30 女神像が突然
二学期最初の数週間は毎日が文化祭の飾り付け、看板作り、教室のデコレーションなどで、あっという間に過ぎていった。
直前の劇のリハーサルで衣装を着た俺を見て小畑がちょっと感心したような声を上げた。
「なんか、おまえ、ムキムキになってきたことね?」
「あー、うん、まあ。ちょっと筋トレとかしてる」
「どうしちゃったんだ。なんか思うとこがあったか? 急に肉体改造に目覚めたとか?」
「ああー、そうかな。運動不足だから思い立って」
魔神に無理矢理やらされてる、という話はできないから適当にお茶を濁す。別にそんなにハードな肉体を目指してるわけじゃないし。でも、はたから見てもわかるほど、はっきり筋肉がついてきたというのは嬉しいな。
母さんは、去年は行けなかったから今年は文化祭を見に行く、と朝からはしゃいでいた。
「劇、やるんでしょ? お父さん、仕事だから、多分、仁さんと行くと思うけど」
また吹きそうになった。そんな話、してるのか。
「いや、来なくていいよ。どうせ端役だし」
「仁さんも楽しみにしてたし」
ああ、もうわけがわからない。
母さんの隣でイケメンがにこっと微笑む。
「頑張ってネ、悟。多分、ワタシが行った方がいいヨ。なんかあるといけないから」
まあ、言われてみれば、最近は変なことが起こりがちだからな。イケメンはともかく、魔神にはついてきてもらった方がいいのかもしれない。
いよいよ、劇が始まる。
オープニングの音楽が流れ、体育館の舞台の幕が開く。
中心に立った日向にスポットライトが当たり、主役の台詞から劇が始まる。誰も台詞を間違えることもなく、着々と劇は進行していく。俺の少ない出番も半分終わった。
後ろの方で清谷さんほか、ミューズたちが踊る。
異変が起こったのはその時だった。
突然、清谷さんたちの踊っていた舞台の後方に、写真でしか見たことのない石像が出現した。
首と両腕がなく背中から翼をはやした女性の石像。えっと、あれは、劇の台本をみんなで作るとき、ギリシア美術を調べてて出てきたやつ。なんてったかな。なんとかのニケ。なんでいきなり、そんな物が。そして代わりに俺たちの作った紙とベニヤのオリンポス宮殿がぱっと消えた。
観客がざわめく。珍しい出し物だとでも思ってるんだろうか。
「あっ」
とミューズのひとりが声を上げ、頑張って踊りを続けていたひとりが、予想外に現れた石像にぶつかった。
三メートルほどの高さの石像が倒れてくる。
それをとっさに両手で支えたのは清谷さんだった。
まずい。彼女の怪力がみんなにばれたら。あんなに人に知られるのを嫌がってたのに。
幸いなことに俺は出番が済んで舞台袖に引っ込んでいた。今なら誰にも見られていない。そうっと俺は姿を消した。つまり、透明になった。
俺の透明化は、服や腕時計ごと消えられるみたいで便利なのだ。服が透明にならないと、服だけ残ったりして、その服を脱いでしまうと突然透明じゃなくなった時、裸で恥ずかしい。
姿を消したまま俺は石像に近づき、像の上の方に舞台袖にあったロープをかけ、てこの原理でひっぱった。魔神の言ったとおり、消える練習して体鍛えといてよかった。
少しずつ石像は起き上がり、清谷さんの押す力も加わって無事、倒れず直立に戻った。
俺は透けて見えないはずなのに、清谷さんがちらりと俺を見た気がした。他には誰もこっちを見ないのに。
見えてるわけないよな? 気のせいだよな? と、自分に語りかけながら、俺はそうっと舞台袖に戻り、周りを見回して、目立たない場所で姿を現した。
魔神は、わかったのか、今の出来事。
舞台には相変わらず翼を広げた首なし女神の像が立っている。
もはや、ギリシャの英雄物語どころではなさそうだ。でも、劇の失敗より、もっと変なことが起こっていると思う。
それにしても、こんなにみんなが騒いでいるのに、淡々と自分の役を演じ続ける日向は、ほんとにメンタル強いな。日向の堂々とした態度に引っ張られるように、みんなも台本通り、劇の進行を続けている。
「悟」
急に耳元でささやき声がした。気がつくと、おっさんが隣に立っていた。
「おい、あれ、見たか。また入れ替わっちゃってるよ」
魔神は黙ってうなずいた。
「えーと、あれ、なんてったっけ。フランスの美術館にあったやつかな?」
「うん、多分」
俺は一生懸命、頭の中から情報を探そうとした。なんのニケ、だったか。
「サルモネラ、じゃなくて、えっと、サモトラケのニケ、だった気がする」
「ナイス、悟」
魔神は舞台袖から指を一本、女神像に向け、ひゅっと指揮者のように振った。その途端、ニケの像は、元のオリンポス宮殿に戻った。
よかった。
気づくと、ミューズたちと一緒に舞台袖に戻ってきていた清谷さんが、目を丸くして、俺と魔神を見ていた。
見えるのか? 清谷さん。
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