11 消えかかってる?
「で、行きたい学校とか、将来やりたい仕事とか、考えてる?」
「えー。あんまり具体的には」
「十二月までには理系か文系かを決めとかないといけないしな」
ああ、そうか。
「うーん。文系っすかねえ」
「えっ・・・?」
振り向いた母さんの顔が怖くなった。前から言ってたつもりだったが、父さんと兄貴が理系だからって俺も理系とは限らないだろ。俺、理科と数学に選ばれなかった男だし。
社会にしろ国語にしろ、文系科目はまだ、こちらが関心を向ければ向けただけ婀娜っぽい微笑みを投げかけてくれる感じだが、理系科目はにべもない。特に物理みたいなやつは、これっぽっちも愛想がない。勉強してます、という顔を見せても「冗談はやめときな」みたいな感じでばっさり切られてしまう。数学も、「ここから先は才能ある人しか通しません」と、「とおりゃんせ」みたいな選別をしてくれる。
「就職を考えるなら、専門学校っていうのもありだけどな」
「はあ。別にそれでもいいっす」
母さんの顔が俺に向けてだけ般若レベルになる。なんでだ。いいじゃん、息子が真剣に自立を考えてるんだから。電車の広告にもどっかで見たキャラに似て非なるキャラが「地元で就職フェア」とか言っている。専門学校、地元就職、何が悪いんだ。
「データを見ると、私立の大学より、工学系専門学校の方が就職率がいいんですよ。最近ではうちの高校から進学する子も増えてましてね」
おい、文系って言ったじゃん。
母さんも、難しい顔をして真剣にうなずいている。だから、工学系、全然文系じゃないって。
まあ、俺の意見なんて、どうせ通らないんだな。
また例のあれがやってきた。
目の前がぼうっと霞んでくる。世界と俺の間に膜一枚隔てているような。世界が現実じゃなく、夢の中か、どこか離れた映像ででもあるようなこの感覚を、俺は昔から時々経験してきた。
ネットで一度調べたところによると「離人症」ってやつじゃないかと思う。なんか病気の一種らしい。
この感覚以外は、別に俺、病気って実感ないんだけどな。友達だって普通にいるし。人気者ってわけじゃないけどぼっちでもない。学校にも家庭にもそれなりに適応してると思うし。
霞がだんだん増してくる。俺、今、幽体離脱とかしてるかも。
突然、後ろからぽん、と肩を叩かれて急に現実に戻った。世界がまたはっきりとした輪郭を持って目の前にたち現れてきた。
三人しかいないはずなのに、誰だ。悪い予感がしてちょっとだけ振り向いたらやっぱりアレだった。
「悟、消えかかってたネ」
「えっ・・・?」
消えかかってた?
どういう意味だ。こいつ、魔神だから、俺の意識が飛んでたのがわかるってのか?
残念ながら、この少人数の場で魔神相手に「ひとりごと」言ってちゃ、さすがに変だ。問いただすのは後にしとこう。
「じゃ、がんばってな。なんかあったら、また先生んとこ、来てくれたら相談乗るから」
と、一見、面倒見がよさそうな笑顔で先生は立ち上がり、母さんも、ありがとうございました、と立ち上がって頭を下げた。
なんか知らないうちに終わってたよ。まあいいや。
この年になって母さんと並んで歩くのは嬉しくないが、みんな面談の後はそうしてるから仕方がない。でないと、また、兄貴はそんなこと言わなかったとか、弟は何でも報告してくれるとか、うるさいし。
「あーあ、ほんとにやる気がなくて、この子は。一体何考えてるんだか、さっぱりわからないわ」
母さんの口調が、どう見ても俺に対する言葉じゃないので、念のため見回したら、やっぱりいた。イケメンアラブ。
「まあまあ、奥様。どうです、あそこに洒落たカフェがありますから、お茶でも飲みながら」
おまえは何者だ。美顔器のセールスマンか。
魔神の指さす方向にあった全然洒落てもいない、「喫茶 瑞雲」に、俺たちは入ることになった。カフェって響きも違うだろ。多分、「喫茶」で出るコーヒーと「カフェ」で出るコーヒーは別の飲み物だ。
ガラス張りのドアを開けて入った店内は薄暗くて煙草臭かった。煙草の臭いは苦手だ。
「おい、魔神、煙草臭だけでもなんとかなんないか?」
俺がささやくと、イケメン魔神はこともなげに片手の指を振って、煙草の白煙と臭いをさあっと消し去り、店内の空気を爽やかにした。なかなかやるじゃないか。
イケメンが優雅な身振りで母さんを奥の椅子にエスコートする。途端に俺たちの座る椅子だけが、古びたビニール張りの椅子から心地良いソファに変わる。うーん、なんて心憎いんだ。
確かにこれだけやれたら美人の奥さんも惚れるのかもしれない。偽物にしてもここまでやれれば上出来だと思う。しかも、たかだか相手がうちの母さんなのに、というところにボーナス点を百点ぐらいやろう。
オーダーしたコーヒーを半分ほど飲んで、ようやく母さんは少し落ち着いた。
「悟もね、小さい頃はほんとに手がかからなくていい子だったのよ。なんでもお兄ちゃんお兄ちゃんって真似して歩いてくれて、お兄ちゃんのすることを一緒にさせてあげれば楽しく過ごしてくれて。それをいいことに、ちょっとほったらかしすぎたわね。こんな、自分じゃ何にもしないボンクラになっちゃって」
「まあ、奥様。奥様のご子息で優秀なお兄様の弟さんなんですから、ただのボンクラではないと思いますよ」
「それにしても、得意科目が何にもないなんて、どうしたらいいのかしら。文系の男の子なんて、うちの家系にいないから、就職とかどうなるのかさっぱり見当つかないのよね。しかも、こんなボンクラで、ちゃんと食べていけるのかしら」
「いや、彼の希望を尊重してあげましょうよ。人には向き不向きがあり、無理して不向きなところに行かずとも得意を生かしていければボンクラでも道はありますよ」
ボンクラボンクラ言うな、二人して。そこしか耳に残らないじゃないか。
「ありがとう、仁さん」
多分、魔神じゃなくて漢字になってるし。
「仁さん、さっきの面談の時も来てたの? もしかしてお父さんだと思われたかしら」
ありえん。俺の顔見て、お父さん、アラブ人ですかって言われたこと一回もないだろ、母さん。どっからどう見ても先祖代々日本人だろうが。
ふう。ここに俺がいる意味はなさそうだ。
窓の外の景色がまた霞んでくる。出てきたか、幽体離脱。
ぽん、と、また隣に座る魔神に肩を叩かれた。
振り向くとイケメンが、だめだよ、というように黙って首を振って見せた。それと同時に世界がまた色彩と形を取り戻して俺の周りに戻ってきた。
消えかかってるって、なんだ。
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