57 アシュファクの魔法を俺も
「悟ー」
おっさんの呼ぶ声がする、と思って目が覚めた。
いつもと違って暗い。部屋の天井があるはずのところにはタマネギ型の格子が見える。
そうだった。学校の塔のてっぺんに捕まってたんだった、俺。
魔神の夢なんか見てたとこ見ると、眠ってたのか。人間ってこんな状況でも眠れるもんなんだな。
「悟、ダイジョブ?」
おかしい。
目が覚めたはずなのにまだあいつの声がする。ってことは、まだ夢の中なのか。と思って、眠いし、もう一度布団をかぶってベッドに潜り込んだ。
ところが声はもう一度聞こえた。
「悟、のんびり寝てる場合じゃない。帰るヨ」
がばっと、今度こそベッドから跳ね起きた。
「おっさんじゃないか!」
確かにおっさんだ。太ってるしタレ目だし。すっごくひさびさの、アシュファクが、見慣れた赤い絨毯に乗ってタマネギ格子のすぐ外にぷかぷか浮かんでいる。
「どうしたんだ、いいのか、俺んとこ来て」
思わず駆け寄ると、おっさんは格子の間から手を突っ込んだ。
「人の心配より自分の心配しなヨ。ここ、抜けられる?」
今まで塔のてっぺんだから抜けようとも思わなかったが、そう言われてなんとか抜けられないか頭を突っ込んでみたが無理だった。一番広いところでも頭が入らない。それに、格子は結構堅くて曲げようとしても曲がらない。
「無理だ。魔法でなんとかならないの?」
「基本的に魔神はほかの魔神の魔法には手出しできないことになってる」
「じゃあ、だめなのか。せっかく来てくれたのに」
どっと力が抜けた。ここまで助けに来てくれたのに、なんにもならないのか。でも、とアシュファクはきらりと目を光らせた。
「悟は魔神じゃない。つまり、悟が魔法を使うなら何のタブーもないヨ」
「俺が? いやだめだと思う。さっきからトイレは出るけどテレビは出なかった。つまり俺の役に立つ魔法は使えなくしてあるんじゃないかと思う」
「ムミードの魔法ならネ。でも、悟が使う魔法ならあいつも手出しできない。ちっちゃくなってごらん」
「ムミード。奴の名前はそう言うのか」
「いや、それは後でいいから。悟はちっちゃくなったことあるヨ。ほら、ワタシのおうちに遊びに来たとき」
魔神のうちに行ったとき? ああ、ランプの中か。でも、あの時はランプに青い炎が出て、それを触ったら吸い込まれたんだ。だから魔神の魔法じゃないか。
そう言ったら魔神は袖の中からサラダ油とランプを出して、そっと格子の隙間から差し入れた。
「ワタシの魔法、今なら悟も使えるヨ。やってごらん。簡単だから」
にっこり笑う魔神を半信半疑で見ながら、前に見たとおりランプの蓋を開けてサラダ油を入れ、こよりのような芯を差し込んでみた。確かあの時、おっさん、ぱちっと指を鳴らしてたっけ。
思い出しながら、できるだけ同じように俺もぱちっと指を鳴らしてみた。
「点いた!」
あの時と同じような青白い炎がランプの芯の先に点った。思わず興奮しておっさんの顔を見ると、おっさんは笑顔で、早く、と言った。
どうするんだろう。この炎の先を触ってたな。
思い出して指先を青い炎に近づけると、あの時と同じようにすうっと俺はいつのまにかランプの家の中にいた。違うのはおっさんが中にいないことだ。ランプの家の窓からは巨大な格子が見える。でも今は格子と格子の間はがら空きだ。俺がちっちゃくなってるのか、ランプの中に入れるぐらい。
「じゃあ、帰ろっか、悟」
ランプの外から満足そうなアシュファクの声がしたかと思うと、窓の外の風景が変わった。格子が流れ去り夜空に変わり、次の瞬間、巨大なおっさんのタレ目が窓の外いっぱいに笑っていた。
魔神がランプを絨毯のすみっこに置いたのだろう、そこから先は流れる夜景だった。星が見える。ビルの明かりが見える。家の中なので下の方は見えないが、下をのぞいてみると絨毯の赤い模様が見えた。
しばらく空を飛んで、絨毯は空中で停止した。
「もういいよ。出ておいで」
魔神が呼ぶので、俺は出口を探した。ええと、どうするんだったっけ。確かこの辺に呼び鈴みたいなやつがあったはず。あの時探した手持ちのベルはすぐ見つかった。こいつ、俺の部屋は散らかし放題だったのに、自分の家はちゃんと片づけてるんだな、と妙におかしくなった。
ちりんちりんと鳴らすと次の瞬間、俺は魔神の隣で絨毯に立っていた。
「あの・・・ありがと。なんてったらいいか・・・」
久しぶり、とか元気だった? とか、そんな言葉じゃ表せなくて結局、喜びを口にできないでいたら、いきなり魔神がぎゅっと両手で俺の両ほっぺをぎゅうっと押してきた。
「悟、ダイジョブ? ちゃんと食べてる?」
「うん、食べてるよ」
ほっぺをぎゅっとされながら舌っ足らずな声で答えた。
「母さんがさ、最初は自動でご飯作れるの、面白がってたけど飽きちゃったみたいで、結局自分で作ってくれてる。だから俺んちは食べれてる」
「そうか、さすが悟のお母さん。お料理上手ネ」
魔神はほっとしたように手を離した。
「だって、あれだろ? 幻影ばっかり食べてたら飢え死にしちゃうって言ってただろ? 母さんにそう話したわけじゃないけど、ちゃんと作ってくれるようになってよかったと思ってるよ」
絨毯は今、多分俺の家の近所の空にふわふわ浮かんで停止している。どのぐらいの高さだろうか。遠くの町のビルの明かりが見えるので最初の頃、飛んでいたのと同じぐらいだろうか。
「厳密には飢え死にしていくわけじゃない。ただ、だんだん人間としての実体がなくなっていくって言ったらいいのかな」
「・・・ゾンビみたいに?」
ちょっとぞっとして俺は尋ねた。生きながら死んでいく、だんだん命がなくなっていく、そんな感じなのか。
「うーん、ゾンビ知らないから、よくわからないけど、人間の体がだんだん薄くなるっていうか・・・そのうち人間じゃなくなっちゃうネ。そうなると、魔神でもないし人間でもない、お化けみたいなのになってバルザフにも行けなくなっちゃうヨ」
「バルザフ?」
また聞いたことない名前が出てきた。
「人間は死んだ後、みんなバルザフに行く。そして最後の審判を待つんだヨ。でも、人間じゃなくなっちゃうとそれもないネ」
「幽霊みたいなもんか」
「多分」
考えながら魔神は夜空の方を見てそう言った。