第十二話
「……なによ……じろじろ見ないでよ……」
十数分後、タンクトップにショートパンツ、バンデージに拳を固めた玲於奈が姿を現した。
腕組みをして、猫科の肉食動物のような目で僕たちを睨む。
ヒュウ、はやすように口笛を吹く拳聖さん。
「久しぶりだな、その格好の玲於奈を見るのは」
「よぉ、なかなか似合うじゃねえか」
こちらはニヤニヤ笑いが止まらない、といった風な石神さん。
……けど。
…………。
「ええ? こうしてみたらなかなか、やっぱりお前も女なんだねえ。え?」
「そういうやらしい目をやめろっていってんの!.この変態! 気持ち悪い! ……って、何よ玲。なにボーっとしちゃってんのよ」
…………えっ?
「あ、いやいやいやいや! そんなことより、早くスパーしようよ!」
危ない危ない……ちょっとだけ見とれちゃった……。
そんなの見透かされちゃったら、また玲於奈の右ストレートもらっちゃうよ……。
――カァン――
バンッ、僕たちはグローブを合わせた。
玲於奈はスパーリング用の、フルフェイスのヘッドギア。
これなら、うん、女の子相手だって罪悪か――「ぶぁっ?」
「ゴングがなったら試合開始よ! ぼやぼやしてるんじゃない!」
玲於奈のスナッピーな左ジャブが、容赦なく僕の顔面を捉える。
そ、そうだ、相手はなんたって玲於奈なんだ。
拳聖さんと血を分けた、天才ボクサーの。
遠慮したら、負けだ。
まずはジャブで距離を――「ふっ、ふっふっふっふっ!」ヒュン、ヒュンヒュン
えっ?
だめだ!
距離どころじゃない!
そういう問題じゃない!
的を定めるので精一杯だ!
落ち着け、よく見ろ、考えろ。
あれだけガードが下がっているんだ、とにかく追いつ――「ぎっ!」ってえっ!
何でこっちのジャブは当たらないのに、玲於奈のジャブはらくらく当たっちゃうの?
リーチはそんなにか――「ぐっ!」
「おら玲! 拳ばっか見てちゃだめなんだよ!」
「固くなっちゃだめっす! 相手の動きにしっかり反応して!」
石神さん……馬呉さん……わ、わかるんだけ――「こぉ……」ボ、ボディーフック……。
な、何とかもう一度距離を――「うあらっ!」ブンッ!
お、大振りすぎたか?
トトトン、トン
玲於奈は上半身を丁寧にゆすりながら後へ下がる。
くそ、やりづら――?
な、なんだこの左手、邪魔――「くあっ!」
「玲! そんなあからさまなフェイクに引っかかっちゃだめだ!」
よ、美雄……。
けどどうしても意識――「はっ! ふぁっ!?」
何が起こったかはわからなかったけど、右ストレート?
ま、また左手――その手は食うかっ!
「そうだ! 部分にとらわれるな! 全体を見て、しっかり相手の体を把握するんだ!」
そうだ、とにかくパーリングとガードだけには気をつけなくちゃ。
とにかく手数――「ふっ! ふっ! ふっ! ふっ!」ヒュン、ヒュン、ヒュン、ヒュン
だめだ、どうしても、え?
また左?
見ちゃいけないけど――
「バカ野郎ォ! そんな顎あげちゃ――」
?
パキイッ!「ぐっ!」
……。
……っぶなあっ!
一瞬意識とんじゃったっ!
くっそお!「ふわああああっ!」
? またひだ――「ふがっ!」
――カァン――
「ああもおっ!」
ぜ、全然当たんないじゃんっ!
「ばっかやろ!」
ガンッ
あいだっ!
「石神さん……」
「完全に左だけでコントロールされてるじゃねえか!」
「す、すいません……なんか、動きに惑わされて、全然……もう……」
「ほれ、拭け。鼻血でてんぞ」
マジで?
「あ、ありがとうございます……」
レベルが違いすぎる……。
美雄とはまったく違った意味で……手も足も出ないって感じだ……。
「何年ぶりかな。けど、錆び付いちゃいないみたいだな」
「さあね」
向かいのコーナーでは、二人の“シュガー”がクールに言葉を交わしていた。
「なんともまあ……本当に小さい拳聖さんって感じでしたね」
石神さんの横で、羨望の混じったまなざしで美雄は二人の“シュガー”を見つめた。
「まあな。はっ、女にしとくのがもったいねえぜ」
「そ、そうっすね……自分にも……そう思えます……」
「うん。すごい」
素直にそう思う。
本当に拳聖さんは……玲於奈は天才なんだ。
「……よぉ、そういやお前は拳聖さんのボクシングにあこがれてこのボクシング部に入ったんだよな?」
「え? ええ、そうなんですが……」
「……憧れは、どう着陸させるか、だ」
「……着……陸……です、か?」
「お前とあの人たちとは違う。いいか、もう一度言うぞ? お前と、あの人たちは、違う」
「は、はあ……」
「憧れは憧れでいい。だけどな、それにとらわれて自分を見失っちゃだめだ。その憧れを、自分のやれる範囲で、どう実現していくか、それをしっかり考えろ」
……憧れを……着陸させる……実現させる……。
「すいません……よく分かりません。だけど……ありがとうございます……」
「ま、俺も上手く言えねえんだけどよ。とにかくそんなうじうじしてたら、女に持てねえぜ? 悩む前にまず行動しろ」
……そっか、石神さんは僕を励ましてくれているんだ……。
……やっぱり優しい人なんだな……。
「石神さんって……すごタフなんですね」
「あ? まあな。なんたって俺のルーツはメキシコ、ラテンの血だからよ。へへへ」
本当にこの人の笑いって、気持ちがいい。
僕にできること……憧れを見定めながら……自分なりのスタイルを探していくってことなのかな……。
くじけてなんかいらんないや。
「僕……僕、頑張ります」
もうそろそろ、いつまでもうじうじするような僕とはさよならなしなくちゃ。
「おう。それよりよ――」
本当にありがとうございます、石神さん。
僕の憧れの人が、もう一人増えたような気がします。
本当に僕は、この人に会えてよかっ――
「――“ミ・デスティナード”、レイコからの手紙はまだか? お前、なんか聞いてねえか?」
……。
…………。
…………………うん、完全に忘れてたね、僕。
「……ったくお兄ちゃんってば……」
パクパク、もくもく、ぶつくさ呟きながらも、それはそれはおいしそうに玲於奈はピザをほおばった。
今日は玲於奈のリクエストで、生地からしっかり練り上げた自家製のピザを作った。
僕は……まあ、大量の鳥のささ身とブロッコリーにゆで卵、それに少々の玄米ご飯。
だんだんこの味気ない食事にも慣れてきたな……ゆっくり何度も口の中でかみ続けると、ちょっとだけうまみが出てくるんだ。
それになんと言っても食後のプロテイン!
今日からチョコ味に変えたんだよね。
早く飲みたいなあ……。
「ところであんた、体の調子はどう?」
「え、あ、うん。スパーリングしてるときも、途中から完全に息が上がっちゃってたけど……普通のトレーニングだけのときとかより、ずっと体が重い気がする」
もくもく「ん……緊張状態の中で体を動かすって、すごく疲れることなのよ。しっかりリラックスして動けるようになるために、マスを含めてスパーリング形式の練習は増やしていかなくちゃね」
「は、はい」
「それ以外に、ダメージは残っていない? 頭が痛いとかはない?」
「あ、ちょっとあごの辺りに痛みが残ってるけど……うん、問題ないと思う」
もくもく「そう」
そういって玲於奈はまたピザに手を伸ばす。
相変わらず、すごい食欲だなあ……。
「けどさ、やっぱりすごいんだね」
「なにがよ」
「玲於奈のボクシング。全然手も脚も出なかったし……やっぱり拳聖さんの妹だけあって、すごい才能なんだなあって」
「お兄ちゃんの妹なんだから当然よ」
さも当たり前のこと、といわんばかりに言い放つ玲於奈。
「そうだよね。全然歯が立たなくて悔しい思いをしたけど……けど、ちょっと感動したよ。それに、うん、もっと頑張ろうって思ったんだ」
「……まあよかったわ。正直、あのときの玲、どうしようもないくらい落ち込んでたみたいだったから」
「そんなことないよ。正直、ばっきばきになって、立ち直れないかって思ったくらいだもん。だけど……うん、僕はまだ絶望するには早すぎるかなあって。才能はないけど、ないなりに全力で頑張ろうと思うから」
かちゃかちゃ「そう」
玲於奈はまたピザにかぶりついた。
そっか……玲於奈も僕を心配してくれてたのか……。
「あはっ、気を使ってくれてありがとう」
「……お礼は対抗戦でいいところを見せられたらにして。相手はボクシング強豪校なんだから。しっかり覚悟決めて、死ぬ気で練習に取り組むことね」
……やっぱり、強いんだろうなあ、相手も……。
あの練習風景見たら、やっぱり当然そうだろうなあ。
僕は、あそこまで強くなれるんだろうか……。
そういえば石神さんに言われたっけ……僕だけのスタイル……僕自身にしかない強さ……。
“自信を持ちなさい。あんたは、確実に強いから。ね?”
“はっ、褒めてもなんいもでてこないぜ”
……なんで僕、こんなことまだ頭の中に残っちゃってるんだよ……。
「どうしたのよ、ボーっとしちゃって」
「え? あ、いや、うん、なんでもない、んだけど……」
「? まだダメージ残ってるわけ? ちゃんと冷やしなさいよ」
「あのさ……」
「何?」
なんで勝手に口が動いちゃってんの?
だめだ……だめだよ……おちつけ……けど――
「玲於奈ってやっぱり、強い人が好きなの?」
「はあ?」
いっちゃったあああああああああ!
バカバカバカバカ!
僕のバカ!
「あ、いや! ご、ごめん、ちょっと、気になっちゃって……」
「……別にそういうわけじゃないけど……強いボクサーは、まあ、好きね……」
「そ、そうなんだ……」
「な、なによ、そうなんだ、って……」
「い、いや、別に……」
「さっきから玲の言葉、“いや”“別に”ばっかりなんだけど」
「そ、そうかな? 別に何も――」
「ほら」
「そ、そうだね……ははは……」
……す、すごく、いたたまれない感じになっちゃった……。
……。
……。
……玲於奈もうつむいたまま無言になっちゃった。
けど……気まずいついでに、もう一つ聞きたいことがあるんだ。
言っちゃったら……感じ悪くなっちゃうかもだけど……それでも――
「もし僕が……もし僕が……玲於奈が認めるくらい強くなったら……」
「えっ?」
「例えば……僕が今度の対抗戦で勝つことができたら……」
真っ直ぐに僕を見つめる玲於奈の透き通った目に向かって、僕は言った。
「僕のことを――ってごめん!」
あああああああああああ!
ダメダメダメダメ!
「ご、ごめん! 今のは忘れて!」
は、早くご飯片付けくちゃね!
「れ、玲於奈も食べ終わった? 食べ終わったら――「逃げる気?」」
「え?」
「逃げる気? 言ったじゃない。あたし、強い男が好きだって。こんなか弱い女の子の前で気持ちをいえないような男、あたしは好きじゃないから」
玲於奈……
ああ、また僕は逃げるところだった。
自分の気持ちからも、本当の強さからも。
けどね、やっぱりこれは、まだ聞いちゃいけないんだ。
うん。
「ごめんね。だけど、これは逃げじゃない。今はその時じゃない、ってだけなんだ」
そうだ、すべては――
「今度の対抗戦で勝ったら、全部話すから」
「……玲、あんた自分でハードル上げちゃったこと、もしかして気づいていない?」
「ははは……そうだね……けど……うん、絶対勝つから」
「……その言葉、もう訂正できないわよ?」
「うん……けど……玲於奈、君が指導してくれるなら……きっと何でもできるような気がするんだ」
「……バカね……明日から本当に地獄だからね?」
「ははは……覚悟します……」
「とにかくあたしもピザ食べ終わったから。早く“あげ潮”持ってきて」
よかった、いつもの玲於奈に戻ったみたいだ。
「今日は飲み物何にするの?」
地獄って言葉は気になるけど……気まずくなるよりよっぽどいいよ。
「今日は緑茶がいいわ。あと、あんたは寝る前にプロテイン飲むの、忘れないようにね」
「ははは、それだけは絶対に忘れないよ。僕にとってのスウィーツだもん」
※※※※※
更に一週間がたった。
僕はまた、スパーリング用の一六オンスグローブとヘッドギアをつけ、リングに立つ。
向かい合うのは――
「ウェイトはどうだ? しっかりリミットまで仕上げられたか?」
「ばっちりです、拳聖さん」
「なんか、四五キロ割ったって聞いたが」
「ええ。けどその後、五キロ増えました」
「脂肪が落ちて、筋肉だけ増えたってことだな」
ポストから伸びるロープに手をかけ、拳聖さんはぐいぐいと背中を伸ばす。
「それだけじゃないです。玲於奈と、それこそ毎日のようにスパーリングしてきましたから」
「ほれ、最後の仕上げだ」
石神さんが、僕の口の中にマウスピースを含ませる。
こくり、僕は頷いた。
「遠慮はいらねえよ」
拳聖さんは春風のように微笑んだ。
「いい? 勝とうなんて思わないで、とにかく手数を出しなさい。ある程度は被弾覚悟で、リーチの差を殺すためにどんどん距離をつめなさい。そして、とにかく頭を振り続ける。少しでもスリップさせればそれでいいから。わかった?」
「はいっ!」
玲於奈がヘッドギアをかぶせてくれた。
そしてリングの下で、ゴングに構える美雄が言った。
「いいですか? じゃ、いきますよ」
――カァン――
バンッ、開始の合図に、グローブを交える僕たち。
「いきますっ!」
おちつけおちつけ……。
ガードを高く、視線を相手の視線に重ねろ……。
とにかく、頭を振るんだ。
うん、いい、こうだ――「ふんあっ! しっ、しっしっ!」パンパンパン
当然のごとく僕のジャブは拳聖さんの左拳で言いようにカットされる。
けどそんなのは、承知のう――「ぶっ! つぁ」
いっけね!
焦るな焦るな――「ふんあっ! しっ、しっしっ!」ヒュン、ヒュン、ヒュン
まったくとらえどころがないよ、拳聖さんといい玲於奈といい。
だからこそ――「ふあっ!」
クンッ
「お?」
何とかして懐にもぐりこむ!
「ふっ! ふあっ!」ボン、ボンッ
「おっと」
くっそ、捕らえ損ねた。
けど、何とかボディを二発いれ――「ちょっとあげんぜ」
「むあ? っぷふぁ!」
……。
痛くない!
アッパーもジャブも痛くないんだこんなもの!
「ふわあっ!」ブン、ブンブン
とにかく頭を振れ!
前へ前へ!
懐へ!――パンッ
「っと!」
っしゃ!
ジャブがかすめた!
そのまま――ボン、ボン、ボン
しゃあ!
へばりついて――ボン、ボン、ボン
んでダメ押し――「らあっ!」ゴキッ
「かはっ!」
よっしゃ!
右ストレート、初めて当たっ――
――えっ?
――カァン――
「成長したな、少年」
ポンポン、グローブに包まれた拳聖さんの拳が僕の頭をなでた。
「あ、ありがとうごさいま……す……」
初めて……拳聖さんの顔面にパンチが当たった……。
すごく嬉しいはずなんだけど……なんだろ……なんかすごく――
と、とにかくコーナーへ。
「いい攻めだったな、玲」
にやりと笑うのは石神さん。
玲於奈は……。
「なかなかの出来ね」
そういって、僕のヘッドギアをはずした。
表情は、確認できなかった。
「すげえじゃん玲。やったな」
あ、ありがとう、美雄。
けど……拳聖さん……。
「あ、あのっ!」
「ん?」
僕は、リングを降りようとする拳聖さんに声をかけた。
「え、あ、ん……ありがとうございまし……た……」
「一ヶ月の仮ごしらえにしてはいい線行ってるよ。そんな顔すんな。自信を持てよ」
「は、はい……」
拳聖さんは馬呉さんからタオルを受け取ると、部室の奥へと消えて言った。
「いよいよ大会は明後日か」
「そうだね」
シャワールームで着替えながら、僕と美雄は汗にまみれたタンクトップとハーフパンツを脱ぎ捨てた。
ガシャン、美雄はヘルスメーターに体を預ける。
「……五九.八……ん、リミットいっぱい、だね」
僕の読み上げに、満足そうな美雄の笑顔。
「僕も、っと……」
ガシャン、ヘルスメーターに乗る。
「……五〇.一……もうちょっとあってもよかったけど、ま、リミット内だから問題ないんじゃないか」
「ははは……重さだけなら一ヶ月前と変わりないか」
「数字だけならな。けど実際。玲の体一ヶ月前とは全然違うぜ」
「うん、それは僕も自信がある」
今まで見えなかった腹筋のラインや、肩の盛り上がり、ふくらはぎの張り、自分でも驚くほどに変わったという実感がある。
「それもこれも、玲の“天使”のおかげかな?」
はっ?
「て、天使って一体……」
「とぼけんなよ。空から舞い降りたって言う、例の“天使”だよ」
「れ、玲於奈のこと? い、いやまあ……確かに彼女のおかげではあるけれど……そんな“天使”だなんて……かわいい子だなあ、とは思うけど……」
確かに玲於奈は“試練の天使”だけど……美雄の目からみても天使に見えるのかな……。
「俺は、あんな彼女いたらなって思ってるよ」
そりゃあまあ……そうだけど……って――
「え? もしかして美雄――」
「ああ、けど誤解しないでよ。俺さ――もう玉砕したから」
……。
…………。
……………………えっ?
「ど、どういう……」
「そのまんまの意味だよ。五日前、お前がいない隙見計らって告白したんだ。今思えば抜け駆けしちまったみたいで、悪かったかなって。恥さらすから勘弁してよ」
「ぬ、抜け駆けなんて、そんな……」
「俺さ、高校時代結構モテたし、別に女に不自由もしないと思ってたけど……ん、と」
美雄はTシャツに袖を通すと、手早く制服に着替え始めた。
「ん、でも、あの子と一緒に過ごすようになってさ、すげーかわいいって。かわいいだけじゃなくて、なんかこう、芯がしっかりとした、凛とした姿に惚れちまったんだよな。うん。んで、生まれて初めて俺から女に告白したら、このざまって奴さ」
玲於奈……そっか、断っちゃったのか……。
「け、けど……二人ともいつも通り変わんなかったから……そんなこと全然……」
「ま、あの子は俺なんか眼中になかったし、俺も言いたいこと言ってすっきりしたから、もう今は“いいお友達”って所かな」
「そ、そうなんだ……」
「あ、いまほっとしただろ」
えっ!?
「な、なにいってんのさ! べ、別に僕は――」
「――楽しみだな、対抗戦」
「え? う、うん……」
ま、また唐突に話題が変わったな。
「振られたからにはおとなしく、ストイックにボクシングに取り組むかな。感謝してるよ。こんな面白いもんに誘ってくれて」
「い、いや……僕のほうこそ、僕たちのわがままに付き合ってもらったみたいで……そういってもらえると、嬉しいな」
「勝とうな、玲」
「うん」
僕たちは、こつりと拳をぶつけ合った。
「今日は玲於奈は一緒じゃないのか?」
シャワーを浴びて僕たちは、夕暮れの校舎を校門へ向けて歩いていた。
「うん。なんか、先に帰るって」
玲於奈、なんか元気なかったよな……。
どうしちゃったんだろ……。
けど……僕の感じたさっきの違和感……もしかして玲於奈も……。
“……お願い……ちょとだけでいいから……こうしていて……”
そういえばあのときは玲於奈が拳聖さんの顔を殴りつけていた。
お兄さんの顔を殴られるのを見たくなかった?
いや、あの子はボクサーの娘であり、妹だ。
今ならわかる。
それくらいのこと受け入れていなければ、身内がリングに立つ姿なんて見れないはずだって ……。
「? どうした玲。なんか顔色悪いぞ?」
「あ、うん。ごめん、美雄。ちょっと忘れ物しちゃったから。先帰ってて」
拳聖さんと話がしたい。
この違和感、その正体を確かめるためにも。
ん、部室の鍵がまだ開いてる。
電気もついているみたい。
まだ拳聖さんはいるみたいだな。
「――――」「……だの……」
ん?
……なんか声――
ガンッ
わっ!?
な、なんだ?
「――ったとおりだ、拳次郎」
「そういう問題じゃねえだろが!」
「ア、アニキ! お、落ち着きましょう! と、とにかく手を離して……」
け、拳聖さん?
石神さんに、馬呉さんも――
「他の連中はごまかせても、俺ぁごまかされねえぞ? あんた――」
「玲が想像以上に成長していた。ただそれだけの――」
「――んな言い訳で納得できるか!」
拳聖さんの胸倉を、石神さんが掴み上げている。
拳聖さんは困ったような、しかしどこか冷静に笑って、石神さんのなすがままに任せている。
「けど、お前だって見ただろ。あの少年が、あそこまでたくましく成長したのをさ」
「それは認めるよ。だけどな……俺らの知ってるあんたが、あのなんて事のないパンチをやすやすともらうなんて考えられねえっつってんだよ!」
「まあ、ブランクもあ――」
「――あんた……もしかしてだいぶ悪化してんじゃねえのか?」
……。
どういうことだ?
悪化している?
拳聖さん……もしかして……。
「はっ」
吐き捨てるように言うと、ようやく石神さんは拳聖さんの胸元から手を離した。
そして、部室のベンチにどかりと腰を降ろし、スクイージーを一口含む。
ヒョイ
「ほれ」
――ボトッ――
!?
拳聖さん?
「こんな下手投げのパスすら取れねえのかよ」
石神さんが不意に投げてよこしたボトル、拳聖さんの左手はは反応することなく取り逃した。
「はっきり言えよ。あんた、左目、見えてないだろ」