26 ランプの家へ
油がサラダ油だったから、マッチかライターで火をつけるのかと思ってたら、魔神はぱちん、と指を鳴らして青白い火をつけた。
ゆらゆらと風もないのに炎が揺らめき、なんとなく魔法っぽくなってきた。
「はい、ここ触って」
魔神が炎を指さした。
「えっ! やだ」
俺は反射的に手を引っ込めた。そりゃ嫌だろう。滅茶苦茶怪しい。
「ダイジョブネ。ここが魔法だから、熱くないよ。ほら」
魔神は自分の指を一本、炎の中に入れた。
途端に魔神の姿が見えなくなった。まるでランプの中に吸い込まれたみたいに。
「おい、どこだ? どこ行った?」
「ここだヨー。悟も早くおいでー」
ランプの中らしき方からくぐもった声がした。青い火はまだ燃えている。魔神はいなくなっちゃったし、屋上は誰もいない。あいつのこと、本当に信用していいもんだか。でも、考えてみればこいつの絨毯で空、飛んだんだったな。空を飛ぶのに比べたら火に触ることぐらいはたいしたことじゃない。
俺は周りを見回し、俺たちのいない間に誰かに発見されないように、屋上に無造作に置いてあった古いベニヤ板の裏にランプを慎重に隠した後、そうっと指を炎に近づけた。
熱くない。
次の瞬間、俺は見知らぬ家の中にいた。
「いらっしゃーい」
床の真ん中に立った魔神が軽く両手を広げて歓迎の意を表してくれる。
床には赤地に複雑な模様の絨毯が敷かれ、ゆったりと柔らかそうなソファには凝った刺繍のクッションがいくつも並べられている。いつか俺の部屋で寝ころんで見てたテレビが彫刻のある二本の柱に囲まれた真っ白い台の上に置いてある。アーチ型の入り口の左右には装飾的な壷を乗せた小さい台が二つ対になって置いてある。
「すっげえ。金持ちじゃん」
俺が見回して思わず感嘆の声を上げると魔神は得意げに答えた。
「魔神にはお金はあまり関係ないネ。気に入ってくれた? 悟」
「うん! いい家住んでんだな。あっ、窓もあるのか」
窓に近づいて外を眺めて、俺は愕然とした。
つい、外国に遊びに来たような気分になっていたのだが、窓の外はさっき俺がランプを隠したベニヤ板だったからだ。「3ーB 大道具①」と巨大な字で味気ない走り書きがある。
「ここ、もしかして日本? 学校の屋上?」
「当たり前ネ。別に移動してないから」
どうしてそんなことを聞くのかという顔で魔神は答える。
そうか。確かに移動するとは一度も言わなかったな。ということは、俺はちっちゃくなって本当にランプの中に入っているのか。
魔神は床の真ん中にぽん、と敷物を出すと、その上にご馳走をぽん、ぽんと魔法で出してくれた。
「はい、どうぞ。ワタシのおもてなし」
「うわっ、豪華だな。いただきまーす」
アラビア風の料理はあの日のケバブ以来、初めて食べるけど、なかなか美味しい。床に座って、魔神は手で食べているが、手ではどうもうまく食べられない。俺がぽろぽろこぼしてるのを見て、魔神はお手拭きとスプーンフォークを出してくれた。
「いいもん食べてんじゃん。なにが不満なの? このランプの家の」
スパイスの利いたチキンを食べる手を止めて、魔神はつまらなそうに首を振った。
「どうせ全部幻影ネ。悟のお母さんの愛情たっぷりのパンの方がずっと美味しいヨ」
「いや、あれ、うちの母さん、作ってないし。パン焼く人は別にいるから。愛情も恨みもこもってないと思うぞ」
「いいの! 悟のお母さんでもパン屋さんでも。あーあ、いくら何でも揃ってて好きなインテリアのおうちでも、母ちゃんも子供たちもいないと面白くないネ。悟のこと、からかって遊ぶぐらいしか楽しみがないヨ」
「そういう動機で俺に絡むな!」
怒って軽く奴の腕を叩くと、魔神は楽しそうに笑った。
そうか、不老不死で何でもできる魔法使いでも、本当に欲しいものはなにげない愛情だったりするのかな。お気楽な奴だと思ってたけど、なんだか可哀想な気もしてきた。
幻影と魔神は言うが、食べたいだけ食べるとお腹がいっぱいになった。
「ほんとに幻影なの? お腹膨れたけど」
「お腹膨れるのも幻影ネ。そんな気がするだけ。ワタシは幻影でも生きていけるけど悟は人間だから幻影だけ食べてちゃ飢え死にしちゃうヨ」
そうなのか。
俺が膨れたお腹を押さえていると、魔神はふあーと欠伸をした。
「ちょっと午後のお昼寝しようか。ワタシの礼拝済むまで待っててね」
「礼拝?」
「マホメット生まれてからは魔神も礼拝しないといけなくなった。昔はよかったけどネー、魔神がたくさんいて好き勝手してた時代は」
マホメットってえーと、イスラム教の創始者か。こいつ、マホメットより昔から生きてんのか。なんか、魔法に慣れちゃって、普通のおっさんのようなつもりになってたけど、本物の魔神なんだな。
立ち上がった魔神について行くと、アーチ型の入り口をくぐって今度は青い模様の絨毯の何も置いてない部屋に入っていった。
「悟は礼拝しないんなら、そこで待ってて」
「ああ、はいはい」
魔神は洗面所へ行った後、礼拝室に入り、手を上げたり下げたり、お辞儀をしたり頭を床につけてひざまずいたり、結構長い時間をかけて複雑な礼拝を終えた。大変なんだな、イスラムの礼拝って。初詣みたいに手をぽんぽん、お辞儀、ですむ日本人でよかった。
礼拝室から出てきた魔神はすっきりした顔で提案した。
「どうする? 天気がちょうどいいから、外でハンモックでお昼寝もいいかな」
「へえ、ハンモック。よさそうだな」
「じゃ、行こ行こ」
魔神は鼻歌を歌いながら、今度は出入り口の横に置いてある台の上にあった手持ちのベルをちりんちりんと鳴らした。
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