第十三話
「はっきり言えよ。あんた、左目見えてないだろ」
……拳聖さんの……目が……。
「別に見えてないわけじゃない」
ふっとため息をつくと
「ある程度は把握できてるさ」
拳聖さんはシニカルに微笑んだ。
「要はセンスと経験の問題だ。この程度、俺にとってはむしろちょうどいいハンデだよ」
「で、でも拳聖さん……今度の相手は……あの半田っすよ? あのリーチと変則的なジャブ、言っちゃ悪いけど、玲くんのストレートとは桁が違います。今はぼんやりでも、激しい打ち合いにでも巻き込まれたら……もしかしたら……」
「そりゃその可能性排除できないさ。それはすべてのボクサーが抱える――」
「一般論なんか聞いてねえ!」
ゴンッ
石神さんは荒々しく壁を殴りつけた。
「今すぐ棄権しろ。ライト・ウェルターとウェルター、俺が出てやる。わかってんだろ? 公式戦でもねえこんな試合に、そこまでかける必要なんてねえ!」
「……なあ拳次郎、お前は何でボクシングを始めたんだ?」
「ああ? 何で今そんな――」
「――聞かせてくれ。お前がボクシングを始めた理由を」
「そ、そりゃあよ……リングの前で思いっきりぶん殴りあうボクサーの姿が……格好いいって思ったからだよ」
「俺も同じようなもんさ。いやきっと――」
ポスン、拳聖さんはサンボバッグに拳を重ねた。
「すべてのボクサーは、突き詰めればそんなもんじゃないのかな」
「あ? それとこれと何の関係があんだよ」
「もう二度とボクシングができない、その現実が目の前に突きつけられたとき、最初はむしろほっとしたよ」
とん、サンドバッグを抱えるようにして、そこに額をつけた。
「みんなの頭の中に、最高のボクサー“シュガー”としての記憶を焼き付けたまま引退できる。たぶん俺の考えうる限りの最高の引退さ」
「それでいいじゃねえか! 何がわりぃんだよ!」
「ア、アニキ! やめてください!」
拳聖さんに飛びかかろうとする石神さんを、馬呉さんが再び制した。
ゆっくりと拳聖さんは振り返ると、石神さんを真っ直ぐに見つめた。
「けど俺は、生きている屍みたいなものだったんだよ」
そして穏やかに、石神さんに語りかけた。
「もう俺はボクサーとしてすべてを燃やし尽くした、そう自分に言い聞かせて、あっちへふらうら、こっちへふらふら生きてきたよ。けど……ごまかしきれなくなったんだよ。俺の中の、消し炭みたいなくすぶりがさ」
「あのガキどものせいなのか?」
あのガキども……僕と、玲於奈のことだ。
「あいつらはあんたがボクシング部に復帰して、ボクシング部が活動再開できればそれでいいんだ。別にあったがリングに立つ必要はねえだろ? それともあんた、あのガキどもに義理立てでもしてんのか?」
「俺は玲に“一杯のコーヒー”すらおごってもらったことはない」
拳聖さんは静かに首を横に振った。
「ただ純粋に……俺は俺のために……ボクサーとしてしての俺を、最後まで燃やし尽くしたいんだ」
「燃やし尽くす? 燃やし尽くすってあんた――」
「しかもその相手は、半田って言うとびきり強いボクサーだ。そいつを相手にリングの上ですべてを終えられるとしたら俺は――」
拳聖さんは、高ぶりを抑えきれないかのように強く拳を握り締めた。
「――俺はもう、それだけで充分だ」
「……けっ、勝手にしろよ……俺は忠告だけはしたからな。あんたの左目が見えようがいえまいが、それはあんたの選択だ。俺はもうしらねえからな!」
「頼みがあるんだ、拳次郎」
「何だよ……」
「もし俺に何かがあったとしても、お前がいれば定禅寺西高校のボクシング部は安泰だ。お前の力で……玲を、支えてやってくれ」
「……らしくねえんだよ」
心なしか、石神さんの両目は潤んでいるように見えた。
※※※※※
「……玲……玲……起きろって、玲……」
……。
…………。
「こらぁ佐藤!」
「は、はひっ!?」
えっと……今は――
「一時間目の授業中から堂々と寝る奴があるかっ!」
あ、そうか……。
「す、すいません……」
「今日は特に疲れてるみたいだな」
あ、美雄……。
「ははは、そうかもね……まだ一時間目が終わったばかりだって言うのにね」
「疲れ、抜けないのか?」
「う、ううん。そういうわけじゃないんだけど……」
あの後、僕は何も考えられず、とにかく誰にも気づかれないようにその場を後にした。
“はっきり言えよ。あんた、左目見えてないだろ”
拳聖さんの左目が……見えていない……。
僕のパンチが拳聖さんに当たったのも……きっとあの時、玲於奈のビンタが当たったのも……。
あの後僕が呆然として家に帰ると、玲於奈は僕のゲーム機にかじりついていた。
それこそ、僕の存在を無視するみたいに。
たまに「よっしゃ!」とか小さなガッツポーズをする姿は見えたけど、それ以外はもう完全にゲームの虫だった。
ご飯の呼びかけにはかろうじて応じたけど、さっさとご飯を食べたらお風呂に入って、ほとんど口を利かずに寝てしまった。
僕は寝袋の中で、ずっと今日のことを考えていた。
自分の目のことを、たった一人の妹の玲於奈にすら黙っていた拳聖さん。
“なんもしらねえガキどもが勝手なこと言ってんじゃねえ!”
石神さんの言うとおりだ。
僕は、僕たちは何も事情を知らないで、いろんな人たちを巻き込んで、そして……拳聖さんに取り返しのつかないところに追い込んでしまったのかもしれない。
これでいいのか?
けど、もし拳聖さんの目ににもしものことがあったらどう責任を取るんだ?
玲於奈にきちんと話して、興津高校とかみんなに頭を下げて、対抗戦を中止にするべきじゃないのか?
けど――
“ごまかしきれなくなったんだよ。俺の中の、消し炭みたいなくすぶりがさ”
“ただ純粋に……俺は俺のために……ボクサーとしてしての俺を、最後まで燃やし尽くしたいんだ”
僕の心は嵐になり、そして一晩の睡眠を完全に吹き飛ばした。
「とにかくさ、今日はミーティングだけで練習ないんだろ? ゆっくり休みなよ。土曜日だから四時間目までだしさ」
「……うん……そうだね……」
「おう、全員集まったみたいだな……って、なんだ、拳聖の妹までいたのか」
「……定禅寺西高校ボクシング部のコーチがミーティングに顔出して何が悪いの?」
四時間目終了後の部室、大きなダンボールを抱えた石切山先生に、もはやすっかり部員の一人になった玲於奈が噛み付く。
「そもそもイシちゃんがきちんと指導してればあたしがコーチなんか引き受ける必要なんかなかったのにさ」
「……それを言われるとな……」
とりあえず、いつもの玲於奈に戻ってるみたいだ。
すごく元気そうな表情だけど……昨日は一体なんだったんだろ……。
やっぱり女の子ってよくわかんないや……。
「あーくそ! 何で俺らまで荷物運び手伝わされなくちゃならねえんだよ!」
「しょうがないっすよアニキ。どう見ても俺ら、肉体労働専門ですしいたっ!」
「お前と一緒にするんじゃねえ!」
石切山先生の後についてダンボールを運ぶ石神さんは、馬呉さんのむこうずねを蹴り上げた。
「はっ、確かに俺や悠瀬と違って、拳次郎たちのほうが向いてそうだな。な?」
「ええ。そうですね。俺たち、力仕事って柄じゃないっすからね」
「やかましいわ!」
穏やかに笑いながら石神さんをからかう拳聖さんと美雄。
……本当にこの人の左目は、見えていないんだろうか……。
さわやかに笑う横顔を見てると、昨日のあの会話自体が夢か幻みたいに思えてしまう。
パンパンパン
大きく手を叩く石切山先生。
「まあそこのバカは放って置いて、さっさとミーティング終わらせるぞ」
「誰がバカだこのデブ! 殺すぞ!」
「ア、アニキ! 落ち着いて……あだっ!」
「うっせ!」
「うわっ! これって!」
「俺からのせめてものお前等へのはなむけだ」
石切山先生は、恥ずかしそうに頭をもしゃもしゃとかいた。
「いや、せめてもの償い、というべきか」
「“新生”定禅寺西高校ボクシング部のスタートには、もってこいってとこっすね」
「ああ。そういや悠瀬も玲も、一年生はそもそも揃えてすらいなかったからな。俺も一時引退してから、どこにしまったかすら覚えていないしな」
「ぎゃははは、しみったれたあんたにしては、なかなか奮発したじゃねえか……って何だよ、この紙」
「お前だけは自腹な」
「殺すぞブタ!」
「ア、アニキ! 落ち着いてください!」
……すごい……格好いい……。
僕はそれを手に取り、中に掲げて読み上げた。
「“JOUZENNJI.W.H.S.BOXINGCULB”」
そしてその下には――
「“R.SATO”僕のジャージー。それに、試合用のタンクトップにハーフパンツだ」
「まあ……拳聖の妹も言うように、俺は結局何も出来なかったからな。せめてこれを着て、明日は堂々と胸を張って戦って来い」
「あ、ありがとうございますっ!」
僕たちは、石切山先生に頭を下げた。
「償いのつもりのものに、そんな頭を下げられてもこっちが困るんだがな……まあとにかくみんな今日までよく頑張った。しっかり体を休めて、明日に備えてくれ」
「あ、はいっ! 明日は一〇時に静岡駅前集合になります! よろしくお願いします!」
のっしのしと部室を後にする石切山先生の背中に、僕たちは更に頭を下げ続けた。
「いよいよ明日だな」
.「うん」
学校からの帰り道、僕と美雄はジャージーとユニフォームの入った袋を抱えて歩く。
「いい? とにかく明日は絶対に勝つんだから。最低でも……最低でも三勝はしたいわ。絶対に」
……いつになく弱気だな……。
いつもなら「全勝しなくちゃ意味ないのよ!?」なんていうところだと思ったのに……。
.「やってみなくちゃわかんないけどな。けど、がっかりさせるような結果にはしないから。まあ見ててよ」
「まあ……美雄のことは心配してないけどね」
はいはい、どうせ僕なんか計算には入ってないですよーだ。
「それじゃ、また明日な」
「うん。頑張ろうね」
「寝坊するんじゃないわよ」
「誰が寝坊なんかするかよ。じゃあな」
美雄は、髪の毛を掻き揚げて小さく手を振る。
駅へと続く交差点、僕たちはそこでいつも通り別れた。
「さ、僕たちも早く帰ろう。せっかくだから、今日くらいは美味しいし――」
?
えっ?
誰かが僕の背中の服を……って――
「? どうしたの玲於奈?」
「話したいことがあるの。来て」
「? 話したいことって……ここじゃだめなの? ていうか、マンションじゃだめなの?」
「いいから」
玲於奈?
どうしたんだろう……まるで、昨日の夜中みたいな、すごくナーバスというか……。
触れたら切れてしまいそうな……それでいてすぐに割れてしまいそうな……そんなもろいカミソリみたいだ……。
とにかく、このこの言うとおりにしよう。
僕は、無言でこくりと頷くしかなかった。
「……玲於奈……一体……」
「一ラウンドだけよ。遠慮なんていらないから」
すでにもぬけの殻になった、定禅寺西高校のボクシングジム。
僕たちはそれぞれ、練習用のタンクトップとショートパンツに身を包み、そして一六オンスのグローブを腕にはめていた。
「もう三十秒したら、デジタイマーがなるわ。時間は三分にしておいたから、いつもよりも長いプロ使用よ。あたしの課す、最後の試練だと思って」
“試練の天使”
そうだ、玲於奈は僕にとっての試練の天使なんだ。
もしこの試練がクリアできなければ――
「わかったよ。この試練を乗り越えて、僕は僕の目標を勝ち取るから」
「いい根性ね」
そういうと、玲於奈もマウスピースを口にくわえた。
――カァン――
ボンッ
グローブをあわせ、僕たちは一人のボクサーとして向かい合った。
落ち着け落ち着――「かっ!」
くっそ!
またやられた!
あのジャブを何とか――「しっ! しっしっ!」フォン、フォン
くっ、だめだ、やっぱり全然捕らえられない。
だめだっ――「ぷぷふっ!?」
……大丈夫だ、落ち着け、ジャブだ、たいしたことない。
唇が切れたか?
いや何てことない――「しっ! しっしっ!」フォン、フォン、パチィ
「!」
よしっ!
かすっただけだけど、左がギアを捕ら――
……っく、また距離をとられた……。
慌てるな、僕……。
スピードでは圧倒的に玲於奈のほうが上だけど――「うらあっ! ふんっ! ふわっ!」ボンボンボン、ボンッ
根性なら負けないっ!
「しゃっ!」
「くっ!」――シュンシュン、シュッ
「がっ!」
てえっ!
けどっ!
「痛くないっ!」
右ストレートもらっちゃったけどっ!
ほんとはめちゃくちゃ痛いけどっ!
「痛くないんだっ!」――ボンブンブン、ボン
「! っつ」
よし!
ロープに追い詰めた!
……落ち着け、はやるな、拳聖さんにも放ったコンビネーション。
まずはボディ!――ボン
ボンボンボン――下に意識を集中させて!
「うらあああああああああ!」
右ストレート!
ガキッ
「っしゃあ!」
……って……
「ああああ! 玲於奈! 大丈夫!?」
い、いくらフルフェイスのヘッドギアだからって!
あ、相手は女の子なんだぞっ!?
「大丈夫玲於奈!?」
な、なんだかぐったりしてるしっ!
「いま冷やすもの持ってくるね!」
早くヘッドギアとグローブ取らなきゃ!
ゆっくり、ゆっくりと。
……これでよし……って――
「……あんなパンチがよけられないわけないでしょ……」
「え?」
クリンチ?
いや、スパーストップしてるのに?
「れ、玲於奈? ちょ、ちょっと――」
――
……っててててて……。
?
玲於奈?
気がつけば、僕は玲於奈に抱きつかれて、マットに押し倒されていた。
「……あんなパンチが……あんたごときの……グローブ握って一ヶ月しかたっていない……あんたごときのパンチが……」
……震えてる……。
いや――
「……ひっ……ひん……ひっ……」
玲於奈は、泣いているんだ。
僕の首元にしっかりと腕を絡めて、僕の体を、きつく、痛みを感じるほどにきつく、抱きしめて。
「……あんたのパンチなんか……本当に……本当に止まって見えるわよ……」
僕は、なだめるように玲於奈の髪をなでた。
「そうだね。僕もそう思う。君なら間違いなくあのパンチ、よけられたよね。拳聖さんだって――」
うん。
そうだ。
玲於奈は――
「拳聖さんが……お兄ちゃんが受けたパンチがどれほどのものか知りたくて、あえて受けてみたんだよね」
頷く玲於奈の頭を動かす感触が、僕の胸元に伝わってくる。
玲於奈の呼吸は熱く、湿っぽく僕のタンクトップを濡らした。
そうだよ。
僕ごときのパンチが、いくら捨て身でパンチを振るったからって、こんな稚拙なコンビネーション、“シュガー”な兄妹がかわせないはずはないもんね。
「この間もそう……お兄ちゃんは……きっと……」
玲於奈は、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げて僕を見つめた。
「きっと……左目、見えてない……見えていないの……」
玲於奈……やっぱり、気づいていたんだね。
「昔、昔ね……お父さんもお母さんもいたとき……お兄ちゃんと二人でよくスパーリングしてたの……それが……あたしたち兄妹にとっての遊びだったの……二人でじゃれあうみたいに……追っかけっ子するみたいに……」
僕は、優しく、丁寧に指で玲於奈の髪の毛をすいた。
「そうだったね。年上の高校生とスパーリングしていた拳聖さんと、まともに渡り合ってたんだよね」
「お兄ちゃんが中学生になったときかな……あたし、いつも通りお兄ちゃんとスパーリングしてたの……そしたらね……偶然に……本当に偶然にね……ものすごく……本当に思い出しても身震いするような……あたしの人生最高の右ストレートが……ひっ……ひっひっ……っくう……」
「そっか……拳聖さんの目に入っちゃったんだね……」
「あたしのせいなのかな!? ねえ玲! あたしのせいなのかな!?」
玲於奈は、ものすごい力で僕のタンクトップを握り締める。
「そんなことないよ。事故だったんだし。それに、それが今の拳聖さんの目に関係があるかどうかだなんて――」
「あんたになにがわかんのよ!」
ドンドンドン
「もやしのくせに! よわっちいくせいに! 優柔不断で、弱虫のくせに! 根性なしのくせに!」
玲於奈は赤ん坊のように絶叫して取り乱し、僕の胸を叩く。
「……きっと……きっとあたしの右ストレートがそもそもの原因で……それでボクシングの試合でダメージが蓄積して……あたし……ねえ玲……あたし、どうしたらいいの……ねえ教えてよ……ねえ玲……玲……」
天使は、僕にとても重い試練を投げかけてきた。
本当にへヴィだね、この試練は。
けど、僕は迷わない。
迷っちゃいけないんだ。
「拳聖さんは、言ってたよ」
この拳聖さんの言葉を聞いたら、玲於奈はどう思うかな。
「拳聖さんは、ただ純粋にボクサーとして、最後まで燃え尽きたいんだって。去年のインターハイが終わった時点で、きっと拳聖さんはもう二度とボクシングは出来ないって考えてたんじゃないかな。けど、東海ブロック大会もインターハイ予選のエントリーも終わって……きっとすごく悔しかったんだよ。もう公式戦には出られないから……きっと、この対抗戦を最後の試合として、自分自身にけじめをつけたいんだよ」
“集めてみろ。五人”
そうだ、きっと拳聖さんは、拳聖さんの中のボクサーの魂は、どこかで待っていたんだ。
くすぶっていた魂に、もう一度火を入れられる瞬間を。
そしてそれに、僕と玲於奈が火をつけたんだ。
「誰のせいでもない、拳聖さんの、プライドを賭けた選択なんだ」
「……わけわかんない……なんでそんなことに、自分の人生かけられるのよ……単なるバカじゃない……」
「ははは、そうかもしれないね。けど、何の価値のない、勝っても何も得られないような戦いでも、それでも僕たちは今、それに賭けているんだ」
僕たちに、いや……僕に出来ることはただ一つ。
「勝つよ。僕たちは勝つ。玲於奈」
「……うん……ひっ……ひっひっ……っくう……」
それきり玲於奈は何も話そうとせず、僕の胸の中でずっと泣き続けた。
それが一〇分なのか一時間なのか、それとももっと長かったのか、僕にはよく分からない。
この答えが正解だったのかどうかも、やっぱりわからない。
そういえばLさんが言ってたっけ。
“そのダイスが手のひらに乗せられたとしても、それを振るのは君しかおらん。一が出るか六が出るか、はたまたフィールドから飛び出して消えてしまうか。それは神ならぬ我輩たちの知るところではないのだよ”
何が正しくて、どう振舞えば最善の選択だったかなんて、きっと誰にもわからないんだ。
LさんもJさんも、ううん、きっと神様でもない限り、最良の未来なんてわからないんだ。
だから僕に出来ることは、この選択が自分にとって最良なものなんだって信じて、ただがむしゃらに戦うだけなんだ。
そうすればきっと、一が出ようが六が出ようが、さいころが飛び出して消えてしまおうが――
「僕は、拳聖さんは、絶対に後悔しない」
※※※※※
興津高校のある、静岡駅前のロータリーが待ち合わせの場所。
真新しいジャージーに身を包んだ僕は、部員全員の顔を確認する。
「えっと、全員そろった感じですかね」
「……んぐっ……おう、さっさと行こうぜ。んぐっ……試合なんざとっとと終わらせてよ、なんかうめーもんでもくいてーからよ……んぐんぐ……」
石神さん……これから試合なのに、なんてのんきなんだ。
「ちょっと! あんたこれから計量なんでしょ? 一ヶ月前までブタみたいにぶくぶく太ってたくせに、少しは食欲抑えなさいよ!」
「そ、そうっすアニキ……」
「ああ? 誰に物言ってんだ? わかってねえな。これは“蒲菊本店”の蒲鉾だぜ?」
「さ、さすがアニキ! 高級品ですね!」
……すいません……よく分かりません……。
「高たんぱくで低カロリー、俺はこれを使って減量に成功したんだからな。それに、これっぱかしじゃ計量にはまったく響かねえよ」
相変わらず破天荒な人だ……。
「ま、拳次郎の言葉にも一理ある。そろそろ出発だな」
うん、そうだね。
「俺興津高校いったことないから、皆さんについていきますよ」
「じゃあ、行きましょう」
……。
…………。
………………なんだよこれ!
「いやいやお待ちしておりましたよ、定禅寺西高校の皆さん」
うげっ……あの慇懃無礼なニヤニヤ笑いは……。
「? だれだったっけ、あんた?」
「漆畑だ漆畑! 興津高校ボクシング部顧問の!」
……かますなあ、拳聖さん……。
「あ、そうだったっけ、そうや久しぶりっすね、漆畑さん」
「ぬう……なんて無礼な奴等だ……」
無礼上等、お互い様ですよーだ。
「ところで漆畑さん、これはどういうことっすかね。何でたかだか高校同士の対抗戦に――」
そう。
僕も正直言って、一瞬頭が真っ白になった。
「お、おい! あいつ! 見ろよあいつ!」「え? ほんと? ようやく来たの?」「おおそうだ! 間違いねえよ! あいつ――」
拳聖さんの姿を認めた、“たかだか高校同士の対抗戦”に押しかけた大観衆が沸き立った。
「――“シュガー”だ!」「“シュガー” “シュガー” “シュガー”!」「あの“シュガー”が帰ってきたんだ!」
自身へ向けられた歓喜のコールに、拳聖さんは仕方なさそうに小さな笑みを返す。
それだけで、会場中が悲鳴とため息に包まれた。
「ひひひ、ただ引き受けただけでは、私たちに何のメリットもないのでねぇ」
……なんでこの人、笑い顔までこんなにいやらしい感じなんだろ……。
「うちのホームページにも掲載させてもらいましたし、静岡中から全国のボクシング関係者にまで呼びかけをおこないましたらねえ、これだけたくさんのお客さんが押し寄せてくれましたよ」
「けっ、拳聖さんの名前使って学校の宣伝か、たいした商売人だなてめーらは」
「ア、アニキ……先生の前ですからそういうあがっ!」
「うるせえっ!」
「どうもそれだけじゃないみたいね」
あ、玲於奈……。
「いくら対抗戦でも、こんな組み合わせって有り?」
バンッ
玲於奈は壁に貼り付けられた模造紙を叩いた。
「ボクシングは基本的に体重の軽いほうから順番に試合をするって、アマチュアの規約にもあるわよね? それが何これ?」
「第一試合ライト級、第二試合ミドル級」
美雄が組み合わせ表を読み上げる。
「第三試合ライト・ウェルター級、第四試合フライ級、第五試合ウェルター級……明らかに、意図的なものを感じますけどね、漆畑先生」
それって――
「なるほどね、クライマックスで俺を大観衆の前で半田に倒させて、主役交代を印象付けたいってわけね」
「元はといえば、そちらが我々にねじ込んできたことですから。これくらいは、ねえ? ひひひ」
……毎年の伝統行事だって言ってたくせに……本当に嫌な奴だ……。
「よかったじゃねえか。俺とお前の決着、こんな大観衆の前で着けられてよぉ」
この声は――
「よお、相変わらずアメンボ見てえだな、半田」
「誰がアメンボだこの野郎!」
興津高校ボクシング部主将、半田当真だ。
「ぐぬう……へっ、お、お前は東海大会にもインターハイ予選にもエントリーしてねえしよぉ、ここで、今日本のウェルター級で誰が一番強いか、はっきりさせてやっからよぉ。一年のブランクがあったから、なんて言い訳はなしだぜ?」
「ま、好きにしたらいいさ。この試合の会場校はお前等なんだからな。けど、男のおしゃべりは格好良くないぜ」
「ああん?」
「いうじゃねえか。“弱い犬ほどよくほえる”ってな」
「ぎゃははは、ちげえねえや! 犬っつうか、ナナフシ見てえだけどな?」
「な、なんだとこの野郎!」
……この人、口げんかできないタイプだな、きっと。
「何でもいいからよ、早く計量しようぜ。なんたってさ――」
拳聖さんは、まるで手品師のように両手を広げる。
その背後からは、割れんばかりの歓声が響き渡る。
「――この観客たちを待たせるわけにはいかない。“ショウ・マスト・ゴー・オン”、そうだろ?」
「く、くうっ……すかしやがって……」
うーん、なんか、格というか役者というか、とにかくあらゆる点で違うって感じだ。
「さ、さっさとこいや! 計量始めんぞ!」