第十五話
誰もいなくなった控え室、僕はそっと目を閉じる。
……だめだ……心臓が爆発しちゃいそうだ……。
うん、呼吸が上がりすぎた、ってわけじゃないよ。
……怖いんだ……。
この怖さは一年前に経験したような、今にして思えば生っちょろいものじゃない。
僕はこれから、それほどではないにしろ大観衆の前で、ロープで区切られたリングの上に立って殴り合いをするんだ。
殴られることが、いまさら怖いわけじゃない。
殴られることは、当然痛いし嫌だ。
けど、そんなことなんて、今はどうだっていい。
みんなが、僕のぼこぼこになった顔を見るんだ。
なんだあいつ、素人丸出し、よわっちいな、ぼこぼこに殴られてうなだれる僕を、みんな声には出さないけど哀れみとあざけりの目で見るんだ。
ぼろぼろの雑巾みたいになって、僕がいかに取るに足らない存在か、今までやってきたことが以下に無意味なものであるか、思い知らされてリングを降りるんだ。
逃げ出したい。
けど、逃げられない。
だったら、不意の事故でも起これば、僕はリングに上がることも、恥をかくこともないんじゃないか?
だったら――
「あああああああっ!」
何を考えてるんだ僕は!
「うしっ! しっ! しっ!」
とにかく体を動かさなきゃ!
じっとしてるから、また僕の中の弱虫がうずきだすんだ!
「ふっ! ふっ! はあっ!」
「あんた何やってんの?」
え?
「はあっ、はっ、は、っ」
玲於奈……。
「あせって無駄に体力消費しちゃったら元も子もないわ。落ち着きなさい」
「う、うん……」
「ほら座って」
玲於奈が差し出したパイプ椅子に、促されるままに僕は座った。
「怖い?」
見下ろすようにして、玲於奈の瞳は僕を見つめる。
「う……うん……」
思わず視線をそらしてしまう。
何もかもお見通しか……。
「ばかね」
すると玲於奈もしゃがみ、僕のグローブに手を触れさせる。
「今さらじたばたしたって、何ができるってもんじゃないわ。結局は、今までやって来た内容がそのまま出るだけよ」
玲於奈はグローブを手に取り、まるで幼子を慈しむかのように手を触れさせる。
「それに、リングに上がるのはたった一人、あんただけなの。どんなにあたし達が応援したって、それは変わるものじゃないわ」
「そうだね。僕も――」
「――ごめんね、きっとあんたに勝ち目なんてない。あたしには、今さらどうしてやることもできない」
玲於奈……。
「だから、せめて――」
玲於奈は僕の右拳を取り、額につけた。
「――せめて、あたしの想いをこめるわ。この右の拳に」
そして洗礼を施すかのように、甘い口づけをした。
グローブの先を通して、暖かい何かが僕の腕から肩、頭、そして前身に伝わってくる。
その暖かさは、破裂しそうなほどに脈打つ僕の心臓を少しずつ包む。
強張ったからだとこころが、少しずつ解き放たれていく。
僕の中で、何か呪いのようなものがふっと消え去った。
「せめて……一発だけでいい。あんたとあたしの思いをこめた右を、あたしに見せて」
腕はここにある。
頭はここにある、足も体も。
玲於奈の口づけは、あっちこっちに散らばっていた僕自身を一つに結び付けて作り上げた。
「……玲於奈、ありがと」
玲於奈の額に、僕の額をくっつけた。
「うん」
玲於奈は目を閉じ、僕の頭の後に手を回した。
「僕は行くね」
できればこのまま……永遠にこのままでいたい。
けど、僕は行かなくちゃならないんだ。
「確かに、玲於奈の言うとおり、僕に勝ち目なんてないんだろうね。けどね、それでも僕は、僕だけのボクシングをして、それで――」
“例えば……僕が今度の対抗戦で勝つことができたら……”
「――僕は勝つんだ。そして、君に僕の気持ちを話すから」
「……うん」
玲於奈は、どんな表情をしているんだろう。
けど、僕は振り返らない。
僕は、強い男になるんだ。
「話は済んだか」
え?
「け、拳聖さん……」
控え室を出た僕の目の前に、腕組みをした拳聖さんが体育館の通路の壁にもたれかかっていた。
「見せてくれるんだろ。俺の顔面に、見事に決めた右ストレートをさ」
……僕は知っている。
僕なんかの右ストレートは、普通だったら拳聖さんには絶対決まらないって。
そして、拳聖さんがそんな僕の右ストレートを顔面に受けた理由も。
けど、それでも僕はこの右拳に託す。
僕の想い、玲於奈の想い、そして……この対抗戦にすべてをかける、拳聖さんの思いを。
「ばっちり決めて、KO勝利を掴みます」
――カァン――
“それではこれより、第四回戦、フライ級の選手を紹介いたします”
――オッキッツッ――パンパンパパパン――オッキッツッ――パンパンパパパン――オッキッツッ――パンパンパパパン――
「いやに落ち着いてるじゃねえか」
石神さんがにやりと笑う。
「いい面構えしてるよ。なんかこう、覚悟が決まったっつうことか」
「そんなことないです。この大観衆に大声援、心の中は大嵐ですから」
コーナーポストにもたれかかる僕の言葉に嘘はない。
だって、高校に入るまでまともに運動もしたことのない僕が、たかだか一ヶ月の練習でボクシングのリングに立つんだもの。
普通だったら、絶対にありえないことだし、僕は確実にぼこぼこにされるはずだ。
だけど――
「けど、ここだけの話、KO狙ってたりするんですけどね」
「当然だろ」
石神さんは、くしゃくしゃと僕の頭を乱暴になでた。
“赤コーナー、興津高校、門田翔太選手”
――オッキッツッ――パンパンパパパン――オッキッツッ――パンパンパパパン――オッキッツッ――パンパンパパパン――
ポツリ「んなことより、お前の“アンヘル”にいいところ見せられそうか?」
耳元で石神さんがささやく。
「“アンヘル”?」
「とぼけんなよ。お前の“天使”、あの洗濯板のことだよ」
洗濯板……ああ、玲於奈のことか……。
「ははは……け、けど、正直、いいところ見せられるなんて思っちゃいませんよ」
そうだ。
玲於奈や拳聖さんのようなシュガーなテクニックなんて到底身につきようがないし、石神さんの言うような自分自身のスタイルなんて見つからなかった。
けど、いや、だからこそ――
「精一杯拳を振るって、ぼこぼこになって顔を腫らして、それでもとにかく前に出ようと思い――ってわっ」
「ぎゃははは、いい度胸だよ」
ガシガシと、石神さんは乱暴に僕の頭をなでた。
「泥臭くていいんだよ。勝とうが負けようが、精一杯のお前の本気を見せてやりな」
熱烈なウインクに、僕はできる限りの笑顔を返す。
「はいっ!」
「ごめんごめん、ちょっと支度に手間取っちゃって……って、なによ。何でそんなにニヤニヤしてあたしのこと見るのよ……」
「何でもねえよ。なっ?」
「ええ」
「何よそれ。バカにしてんの?」
玲於奈は不服そうだったけど、男同士の話だからね。
「んなことよりよ、拳聖さんはどうした?」
「お兄ちゃんなら今馬呉と美雄と一緒にアップしてるわ。とりあえず、もうじき終わると思うから、あんたの試合はばっちりと見届けられるって」
「ほれ、そろそろコールだ。しっかりと挨拶しな」
「大丈夫よ。骨はしっかり拾ってあげるから」
ははは……相変わらずきっついなあ……。
“青コーナー、定禅寺西高校、佐藤玲選手”
――パチパチパチパチ――
僕はレフェリー、ジャッジを肇とする役員、観客の人たちに向かって頭を下げた。
「選手中央へ」
僕はその言葉に従い、リング中央で相手選手と向かい合う。
玲於奈の話だと、中学生の頃からジムに通っていて、すでに公式戦に参加しているらしい。
……ああ、この感じ……うん、しょうがないよね、先輩達が三連続KOを食らったんだ。
きっとここで一勝しなければ、面目が立たないってこともあるんだろう。
「この試合はあくまでも親善試合であるから、お互いに反則などで公式戦に支障をきたすことが無いよう、全力で技を交換し合うように。いいね?」
「はいっ!」
「しゃっす!」
ボンッ
僕たちはグローブを合わせた。
さあ、始まる。
僕の初めての戦いが。
僕は、とても“シュガー”だなんて言えるような柄じゃない。
だから、僕にできることは――
――カァン――
「ボックス!」
「ふあっ!」シュッ、シュッシュッ、シュッ
左、左左、とにかく身についてきた基本を、泥臭く泥臭く繰り返すことだけだ!
「ふっ!」ボンッ!
ガードの上からでもいい、とにかく右フックを叩き込めっ!
ゴンッ――「っく!」
ボン――「ごほっ……っらあっ!」
……大丈夫……
ボディーなんかいくら殴られたって、ある程度なら我慢できる。
とにかく顔面だけを守って!
前へ前へ!
「ふんふんふんはんっ!」ボンボンボンボンッ
腕を振るっ――「ぐっ」
落ち着け落ち着け、ガードを下げ――「くっ、ふっ、はっ!」
やべっ!
差し込ませちゃだめだっ「ふんっ!」ブンッ
距離を――「ふわっ……効いてないっ!」ブンッ
?
やばいっ!
ポストに――「ぎっ!」
とにかく、亀になれ!
頭とか――急所とかだけは――息が……できない……。
ここから抜け出さなきゃ――「はっ!」
よしっ、距離をとって――「ふわっ」シュッシュッシュッ、ブンッ
あたんないっ!
何でだっ!
「ふわらっ……ぶっ!」
またもらっちゃった!
だめだっ!
こっちは全然当たってないの――「ばはっ、ぶっ、ぷわっ!」
――カァン――
……ああくそ!
ゴングに助けられちゃった……。
「なかなかよく動けてたぜ。初めての試合にしちゃ上出来だ」
「……んぐっ、んぐっ、んぐっ……ぷはあっ! はあっ、はあっ、はあっ……」
……なんだこの疲労感……いつものスパーリングと同じ時間だってのに……疲労度が違いすぎる……。
それに……マウスピースがこんなに不快な感じになったのは初めてだ……。
「……ぜっ、ぜっ、ぜっ……だめです……全然思ったとおりにかないや……」
……あっ……なんか涼しい風――
「玲於奈……」
「言ったでしょ、あんたにスウィートな勝利なんか期待してないって。頭だけ守って、ひたすら亀になって、どんどんパンチを出しなさい」
玲於奈はパタパタと、タオルで僕の体を扇いでくれた。
「それとも、痛くてそれどころじゃない?」
僕は丹念に体中の叩かれた場所を確認してみる。
うん、痛い。
素手で殴られたり、靴で蹴り上げられたこともあるけど、グローブをはめて殴られた感覚ってそれとはちょっと違うんだよね。
けど、この痛みは、なんだかすごく誇らしい。
僕は、一対一でこの相手と向かい合って、その力を競い合えるんだから。
さっきまで、何を僕はびびってたんだろ、情けないな。
そう、僕は、ようやく本当の意味でボクサーとしてリングに上がることができたんだ。
「痛いけど……うん、たぶんまだまだ大丈夫、はあっ、はあっ……」
「そう。もしここで弱音なんか吐こうものなら、あたしがここで止めを刺してやろうと思ってたところだわ」
「……ははは……それは怖いな……」
「ぎゃははは、それだけ言えりゃあ問題ねえよ。けどよ、さっきのラウンド、明らかに相手のほうが有効打が多かったからな。たぶんお前、二ポイントはロスしてるぜ」
「余計なことは言わないでよ。あんたはそれでいいの。あんたは、そうね……“ジョー・フレージャー”になったつもりで、とにかく前に出続けなさい」
……ジョー・フレージャー?
「えと……誰? んぐっ……」
「セコンドアウト!」
「ああもう! ボクシング部の人間がそんなことも知らないの? とにかく今日は、頭がもげてもいいからあんたの“後退のネジ”をはずしなさいっ!」
「へっ、この試合が終わったら、この“アンヘル”に優しく教えてもらうんだな」
「なによそれさっきから! バカにしてんの?」
――カァン――
「ボックス!」
ジョー・フレージャーが誰だかよくわかんないけど――
「“後退のネジ”をはずせばいいんだろっ!」
グッ
ガードガードガード、とにかくガードで――ボンブンッ「うらっあ!」
中間距離で一発勝負!
とにかく、とにかく一発――「ふごっ?」
痛くないっ!
後退しなければいい!
我慢し続ければいいっ!
とにかく倒れずに――「ぐっ!」
どんなに左ジャブをもらったって――「ぎっ!」
「うわあああっ!」――僕のこの右ストレートを――
……。
…………。
………………あれ?
マットが……顔にぴったり密着している……赤いリングシューズから……足が左目の奥のほうに伸びている……。
「ダウーン! ニュートラルコーナーへ!」
……。
…………。
………………そっか。
「ワン! トゥー! スリ――」
僕、ダウンしちゃったんだ。
何だっけ……何もらったんだっけ……
そういえばこの一ヶ月間……なんだ、たった一ヶ月だけだったんだ……。
相手はジュニアのころから活躍してた選手か……玲於奈の言ったように当然って言えば当然なんだよな……。
玲於奈……そんな心配そうな目で、祈るような仕草で僕を見ないでよ……。
そんなふうに君に祈られたら――
……あれは……拳聖さんか……。
いやだな、そんな甘い笑い顔で、僕を見ないでくださいよ……。
僕は、あなたを目指してボクサーになろうと決めたんですから……。
せめて……なにやってんだよ、このヘタクソッ、って感じで見てくれればいいのに……。
そんな、胸がきゅんっ、ってするような、スウィートな笑顔で見られたら――
あなたたちにそんな風にされたら僕――
「おおお! 立ったぞ!」「マジで!?」「もろに決まってたぞ!?」
……立っちゃうんだから……。
「やれるかね?」
「はいっ!」
見抜くなよ……ここ一番の空元気なんだから……ここで止めたら……僕は一生あなたを恨むから……。
僕の目を見て何を点検してるか知れないけど……僕はあなたじゃない……相手しか見てないんだから……。
「ボックス!」
「おおおお!」「試合再開だって!?」「おいおいマジか?」「すげー根性じゃんあいつ!」
そうだよ、僕に身についたのはこのクソ根性しかないんだよ……。
クソ根性で、痛いのを痛くないって自分に言い聞かせて、とにかく、後退だけはしないんだ……。
どうせ後一分もないんだ……。
とにかく腕を振り続けて……振り続けてて前に――
「ブレイク!」
そんなに嫌そうにするなよ……クリンチされるのが嫌なら、僕のパンチに付き合ってよ……。
そうすればクリンチなんて――
――カァン――
「玲っ!」
「バカ野郎! 後退するなっつったけどな、あんなバカみたいに突っ込む奴があるか!? ちったあ頭使えよ!」
「……んぐっ、んぐっ、んぐっ……ぷはあっ! はあっ、はあっ、はあっ……けど……」
けど、これだけは胸を張って言えるかな。
「……はっ、はっ、はっ、後退しなかったし……頭もげてないけど……はあっ、はっはっ、ダウンしても立ち上がったでしょ……」
「な……」
何だよ石神さん……自分がそう言ったくせに、そんなあきれた顔で見なくたっていいじゃないか……。
「……まあ、あんたがバカだってことをしっかり認識できなかったあたしたちのミスってところかしら」
ははは、相変わらずきっついなあ。
けど、僕は知ってるよ。
玲於奈が僕のために祈りを捧げてくれていたことを。
そして拳聖さん――
「僕にはね、玲於奈」
そうだね、きっと僕には――
「な、なによ……」
翼を授けてくれる人たちがいるから。
「君と、拳聖さんっていう“天使”がついていてくれるから」
「は? ば、ば?」
ニイ、石神さんがにやりと笑う。
「ぎゃははは、お熱いこって。どうやら俺は“モレスタ”、お邪魔虫みたいだな」
へえ、玲於奈ってそんな顔もできるんだ。
赤いほっぺたが、なんだか本当に天使みたいで――「んぐっ!?」
「くだらないこといってないでいいのっ! 試合中でしょっ!? そんなことよりあんた、さっきの約束忘れたなんて言わせないからねっ!」
「モゴ……ぅわかってるって」
「セコンドアウト!」
「おら、ラストラウンドだ! お前の“アンヘル”にいいとこ見せてこいやっ」
「だからなんなのよ、さっきから!」
――カァン――
とにかく前に前に……ガードは高く――「ぐっ!」
大丈夫だ……ボディーは捨てたっていいんだ……苦しいけど……頭にもらって意識を失うことさえなければっ――ブンッ「ふっ!」
いっそへたくそなフットワークなんか捨てたっていい。
とにかく頭を振れ。
頭を振って、拳を高く上げるんだ――ブンブンッ「うらっ!」ゴキッ
よしっ!
「いいぞー! 定禅寺西の素人!」
……へっ?
「あいつ名前なんだっけ!?」「確か……佐藤玲って奴だぜ!」
――レーイッ――パンパンパパパン――レーイッ――パンパンパパパン――レーイッ――パンパンパパパン――
……僕のことを……会場の人たちが応え――「ぶっ!」
危ない危ない!
けど、うん!
まだまだいける!
――オッキッツッ――パンパンパパパン――オッキッツッ――パンパンパパパン――オッキッツッ――パンパンパパパン――
向こうも応援に力が入り始めた――「ぐっ、かっ、はっ」
拳の力が、段違いだ。
けど、僕にもこうして応援してくれる人たちがいる――ブンブン、ブン「ふっ、ふっふっ!」ゴンゴン、ガン
しゃあっ!――「がはっ!」
痛くないっ!
痛いけど痛くないっ!
体が重い、拳が重いけど――「うらあっ!」ボスッ!
重くなんてないっ!
「はあっ、はっ、はっ」
……そろそろ限界だな……。
僕はもう、すでに二ラウンドを取られてる。
逆転するにはノックアウトしかない。
ノックアウトするためには――ボフッ、ボスボスッ「ふっ、ふっふっ!」
バカの一つ覚えみたいに、左でボディーを叩きま――「ぷっ!」
大丈夫、意識は飛んでない。
あのコンビネーションで、この一撃が決まればそれでいいんだ。
この一撃が決まれば、どうなったっていい。
すべてを、この一発に――「ふわああああああああああっ!」
ゴツッ!
「っしゃあっ!」
「ダウーンッ! ニュートラルコーナーへっ!」
「おいおいおいおい!」「あいつカウンターで決めやがったぜ!」「しかも……ダウン取りやがった!」
「はっ、はっ、はっ、はっ」
決まったよ玲於奈、拳聖さん。
「“天使の右ストレート”だよ」
お願いだ、立つな。
立つな立つな立つな立つな。
立たないでくれ。
……ああだめか、立ち上がった。
お願いだ、止めてくれレフェリー。
止めてくれ止めてくれ止めてくれ止めてくれ止めてく――
「ボックス!」
だめかっ!
けど、今ならまだ――
――カァンカァンカァン――
終わった、か。
「すげーじゃねーか、玲。三ラウンド持っただけじゃなくて、ダウン一つ取り返すなんてよ」
「はっ、はっ、はっ、はっ、あ、あっ、ありがとう、ございます……」
「……本当に、約束守ったんだ……」
あ、玲於奈……。
「け、け、けどごめん……結局、右ストレートいい形で決めたのに、ノックアウト――」
「……鳥肌立ったわ」
へっ?
「そこにたどり着くまではものすごく格好悪いけど……けど、あんなにスウィートな右ストレート、昔のお兄ちゃんを思い出しちゃった」
「玲於奈……」
「両者、中央へ!」
「さ、行ってらっしゃい。どんな結果が出ようと、今のあんたにはそれだけで勲章よ」
「へっ、やっぱり俺はお邪魔虫だな。とにかく、胸張っていってこい」
“ただいまの試合の結果――”
レフェリーが、僕たちの手をとる。
もはや、結果は聞くまでもないんだろうね。
“――興津高校、門田選手の勝利です”
完全に、終わった、か。
レフェリーは相手選手の手を高々と挙げた。
すごく強かったですよ、門田選手。
初めての相手があなたで、僕はすごく嬉しいです。
――パチパチパチパチ――
――レーイッ――パンパンパパパン――レーイッ――パンパンパパパン――レーイッ――パンパンパパパン――
「いい勝負だったぞー!」「次は負けんなよー少年―!」「インターハイ予選楽しみにしてるぞー!」
「へっ、すげえじゃねえか。見ろよ、これお前が試合で獲得したファンなんだぜ」
石神さんは、僕のためにロープをこじ開けてくれた。
「い、いやそんな――あらっ?」
あ、足が……言うこと――
ガシッ
……あっ……。
僕の体を受け止めるその顔を見上げれば、そこにはとびきり甘い笑顔があった。
「……拳聖さん……」
「痺れたよ、お前の右ストレート」
「そうね」
……玲於奈……君も肩を貸してくれるのか……。
「……重くない?」
「あんたみたいなもやし、何てことないわよ。ほんのちょっとだけど……何万ミクロンよりもほんのちょっとだけど……あんたの“シュガー”なところが、見えたから」
「休まなくていいのか?」
リングサイドのパイプ椅子に座る僕に、美雄がスクイージーを差し出してくれた。
「うん、いいんだ。僕は、次の試合を見なくちゃいけないし。僕のことより、拳聖さんの調子はどう?」
「この人に限って、そんな心配要らないさ。たっぷり汗をかいて、準備万端、ってところかな。バディの俺が言うんだから、間違いないよ」
美雄は拳聖さんみたいな優しいウィンクを投げてくれた。
「いよいよっすね。最終試合、ウェルター級」
今回ばかりは、馬呉さんも興奮を隠しきれないみたいだ。
「ようやく見られるぜ、あんたのボクシングがよ」
「本当に長かったわ。お兄ちゃん」
万感の笑顔を、石神さんと玲於奈は浮かべた。
――パンパンパパパン――シュガー!――パンパンパパパン――シュガー!――パンパンパパパン――シュガー!――
「そうか、一年ぶりか。長らく待たせちまったな」
そういうと、拳聖さんは高々と右拳を上げる。
会場は、あの日のインターハイみたいに、歓声と悲鳴、そしてため息に包まれた。
――パンパンパパパン――シュガー!――パンパンパパパン――シュガー!――パンパンパパパン――シュガー!――
その手拍子と歓声は、もう噴火直前の火山の地鳴りのようだ。
「おう、定禅寺西のボクサー諸君」
この声は……。
「佐山先生! 石切山先生も!」
「いやいや佐藤君、惜しかったやんか。一ヶ月でここまで仕上げてくるとは、えらいたいしたもんやで」
「あ、ありがとうございます」
「けどな、試合の時間帯が悪かったな。もう、数分前の君の激闘なんか、誰の頭にも残りよらんで」
「ははは、仕方ないですよ」
だって当の本人が自分の試合の余韻なんかそっちのけで次の試合を、叫び声をあげたいほどに待ちわびているんだもの。
「だって、“シュガー”が再び、リングに降り立つんですから」
「……まあ拳聖、お前はブランクが長いんだから、無理はするな……」
石切山先生は心配そうに終えをかけるが
「何一つ問題はないさ」
拳聖さんは涼やかに返した。
「ひっひひひひ」
……この厭味ったらしい笑い声は……。
「まあ、このウェルター級こそが、この試合の本番みたいなものですからねえ……」
うげっ……漆畑……。
「プロで言えば、今までの試合はアンダーカードみたいなものですからねえ」
さすがに“前座”扱いされると腹が立つんですけど。
「この一戦で、うちと定禅寺西さんとどっちが上か、全国に示せるってものですよ」
「その通りかもな」
拳聖さんは、クールに、けど、甘く笑った。
「この一戦ですべてが決まる、か。最高のステージにしてやるさ」
そういうと、拳聖さんは控え室のほうへと姿を消した。
「それでは、我々も行きましょうか」
佐山先生の言葉に、石切山先生と漆畑も役員席へと引き上げた。
「さて……っと」
その姿を確認すると、美雄はポケットに手を突っ込んで、パイプ椅子の背もたれに腰掛けるようにして言った。
「皆もう、知ってるんすよね」
「え? 美雄、一体――」
「これでもこの一ヶ月間、ずっと拳聖さんと二人で練習してきたんだ。どんなバカだって気が付くよ」
美雄は、顔を上げて僕たち一人ひとりの目を見つめ、そして口を開いた。
「拳聖さんの左目の事、さ」
――
「――そういうこと、ね」
美雄は、少しすねたような口調でそう言った。
「なんか俺だけ仲間はずれにされてたみたいで、ちょっと傷つくな」
「まあそういうな。俺はこいつらにも一切話ししてねえんだからよ」
石神さんは、美雄の肩に手を置いた。
「す、すいません……自分たちも隠すつもりではなかったんですが……」
「僕たちこそ、すいません」
僕は、深く頭を下げる。
「石神さんが、“拳聖さんを巻き込むな”って言った言葉の意味、全然理解できなくて……」
玲於奈は、唇をかみ締めたまま体を硬直させている。
そうだ、一番つらいのは、玲於奈なんだ。
「けど、もうしょうがねえよ。俺達が何言ったって聞きゃあしねえんだから」
石神さんは、呆れたように顔をしかめる。
「あの人自身が言ったんだよ。最後に自分自身を燃やし尽くせる場所を求めてた、ってな」
あの人の選択はよ、あの人の意思なんだ」
「考えてみりゃあよ、もし俺があの人の立場だったら……きっと同じことをしてたと思うぜ」
石神さんは、にやりと笑って僕と玲於奈を見た。
「“エル・デスティナード”レイコに捧げるために再開したが、やっぱり俺たちゃボクサーなんだよ。な? 馬呉」
「そうっす。自分もアニキも、やっぱりボクシングが一番大好きなんです」
いつも控えめなはずの馬呉さんが、熱っぽく、力強く断言する。
「きっと拳聖さんは……俺らは……待ってたのかもな、お前らを」
「僕たち……僕と、玲於奈を……」
「拳聖さんがいなくなってふらふらしてた俺と馬呉。空手をやめて勉強のことしか考えていなかった美雄。それに、不完全燃焼のままリングを去らなきゃならなかった拳聖さん。俺らみんなどっかで、もう一回自分に火を入れてくれる奴を待っていたんだ」
「決まりっすね」
美雄がポケットに手を突っ込んだまま、クールに口を開いた。
「最後の試合、セコンドは……玲、玲於奈、拳聖さんについてやってくれ」
「え? 玲於奈はともかく、バディの美雄とか、経験のある先輩達がついたほうが……」
「きっと、拳聖さんもそれを望んでいるさ」
美雄は、僕の肩にジャージーをかけてくれた。
「自分に火をつけてくれた二人、玲たちには拳聖さんのサイドに立つ権利……いや、義務があるんだ」
「へっ、そういうこった。それに相手はなんつってもあの――」
石神さんが赤コーナーを睨めば、その異様に長い肢体がいまや遅しと待ち構えていた。
「――そ、そうっすね。相手はあの……は、半田当真さんっすから」
改めてみると、その手足がありえない程に長く、そしてシャープに感じられる。
「俺、あの人の試合見たことないんすけど、強いんすか? 確か中学校から高校まで、拳聖さんが全勝してるんですよね」
「さっきはまあ、あんなふうにからかったが、はっきり言って“怪物”だよ」
石神さんは、その丸太のような腕を組んで忌々しそうに言った。
「身長百八十八センチ、二メートルをらくらく越えるリーチ、ウェルター級にしては破格のサイズだ。そしてそこから繰り出される反則級のジャブとストレート。まともに考えたら、あいつにパンチを当てることすらできねえよ」
「も、もし拳聖さんいなければ……あの人こそがウェルター級最強の男だったはずです」
ゴクリ、僕はつばを飲んだ。
そっか……今までは同じ静岡県、東海地区に拳聖さんがいたから全国大会には出られなかったけど……。
「それでもお兄ちゃんは、天才的なセンスであいつを必ずKOしてきたの。だけど――」
拳聖さんの左目――
玲於奈……すごくつらそうな表情だ……。
けど……だからこそ――
「さ、行こう玲於奈!」
「え? ちょ、ちょっと――」
僕は、玲於奈の手を掴んだ。
「僕たちがここで心配してたって仕方ないよ。玲於奈も言ったじゃない、“リングに上がるのは、たった一人”だって」
「そ、そうだけど……」
「だから僕たちはせめて、拳聖さんが百パーセントの力を発揮できるようにサポートしようよ」
「玲……」
「それに、僕達が応援する相手は誰? そんじょそこらのボクサーってわけじゃないよね?」
「……“シュガー”、佐藤拳聖……あたしの、お兄ちゃん……」
「そう。だから、僕たちが何の心配もする必要ないよ」
僕は、できうる限りの笑顔を作った。
「さ、僕たちは僕たちのできることをしよう。ね?」
こくり、玲於奈は小さく頷い――あたっ?
「――ったくよお、こんな公衆の面前でいちゃつくんじゃねえっつうの」
「ははは、石神さん、いちゃついてたわけじゃ……」
「へっ、こんなところで見せ付ける暇があったら、さっさと支度しろよ。自分で言っただろ? できることをするってな」
「は、はいっ!」
僕はそういって、玲於奈は無言で頷いた。