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第一話

「“試練の天使”が空から降りてくる」


 なんて絶対にありえないことが起きるとすれば、あなたは一体何を想像しますか?

 どんなことが起こると思いますか?

 様々なことを想像されると思います。

 ですが少なくともそれは、僕の目の前である特殊な形態をとって現れました。

 例えばよくある、いや普通なら絶対にありえないけど――


「――なんてことないんだからぁっ!」


 ――その言葉通り、天から降ってくる女の子、という形をとって、なんです。

 天使、なんて聞くと、そうですね、清らかな衣と水鳥のような羽、マリア様に受胎告知する聖ガブリエルのような姿をイメージされるかもしれません。

 ですが、天を仰ぐ僕の元に降臨する試練の天使、彼女が身に纏うのは――


「――そこどいてええええええええ!」


 ――スカートからのぞく清らかに純白なパンツでした。


※※※※※


“――続きましてフライ級第三回戦、○県×高校、鈴木選手――”


――スッズッキッ! スッズッキッ! スッズッキッ! スッズッキッ!――


 うわー、な、なんだよこの雰囲気。

 何で皆こんなに殺気立ってるの?


「おら鈴木ぃ! ぜってー勝てよ! 情けねーところ見せたら、承知せんぞ!」


 ちょ、つば飛んでるし!

 嫌だなあ……いくら地元開催のインターハイだからって、なんで僕がこんなおっかないところで手伝いなんかしなくちゃならないんだろ……。

 せっかくの休日だから、一日中ゲームをして遊んでたいのにさ……。


「おーい佐藤、早くしなさい」


 あ、横山先生。


「こっち終わったらすぐ行きますから!」


 早く行かなくちゃ。

 こんな恐いところいたら、寿命が十年も縮んじゃうよ。


「あ、佐山先生。この子がうちの生徒会長です」


「さ、佐藤玲、です。よろしくお願いいたします」


 ぺこり、と礼儀正しく頭を下げる僕の目の前に、ごつごつした大きな手が差し出された。


「大会実行委員長の佐山です。よろしくお願いします」


 大阪かな?

 とにかく関西方面のイントネーションに僕は更に緊張しながらも、その手を握り返した。


「いやいや、さすがは生徒会長ですなあ、礼儀正しい」

「い、いえ、そんな……」


 僕はおっかなびっくり手を離すと、ちょっとだけ後に下がって、先生の後ろのほうまで体を隠した。


「ははは、そんなこわがらんでもええやろ」


 ジャガイモのようないかつい顔は、笑顔とともにとたんに柔らかくなった。

 なんかこの会場に来て、初めてほっとしたような気がするよ。


「まあ、仕方ないわな。初めての子ぉには、この雰囲気はなれんかも知れんね。どや、びびっとるんと違うか?」


「はあ、す、少しだけ……」


「これ佐藤! 失礼じゃないか!」


「がはは、ええですえです。仕方ないですやんか。なあ?」


 佐山先生は、今度は豪快に笑った。

 僕は、またほんの少しだけびっくりしてしまった。


「……まあ、確かに、私自身も少々驚きましたよ。インターハイの補助は何度かさせていただきましたが、こういう殺伐というか、殺気立った雰囲気は初めでですね」


「そうでしょう、そうでしょう。ただでさえインターハイという高校の部活動の花形ですし。それに何とゆうても――」


「――アマチュア・ボクシング、ですからね」


 そういうと横山本先生は腕組をしてリングを見つめた。



――スッズッキッ! スッズッキッ! スッズッキッ! スッズッキッ!――


――いけいけクリハラ! ゴーゴークリハラ! いけいけクリハラ!――



 殺気だった声援が会場中に響く。

 タンクトップにトランクス、頭に何かかぶってグローブをした人たちが、何度も腕を振るっている。


 パンッ、パンッ、パンッ


 うわー、何この音。

 いくらグローブつけてるからって、こんなにいい音させて人を殴っても大丈夫なの?


 パン、パンパンッ


 うげっ、しかも顔に思いっきりグローブ当たってるし……。

 殴られる方も痛そうだけど、殴る方も殴るほうだよ。

 なんで人の顔なんか躊躇なく殴れるの?

 そりゃあゲームとかでは剣で斬ったり魔法で爆発したりできるけど……生身だからね?

 三次元だからね?

 それに、なんで会場の人たちはそんなに熱心に人が殴られるところをみていられるの?

 テレビとかならともかく、目の前で人が殴られているのが、そんなに楽しいわけ?

 こういう言いかたよくないかもだけど……みんなちょっとおかしいよ。


「ああ、すいません。つい見入ってしまいました。いやー、僕には格闘技経験はありませんが、やはりこう、燃え立つものがありますなぁ」


 何いってんの横山先生……あなたがうちの中学でボクシング大会の補助なんか引き受けなければ、僕がこんなおっかないところに来ることなんかなかったのにさ。


「いやー、そういっていただけるとはほんまに嬉しいですわ。佐藤君もどう? 高校はいったらボクシングやってみるか?」


 すいません……死んでも嫌です……。

 大体僕はこういう荒っぽいことが向いていないんだ。

 できる限り目立たないようにして、早く時間が過ぎるのを待つことにしよう。

 ああ、早くゲームやりたいよ……。


「えっと、それじゃあ、僕は何をしたらいいですか?」



 えーっと、この辺に……あ、あったあった。

 ガコン

 あーあ、ロッカーもべこべこじゃん、開けづらいったらないよ。

 ……んと、モップとバケツがあればいいんだよね。


「……え……と、この辺に水道が……」


 あ、あそこだな。

 ガシュゥー

 古ぼけた水道をひねると、なんの遠慮もないくらいに勢いよく水が飛び出る。

 あー、いやだな……なんで僕がこんなことやらなくちゃいけないんだろ……なんかかび臭いし汗臭いし……しかも皆なんだか恐いし。

 よし、っと、これでいいかな。

 僕はモップをとしだしてよくゆすぐと、きつく……僕の腕力じゃそう大してきつくもないけど、何とか絞った。

 僕の仕事は、試合の合間合間のリングのモップがけ。

 いやだなあ、さっきみたら、なんだかよく分からないけど、血とかわけのわからないものがこびりついて、布団のカビみたいに染みが広がっていたじゃないか……。


「ん、んっと!」


 ちょ、ちょっと水大目に入れすぎたかな?

 だ、大体僕みたいに非力な人間に、こ、こんな力仕事、なんか、無理なんだよっ!


「ん、ん、んんん!」


 モップはとりあえず後回しだ。

 僕は両手でよろよろとブリキのバケツを持って、試合会場に通じる廊下を歩いた。


「くそがあっ!」


 ゴンッ


 ひっ!

 な、なんだよ一体……


「ジャッジおかしいだろ! 何で俺のほうが判定負けなんだよ!」


「す、鈴木さん落ち着いてください!」


 あ、あの人はさっきの……いまのは、拳で壁を殴りつけた音かな?


「おめえらだってみてただろうが! どう見たって俺のほうがクオリティーブローの数、多かっただろうが!」


「ぐえっ……じ、自分らも、そ、そう思うっす……」


 鈴木選手は後輩の胸倉を掴み挙げて怒鳴り散らしている。

 ……うわー、嫌なもん見ちゃったな……だからこの体育会系のノリって嫌なんだよ……。

 こういうときは、目をあわせちゃだめだ。

 さっさと通りすぎよぅっと……。

 僕は真っ直ぐ前を見て、またよたよたと通路を歩き始めた。


「じゃあ何でうちの監督は抗議しねえんだ? 何でお前らがその場で抗議しろって言わなかったんだ? つっかえねえ! 連中だ!」


 どんっ!


「うわっ!」


「え?」


―――


 ……あっ、いたたたたたた……何だよもう……痛いなあ。

 廊下に倒れ込んだ僕の上に、さっき胸倉を掴まれていた人が乗っかってる。

 ! あれ!?

 あれあれ? バ、バケツがない!

 水が入っていたバケツが、どこかに消えた!

 ……いやな予感がする……もしかして……。

 もうやだ……恐る恐る顔を上げていくと……


「なにしやがんだこのガキ!」


「す、すいません!」


 僕の体に後輩の男の子がぶつかって来た拍子に、僕はバケツを手放してしまっていた。

 そして、そのバケツの水は――


「びしょびしょじゃねえか! なめてんのか!」


 うわああああああああ!

 やちゃったああああああああああ!


「す、す、すいませんっ!」


 やばいやばいやばいやばいやばいやばいやばい!

 とにかく謝んなきゃっ!


「わ、わざとじゃないんです! あ、あの、あなたがこの人を突き飛ばして……」


「なんだと? 俺のせいにするってのか?」


「うえっ……」


 や、やめてよ……そ、そんなに胸倉掴まれたら……く、くるっしい……息が……


「や、やめてください鈴木先輩! ばれたらそれこそ……」


「うっせんだよ!」


 ……い、痛い……僕が悪いわけじゃないのに……。


「このガキ、どう落とし前付けてくれるんだ? ったくどいつもこいつも俺のことをなめやがって……」


 ……な、なめてなんかないよ……な、なんで僕がこんな目に……。


「めんどうくせえ。おらっ!」


 ガンッ!


「痛っ! げほっ、げほげほっ!」


 ……たたたた、壁コンクリートなのにそんな強くぶつけなくても……

 け、けどこれで……助かったの――


「おら、歯ぁ食いしばれ。一発殴らせりゃそれで終わりにしてやる」


 え?

 ちょ、ちょっと待って!

 殴られる?

 僕が?


「す、すいません! バケツを投げてしまったことは謝ります! ふ、服もクリーニング代とか、弁償しますから!」


 怖い。

 怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。

 怖くて仕方がない。

 殴られるなんて、本当に嫌だ。

 痛いのなんて、死んでも嫌だ。


「この通りです! 許してください!」


 土下座しよう。

 ほら、びしょびしょの床に両手をついてますよ?

 何度も何度も、頭を床にこすり付けていますよ?

 だから許してください。

 プライドなんて僕には必要ないんだ。

 ただ、この恐怖から逃れたい、ただそれだけなんだ。

 痛いの思いをするくらいなら、プライドなんて何てことない。


「けっ、オカマ野郎!」


「ひっ!」


 無駄だったみたい……。

 僕は無理矢理立たされて胸倉を掴まれ、壁に押し当てられた。


「そこまでして逃げようって魂胆が、ますます腹立つぜ。おらぁ! 歯食いしばれ!」


 怖い怖い怖い怖い。

 ああ、嫌だよ。

 なんで僕がこんな目にあわなくちゃならないんだよ。

 もう一生、ボクシングなんて見ない。

 関わりたくもない。

 夢であって欲しい、終わるなら早く終わって欲しい。

 助けて――


「うらぁっ!」


「ひっ!」


――


 あれ?

 痛くない?

 ていうか、何の感触もない。

 ……ちょっとだけ目を開けて……なんだろ、白い布にくるまれた何か……。

 何かが、鈴木選手の拳をしっかりと受け止めてる。


「なにしやがんだこの野郎!」


「……まあ、あんたの体とこの周りを見たら、何がおこったかは想像つくよ。フライ級代表の鈴木サン」


 目の前から、その物体が消えた。

 それは……拳……布にくるまれた拳だ。


「けどさ、どう見たってこの子は中坊だ。それに、なによりあんたは出身校の看板背負ったボクサーだ。そんなあんたが、こんな真似するべきじゃねえんじゃねえのか」


 その拳の持ち主は、身長は僕よりずっと高くて……一八〇センチ近い長身だ。

 タンクトップから見える腕は太くて胸板も厚くて……すごく綺麗な体をしていた。


「あんだと? てめえに関係あんのかよ! 大体なあ――」


「鈴木さん! やばいすよ鈴木さん! こいつ……こいつのゼッケン……」


「あ?」


 “静岡県定禅寺西高校・佐藤拳聖”


 何でだろう、目の前の分厚い背中に書いた文字に、なぜか僕の胸は陶酔したように沸きたってる。


「て、てめえは……“シュガー”……」


 “シュガー”


 何でだろう、その言葉を聞いたら、僕の気持ちはもっと高揚してくる。


「……やめてくれよ、そんなこっぱずかしいあだ名。俺が名乗ったわけじゃないのにさ。そんなことより」


「……」


 鈴木選手は、じりじりと後退する。


「もうその辺でいいだろ。一時のいらつきで、ボクサーの看板汚すなよ」


「……鈴木さん……もう……」


「うっせえ!」


 後輩の腕を振り払うと、鈴木選手は捨て台詞をぶつぶつ呟きながら立ち去った。


「……大丈夫か」


「あ……」


 その人、佐藤拳聖さんは、肩にかけたタオルで、僕の体を拭いてくれた。


「悪く思わないでくれ。ボクサーはみんなあんな奴ばかりじゃない。それに、あいつもきっと負けてイラついてたんだ。ま、決して褒められたことじゃないけどな」


 そして、そのタオルを僕の方に掛けてくれた。

 ちょっとだけ汗臭いけど……けど、すごくどきどきする。

 僕はようやく心を落ち着かせて、その人に頭を下げた。


「……あ、あの……助けてくれて、どうも……どうも、ありがとうございました……」



「へぇ、お前も佐藤って言うのか、奇遇だな。はっ、まあ、佐藤なんて苗字腐るほどあるか」


「そ、そうですね」


 僕が大会サポートの中学生だということを話したら、佐藤さんはバケツに水を汲みなおして持ってくれた。

 僕は、ぼろいモップを持ってその横に付き従った。


「あの……佐藤さん……」


「佐藤さん、なんてやめてくれよ。拳聖、のほうがいい。格好いいだろ」


「えと……拳聖さん……重くないですか?」


「これか? 何言ってんだよ。こんなもん重いなんていってたら、ボクシングなんてできねーよ。お前ももう少し、体鍛えたほうがいいぜ」


「す、すいません……」


 恥ずかしいから僕はうつむいた。

 うつむきながら、ちらっと拳聖さんを見上げる。

 ……うわー、やっぱり腕太いなー……血管がびんびん浮いてる……脂肪なんか全然ついていないんだろうな……顔は、ちょっと怖いかと思ったけど……すごい優しそうな顔してるんだな……


「ん? どうした?」


 やっ、目があっちゃった!

 僕は慌てて目をそらした。


「い、いや……拳聖さんみたいに強かったら、僕もああいう人たちになめられないのかな、って……」


「強さ、か」


 拳聖さんは、フッ、っとクールに笑った。


「確かに強ければ喧嘩に負けねえのかも知れねえなあ。けど、本当に強いってのは、そういうことじゃねえと思うぜ」


「え、えと……どういうことでしょうか……」


「まあ、お前にも、きっとそのうちわかる時がくるさ」



「そんじゃ、ここでいいか?」


「あ、ありがとうございます!」


 僕は心のそこからの感謝を口にした。


「おーい拳聖! 何やってんだよ!」


「あ、イシさん、すんません」


 ふと見れば、定禅寺西高校のジャージーを来た、ひげもじゃの太った男の人が駆け寄ってきた。


「ほれ、早くこい! ウェルター級の招集始まってるぞ!」


「ええ。今すぐ行きます」


「あ! あのタオル……」


「じゃあな少年」


 僕は肩に掛けっぱなしのタオルを返そうとしたけど、拳聖さんは声をかけるまもなく会場の臆へと姿を消した。


「おや、佐藤君やないか」


「あ、えと……佐山、先生」


「君、あの佐藤拳聖君と知り合いやったんか? 二人とも佐藤やし……もしかして、親戚とか?」


「え? い、いえっ! 全然違います! ただ……さっき、このバケツもつの手伝ってくれて……それで……少しだけ話しただけです」


「そうやったんか。ちょうどええ。もうじき拳聖君の試合始まるから、一緒に見よか」



“続きまして、ウェルター級準決勝を行います”


「あの、さっきから何とか級とかいろんな級が出てきますけど、なにかの資格とかですか?」


「資格? あっはははは、そうやね。よう知らん人が聞くと、英検とか漢検とか、そういう級と勘違いしそうやね」


 リングサイドのパイプ椅子に、モップを片手に座る僕の横で、豪快に佐山先生が笑う。


「せやけど、ちょっと違うかな。ボクシングというのは、階級制のスポーツで、体重ごとの区分が何と下級という名前でわけられとるんよ」


「じゃあ、ウェルター級って言うのは、どういう階級なんですか?」


「まあ、プロとアマでは多少ずれるけど、アマチュアだと、まあ、大体六十四キロから六十九キロの間やね。ジュニアはミドル級が最重量級やから、上から二番目に重い階級やね」


“青コーナー、大峰泰治選手、山口県下萩実業高校”


 そういえば、さっきの鈴木選手たちより、だいぶ体が大きいな。


「佐藤拳聖選手も、ウェルター級の選手なんですね。“シュガー”って呼ばれてたみたいですけど、有名な選手なんですか?」


「……“シュガー”って言葉の意味、君は頭がいいから、当然知っとるよね?」


 “シュガー”?

 それくらい、今の小学生だって知っているよ。


「“お砂糖”ですよね」


「そうやね。けど、ボクシングにおいては、その“シュガー”という言葉には、特別な意味があるんよ」


 すると佐山先生は、青コーナーの通路を目を細めて眩しそうに見つめた。


「“シュガー”言うのはな、花も実もある、天才ボクサーのみに許された称号なんや」


“青コーナー、佐藤拳聖選手、定禅寺西高校”


 ドッ、会場の空気が爆発した。


「佐藤さーん、頑張ってー!」「きゃー、こっち向いてー!」


 うわー、何この声援?


「な、なんだか、会場中が拳聖さんの応援してませんか?」


「そうやね。彼はなぁ、すでに高校三冠……要するに、一年生のときから全国大会に出て、無傷のままそのすべてに優勝しとるんよ」


「え? そんなすごい選手だったんですか? だからこんなに人気があるんだ……」


「それは半分あたりで、半分外れやね」


 佐山先生は、にやりと笑って僕の顔を見た。


「確かに全国的に注目を集めた選手ではある。けどな、言っちゃ何やけど、高校ボクシングはそんなにメジャーなスポーツやないし、他の県のボクシング選手をわざわざ見に来るようなそんな物好きは、まあマニアを除いてはなかなかおらんわな。精々が、身内の応援に足を運ぶくらいやね」


 確かに、そうかもしれない……。


「けど、これだけの声援は――」


「あいつが魅きつけて掴み取ったんよ――このすべての観客の心を」


 その言葉に、僕は入場する拳聖さんを見た。

 拳聖さんは胸元にグローブを抱きかかえるようにして構えて、タン、タン、タタタン、ステップを踏んでいる。

 時折足をシャッフルしたり、前にパンチを出したりして、なんだろう、拳聖さんの周りだけ、月旅行みたいに重力が小さくなったみたい。

 そのたびに、黄色い声援――だけじゃないよ、男の人も、大人の人もこどもだって、みんなため息みたいな、悲鳴みたいな、いろんなものが入り混じった声を上げる。


「すごいやろ。ため息が出るやろ。なんて言うんやろうなあ……」


「カリスマ性?」


「そうやそうや、カリスマ。あいつがリングに向かうその一挙手一投足だけで、あいつのことを知らん奴も、ボクシングなんか興味ない奴も、みんなひきつけられる。見てみい、あの余裕綽々の顔を。あれがこれからリングで殴り合いをしようとする奴の顔やで?」


 被り物の隙間から見える拳聖さんの顔は、笑っていた。

 さっき横で見たあの、優しそうで、柔らかくて、とびきり甘いマスクのままだった。


「むかつくわほんまに。普通ならな。けど、あいつがやると、なぜか許せる。いや、許せるどころやない。あいつのあの飄々とした笑顔を、みんなが見たくなる。あいつは……あいつこそは、天性のスターなんや」


 天性のスター、その言葉に、僕の胸は高鳴った。

 なんだろう、さっきまで、人が殴り殴られるところなんて、死んでも見たくないって思っていたのに。

 この人の姿を……いつまでも見ていたい。


「あ……」


 リングサイドまで近づいてきた拳聖さんは、パイプ椅子に座る僕に小さくウインクをして、拳を突き出して見せた。

 ドッ、会場は更に沸く。

 みんなの視線が一斉の僕に集中したから、僕はまた顔が赤くなるのを感じた。


 カァン


 ゴングが鳴らされた。

 相手選手が、その太い腕を振り上げて拳聖さんに襲い掛かる。

 けれど、拳聖さんには――


「すごい……」


 僕の口からも、ため息にも似た言葉しかもれなかった。

 変な話だけど、立って向かい合って殴りかかるのは相手選手だけなんだ。

 拳聖さんはね、そこにはいないんだ。

 相手のすべてのパンチを、まるで液体のようにするするとかわしていた。


「ただ強いから、華があるから“シュガー”と呼ばれるわけやない」


 拳聖さんは足をダンスのようにひゅんひゅんシャッフルし、頭を揺らし、そして目にも留まらない左のパンチで相手の顔面の真ん中を捕らえていた。


「打ったら離れる、打たれずに打つ、目にも留まらぬスピードとコンビネーション、そしてそれを可能にする優れた動体視力。殴られたら殴り返すという、ボクシングの大前提を覆すことができる男にのみ、その称号は与えられるんや」


 左の三連打から、今度は右のダブル。

 ぐるりと腕を回せば、会場全体が失神しそうなほどの悲鳴に包まれる。


「そういう奴に余計な称号はいらん。砂糖のように甘くてとろける“シュガー”、ただそれだけで充分や」


 ガキッ


「うわっ!」


 弾丸のような右のパンチが相手の顎を打ち抜いた。

 歓声を上げたのは僕だけじゃない。

 会場すべてが、拳聖さんのために作りかえられていた。

 相手はずるりと拳聖さんにもたれかかる、

 拳聖さんは、子どもを寝かしつけるようにしてマットへ相手を倒れさせた。

 リングの上の審判の人は、大きく手を振って試合を止めた。


※※※※※


“ウェルター級第一位、佐藤拳聖選手、定禅寺西高校――”


 あれから毎日、僕は大会を手伝いながら佐山先生と一緒に拳聖さんの試合を観戦した。


 甘くとろけるような拳聖さんのボクシングは、会場を極彩色のサーカスに塗り替えた。

 拳聖さんはすべての試合をナックアウトで勝ち続け、決勝戦では数発の被弾はあったものの、一方的にパンチを浴びせ続けて優勝した。

 表彰を見つめる僕たちの後ろで誰かが言った。

 「結局この大会も、“シュガー”のための大会だったな」って。

 そうさ、この大会自体が、拳聖さんからの僕たちへの甘い甘い、贈り物だったんだ。

 なんてスウィート、なんてクール。

 僕は、拳聖さんのすべてのとりこになった。

 メロメロにやられてしまったんだ。



「あ、あの……拳聖さん……」


 大勢の人たちに囲まれる中を掻き分けるようにして、僕は拳聖さんに話しかけた。


「ん? ああ、お前はこの間の……そっか、見てくれたんだな」


 拳聖さんの白い歯が光る。

 ……うわあ、あんなに殴り合いをしていたはずなのに、何でこんなに綺麗な顔してるんだ。


「あ、あの、おめでとうございます……それと……これ!」


 僕は紙袋に入れた、丁寧に選択をしたタオルを差し出した。


「ああ、そういや……サンキュな。このタオル、結構気にいってたんだ」


 こういうとき、拳聖さんって子どもみたいに笑うんだな……。


「あ、あの……す、すごかったです……感動しました!」


 うわー、何言っちゃってるんだろ僕……。

 こんなにでっかい声で……みんな僕を見て笑ってるよ。


「そうか、そいつは嬉しいな。ありがとう」


 けど、拳聖さんは優しく笑っていた。

 その笑顔に、僕は涙が出るくらい、失神するくらい痺れた。


「……あの……僕も……僕も、ボクシングを始めたら、拳聖さんみたいに強くなれますか?」


 ……え?

 ……な、何を言ってるんだ僕は?

 ぼ、僕みたいな腰抜けが、ボクシングなんてやったって、強くなれるわけ……


「あっ……」


 拳聖さんが、何かを確かめるみたいに僕のほっぺたに手を触れさせる。

 ……やばいよ……心臓が止まっちゃいそうだよ……。


「なれるさ。きっと、お前だって」


「え?」


 拳聖さんは、首に掛けたメダルを僕に掛けてくれた。


「あげるよ」


 えええええええええ!?


「だ、だめです! こんな大切なもの……」


「いらねーの?」


「い、いや、いらないとかそういう……」


「“勝者には何もあげるな”ってな。別にメダルがなくたって俺が優勝した事実は変わらないし、家に他にも腐るほどあるからな」


 拳聖さんは、僕の頬に手を当てて笑ってくれた。


「ボクシング……好きになってくれたか?」


 数日前の僕なら、きっと大嫌いです、なんて答えていたかもしれない。

 けど、拳聖さんの姿を見て、こう言えない男なんてこの世にいないよ。


「はい! 大好きです! ボクシングが大好きです! それに、拳聖さんが……リング上の拳聖さんが、大好きです!」


「そっか、そいつは嬉しいな」


 一瞬で虫歯になっちゃうんじゃないかってくらい、甘い笑顔だった。


「それじゃな」


 騒然とする周囲の人たちは、僕なんかに目もくれることなく、クールに手を去り去る拳聖さんの後についていなくなった。

 呆然としながら、僕は胸に輝くメダルを見た。

 そして、ぎゅっとそれを握り締めた。


「……拳聖さん……」


 僕は、あなたみたいになりたい。


「……僕は……」


 あなたみたいな、強くて格好いいボクサーになりたい。

 ううん、なりたいなっていってたら、また僕はびびって逃げちゃうんだ。

 僕は決めました、拳聖さん。


「僕は、あなたみたいなボクサーになります! そしていつか……僕も“シュガー”って呼ばれるくらいすごいボクサーになります!」


※※※※※


 それから僕は、拳聖さんの行っている学校のことをインターネットで調べた。

 定禅寺西高校は静岡県にある私立の男子校で、普通科と特別進学科、そして体育科があることがわかった。

 ボクシングをやるには体育科に入るのが一番いいってわかったけど、これは中学校時代からスポーツをやり込んできた生徒向けのものだ。

 まあ、僕みたいなテレビゲームしかやったことのないような奴には最初から縁がないことはわかっていたけどね。

 そうすると、普通科か特別進学科だ。

 けど、わざわざ県外の私立学校に進学するなんて、親に言ったら反対するに決まってる。

 定禅寺西の特別進学科の進学実績を見ると、ものすごく進学校ってわけでもないけど、それなりの結果を残している。

 何よりも目を引いたのが、特待生になれば授業料から何から全部免除で三年間通うことができる。

 しかも県外入学者はアパート代の補助まで出るらしい。

 それに男子校だから、女の子の目を気にせず勉強に打ち込みたい、って言う口実もできる。

 うちの県には、男子校はないからね。

 僕はその日のうちに両親の説得を開始した。

 最初は、特におかあさんが何を言ってるの、ってまったく相手にしてくれなかった。

 けど、本気で進路に打ち込んで、何から何まで自分の力で自立してやってみたい、ってお父さんに行ったら、特待生を取れれば許可してやる、って言われた。

 僕はその後すぐに受験勉強を開始した。

 大好きなゲームも、後半年間、って決めて完全に封印した。

 過去問集を取り寄せて解いてみたけれど、正直そこまで難しい内容じゃなかった。

 けど、僕が定禅寺西高校に入学するために必要なのは、ただの合格通知じゃない。

 特待生としての合格通知だ。

 受験勉強をしながら、僕は生まれて初めて体を鍛え始めた。

 朝早く起きてランニングしたり、腕立て伏せや腹筋をしたり。

 はっきり言って子どもの遊びみたいなものだったけど、それでも僕は真剣に取り組んだ。

 初めの内は、腕立て伏せだって二回位しかできなかったけど、冬が終わる頃には、何とか十回続けてできるようになった。

 勉強の方も手を抜かずにやり続けた。

 こんなに長く机に向かったのは、生まれて初めてなんじゃないかってくらい。

 たまに疲れたり眠くなったりで心が折れそうになったときもあったけど、そんなときは、机の奥にしまった、拳聖さんからもらったメダルを首にかける。

 そして、目を閉じてそれに祈りをささげる。

 それで何かが変わるわけじゃないけど、このメダルが僕を支えてくれるような気がした。


 初めて自分で新幹線に乗って、定禅寺西高校に受験をしに行く時も、このメダルをお守りにしてポケットの中に入れておいた。

 英語の国語数学、そして小論文。

 わかる、わかるよ。

 しっかり勉強していたかいがあった。

 すべての試験と面接試験が終わったとき、僕は思いっきりガッツポーズを決めた。

 自分自身で生まれて初めて打ち込みたいものを見つけて、そしてそのために死に物狂いの努力をした、それが僕にとって大きな自信になったんだ。

 試験の翌日、僕はインターネットで合否の確認をする。

 確認するまでもなかった。

 うん、合格。

 入学金授業料全額タダ、アパート代の補助までついた、最上級の特待生。

 お父さんもお母さんも僕の努力をほめてくれた。

 だけど、僕の最終的な目標は、定禅寺西高校の特待生になることじゃない。

 僕は、定禅寺西高校のボクシング部に入部するんだ!

 そして、佐藤拳聖さんと同じ景色を見るんだ!

 あわただしく卒業式が終わり、そして、太平洋の暖かい潮風が桜の花を舞散らす中、僕は周りに誰一人知り合いのいない入学式を迎えた。

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