俺が狂っているのか、彼女が狂っているのか
俺が狂っているのか彼女が狂っているのか。街は雨に打たれ今日も泣いている。闇に沈んで溶けた空を見上げるのも億劫で、彼女の視線だけを追っている。歩道橋の下を行きかう車の群れは文明を乗せて、雨の滴が打ち付けるビルは、文明を映している。アスファルトに雨が当たる音だけが巨大で、それだけが時間を証明している。
彼女の左手首から流れる液体は、雨と混ざり、歩道橋に一滴、二滴と落ちていって、最後には闇に消える。足元には、ゆらゆらと外套が騒いでいる。全身に降り注ぐ水滴は、体温と同化していて、最早ほとんど何も感じない。
笑う彼女の口から洩れる声は小さく、だれにも届かなかった。叫ぶことも出来ない声帯は枯れた。その渇きは、この雨でさえも癒すことができないのだろいう。長い髪は伸びる、それは彼女が生きている証拠だ。そう、彼女は生きている証拠を探している。黒人も白人も血の色は赤。それは奴隷制度でも変えることは出来やしなかった。
信号が照らす。ゆらゆらと燃える。足を縁にかけた彼女。
死なないでくれなんて無責任に俺は叫んだ。生きてりゃ何とかなるだなんてもっと無責任だ。どうやっても彼女を止めることは出来ないだろう。耳のすぐ横に鼓動が聞こえて、それが切なくなった。傷だらけの腕はもう震えが止まらない。体からは酸っぱい匂いがして、マリファナの甘い匂いも雨に流されず残っていた。生まれてくるところなんて選べない。資産家の家族を殺してやりたい。
彼女に家族はいない、死んでも誰にも悔やまれない。弔うのは大学病院の人達だけだ。金も学歴もない、このマトリオットはいつも男に抱かれていた。
仕方がないさ、そういう生き方しかできないから。でも、これからどうやって生きればいいんだろう。5mgのコカインを打たれてイかれた彼女。どっかの外人に性病をうつされた彼女の同僚は自殺した。でも彼女は怯えることなく、十字架を握って、死刑執行を待っていた。
死んだ彼女らに墓はない。生命の源。母なる海に帰るのか。
そして彼女は歩道橋から飛び降りた。
笑いながら。
そうだ、彼女は死んでいる。腐食した肉には蠅が集り、糞尿を垂れ流し歩く。未だきれいな服を着て。この腐った街を、腐った体を引きずって蠢く男を漁る。俺が狂っているのか、彼女が狂っているのか。匂いは雨にかき消され、風がそれを運ぶ。彼女の生まれた街の空までも。埋め尽くすこの曇天。
俺が狂っているのか、狂わされたのか、彼女が狂っているのか、狂わされたのか。どうしたって狂ってるこの世の中で、叫ぶことを忘れた奴らなんて全員狂ってる。
俺が狂っているのか、彼女が狂っているのか、この社会が、貧困層が、富裕層が、労働者階級が、マスメディアが、政治屋が、狂っているに違いない。わからない奴は狂っている。
ああ、なんて素晴らしい。僕は、俺は、私は、あたしは狂っているんだろう。
ああ、なんて素晴らしいんだろう。君は、彼は、彼女は、彼らは狂っている。