離をつめると、ジャブを数発――パパンッ
かと思ったら、いきなりショートのアッパー――ゴッ
そして至近距離に踏み込むと、フックアッパーフック……だめだ!
「全然捉えられない!」
パパパパパパパ――
夥しいパンチのビートが半田を叩く。
そしてそのすべては、確実に半田の体を捉えている。
それを嫌がった半田が、ロープにもたれかかるように距離をとったその出鼻――
ガコッ
「かはっ!」
右のストレートが決まったその瞬間、会場にポジティブな悲鳴が響いた。
僕の口からは、もはや感嘆すら姿を現さなかった。
「ダウーンッ!」
「もし世界中の高校生を同じサイズ、同じウウェイトで戦わせたたとしたら――」
玲於奈は少しだけ興奮したトーンで断言した。
「――、お兄ちゃんに勝てる人間なんていないわ」
うん。
その気持ちは僕にとっても同じだよ。
そうだよ、僕達が余計な心配なんてする必要が――
?
僕たちの目の前に、信じられない出来事が起こった。
「ちょ、ちょっと、どういうこと?」
さすがの玲於奈も、唖然として声を上げる。
「あれだけ綺麗にもらったはずなのに……半田が立ち上がった?」
「お兄ちゃんが……お兄ちゃんがミートをはずしたって言うの?」
レフェリーは半田の意識を確認すると
「ボックス!」
試合を再開した。
ヒュンッヒュンッヒュンッヒュンッ
後に下がりながらジャブとフットワークで距離をとり始めた。
「明らかに打ち合いを嫌がっているね」
「たぶんまだダメージが残っているからなんだろうけど……厄介だわ」
あくまでもジャブでこのラウンドをしのごうとしているのは見え見えだ。
だけど――
「今の拳聖さんには……むしろこのスタイルのほうが……」
決定的なヒットは避けながらも、それでも何発かのスナッピーなジャブが拳聖さんの左の顔面を捉える。
そしてその頻度は――
「このままだと……気づかれちゃう……」
――カァン――
「お兄ちゃん!」
玲於奈はすばやくストゥールを拳聖さんに差し出した。
「どうした。ノックアウト、というわけにはいかなかったが、しっかりダウン取っただろ」
「そ、そうで――!? って、け、拳聖さん、その目……」
「結構もらっちまったな」
ストゥールに腰掛けうがいの水を吐き出す拳聖さんの左目が、赤く晴れ上がっていた。
「やっぱり一年間のブランクは大きかったのかもしれないな」
「そうね」
玲於奈は濡れタオルで拳聖さんの体を拭いた。
「とにかくあのジャブだけは気をつけて」
拳聖さんはあんなことを言ってるけど、僕たちは知っている。
拳聖さんの視界を妨げたのは、ブランクなんかじゃないって。
けど、まずいな。
「次のラウンド、たぶんジャブがメインのアウトボクシングを仕掛けてくるとおもうわ」
「そうだな。あいつのことだ。容赦なくこの左目狙ってくるだろうよ」
そうだ、左がふさがると思って、パンチを集中させてくるだろう。
「お兄ちゃんの負傷TKO、あわよくばKOを狙って仕掛けてくる。次のラウンドに勝負をかけてくるのは間違いないわ」
けど問題なのは、この試合に勝てるとか勝てないとか、そんなレベルの話じゃない。
このまま左目を狙われ続けたら――
「セコンドアウト」
や、やべっ!
は、早くエキップメント片付けなくちゃ。
「頑張ってね、お兄ちゃん」
「頑張ってください!」
ラウンド中は絶対にかけられない言葉を、僕たちは心の底から口にした。
――カァン――
“第二ラウンド”
トントントントン
半田はフットワークを更に軽くした。
第一ラウンドよりも更に拳聖さんからの距離を取り、拳聖さんを支点に、その長い手足をまるでコンパスのように周囲を回る。
ヒュンッヒュンッヒュンッヒュンッ
そのサークルの中心、拳聖さんの左目に向かい
パアン、パンパンパンパン
いっそう変則的なジャブを繰り出した。
「……お兄ちゃん……距離を見失ってる……」
え?
「どういうこと?」
「……第一ラウンドの右ストレート、わずかだけどミートのポイントが外れてたんだわ」
要するに……一番威力が出る距離を見失っていたってことか……。
「最高の距離とスピード、絶妙のタイミング。それを感じ取れる天才的なセンスがあるからこそお兄ちゃんはスウィートなの。“シュガー”なの。けど、今のお兄ちゃんは……」
左目が見えなくなって、それがつかめなくなってしまったってことか……。
「玲於奈……」
横に見える玲於奈は、血が出るほどに硬く唇をかみ締めている。
そして、その不安を宿した瞳には、うっすらと涙がにじんでいる。
「お兄ちゃん……」
気がつけば、玲於奈の祈るような両手に、タオルが硬く握り締められていた。
拳聖さんはディフェンステクニックを駆使し、半田のジャブをしのぎきる。
大きく距離をとると、再び小刻みに体を動かしパンチの的をはずしていく。
そして、ジャブの引き際を狙い踏み込むと
パパパパァン――
小刻みなショートを叩き込む。
しかし、半田は更に大きく距離をとり、入念に、といってもいいほど慎重に左を叩き込む。
その速さと不規則さ、そして異常なほどに長いリーチに、さすがの拳聖さんも数発の被弾を避けられない。
そのたびに、拳聖さんの左目が赤くはれ上がる。
「……このラウンド、徹底的にお兄ちゃんの左目を攻めるつもりのようね」
「うん」
僕は頷いた。
.「左目を出血させてドクターストップ、もしくは、視界をふさいであの――」
しつこいほどのジャブの雨霰、その被弾の数は明らかに増えている。
決定的なミートをはずしてはいるのだろうが、次第に拳聖さんの左目のはれが大きくなっているのがわかる。
「お兄ちゃん……もうやめて……」
玲於奈はついに、隠していた悲痛な本心を口にした。
「……お願い、避けないで……いっそ出血しちゃって……TKOでも、KOでもいい……これ以上打たれたら……お兄ちゃんの目……」
玲於奈……つらいよね……。
兄妹なんだから、当然だよね。
いつも華麗なパフォーマンスで、見ている人すべてをめろめろに溶かしきってきた拳聖さん、お兄ちゃんがいいように打ち込まれている。
そんなの、つらくって見ていられないよね。
ううん、それだけじゃない。
拳聖さんがタフな姿を見せれば見せるほど、その左目は――。
「お兄ちゃん!」
本来あってはならないセコンドの声、しかし、耐え切れずにあげた玲於奈の目の前では――
ヒュンヒュンヒュン――パンパンパンパン――
拳聖さんがロープに追い込まれ、そして半田のラッシュの集中砲火を浴びていた。
バックステップの空間を失った拳聖さんは、ショルダーロールとクロスアームブロック、ロープワークで何とかしのいでいる。
もはや、パンチを出すことすらままならない。
明らかに左顔面への反応が遅くなっている。
決定的な被弾をかわすセンスがある分、積み重なるように左目のダメージは増えていく。
リングの上、拳聖さんはそれでも半田の拳を防ぎ続ける。
そして徐々に、拳聖さんのガードが下がってくる。
そしてその瞬間を半田は見逃さず――
「ふがあああああああっ!」
ブン
……。
…………。
………………どういうことだ……。
驚愕に目を丸くする半田。
半田の打ち下ろしの右ストレートが、確実に拳聖さんの体をなぎ倒した――はずだった。
けど拳聖さんは――
いつもの甘い微笑を浮かべるとまるで救い主のように、恭しく両手を掲げた。
「うおー! なんだ今の!?」「なになに? パンチが体をすり抜けたの!?」「お、俺絶対もう“シュガー”がやられちまったかと思ったぜ!」
――カァン――
「ストーップだストップ!.各自コーナーへもどれっ!」
ロープ際にらみ合う両者。
すると拳聖さんはレフェリーの陰でおどけた仕草を半田に向ける。
「なんだこの野郎っ!」
恐怖と半ばする混乱の中で、半田は拳聖さんに食って掛かる。
「やめたまえ! 失格にするぞ!」
「くっ……」
怒りに震える半田を尻目に、拳聖さんはゆっくりと青コーナーへ引き上げた。
――パンパンパパパン――シュガー!――パンパンパパパン――シュガー!――パンパンパパパン――シュガー!――
――パンパンパパパン――シュガー!――パンパンパパパン――シュガー!――パンパンパパパン――シュガー!――
「心地いいな」
――パンパンパパパン――シュガー!――パンパンパパパン――シュガー!――パンパンパパパン――シュガー!――
――パンパンパパパン――シュガー!――パンパンパパパン――シュガー!――パンパンパパパン――シュガー!――
ストゥールに腰掛けうがいをすると、拳聖さんはあの甘い微笑を浮かべた。
「最高だ。今死んでしまったとしても、俺はきっと後悔しない」
「バカなこと言わないで!」
濡れたタオルで汗を引く玲於奈の両目から、大粒の涙がこぼれた。
そのタオルの下には、痛々しく晴れ上がった左目があった。
「ねえお兄ちゃん、もう棄権しよう?」
「なぜその必要がある? 確かに差し込まれていたが、クオリティー・ブローは――」
「――もうみんな知ってるんだから。お兄ちゃんの左目」
その言葉に拳聖さんの表情は一瞬固まったが、すぐにとろけそうな微笑に変わり、そしてグローブに包まれた手は優しく玲於奈の髪の毛をなでた。
「そっか。知ってたのか。余計な気、使わせちまったな」
「お兄ちゃん、もう充分だよ。ね? だから、早く――」
「――玲」
拳聖さんは、あの見るだけで虫歯になっちゃいそうな、甘い笑いを僕に向けた。
「しっかりと、俺だけを見てくれているか」
拳聖さん……。
「はいっ! 拳聖さんを……大好きな拳聖さんを、ずっと見ています!」
「そいつは嬉しいな」
そして、また玲於奈に向かってスウィートにささやいた。
「なあ玲於奈。玲と……お前が、玲於奈が俺を見ていてくれれば、俺は負けない」
「お兄ちゃん……」
「お前達がいてくれるから、俺は強くなれる」
あ……
「セコンドアウト」
“けど、本当に強いってのは、そういうことじゃないと思けどな”
僕って、本当にバカだ。
“お前にも、きっとそのうちわかる時がくるさ”
だって拳聖さんが言ったこと、一年経ってようやく理解できたんだもん。
――カァン――
“第三、最終ラウンド”
「だめだよ、玲於奈」
僕は、タオルを握り締める玲於奈の手に僕の手を重ねた。
「……けど……けど……お兄ちゃん……お兄ちゃんが……」
今まで見たことのない、取り乱したような表情の玲於奈。
そうだね、つらいよね。
けどね――
「ねえ玲於奈、拳聖さんの目を見て」
玲於奈は、静かに顔を上げた。
「ね? 拳聖さんの目は、諦めちゃいない。今はちょっとだけ苦しいのかもしれないよ。だけどね、すたぼろにされたって、どんな惨めな状態に追い込まれたって……足掻いて足掻いて足掻いて足掻いて、最後に勝利を掴むことだけは、絶対に諦めていないんだ」
「……玲……」
「ほら、玲於奈――」
「え? これって……」
僕は玲於奈の手からタオルを奪うと、その左手に――
「“平成○△年全国高等学校総合体育大会ボクシング優勝”……これって……」
「このメダルが、僕をここまで導いてくれたんだ」
考えてみれば、すごく簡単なことだったんだ。
「僕は拳聖さんにあこがれて静岡に来て、そして玲於奈に出会った。玲於奈がいたから、ほんのちょっとだけ、僕は強くなれたんだ。玲於奈がいてくれたから、僕はリングに立つことができたんだ」
そう、きっと拳聖さんも――
「玲於奈は、“リングの上に立つのは、たった一人”って言ったよね。けど、違うんだ。人は、心の中にいてくれる誰かと一緒にリングに上がるんだ。そしてその誰かが、人を強くしてくれるんだ」
拳聖さんのメダルを乗せた玲於奈の左手に、僕はそっと右手を重ねた。
「拳聖さんの心の中には今、僕と玲於奈がいるんだ。だから僕たちは、信じようよ、拳聖さんを」
「……うん……」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を右手でぬぐい、僕の手を痛いくらいに握り返した。
Lさん、Jさん、もしかしたら、あなたたちは僕の見た夢か幻だったのかもしれません。
けど、もう一度心からの願いをこのメダルに願いを掛けます。
「拳聖さんに」「お兄ちゃんに」
勝利を――
ヒュンヒュンヒュン――
リング上、半田がまた速射砲のようなジャブを繰り出す。
けど、拳聖さんは――
「うぉーすげー!」「マジか?」「さっきのラウンドとは全然ちげーよ!」
あの長いリーチのジャブを、全て紙一重のところでかわしていた。
「うがあああああっ!」――ヒュンヒュンヒュン、シュンシュンシュンシュンシュン
怒りとあせりにとらわれる半田は、狂ったように拳を振るうが、それでも――
「ぜんぜんあたんねー!」
半田がギアを上げれば上げるほど、拳聖さんの動きは更に早く、細かくなっていく。
もはやこれはこれをボクシングと言っていいんだろうか。
拳聖さんは激しいダンスを踊っているみたいだ。
そして、半田が拳を引く瞬間――パンッ「がっ!」
拳聖さんは半田の拳が戻るよりも早く、シャープな拳を顔面に叩き込んだ。
「があああああっ!」――ブンブンブン、ヒュンヒュンヒュン
半田は顔を真っ赤にしながら拳聖さんを追いかけるが、それでもそのすべてを拳聖さんは交わし続ける。
そして――パパパパンッ
一瞬で距離をつめた拳聖さんは、小気味よいコンビネーションを叩き込む。
「ぐっ! ふわあああっ!」――ブンブンブン、ヒュンヒュンヒュン
どんなに拳を振るおうとも、拳聖さんはそのすべてをかわし、一方的に半田に拳を叩きつけ続けた。
すごい。
すごいすごいすごいすごいすごいすごい!
「全然パンチが見えない!」
これが……これこそが――
「“シュガー”の完全復活だ!」
名もない叫びが、会場を振るわせた。
「きっとお兄ちゃん、これを狙ってたのかもしれない」
玲於奈は恍惚とした表情でリングを見上げた。
「きっとパンチをもらいながら……半田のリーチをはかってたの」
「そうか……そして第二ラウンドのあの瞬間――」
「――半田のすべてを見切ったの。この第三ラウンドのために」
それに第二ラウンドに猛攻を仕掛けてきた半田は、第三ラウンドの開始から明らかに消耗を隠し切れていなかった。
「左目を……犠牲にして……」
拳聖さんのスピードはぐんぐん上がる。
先ほどとは正反対の光景がリング上に展開される。
必死の形相で拳を振るう半田のそのすべてをかいくぐり
パパパパパパッ――ン
高速のコンビネーションが回転する。
それはまるで、新しい産声を上げ、泣きじゃくる赤ん坊のようにすら思えた。
この世に生まれたことの不安、しかしそれを上回る生まれ出でた喜び、抑えきれない何かが噴出するかのような、歓喜の咆哮を響かせるようなコンビネーション。
その一発一発が、確実に半田の体力を奪っていく。
しかし拳聖さんの回転は止まらない。
二度とないこの瞬間を、味わい尽くすまでは終わらせない、とでも言いたいみたいに。
拳聖さんは、ゆっくりと左手をくるくると回す。
そのたびに、会場に歓声と悲鳴、ため息が響き渡る。
その拳は、形容しがたい軌道を取り半田の右顎に食い込む。
ゴッ
パンチを受けた半田ですら、その表情には痛みどころか、どこか陶酔したような、快楽の趣すら感じられる。
敵も味方もない、この会場のすべてが拳聖さんという世界に酔いしれている。
そしてその甘美な時間も終わりの時を迎える。
酩酊したように後によろめく半田の体にぴったりと寄り添い、拳聖さんはため息をつくようなスピード、角度、最高のタイミングで、何かを求めるように右腕を伸ばす。
トンッ
それはまるで、天国の扉を開くような、神々しい瞬間だった。
一切の無駄をそぎ落とした、痛みも威力すらも感じさせない、とびっきりスウィートな、とびきり“シュガー”な、本物の――
「“天使の右ストレート”だ」
半田の長い両足はぐらりと崩れる。
ゆらりと腰から後に崩れ、そしてロープの隙間に滑り込む。
拳聖さんはリング外に転落しそうなその体に腕を絡め、そしてそれをゆっくりとキャンバスの上に横たえる。
そして悠然と微笑をたたえながら、美しくつややかな、セクシーとしかいいようのない物腰で半田を見下ろした。
それの姿は、ドナッテルロの『ダヴィデ像』を想起させた。
「ストーップ!」
レフェリーは、大きく手を振って試合を止めた。
「うぉーすげえ!」「な、なんだよ今のパンチ!」「なんてスウィート……」「お、俺たち、なんかすげえもん見れたんじゃねえのか?」
――パンパンパパパン――シュガー!――パンパンパパパン――シュガー!――パンパンパパパン――シュガー!――
――パンパンパパパン――シュガー!――パンパンパパパン――シュガー!――パンパンパパパン――シュガー!――
「やっぱり……やっぱりあいつは……あいつこそが“シュガー”なんだ!」
心のそこから待ちわびたものを手に入れた観衆は、言葉にならない思いをかろうじてそのシンプルな言葉と行動に託した。
「お兄ちゃんっ!」
気がつけば玲於奈は、リングの上に駆け出していた。
「お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃん!」
「心配かけたな。けど、それももう終わりだ」
「ひっ……ひん……しん……心配したんだよ……だけど……ふぇ……本当に、格好よかったよ……ひっ……ひん……」
そして涙を流しながら、拳聖さんに抱きついた。
「玲於奈……汗がつく――」
「関係ないもん!」
玲於奈は、兄のすべてを自分のものにしたいといわんばかりにその胸に顔をこすり付けた。
「だって大好きなお兄ちゃんの汗なんだよ!? 全然汚くなんかないんだからっ!」
「見せてくれ、お前の美しい顔を」
拳聖さんはグローブをはずし、慈しむように、確認するかのように玲於奈の顔をなでた。
「すまない。お前の顔、今の俺の左目は見てやることはできない」
「いいの……右目だけだってなんだって……」
玲於奈は顔を上げ、拳聖さんの瞳を真っ直ぐに見つめる。
「……お兄ちゃん……あたしを見て……あたしを感じてくれてる?」
「ああ」
「それが伝われば、それだけであたしは死んだってかまわないから……」
拳聖さんは、自分の頬を玲於奈の頬に重ねた。
「最高の祝福だ」
――パンパンパパパン――シュガー!――パンパンパパパン――シュガー!――パンパンパパパン――シュガー!――
「おめでとうございます、拳聖さん」
玲於奈につい従われてコーナーに戻って来た拳聖さんに、僕は拳を差し出す。
コツリ、拳聖さんは拳を合わせてくれた。
晴れ上がった左目の奥の目は、どこかうつろで漂うように見えた。
「ちゃんと、見ていてくれたみたいな」
「はい。すごく……すごく、格好よかったです……」
拳聖さんは、僕の頬に優しく手を触れさせた。
「泣き顔はいらない。笑顔を見せてくれないか」
やだな、また僕……僕、泣いてたんだ。
けど、ずるいですよ。
……あんなの見せられてそんなの……そんなの、無理に決まってるじゃないですか……。
けど――
「はいっ!」
今の僕には、これが精一杯の笑顔です。
「ぎゃははは、ひでえ面だな」
「拳次郎……」
僕たちの周りの空気を吹き飛ばす、ラテンな陽気な笑い声。
「へっ、けど、見直したぜ。あんたはそういうボクシングもできるんだな」
……手荒いけど……石神さん、あなたらしいですね。
「……はっ、そうだな。けど今の俺にはもう、こういうボクシングしかできないんだ」
拳聖さんは、腰に手を当てて苦笑した。
「できれば、こんな姿見られたくはなかったんだけどな」
「な、何をおっしゃるんすか!」
馬呉さんは、興奮して叫ぶ。
「そうですよ。あなたは俺のバディで、最高にスウィートなボクサーです」
それでもクールな美雄。
「いいから胸をはれよ。そんなのあんたには似合わねえぜ」
「そうよ、お兄ちゃん。見えなくても聞こえるでしょ? この歓声が」
――パンパンパパパン――シュガー!――パンパンパパパン――シュガー!――パンパンパパパン――シュガー!――
そうです拳聖さん、あなたこそが――
「あたしたちにとって、お兄ちゃんはとびきりクールで、ハチミツよりもメープルシロップをかけたワッフルよりも、チョコレートシロップたっぷりのパンケーキよりもスウィートで、あたしたちをとろとろにする――」、
――パンパンパパパン――シュガー!――パンパンパパパン――シュガー!――パンパンパパパン――シュガー!――
「――“シュガー”、なんですから」
「玲……玲於奈……みんな……」
拳聖さんは表情を隠すようにしてうつむき、高々とが右手を挙げる。
「もう何もいらない。左目も、栄光も。お前たちがいるから」
すると暖かな声援が会場を包み込んだ。
「お前たちに会えて、本当によかった」