第十話
――バンバンバンバン――
――ヒュンヒュンヒュンヒュン――
ミットやサンドバッグを叩く音、ロープが空を切り裂く音、まるで地下鉄のホームにいると錯覚するような大きな音が響く。
……ここが興津高校ボクシング部の部室かあ……。
そういえば、うちの学校はまだ本格的に活動を再開していないから、ボクシングの練習風景を見るのは始めたかも。
それにしても、すごい熱気だなぁ。
春先なのに、まるでここだけ初夏みたいだ。
「ずうずうしいお願いであるということは承知しています」
石切山先生が、その巨体を小さくして体を折り曲げる。
「あれだけの出来事をしでかして……部も本格的に指導していない中で、このようなことを申し出るのは身勝手だと承知しております。しかし……どうか、一つよろしくお願いします」
「あ、よ、よろしくお願いします!」
何やってるんだ僕。
僕たちのために、石切山先生は頭を下げてくださっているんだ。
気がつけば、あの玲於奈でさえも頭を下げていた。
「……しかし……ですねえ……」
興津高校の先生は、いらだったように時計を眺める。
「……あれだけの事件ですからね。私たち高校ボクシングに関わるものたちは、本当にいろんな人たちから白い目で見られるようになりましたよ。そのことはご存知ですかね」
……うわー、なんかすごいいやみったらしい言い方。
けど……実際その通りなんだろうな。
「こればかりは、なんとも申し開きようがありません。私自身も高校ボクシングに関わるものとして、まことに監督不行き届きの至りといったところです。ですが、そこを押してお願いいたします」
石切山先生は、唇をかみ締めながら頭を下げ続けた。
「それに、聞いたところによると、佐藤拳聖君、彼ボクシングをやめたそうじゃないですか。あれほどの選手が、何の理由もなく部を去るわけはありません。これは高校ボクシング会の損失ですからね。そういった点においても、石切山先生、あなたに対する見方は、相当厳しいものであるというのもご存知ですよね」
「……はい……」
「まあ聞くところによると、あなたはボクシング部の顧問としての活動を、一年間禁止されているとか。それもいたし方のないことなのではないですかね」
そうか……石切山先生が再開に消極的だったのは、そういう理由もあったのか……。
「ま、せめて彼でもいれば、インターハイ予選や東海大会への布石にもなったのでしょうが……」
そういうと、興津高校の先生は僕のほうをちらり、と見た。
「……我々には、対抗戦を開催するメリットがまったくないのですよ」
カチーン、ときたよ、さすがに僕も。
明らかに、今僕のほうを見て言ったよね?
確かに僕は素人だけど、僕は参加しないからそもそも関係ないし。
「まったく、拳聖君も、定禅寺西なんぞに行かずにうちに来ていれば、こんなことにもならなかったで……おっと、今言ったところで、せんのない話ですがね」
ちょ、ちょっと、いやみったらしいにも程がない?
石切山先生の握り締めた拳が、小刻みに震えてる……。
やばっ!
僕は玲於奈の右手の制服を掴んだ。
玲於奈は、何すんのよ、って感じの目で僕を睨んだけど……僕だって……僕だって悔しいよ!
けど、ここで怒ったら、何もかもおしまいじゃないか!
「まあ、今となってはそれも正解でしたがね。わが高には、もはや佐藤君がおらなくとも、ウェルター級には不動のエースが育ちましたからな」
ニヤニヤと笑いながら、その先生は、さっきからずっとすさまじい音でバッグを叩いている男の人を見た。
その視線に気がついたのか、その男の人はバッグを叩く手を留、グローブをはずして近づ――でかっ!
てか、長っ!
「先生、さっきから何の話っすか」
え、えっと……たしか、ウェルターって言ってたから、体重は六十四から六十九キロくらい?
けど身長は……馬呉さんと同じくらい?
いや、細い分、もうちょっとあるようにも見える。
何より、腕長っ!
石神さんや馬呉さんは丸太みたいな太い腕だったけど、なんかカミキリムシの触覚とか、宇宙人の触手みたいに、ぶらぶらゆらゆらと動いてる。
きっと、リーチで言ったら馬呉さんよりも断然長いぞ。
「紹介……いや、そんなことも必要ないかもしれませんな。うちの主将です。ほら、自己紹介しろ」
「ああ、俺? 半田当真。ちーっす」
……うわー、感じわるー。
なんだよ、うちの部活のこといろいろ言ったくせに、どう見たってこの人の、人と接する態度、しっかりしつけられてないじゃないか。
「つーか先生、さっきから聞いてっけど、マジで対抗戦やる気?」
「ん? まあ、なんとも言えんが、まあつき合いってのもあるしな」
「だって、佐藤拳聖もいないんだろ? ったくよお、今ならあいつくらい、一ラウンドで速攻KOしてやるってのに。へっ、俺が怖くて逃げ出したんだろ」
「なんだ――ムグッ!?」
僕は慌てて玲於奈の口を押さえる。
危ない危ない……。
また爆発するところだったよ……。
「それに、石神拳次郎なんか、ボクシング捨てただけじゃなくて豚みたいに太ってるって聞いたけど。やる価値あんの?」
「石神さんは、復帰しました! きちんと今は調整もしています!」
「そうなの? つうか俺ウェルターだから関係ねえし。この部はともかく、俺にはまったくメリットねーしな。あ、そっか、そもそもウェルターいないんだっけか? ぎゃはははは」
「それはあんまりではないかな」
さっきから黙ってその言葉を聞いていた石切山先生が怒りを抑えきれない、とでもいう風に顔を上げた。
「確かに我々の部活は、近隣の高校ボクシング関係者に迷惑をかけた。だが、また新たなメンバーが、こうして活動をスタートさせようとしている。それをそういう風に言うのは、教員として黙っておられん」
「へいへい。すんませんでしたね」
石切山先生……くそっ……我慢しろ、僕……。
あくまでも僕たちは、対抗戦を頼む側なんだ……。
玲於奈……大丈夫……いま、石切山先生が注意してくれたから。
落ち着こう、ね?
「まあ、しかし半田のいうことも一理ありますな。もしここで無駄な試合を組んでリズムを崩してしまうのは……まあおたくと違ってうちは、インターハイ予選も控えておりますしなあ」
「そこを! お願いいたします!」
石切山先生は、もはや土下座でもせんばかりの勢いで頭を下げた。
僕も、玲於奈も黙って頭を下げた。
「お願いします!」「お願いします!」
けど、半田はまったく僕たちに対してなめきった態度を取った。
「はっ?くそっ! 何で俺らがお前等の部活のスタートのために利用されなきゃならねえのよ」
……くそっ。
くそっ! くそっ! くそっ! くそっ!
「やる価値なんか一ミリもねえよ。だいたい、俺はインターハイで――」
「吼えるじゃん」
……。
………。
…………えっ?
この声って……。
「……て、てめえはっ!」
「俺がいない間に、高校二冠か。ま、お前にしちゃあ頑張った方か」
「拳聖!」
半田のその叫び声に、周囲の練習生たちの動きは止まり、部室内は騒然とする。
ザワザワザワザワ「あ、あいつ……間違いねえ」「“シュガー”佐藤拳聖……」「マジ! 俺初めて見たよ……」「え? けど、ボクシングやめたって……だから俺興津来たのに……」
「拳聖!? 何でこんなところに!」
「んなでかい声出す必要ないだろ、イシさん。俺のかわいい後輩達が、わざわざ興津くんだりまで来てるっつうのにさ」
け、拳聖さんが……なんでここに?
「……お兄ちゃん……お兄ちゃんが何で……」
「“お兄ちゃん”? どういうことだ、拳聖」
「まあまあ、詳しくは後で話すからさ。そんなことより――」
拳聖さんは髪の毛を掻きあげ、飛び切り甘い笑顔を見せた。
「久しぶりじゃん半田。相変わらずの骨骨ロックだな。しっかし、いつまでお前は俺の周りでうろちょろするのかね。たしか戦績は……俺の九勝〇敗だったっけか?」
「う、うるせえっ!」
「あらっ?」
半田に突き飛ばされて、興津の先生はひっくり返った。
そして半田は拳聖さんに詰め寄る。
「い、いつまで昔のこと話してやがんだ? ボクシングやめたお前がふらふら女と遊んでる間になあ、俺ぁ死ぬほど練習して来たんだよ! 今なら、お前なんてマジで一ラウンドKOできるんだからな!」
「わかったわかった。暑苦しいから近寄んじゃねえよ。男の汗になんて興味はねえよ」
拳聖さんは辟易として距離をとった。
「ところで、お前うちのイシさんと後輩に向かって、えらい吹き上がってくれたな。さすがに調子乗りすぎじゃないのか」
「あ、あ、あああ? ほ、ほ、本当のこ――」
「――お前ごときに、俺ら定禅寺西を舐めさせねえよ」
その瞬間、凍りつくような視線が半田を刺した。
「……っく」
ようやく、半田のその減らず口は止まった。
「あたたた……と、とにかく、まともにメンバーのそろわないような高校と対抗戦やっても、こちらにメリットがないのは間違いないからね……」
興津の先生が、腰をさすりながら起き上がってきた。
……ああ、きっとこの人、半田にも舐められてるんだろうな。
「せめて、きちんと五対五で戦える環境がなくちゃ話にならんよ。君だって、ボクシングを引退したんだろうに。そもそも我々には何のメリットもないんだ。だから悪いがこの話は――」
「――メンバーなら、そろったぜ」
……え?
「どういうことですか拳聖さん!」
僕の問いかけには、あの甘いスマイルが返ってきた。
「なあ半田、お前だって、俺がいなかったから全国優勝できた、なんて、いくら真実でも格好悪いよな」
「な、なんだと? お、お前が勝手にボクシングやめただけじゃねえか! い、今の俺なら、お前なんか――」
「――やるよ、“シュガー”の称号。お前が俺に――この対抗戦で勝てたらな」
……。
…………。
………………拳聖さんが!?
ドッ
部室中に歓声が爆発する。
「シュ、シュガーがボクシング復帰?」「ま、まじで? しかも半田さんと?」「こ、こんなもん、チケット販売で金とってもいいくらいだぜ?」
「……ぬう……上等じゃねえかこの野郎ぉ!」
周囲の歓声に、半田はいらだって叫んだ。
「おい先生! いろんなところに声かけろ!」
「え? えええ?」
「大観衆の前でこいつをぶっ倒して、ウェルター級最強はこの俺だって認めさせてやっからよ!」
狂ったように雄たけびを上げる半田を尻目に、拳聖さんは玲於奈の元に近づいた。
そして、真綿のように優しくその頬に触れた。
「待たせたな」
「……お兄ちゃん……いいの?」
「効いたぜ、あのビンタはよ」
拳聖さんは、顔をしかめて右頬をさすった。
「けど、妹とかわいい後輩にあそこまで言われたんじゃな。それに、半田ごときに俺のウェルター級であそこまで吹き上がらせるのも癪だしな。ま、しっかりしつけてやるよ」
「拳聖……」
あれ?
……なんだろ……石切山先生……せっかく拳聖さんが復帰したのに……複雑な表情……。
「……お前の気持ちはありがたいが……顧問として俺は――」
「――半田ごときに負ける俺じゃねえよ」
ポケットに手を突っ込んだまま、にやりと拳聖さんは微笑んだ。
「あんたにはあんたの立場があるんだろうが、やっぱり俺もボクサーなんだよ。ボクサーとしての俺のやり方は、リングに立つ俺が決める。あんたは黙って見ていてくれればいい」
「……わかった」
石切山先生は、渋い表情で頷いた。
あ、今度は拳聖さんが、僕の顔を見てる。
な、なんかちょっと恥ずかしいけど。
「フッ、何もさ、泣くことはないだろ」
え?
……あ、ちょ……。
やだな、ほっぺたのところが、濡れてるよ。
僕、泣いてたんだ。
「……あの、その……すいません……」
そしたら、拳聖さんは僕の頭を乱暴になでた。
ちょと痛かった。
けど、拳聖さんがグローブに腕を通すんだ。
また、リングに上がってくれるんだ。
「……けど……本当によかったです……」
だめだな、僕。
涙が全然とまらないや……。
「ちょ、ちょーっと待てーいっ!」
ん?
気がついたら、ひどい顔をして興津の先生が叫んでいた。
「半田! 石切山先生も! 勝手に話を進めるんじゃない! 何度も言ったが、きちんと人数もそろわないのに、対抗戦をやる意味なんかない!」
「だからさ、そろったって言っただろ」
飛び切りクールな拳聖さん。
「き、君はウェルターだろ? フ、フ、フライ級はどうするんだ?」
ん?
拳聖さんが、僕の方に手を乗せる。
……はは、まさかね……。
うん、拳聖さんの友達に、きっとフライ級くらいの人がいたりするんだよ、うん。
僕みたいな素人が――
「――佐藤玲、うちの新主将で、フライ級代表だ」
……。
…………。
………………ええええええええええええ!?
「ちょと待ってください! 僕はそんな――ムグッ!?」
れ、玲於奈?
ぼ、僕の口なんて塞いでないで、君も――
ポツリ「……あんたも覚悟決めなさい……ここまで来たら……泣き言なんて許さないから……」
玲於奈……。
わかってる……わかってるよ……だけど――
ポツリ「……男でしょ?」
“男”か。
今まで生きてきて、初めてそんなこと言われたのかもしれない。
初めて、自分が一人の“男”だって認識しなのかもしれない。
はっきり言って、勝ち目なんかないし、不良たちにぼこぼこにされるより、もっと痛い目にあうんだろう。
だけど……女の子にそこまで言われて奮い立たないなんて――
「よろしくお願いします!」
「……ぬぅ……ええい! その代わり、この対抗戦にはたくさんの招待客を用意させてもらいますぞ!? 定禅寺西と興津の現在の力の差、はっきりと世間に示してやりますからな!」
「どういうことだ! ああ!?」
「……ぐぐっ」
「やめてください、アニキ!」
「石神先輩! ちょ、何でそんなに怒ってるんですか?」
……ががが……く、苦しいです、石神さん……。
「ガキ……拳聖さんを巻き込むなって約束したはずだよなぁ!?」
……あ、相変わらずすごい力だ……。
……馬呉さんと美雄が振りほどこうとしても……僕の胸倉をつかみ上げる腕の力が全然緩まない……。
「やめろ、拳次郎。部活に復帰するって言ったのは俺だ。そいつは関係ない」
……け、拳聖さん……。
「……ああ、くそっ!」
「ゲホッ、ゲホッ……」
……ああ苦しかった……。
「大丈夫? 玲」
「あ、ああ玲於奈。うん……何とか……」
石神さんは、肩をいからせて拳聖さんに詰め寄った。
「……それがあんたの選択か? 本当にあんたはそれを望んでるのか?」
「……お前今あごひげ生やしてんのか? 対抗戦までには剃っとけよ。アマチュアの規定だからな」
「んなこたぁどうでもいいんだよ!」
ガンッ
石神さんは足元に転がるブリキのバケツを蹴り上げた。
「……俺の選択だ。もしその結果がどうあれ、俺の選択である限りは俺の望みであることに間違いはない」
「ああ? あんたはいつもそうやって――」
「――お前、もしかして気ぃ遣ってくれるのか?」
「ば、ばか言ってんじゃねえよ!」
石神さんの頬は、ほんの少しだけ赤くなった。
「わかったよ! どうなろうが俺ぁしらねえからな! おいイシさん! あんたもそ
れでいいんだな?」
「ああ」
こくり、石切山先生は腕組みしたまま頷いた。
「男が自分自身のプライドにかけた決断だ。責任は俺が取る。お前らはただ、自分のなすべきことをやって対抗戦に勝利すればいい。わかったな?」
「……わーったよ! とにかく勝ちゃあいんだろ、勝ちゃあよ!?」
石神さんは、腕組みをしてどっかと椅子に座りなおした。
……感情表現はちょっと激しいけど……やっぱり本当はやさしい人なんだな、石神さんって。
けど、どういうことだろう……やっぱり、石上さんは拳聖さんにリングに復帰してほしくないみたい……。
「とにかくよ、やると決まったからには、ぜってーに勝たなくちゃいけねえんだからな。おい玲! わかってんだろうな!?」
「覚悟はできてます」
ちょっとまだ怖いけど……やるしかない。
ちょっと順番は逆になっちゃったけど、対抗戦を実現して、拳聖さんをリングに復帰させたんだ。
ここで逃げたらもう僕は、男じゃない!
「絶対にやり遂げて見せます!」
「それじゃあ、俺はもう行くからな」
石切山先生は言った。
「後はもう、俺の手を離れた問題だ。何せ謹慎中の身だからな。悪いが俺がお前等のトレーニングを見てやることはできん。とにかく、試合当日まで時間はない。一分一秒を無駄にするな。俺から言えることはそれだけだ。じゃあな」
そういうと、石切山先生は部室から出て行った。
「おっし、んじゃあ早速はじめんぞ。イシさんの言った通り、時間がねえ。素人二人抱えて、まあ悠瀬はともかく、完全など素人抱えて対抗戦戦うんだからな」
「まあ、慌てんなよ」
拳聖さんは、冷静に石神さんをなだめた。
「お前の言うとおり、経験もサイズも、みんなばらばらだ。だから、それぞれバディをくんで練習をした方がいい」
「バディを組む……ですか?」
「そうだ、悠瀬。お前……体重いくつだ」
「あ、はい。一七七センチ六三キロですが」
「そうか……松濤館、習ってたんだよな。よし悠瀬、お前あと一ヶ月で三キロ落として、ライト級で出場だ。俺とバディを組め」
美雄は、口元に笑みを作り、そして頭を下げた。
「光栄です。よろしくお願いします」
「んじゃ、俺はライト・ウェルターに階級上げろ、ってことか」
「きつけりゃやめてもいいんだぜ」
「へっ、誰に言ってんだよ」
石神さんはにやりと笑い立ち上がると、目にも留まらぬスピードで拳を繰り出した。
「俺の拳なら、ライトヘビーでも通用するぜ」
「なら都合がいい。馬呉、お前は石神とバディだ。こいつがまた食べ過ぎないように、しっかりと見張っとけよ。わかったか」
「了解っす! アニキ、また一緒にボクシングできますね!」
「だあっ! 気持ち悪りいんだよ!」
石神さんは、馬呉さんの頭を殴りつけた。
……ん?
まてよ……。
「あ、あの拳聖さん。僕は誰とバディを組めばいいんですか?」
「そういやそうだな。イシさんは、あの通り部活の指導はできねえしな」
「それとも、俺と玲、拳聖さんでチーム組みますか?」
「バディ? いるだろ、そこに」
拳聖さんが指した指の先、そこには――
「っつうわけだ。よろしくな玲於奈」
玲於奈は、渋い顔をして腕組みをしていた。
「おいおいおい、拳聖さんよ。大概にしろよ」
……そうだよね、石神さんが鼻で笑うのも最もだよ。
「いくらなんでも、こんな経験もないガキに指導なんかできるわけねえだろうが」
だけど――
「“シュガー”、俺なんかよりこいつのほうがよっぽどその名前にふさわしいぜ。何しろこいつは――血を分けた俺の妹だからな」
「……」「……」
石神さんと馬呉さんの表情が固まる。
「「いもうとぉ!?」」
……あ、本当に気がついていなかったんだ。
「体格的にも、まあ、釣り合うしな。何より、こいつは天才の俺と同じ血を引いてんだ。そんじょそこらの奴が指導するより、断然有能なコーチだぜ」
「……」
石神さんが、無言で玲於奈の下に歩み寄る
「……な……何よ……」
身構える玲於奈、その玲於奈の――
ペタン
「ぎゃあああああああっ!」
「……洗濯板だが、一応は――ほげヴぁっ?」
「最低! バカ! 変態! 助平! 死んでしまえ!」
ふう、拳聖さんはため息をこぼす。
「……ま、見ての通りだ」
「……ア、アニキがここまで思いっきりパンチを食らったの初めて見た……」
……馬呉さんの顔が青ざめてる……。
ま、まあ、玲於奈のパンチは、あんなに華奢だけど、すごい威力なんだよね……。
「そんじゃ、明日から早速練習だ。悠瀬、とりあえずよろしく頼むな」
「了解。こちらこそ」
二人は穏やかに笑い、握手をした。
「ア、アニキ……と、とりあえず、頑張りましょうね……」
青天井を向く石神さんに、馬呉さんは心配そうに話しかけた。
「もう……おにいちゃん意外には絶対触らせないつもりでいたのに……」
……それはそれでどうかと思うけど……。
胸元を押さえながら、両目に涙をためて玲於奈は僕を振り返った。
「いい? あんたみたいなもやしでもあたしのトレーニングに生き残れたら最強のボクサーになれることを保証してあげるわ!」
玲於奈……。
うん。
玲於奈と一緒ならきっと頑張りとおせる気がするよ。
「うん! よろしくお願いします!」
「けどその日まで、あんたはウジ虫よ! 地球上で最下等の生命体よ! もう今日からあんたは人間じゃないと思いなさい! 両生動物の○○をかき集めた値打ちしかないって思いなさい! わかったわね!?」
……前言撤回……。
……鬼軍曹め……。
「いっただっきまーすっ!」
……そんな嬉しそうにいわなくてもいいじゃん……。
「……なによ……文句でもあんの?」
むっとした表情で玲於奈は言うけど……。
「いえ別に……何にもありません……」
玲於奈の前に並べられたのは、ガーリックチキンステーキにポテトサラダ、コーンポタージュにお皿いっぱいのライス。
それに引き換え……僕は……。
「なによ。確かにあんたは、体重自体はフライ級の枠におさまっているわ。だけど、はっきりいって筋肉が全然ついていない。ただやせてるだけなの」
……サラダチキンのスライス、納豆、形ばかりの玄米ご飯と、豆腐のお味噌汁……。
「一ヶ月間、脂肪を落として必要な筋肉をつけていくの。そのために一番重要なのは食事なんだから。勝つためよ。我慢なさい。それに、あたしの指導がなくっちゃこういうご飯も食べられなかったんだから、むしろ感謝して欲しいくらいよ」
ポツリ「……けど……作ったのは僕じゃないか……」
「ん? なんか言った?」
「……なんでもないっす……」
……それでも、何も食べられないよりはましなんだろうか……。
僕はもそもそと、水気のない鶏のささ身に舌鼓を打った。
※※※※※
“――い――”
……ん……んんん……誰か呼んだかな……。
“――なさい――”
……あれれれ……なんだか苦しいな……。
“――きなさい――ってば”
……なんだか、重いものが僕の上に乗っかっているような……。
「起きなさいっていってんでしょおがああああああ!」
「うわあああああああああっ!」
うるさっ!
だ、だれ? って……。
「れ、玲於奈?」
「いい加減にしなさいよ! このあたしがこれだけ早起きしたってのに、何であんたがそんなに気持ちよさそうに寝息を立ててんのよっ!」
って、今……。
「まだ五時だよ!?」
って、苦しいよ!
そんなに強く胸倉掴まないでよっ!
「あんた頭わいてんの? ボクサーたるもの、朝のロードワークは必須でしょうが! わかったらさっさとジャージーに着替えてきなさい! あと、朝ごはんの炊飯器のスイッチも入れときなさいっ!」
「す、炊飯器!?。 バディなんだから、それくらい手伝ってよ!」
「この美少女が優しく朝の目覚めを手伝ってやってんのよ? 百回飯炊きしたっておつりが来るわよっ!」
「理不尽すぎるっ!」
「……暗い顔だな……どうしたんだ?」
「……ああ、美雄……ちょっと……さ……」
――
「そっか、そういや玲は、ほとんど運動したことなかったんだっけ」
「……うん……美雄にとってはそんなたいした距離じゃないにしても、僕にとっての五キロって、フルマラソン走るに等しい行為だよ……」
「まあな。俺も拳聖さんに朝のメニュー渡されたんだけど、久しぶりに五キロ走ってみたよ。正直、自分がこんなに体力なくなってるなんて、思いもしなかったよ」
「そっか、美雄も走ってきたんだ。けど、その割には元気そうだね」
「一応中学時代はそれなりに運動してきたからな」
一応って……中学時代に空手で全国優勝するような人が言うせりふじゃないよな、はははは……。
「ところで、今の話の流れからすると、玲於奈はまだ玲の家にいるのか?」
「うん。なんでも、僕を短期間でボクサーの肉体に仕上げなくちゃいけないから、合宿生活させるために一ヶ月は一緒に生活するって。まあ、今日からきちんと中学校に通うって約束……な、なんだよ! 何でニヤニヤ笑ってるんだよ!」
「いやいや、悪い悪い。いくら合宿生活に持ち込むとはいえ……ずいぶん仲がおよろしいことで、ってさ」
「は、はあ? べ、別にそんな変なことなんにもないし! 変な想像しないでよっ!」
「ははっ、まあ、一日目でそんなへろへろになってるんだから、そんなこと考える暇もないか」
「ちょっと美雄!」
「おっと、先生来たぜ。けどまずいな。俺も久々体動かしたから、一日起きていられるか心配だな」
「それはまあ……うん、僕も何とか頑張ってみるよ」