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第十一話

「……終わった……」

「……ああ……」


――キーンコーンカーンコーン――


 ……ああ、これほど休み時間が待ち遠しかった日はなかったなあ……。

 何度も意識を失いかけて机に頭をぶつけちゃったよ。

 二時間目からは美雄とお互いに気を配っておいて、眠りそうになったらお互いに起こしあうって協定を結んだけど……。


「……本当に眠いと、ゆすったくらいじゃ起きないもんなんだね……」


「……ああ……新しい発見だ……」


 僕たち二人は、深海のように深いため息をついた。

 さて、早速お昼ごは――


「遅い! 何やってんのよ!」


 え?


「「玲於奈?」」


 真っ白なのブレザーにチェックのスカート、そして同系色のかわいらしいリボン、制服姿の玲於奈がそこにいた。

 ザワザワザワ、男子校では絶対に見ることのできない光景に、教室が騒然となる。


「ようバディ。体調はどうだ」


「「拳聖さんも?」」


「さ、お昼ご飯の前に部室に集合よ。そのひょろひょろもやしの体、しっかり鍛え上げなくちゃなんだから!」


「れ、玲於奈、中学校に通う約束じゃ?」

「はあ? あんた何が特進よ。それとも今が昼休みだってことがわからないくらい疲れてるってわけ?」


 そっか、僕たちのために、わざわざ昼休みに学校に来てくれたのか……。


「……あのさ、その制服って聖カタリナ富士のじゃないか?」


 美雄が困惑しながら訊ねると


「ええそうよ。別に隠してたってわけじゃないけど」


 その言葉に、更に教室中が沸き立つ。


「ねえ美雄……その学校、有名なの?」


「有名も何も、この辺でも有名な大学附属の女子一貫校だよ。めちゃめちゃなお嬢ざま校で、なんていうか……高嶺の花、って言うのかな」


 成程、だからみんなこんなに盛り上がって……って、何でそもそもこんなところに玲於奈がいるのさ?


「俺もいきなり玄関に呼び出されたときは驚いたけどな」


 苦笑する拳聖さん。


「仕方ないでしょ? こんな美少女が欲求不満の塊のような男どもの巣窟に、一人では入れるわけないんだから!」


「おいおい、いくら男子校だからってその言い方は――「あたしたちの家であんなことをしでかした、お兄ちゃんが言う資格はないわね」」


 ……あらら、拳聖さん苦笑したまま黙っちゃった……。


「悪いけど、まだお兄ちゃんのこと許したわけじゃないんだからね」


 ……あーあ、腕組みしてそっぽ向いちゃった……。

 ……ほんと、一体何があったんだろう……。


「と、とにかく悠瀬、お前も筋トレだ。三キロ程度の減量だが、勝負はいかに脂肪を落として筋肉を付けられるか、だ。先にいって待ってるぜ」


「了解っす」


 美雄はバッグを片手に立ち上がり、拳聖さんの後を追った。


「あ、僕も……あらっ?」


 がくん、いきなり立ち上がろうとしたら、かっくんされたみたいにひざが折れた。

 くそ、情けないなあ僕の体は……。

 けど――


「僕だって、負けないっ!」


「何でもいいけど早くしなよ。トレーニング終われなかったらお昼ご飯食べられないから。まあ、とはいってもそれほどきついもんじゃないから、さっさと終わらせなさい」



「あんたってやつはああああああ!」


「……ご、ごべん……もうだ……ぶへっ……」


 ああ、腕がこれ以上上がらない……。

 筋繊維がずたずたに千切れちゃったみたい……。


「ぐへっ」


 ……お願い……腰に足乗っけないで……。


「たかだか二十回の腕立て伏せで、何であんたはそんな地獄の亡者みたいな顔してんのよっ! 見なさいっ!」


 ……拳聖さん……美雄……。


「あの二人はとっくの昔に腕立て腹筋終わらせてんのよ!?  さっさと腕を上げなさいっ!」


「フッ、フッ、玲於、奈、フッ、フッ、玲、は、始めたばかり、フッ、フッ、なんだ。いきなり百回はきついだろ。フッ、フッ、二十回からちょっとずつ、フッ、フッ、体ならさせて、いけ、フッ、フッ」


 背筋をらくらくこなしながら、拳聖さんは言った。


「ぐぬぬぬぬ、お兄ちゃんは甘すぎなのっ!」



「それじゃ、あたしは帰るから。放課後までに、しっかり体休めておくのよ」


 あのさ……放課後までは授業中だっての……。

 ……もう、反論する気力もないけど……。

 拳聖さんと部室を出て行く玲於奈の後姿をみつめながら、僕はため息交じりにお弁当箱……うん、タッパーとしか言いようがないな……を開く。


「お、なんかいつもと感じ違うじゃん」


 すでにシャワーを浴び終え、お昼を終らせた美雄が覗き込む。


「……なにこれ……エサ?」


「失敬な! 僕のお昼ご飯だよっ!」


「……けど……これ……」


 五穀交じりの玄米ご飯に鳥のささ身のボイル、ゆで卵に大量のブロッコリーにプロテイン!

 どっから見たって!


「……うん……トップブリーダーが推奨しそうなメニューだね……」



 ……あいたたたた……。

 ……体操着に着替えるのも結構きつい……。

 ……部室の更衣室に来るまでが一苦労だったよ……。

 ……その日のうちに筋肉痛が来るなんて、初めての経験だなぁ……。


「よう、主将」


「あいたっ……って、石神さん! 馬呉さん!」


「初日からずいぶんな顔色じゃねえか」


「今日から本格的にスタートっすね」


 そういうと、二人も制服を脱ぎ始めた……うわっ!


「ふ、二人ともすごい筋肉ですね!」


「ん? まあな。まあ俺は一時的に太ったとはいえ、筋肉は全然おちてなかったしな。だからこそ、すぐに体重落とせたんだけどな」


 ……さすがに一週間で十五キロは異常だとは思うけど……。


「筋肉つけておくと、やせやすくなるんですか?」


「自分はミドルだからあまり気にしたことはないっすけど、筋肉あると基礎代謝が上がるから、結構すぐに脂肪落ちるみたいっすよ」


 そういえば拳聖さんも美雄も、細い様で結構しっかり筋肉はついてたもんね。

 ……やっぱり格好いいな、あれだけムキムキだと。

 僕なんか、本当にひょろひょろで、恥ずかしくなっちゃうよ。

 一生懸命練習すれば、あれくらい筋肉がつくものなんだろうか……はあ……。



「……っはあ、っはあ、っはあ、っはあ……」


 ……何なのこれ……。


「こらああああああ! 練習前の合同ロードワークで、何でそんなにへばってんのよっ!」


 ……ジャージー姿の玲於奈は自転車に乗って僕に声をかける……けど……。

 ……みんなの背中が……もうあんなに小さく……。


「対抗戦行く前に練習が終っちゃうわよっこのどアホッ!」


 あいたっ!

 叩かないでよもうっ!


「苦しいの? それが本当にボクサーの顔? ふざけないで! 大声出せ!」


 わかったよっ!


「うがあああああああああああああ!」


 とた、とた、とた、とた


「全然スピード出てないじゃない!」


 ……うん……今はこれが精一杯……。

 ……あ……わき腹が……。



「……そうだな、力みのないいい構えだが……」


 ……ようやく部室に帰ってきたけど……ああ、みんなもう練習スタートしてる……。


「拳の位置が低いな。力む必要はないが、ボクシングはジャブからフック、連打を前提としている競技だ。とにかく頭部を守る意識はしっかりつけとけ」


「はいっ!」


 美雄は拳聖さんにフォームチェックをしてもらってる。

 やっぱり僕と違って、格闘技経験してると飲み込みも早いもんだな。

 もうすっかりさまになってる感じ。


「こら! よそ見しない! バンデージ巻くのに、何でそんなに時間かかっちゃってんのよっ!」


「あ、ああ、えと……」


 こうやって……拳のところに布をたらして……。


「ああもう! いらいらするっ! 貸しなさいっ!」


 あ、玲於奈……。


「あ、ありがと……」


「そんなことはどうでもいいから、早く自分で巻けるようになりなさいよ」


 玲於奈は僕の手をとって、手早くバンデージを巻き始めた。

 ……この汗臭い部室の中だけど……やっぱり女の子なんだな、シャンプーのすごくいい匂いがする……。


「? 何ボーっとしてんのよ」


「あ!?  あ、いや! なんでもっ!」


「? ったく、これきしの練習で疲れてんじゃないわよ」


 確かに疲れてるけど……それだけじゃなかったんだけどな……。



「――いい? このスタイルを絶対に体にしみこませなさい」


「う、うんっ!」


 左半身を前に出し、腰と股関節をやや深めに曲げ上半身を前に突き出す。

 拳はしっかりと顎をガード。


「これがクラウチングスタイル」


「クラウチングスタイル」


「そう。ボクシングの基本中の基本のスタイル。そのうち自分自身のスタイルが出てきてアレンジできると思うけど、今はしっかりとこのスタイルを覚えなさい」


「けど、拳聖さんのスタイルと全然違わない?」


「あれはお兄ちゃんだから出来るの。それに、お兄ちゃんだって最初はこの基本のスタイルからはじめたの。素人の内は、しっかりとこのフォームをしみこませること。

いい?」


「うんっ!」


「返事は“はいっ”!」


「はいっ!」


「それじゃあ、そこから前後にステップ。リズムに乗って、こう、こうこう――」


 トン、トトン、トン、トトン――


 うわー、すごい。

 もともと華奢な体が、まるで重力を感じさせないくらいに軽やかに動いている。


「どう? まずは前後の動きをマスターしなさい!」


「はいっ!」


 ……あれ?

 あれあれ……あれれ?


「ちがーう! なんなのよそれ! じじいのラジオ体操のほうがまだ気合入ってるわよ!」


 あ、足が……なんだろ……言うこと聞いて――


「ああもう、リズム感なさすぎ! 本当にやる気あんの?」


――バン、バン、バンッ――


 すごい音がする……。


「うっしゃあっ! うらあっ! ふあっ!」


 石神さんだ!


「うらうらうらうらうらあっ!」


 石神さんは、馬呉さんが抑える重たそうなサンドバッグを一心不乱に叩き続ける。

 ……すごい……これサンドバッグに穴が開いちゃうんじゃない?  ってくらい、すさまじい勢いでグローブがサンドバッグにめり込んでる。


「ふっ、ぐっ、んっ!」


 馬呉さんは必死の形相。

 体のサイズは石神さんのほうが小さいのに、馬呉さんは明らかにパンチの重さを持て余してる。


「こら! どこ見てんの?」


「は、はいっ!」


 そ、そうだ、僕は僕のできること、それを今精一杯やらなくちゃ……。


「とにかく、リズムを体にしみこませて! トン、トトン、トン、トトン、はいっ!」


 と、とんとん、とんとん、とんととん


「うがあああああ! あんたどんだけリズム感ないのよっ! 二次元アイドルのリズムゲームなんかやってるくせに! 三次元になったらからっきしじゃない!」


「そ、そんなこと言ったって……」


 リ、リズムくらいはわかるんだけど……。


「か、体が思考についていかなくて……」


「何頭でっかちなこと言ってんのよ! 考えてどうすんの! 体に感覚で覚えこませなさい!」


「は、はいいいいっ!」



※※※※※



――キーンコーンカーンンコーン――


「……あー……ふわぁ……」


 ……そりゃあ生あくびの一つも出るよ。

 あれから一週間、一日も休むことなく、一分一秒気を抜くことなく、僕たちはトレーニングメニューをこなし続けたんだから。

 もう体は筋肉痛が当たり前の状況で、もはや痛いんだかなんだかよく分からない状況だ。

 授業中は、疲れと眠気で意識が朦朧。

 前はお互いに叩いて起こしあってたけど、今はほとんど美雄が僕を起こしてる。

 もともとの体力が違うんだろうな……美雄はもう、体が疲れになれたみたい。

 今朝体重を量ったら、一週間前より四キロも減ってた。

 あれだけ動いて、食事は朝昼晩のいつもの味気ないメニュー。

 唯一楽しみなのは、練習後と就寝前に飲むプロテイン。

 そこにわずかに含まれる甘みだけが、今の僕にとって一番のご褒美だったりする。


――ガラガラガラ――


 ……ああもぉ……。


「遅い! 二人ともチャイムがなったらさっさと部室に集合! 後一分で支度なさい!」


「ういーっす」


 やっぱり美雄はすごいな。

 ため息をつきながらも、どこか余裕を感じさせる表情だ。

 僕にはそんな余裕はないけど……それでも頑張るしかないか……。


「がんばりまあーす……」


 僕たちは荷物を肩に廊下へと出た。

 ん?


「なにそれ、玲於奈」


「ああこれ? なんかここ来る度に押し付けられんのよ」


 なんだろ、カラフルな紙の封筒……手紙みたいだけど……。


「もしかして、それラブレターか?」


 え、マジで?


「本当に?」


「別にあたしは嬉しくないわよ。こんなの、昔からしょっちゅうだったし。こういうのが嫌だから、女子校に入学したって言うのに」


 嫌だ、という割には、どこか誇らしげに玲於奈はこぼした。

 自分から美少女、だなんていうだけあって、やっぱりすごい自信だな。


ポツリ「ま、その気持ちもわかるけどな」


 ん?


「何か言った、美雄?」


 ずかずかと僕たちの前を歩く玲於奈を見つめながら美雄は言った。


「……あれだけ綺麗な子、さ、男だったら絶対放っておくわけはないだろ」


 ……まあ、ね……。

 確かに、僕も玲於奈がかわいいことは認めるよ、だけど――


「料理とか洗濯とか掃除とか、そういうの一切できないよ? ちょっとでも機嫌損ねると、全然口きいてくれないし。それでも収まんなきゃ殴ってくるし。しかも急所。靴だってまともにそろえないし、昨日なんか溜まってる学校の宿題とか、僕だってやること一杯あるのに、全部手伝わされたし。それに――」


「――わかーった! わかったって。そんなに興奮しなくてもいいよ」


 え?

 い、嫌だな僕、そんなに興奮しちゃってた?


「と、とにかく、見た目はともかく……とんでもなく面倒くさい子だよあの子」


「面倒くさい子、か……まあ、女の子ってみんなそんなもんだけどな……」


 ……?

 何で急に黙っちゃうの?

 無言のまましばらく歩くと、また急に美雄が口を開いた。


「なあ、玲たちさ、本当に何もないよな?」


「何もない、って? 何の話?」


 すると美雄は、ふっと小さな笑いを鼻で作った。


「ま、それはそれで、俺にとっては都合がいいかもな」



――ヒュンヒュンヒュンヒュン――


「こんな感じかしら。さあ、やってみて」


「は、はいっ!」


 ロープスキッピング、要するに縄跳びだよね。

 スポーツはほとんどやったことのない僕だけど……これ位は――


――ドッタンバッタン、ドッタンドッスン――


 ――出来るはずだと思ったのにね……。


「……まあ、ロープをまたげるようになっただけましになったと思うべきなのかしら……」


――ドッタンバッタン、ドッタンドッスン――


 そ、そうだ、よ、うん。

 な、なるべき、いいところを、見て、欲しいな。


「よぉ玲、ちったぁましになったか?」


「あ、石神さん……」


「そんなに力むこたぁねえんだ。いいか見てろ」


――ヒュンヒュンヒュンヒュン――


――トトトン、トトトン、トトントントン――


 うわっ、なんだよこれ……。

 あの筋骨隆々の体が、華麗に浮かんでは沈んでいく。

 もうこれは、ロープを使ったダンスみたいじゃないか。


「こんなもんじゃねえぞ」


 え?

 飛ぶのをやめたかと思うと、体の前でロープをくるくるさせてリズムを取って……わっ、またスキップ……。


「アニキのスキップは、それだけで金が取れますよ」


 あ、馬呉さん。


「しかも、こればっかりはアニキにしかできません」


 ?

 えええ?

 石神さんは急にひざを曲げたかと思うと――


「ほれほれほれほれほれ!」


「縄跳びしながらヒンズースクワット? え? コ、コサックダンス?」


 あ、あんなの、絶対無理!

 あっという間に石神さんの体は洪水のような汗がまとわりつく。


「ふぅ、ま、こんなモンだ」


「す、すごいです石神さん!」


 なんて強靭な足腰なんだ……。


「ま、これを何度も繰り返していれば、一週間で十五キロ落とすのも可能なんだよ。俺にとってはな」


 石神さんは、情熱的なウィンクを僕たちに投げかけた。



「いい? 力を抜いてスナッピーに、ヒットする瞬間に拳に力をこめるの」


 ットン、ヒュン、パシン

 玲於奈が一歩踏み出したと同時に、小気味のいい音が鼓膜をゆする。


「これがジャブ。ボクシングにおけるすべてのパンチの基本よ。これができなくちゃ、どんなパンチも打てないわ」


 そういうと玲於奈は僕を振り返った。


「ただ拳を前に出せばいいってもんじゃないの。今まで体にしみこませたフォームをしっかりと維持しながら、体重移動を使ってしっかりと打てるようにすること。鏡の前で、しっかりとフォームチェックをしながらね。わかった?」


「はいっ! ふっ!」


 ととん、ぶんっ


「力入りすぎよ! 脇もあいてる!」


「はいっ!」


 力、抜く、わき、閉める。

 シュッ


「そう! けど、しっかり息を吐きなさい! そんなに息止めてちゃ、がちがちになって力が入っちゃうわ!」


「ふっ! ふっ! しっ!」シュッ、シュ、シュッ


「そう! 体に力なんか入ってたら、パンチの衝撃をもろに食らっちゃうわ! 脱力してれば、ある程度の威力は殺せるの! とにかく力を抜く!」


「ふっ! ふっ! しっ! はいっ!」


――カァン――


 二分間の終了を告げる、デジタイマーのゴングがなった。

「ほら」


 ファサ

「あ、ありがと」


 玲於奈が僕の肩にタオルを掛けてくれた。


「そうだ、ちょうどいい機会だから、リングの上見てみなさい。いいお手本になると思うわ」


 僕が言われるがままにリングの上に目を移すと、そこにあったのは、ミットを手にした拳聖さんと、パンチンググローブで構える美雄の姿だった。


「んじゃ、いこーか」


「ええ」


 二人はクールにミットとグローブを合わせた。


――カァン――


「フッ!」パアン「フゥフッフッ!」パ、パ、パ、パァン!


 ……すごい……。

 肘が下がってないし、脇も開いていない。

 なにより、踏み込みの速さ。

 あんなに距離がるのに、立った一歩で一番いい距離にまで詰め寄っている。


「さすがに空手やってだけのことはあるわね」


 さすがの玲於奈も、感心したように腕を組んだ。


「ジャブ……ボクシングのいわゆる、とはちょっと違うわね。あの左、ナチュラルにジョルトブローになってる」


「ジョルトブロー?」


「飛び込みざまに、全体重をこめて打つパンチよ。ジャブなんだけど……ストレート並みの威力があるかもしれない。正拳突きって奴ね。もしかしたら……すごくいいもの拾っちゃったかもしれない」


 ……それはそうなんだろうけど……。

 ……なんだか、僕と比較されてるみたいで、ちょっと嫌だな。

 ていうか、何でそんなうっとりした目で二人を見てるのさ。

 確かに、僕も見とれちゃったけど……。

 けど、違うだろ?


「玲於奈!」


「ぴゃ!?  な、なによ! びっくりするじゃない!」


「早く次の練習メニュー教えてよ! 僕には一分一秒の時間だって惜しいんだから!」


 君が見るべきは、僕だ。


「君が僕を一人前のボクサーにするんだろ? だったら早く練習再開しようよ!」


「は、はあ? ま、まあそうだけど……言ったわね? だったらすぐ練習再開よ! ジャブの後にストレート! ワンツーくらいできなくちゃボクサーとはいえないもの! さっさと支度なさい!」


「はいっ!」


 君がやれって言うんなら、僕はなんだって従うんだ。


「今日は、できる限りのパンチを教えるから! 空いてる時間を使って、死ぬ気で練習しなさい!」


「はいっ!」


 僕は死ぬ気にだってなれるから。



※※※※※



 更に一週間が過ぎた。

 僕は、ジャブにストレート、フックにアッパー、かろうじて幾種類かのパンチを教わった。

 正直言ってたどたどしいことこの上ないけど、初めてサンドバッグを叩かせてもらった。


“なにそのフォームは!?  そんなにバッグに近づいて、それが試合だったらどうするの? 思いっきり右フックもらっちゃうわよ!”


 なんて鬼軍曹の罵声みたいなアドバイスが毎回飛ぶけどね。

 そして、玲於奈に持ってもらった、初めてのパンチングミット。

 玲於奈の指示に従い、今までシャドウ、サンドバッグで磨いてきた技術を思う存分に発揮する。

 心地よい音が響くたびに、僕はなんだかこの二週間でものすごく強くなった気がした。


“もつ人の腕がいいから、いい音が鳴るの。勘違いしないでね”


 なんて憎まれ口叩いてたけどね。

 けど……。


「大丈夫? ほら、顔冷やしなさい」


 玲於奈は、アイスパックを僕に差し出した。

 その表情は確認できなかった。

 確認する気力も湧かなかった。

 僕は、強くなったつもりでいただけだったんだ。


「仕方がないわよ。いくらお互い初心者だとはいえ、美雄は空手で全国優勝したくらいなんだから」


 そんなことは僕だって知っている。

 拳聖さんとのミット打ちの場面を見たって、僕とははっきりと、あらゆる面で違うんだってことを思い知らされてる。

 けど……。


「玲於奈……ごめん……」


「はぁ? 何であんたがあやまんのよ」


「せっかくあれだけ一生懸命教えてもらったのに……スパーリング……全然いいところ見せられなかった……」


「だれだって最初はそんなもんよ。あたしだってたかだか二週間教えたくらいで強くなれるなんて思ってもいないわ」


「けど……」


「……あのさあんた、そもそもなんでボクシングはじめた人が、一年間は公式戦に出られないか、知ってる?」


 僕は首を振る。


「それくらい期間を置いて練習しないと、リングの上で自分自身を守ることのできるスキルが身につかないからよ。ボクシングで重要なことは、勝つこともそうだけど、いかにリングの上で自分自身を守れるかどうか、よ。そこで生きるも死ぬも、すべてが自分自身の責任なんだから」


 生きる、死ぬ……。

 改めて、僕はシビアな世界に踏み込んだんだなあって感じる。


「まったくの初心者のあんたが、自分自身を守れた、それだけで上等よ。胸を張りなさい」


 ……自分の身を守れた、か……。

 ……顔がはれてる……気がする……。

 けど、明らかに技術も階級の違う美雄が力を抜いていてくれたんだよね。

 そもそものスタート位置が違うのがわかるけど……せっかく教えてくれてる玲於奈の前でいいところを見せたかったな……。


「さ、それより、リングの上、目をそらしちゃだめよ」


 リングの上――



「次のゴングだ。準備はいいか?」


 コーナーポストに寄りかかる拳聖さんの頭に、馬呉さんがヘッドギアを装着させる。


「そちらこそ」


「いちいち格好つけなくていいんだよお前は」


 こちらは石神さんが美雄にマウスピースを噛ませた。


――カァン――


 拳聖さんと美雄のスパーリングか。

 うわー、なんだかこっちがドキドキするよ。

 小刻みにステップを入れ、肩や頭を忙しそうに動かす拳聖さん。

 美雄の方はべた足のまま、左拳をくいくいと動かし、拳聖さんとの距離を測る。


「しっ!」


 バンッ


 大きく足を踏み鳴らして一歩を踏み出し、拳を繰り出したのは美雄だった。

 しかし拳聖さんはそれをスウェーバックで交わし、その拳をいなすようにして美雄の右に回りこむ。


「ほー、あの野郎、なかなかやるじゃねえか」


 ロープに手をかけた石神さんもため息をつく。


「しっしっ、しっ!」


 さらに美雄は左ジャブ、そして右ストレートとうなるような豪打を叩き込む。

 その拳を、ボディーワークを駆使しながら軽々と避け続ける拳聖さん。

 そして散弾のような美雄の拳をかいくぐり、あっという間に距離を詰め


「いよっと」ボスッ


「ごはっ……」


 拳聖さんの左拳が美雄の右脇、背中に近いところに食い込んだ。


「ほらほら、どうする?」


 拳聖さんはまったく余裕の表情で美雄をコーナーに追い詰め、かなり手加減はしているものの、雨あられとショートアッパー、ショーとフックを美雄の顔面、そしてボディーに叩き込んだ。


「おら悠瀬! ガード上げろ! っつーか手ぇ出せ! アマチュアは手数と威力が勝負なんだからな!」


――カァン――


「ああくそっ!」


 美雄はヘッドギアを叩きつけるようにして脱ぎ捨てた。


「空手の全国大会でもこんなにぼこぼこにされたことねーつうのに!」


「そんなに卑下したもんでもないさ。あの独特のリズムに、遠距離からのステップからの全身全霊を込めたストレート、っつうか正拳突きか。あれをまともに食らって立ってられるやつはそういねえと思うぜ」


 こちらは馬呉さんが拳聖さんのヘッドギアを外した。


「ただ、ボクシングには接近してからの攻防がある。ある程度距離をいての攻防がメインの松濤館とは、また違った感覚が必要だ。それに、素手で突くのとはまた違った打ち方をグローブではしなくちゃならない」


 ぽんぽん、励ますように、拳聖さんは美雄に近寄り肩をたたいた.。


「気を落とすなよ。もうひと辛抱、基礎を練り直そう」


「……そっすね」


 美雄はリングを降り、再びサンドバッグへと向かった。



「どうだった?」


「……やっぱり僕、才能ないのかな……」


「今更気づいたの? あんた鈍すぎ」


 ……そんなストレートに言わなくても……落ち込むじゃないか……。


「けどね、壁にぶつかるにはまだ早すぎるわ」


 ……玲於奈……。


「お兄ちゃんと比較なんかしないほうがいいわよ。お兄ちゃんは、小学校のころからもう、高校生とふつうにスパーしてたんだから」


 ……やっぱり普通じゃないんだな、拳聖さんって……。


「けどね、どんな才能だって、磨かなくちゃ見えてこないわ。あんただって磨き続ければ、石ころだってきれいに輝くかもしれないじゃない」


 ……石ころ、か……。

 そういえば、僕がボクシングを始めた理由って、ただボクシングを始めるってだけじゃない、拳聖さんみたいな“シュガー”なボクサーになることだったんだよな……。


ポツリ「僕は“シュガー”になれるんだろうか」


「え? あんた今なんて――」


「あー! くそがっ!」


 ゴンッ


 うわっ!?


「やってられっか!」


 石神さんが殴りつけたコーナーポストからの、びりびりという振動が空気を震わせている。


 うわー、めっちゃ苛立ってるなあ石神さん。


「そこがお前の悪い癖だ、拳次郎。前から言ってるだろ」


 あきれ果てたように腰に手を当てる拳聖さん。

「正面立って打ち合わないボクサータイプなんか山ほどいる。自分のペースに引き込めないからって相手のペースにずるずる巻き込まれたら、勝てるわけないだろ」


「ああ? ボクサータイプならうんざりするほど相手にしてるよ! その都度追いついてノックアウトしてやってるだろうが!」


「それはその程度の相手しかやってなかったってことだ。お前のパンチ力は、俺だってよく知っている。俺ですら、おまえと正面立って打ち勝つ自身なんてないさ。だからこそ、お前はどっしり構えて、ペースを乱されないように自分をコントロールするんだ。それさえできれば、お前は最高のボクサーになれる」


「……ああくそが!」


 ガンッ


 石神さんはまたもやコーナーポストを殴りつけた。


「もうやめだやめ! もうこれ以上やってられっか! “ノ・マス”だ“ノ・マス”! おい馬呉! サンドバッグやんぞ!」


「は、はいアニキ!」


「……あの石神さんが完封されるとはな……」


 あ、美雄。


「ほら、あんたも使いなさい」


 玲於奈は美雄にもタオルを渡した。


「あ、サンキュ……実は俺さ、この間石神さんとスパーやったんだよ」


「え? 本当に? 結果はどうだったの?」


 美雄は苦笑いのまま顔を振った。


「生まれて初めてKO、って奴を味わったよ」


「美雄が!? 本当に?」


「すげえんだ、あの人。インターハイ選手なんだから当然っちゃあ当然なんだけど、俺の刻み、まあ左ジャブを、ほぼノーガードのままひょいひょいかわすんだ。一度思いっきり右正拳を叩き込もとしたんだけど、額で距離殺されて、そしたらそのままロープに貼り付けられてしつこい連打でやられたよ」


「……やっぱりすごいんだ、石神さん……」


 普段は陽気な石神さんだけど……本当にすごいんだ……。


「何よりさ、とにかく拳が硬いんだ。石とか氷とか、グローブつけてるはずなのにとにかく痛くてたまらなかった。なんていうかさ、蹴りのない中で拳をかわしあう怖さってものを教えられた気がするよ」


 バチン


「っつっ!」


「あんたまでなんで玲みたいにうじうじしちゃってんのよ」


「玲於奈、か」


「お兄ちゃんとかあの変態と、練習二週間目であれだけ渡り合えるなんて、そもそもがありえないんだから。自信を持ちなさい。あんたは、確実に強いから。ね?」


 ……。

 ……なんで……そんな感じで美雄に笑うんだよ……。


「はっ、褒めてもなんいもでてこないぜ」


 ……美雄も……なんでそんなはにかんで笑うんだよ。

 ……けどしょうがない、か……。

 リング上の美雄は、確かに拳聖さんに一方的に封じ込められたけど、スピードとかパンチの切れとか、僕から見てすら素晴らしかった。

 何で僕は、中学時代、ううん、小学校のときから運動とかしてこなかったんだろ。

 ああくそ、すごく情けないや。

 だめだ、泣くな僕。

 泣いちゃ――「うわっぷ?」


「どうだったよ、初体験は」


 僕の頭に大き目のタオルが掛けられて、がさがさと乱暴にふきあげられた。


「拳聖さん……僕……」


「悔しいだろ。そんなもんだよ最初は。誰だってさ」


「……けど、やっぱり悔しいです……拳聖さんや、石神さん、美雄みたいに……」


「……そっか……」


 すると拳聖さんは、しばらく無言のまま美雄と玲於奈の様子を眺めていた。

 そしたら――


「おい玲於奈、ちょっといいか」


「? なあに、お兄ちゃん」


 拳聖さんの呼びかけに近寄る玲於奈。


「玲の今後の練習方針、ちょっと聞かせてもらえるか」


「そうね……まず、今日の様子見ていると、基本は結構身についてきたと思うの」


 そ、そうなの? 

 全然そんな感じはしなかったけど……少しは、成長してるの?


「だからこのままのペースで基礎を繰り返しながら、スパーリングを徐々に増やして――」


「――パートナーがミスマッチだな」


 話に割り込むように、拳聖さんは口を開いた。


「一番軽いはずの悠瀬相手ですら、アマチュアで二階級の差がある。リーチとかも考えると、悠瀬を玲のスパーリングパートナーにするのはギャップが大きすぎる」


「そんなこと言ったって、スパーリングパートナーが――ちょ、ちょっとやめてよ!」


 ?

 拳聖さんはちょいちょいと玲於奈の肩をつついた。


「そろそろ本気出してもいいんじゃないか? なあ、“シュガー”」


「ちょ、ちょっと待ってよ! 何であたしが玲のスパーリングパートナー勤めなくちゃいけないのよ!」


 へ?


「玲於奈が……僕のスパーリングパートナー?」


「体格的にもちょうどいいだろ。お前ら身長とかもそんなに変わらないしな」


「さすがに拳聖さん……女の子をスパーリングパートナーにするって言うのは……」


 さすがに美雄も異を唱える。


「お、なんか面白そうじゃねえか」


 石神さんたちも手を止めて、全員が集まった格好になった。


「冗談じゃないわよ。あたしは嫌よ」


「ここは受け入れろよ。なんってったって、小学生のころは俺とよくスパーしてたじゃないか?」


「え? さっき玲於奈、拳聖さんは小学校のころから高校生とスパーして圧倒してたって言ってなかった?」


「すごいじゃないっすか玲於奈さん! その拳聖さんと互角に渡り合って立ってことですから!」


 馬呉さんの言うとおりだ。

 考えてみれば、玲於奈も拳聖さんと同じ血を引いてるわけだから当然だよね。


「ああ。俺のボクシングのスタイルは、むしろこいつから盗んだものだからな」


 ……。

 …………。

 …………マジですか?


「ちょ、マジかよ!?  この洗濯板があんたのスタイルのモデ――がはっ!?」


「誰が洗濯板よ!」


 ……玲於奈……確かそこってレバーのあるところじゃなかたっけ。


「親父のいたジムで、あいつは誰に教わることなく、とびきりスィートなボクシングをしていた。あいつとスパーするたび……さすがに体格差あったから負けることなかったが、何度も右ストレートを顔面に決められたもんさ。そりゃあ面白いくらいにな。俺も今では“シュガー”なんていわれてるが、うちのジムで“シュガー”って言ったら、玲於奈のことなんだよ」


 そっか、だから拳聖さん、“シュガー”って呼ばれるのを嫌がってたのか……。


「決まりだな」


 ポンポンポン、拳聖さんはバンデージにくるまれた手で玲於奈の頭を叩き、とろけそうな視線で玲於奈の目を見た。


「な?」


 そして、僕が女の子だったら絶対に嫌とはいえないような甘いスマイル。

 な、なんだか恋愛映画の恋人同士のシーンみたいだな……。


「……わ、わかったわよ……お兄ちゃんがどうしてもって言うんだったら……断れないじゃん……」


 当然、半ば自分の兄に恋焦がれるような視線を向けているその妹に、通用しないはずはなかったけどね。

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