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 二人が消えて、霊素残滓も薄れ、更に時も十数寸ほどが刻まれて、


「……凄かったわね、あの二人」


 未だ視線を逸らせぬまま、それでもようやく呟くエスラゴ。


「……はい、凄かったです」


 同じく抑揚を削られた声で、ヴラミルも彼女に同意した。


 言葉で、魔法で、全身で、そして唇と唇で交されたツォッポとキーラのやりとり。それはまさに、世界は二人だけの為にあると言わんばかりのもので。此の何もない疑似空間すら、あの二人の為に在れたのならば意義を持てたと思えてしまう。


「私たちも、ああいう風になれるのかなぁ?」

「それは――分かりかねます」


 無意識に漏れたのだろうエスラゴの言葉に、ヴラミルは口篭もる。『ああいう風』になることへの渇望をもう自覚していている彼女は、けれどそう考えてしまう自分自身がまだ少し怖い。だからキーラによって授けられた助言を反芻し直しつつ、現在のエスラゴとの関係から逸脱することを躊躇する。


「ヴラミル、どうかしたの?」


 言葉に詰まったヴラミルの、顔を覗き込むエスラゴ。そこには先ほど口走った台詞への照れなど微塵も見受けられず、口走ったという事実すら覚えていないように見えた。


「……いいえ。何でもありません」


 無表情を取り繕って応じたヴラミルの声音には、微かながらも拗ねたような響きが確かに含まれている。


「そう?」「はい」


 小首を傾げるエスラゴに、意識した素っ気なさで答える。やや訝しがりながらエスラゴも頷いて、故にもたらされるのは沈黙。何となく黙り込み、続ける言葉が見つからず……今まで幾度と無く繰り返してきたそれが、けれど今は何故か酷く重苦しくて。それでもいつもの静寂と何も変わらぬはずだから、ヴラミルを今の在り様から剥離させるには能わない。


「ねえ、」


 押し黙ったヴラミルに、掛けられるエスラゴの声。


「ヴラミルは――私のこと、好きなの?」


 投ぜられた明確な問いは、打ち沈んだ空気を軋ませた。

 思わず振り向いたヴラミルを、エスラゴが見詰め返す。感情回路の基礎設計までも見通すようなその瞳に、言葉を失うヴラミル。自らの呼吸する音さえも霧散するような沈黙が響き、けれどそれが雄弁な肯定へと変わる寸前で彼女は切り返す。


「――なぜ、そのようなことをお尋ねになるのでしょう」

「そうだったらいいなって、思うから」


 不自然なほどに間髪容れず、エスラゴの答えが返される。


「私は、ヴラミルのことが好きだから」

「……それは、思い違いです」


 すぐ目の前に提示された、自らの願望が成就する像。けれど叶ってしまうことが怖くて、怖気付いたヴラミルは、ずっと前から知っていたはずの事実さえをも否定する。


「勘違いなさっておいでなのです」

「勘違い?」

「はい。勇者様がまだいらっしゃらないから――」

「違うわよ、勇者なんて関係ない。魔王も王国もどうでもいい。そんな見たこと無いものなんかより、私にはヴラミルのほうがずっと大事」


 ヴラミルの言を遮るエスラゴ。何かに怯えているように、その語調が高められる。


「もちろんヴラミルが、魔王から王国を救わなきゃって思ってるのは知っている。そのために勇者が必要なのも分かってる。だからちゃんと勇者様は待つし、もし来たら一緒に魔王も倒すわ。でもそれは私が王女だからでも、王国が大切だからでもない。私はヴラミルが望むから、ヴラミルが好きだからそうするの」


 それじゃあ……ダメ? と上目づかいで覗って、思わずたじろいだヴラミルへ更に続けて言い募る。


「だから。もしヴラミルも私のことが好きなら、ヴラミルにも私の望みを叶えてもらいたい」

「……望み、ですか? それは――」

「うん、私ね。ヴラミルにもっと幸せになってほしいの」


 そう言って微笑むエスラゴが、何故か儚く震えて見えて。華奢な彼女を粉々に壊してしまうほど強く、抱きしめたいという衝動をヴラミルは辛うじて抑え込む。


「ですが、私は魔法プログラムです」

「だから、何?」


 絞り出したようなヴラミルの言葉に、エスラゴの眉が小さく揺れる。


「魔法プログラムだから、幸せになっちゃいけないとでもいうの?」

「そもそも、なる必要が無いのです。勇者召喚を補佐するのが私の役割なのですから、それさえ成れば私が作られた意義は果たされたことになる」

「でもそれじゃあ、私が嫌なの!」

「――あまり、わがままを言われないでください」

「……わがままなのは、どっちよ?」


 あくまでも諫言を呈する姿勢を崩さぬヴラミルを、逆に睨んでエスラゴが言う。


「役割とか、意義とか、そんな言葉で誤魔化して。私の気持ちのことなんかこれっぽっちも考えてない!」

「それ、は――」

「勘違いでも、間違ってても、私がヴラミルのことを好きで。だからヴラミルに幸せになってほしいって思ってることは事実だもん! 自分自身のことまでずっと欺き続けているヴラミルに、それをわがままなんて言われたくない!」


 縋るようなエスラゴの非難は、ヴラミルの表情を罅割れさせた。

 欺いて、偽って、隠し潜めて仕舞い込み、義務を理由に目を背けた。そんな自らの想いへと強引に目を向けさせられて、たじろぎ怯んで立ち尽くす。


「私は、魔法プログラムです。勇者召喚を補佐する為だけに作られた、ただ周囲に合わせて機械的な反応を行うだけの存在なのです」


 硬く小さく竦めた躰で、のたうつように漏らす声。彼女と同じく魔法によって構成された疑似空間に、それは奇妙に大きく響く。


「作られて、稼働して、それから追加付与された魔法で自律行動が可能となった。ただそれだけの作り物が、何かを想い欲するなんてことが許されるのですか?」

「誰に、何で、許されなくっちゃいけないの⁉ そんなふうに馬鹿みたいなことばっかり考えて、ずっとウジウジ思い悩んでいるのはヴラミル自身じゃない! だったらそれが、作り物のわけがない!」

「そうやって悩むのも、組み込まれた感情回路による機能に過ぎません」

「そんなの、当たり前のことよ。私が見たり聞いたりしたことを基にして、感情で考え思うのといったいどこが違うっていうの?」

「私の感情回路は、本来的に備わっていたものではなく後付されたものなのです」


 だから今抱いているこの気持も自分自身のものではなく、都合良く後から加えられた贋物なのかもしれなくて。そんな(まが)いを寄せたとあってはエスラゴに申し訳ないからと。捏ね上げた屁理屈のような駄々に慄くヴラミルを、


「つまり、全部私のせいだっていうの?」


 鋭い視線を載せた双眸で、エスラゴがきつく見据え付ける。


「それは、どういう――」

「だってヴラミルの感情回路は、私が組み込んだものじゃない!」


 だからそれが、ヴラミルを悩ませているのだとすれば、


「やっぱり私はヴラミルを、苦しめているだけだったの?」

「分からない……分からないんです」


 エスラゴの問い掛けは、常は無表情なヴラミルの顔を苦悶に歪ませた。

 自分は、召喚魔法に付属された人格プログラムで。疑似空間における彼女を、ただ補佐するためだけの存在に過ぎなくて。だから勇者様が召喚された時に、自分の役割は終了する。そうあるべきで、そうあらねばならないこと。だからヴラミルもそれが当然だと、ずっと思っていた――はずなのに。


「本当に、何故なのでしょうね」


 分かり切っていたはずのことが、何故か今はとても怖くて。でもどうして怖いのかが分からないから、湧き上がって漏れ出た恐怖をエスラゴに向けて八つ当てる。


「こんなふうに懊悩するのが感情を持つということなら、そんなもの無い方がよかったのかもしれません」

「それでも私は、ヴラミルに自分で感じて欲しかった」


 突き立てたはずの言葉の矛を、エスラゴに優しく包まれて。今にも泣きそうな彼女の顔に、ヴラミルの胸は悲鳴を上げる。


「一人きりは寂しいから、ヴラミルが応えてくれることがとっても嬉しかった。もっと傍に居てほしくて、一緒に色々考えたくて、だから我慢できなくって、人格プログラムに心理回路を加えちゃった。ええ、それは完全に、私の勝手な我儘よ。だけどヴラミルは……私と一緒に居て嫌だったの?」

「そんな、こと、」

  ――あるわけがない。


 エスラゴの存在が誇らしくて、彼女が何にも掛け替え無くて、愛おしくて、切なくて。そう思えなくなることなんてもはや想像できないくらい、感情というのはヴラミルにとって馴染み親しんだ感覚で。


 でもだからこそ、ヴラミルは考えずにはいられない。


『一人きりが寂しいから』、『傍に居てほしくて、一緒に色々考えたくて』

 それがエスラゴがヴラミルに感情を与えた理由なら……

 ――勇者が召喚されさえすれば、もう私は用済みになるのでは?


 嫌だ、厭だ、イヤだ、いやだと。生じた思考はヴラミルの回路を強く厳しく責め苛む。ほんのちょっと前までは当然の事実だったはずのことが、今はもう何より耐えられない。

 エスラゴとずっと一緒に在りたい。彼女に好意を抱かれたい。ううん、本当はそれだけじゃ全然我慢できなくて、


――彼女の全てを自分だけのものとして独占し続けたい。


 生まれた思考に戦慄し、でも生じてしまったからには否定することなんて不可能で。認めたくなくて、認められなくて、本当は何より認めたくて。だけど「自分こそ彼女に相応しい」なんてうぬぼれることが出来るはずも無くて。そんな自分が情けなくて。だから彼女に見捨てられてしまうかもしれないと考えると、怖くて恐くて堪らなくて。

 ぐるぐるぐるぐる、グルグルグルグル、循環した思考は同じ場所を何度も何度も廻り続け――


「大丈夫? ヴラミル」


 逡巡に陥ったヴラミルを、エスラゴの瞳が心配そうに覗き込む。


「ごめんね、悩ませちゃった」

「いえ、そのようなことはございません」


 むしろエスラゴに気遣わせたことを恐縮するように、慌てて首を振るヴラミル。けれどエスラゴは傾げた小首で、更に奥へと詮索する。


「でも、悩んでたのは事実でしょ?」

「それは……」

「ヴラミルが苦しむのは、私だっていやだもの」


――それは、私が私だから? それとも、ここに私しかいないから?


 言葉にされないヴラミルの問いに、エスラゴはプュゥと両の頬を膨らませた。


「ヴラミルは、私のこと信じられないの?」


 不貞腐れた態度を直ぐに一転、寂しそうな流し目でヴラミルを縋るように見遣る。コロコロと目まぐるしく変わる表情に翻弄されるがまま、たじろいだヴラミルはエスラゴの眼差しに見据えられる。どこまでも真摯に真っ直ぐで、全てを見通しているような――正に「女」そのものの瞳に胸中を貫かれ、縫い留められたヴラミルは彼女から目を離せない。


「……御戯れは、お控えください」

「チェッ、ばれちゃったか」


 辛うじて返したヴラミルにチロリと悪戯っぽく舌を出し、でも嘘は言ってないわよ、とエスラゴは付け加える。あくまで他意はないように、細心の注意を払っての付言――もちろんそう意識している時点で、エスラゴには他意しかないのだが。

 そう、必死に取り繕ってはいるが、今のエスラゴの内心は不安と緊張でしっちゃかめっちゃか状態だ。だってヴラミルのことを愛していると改めて自覚し直してから、初めての二人っきり――となればもう、平静なんて保っていられるわけがない。彼女を放したくなくて、彼女の気持ちを確かめたくって、でもそんな自分を我儘な女と見られやしないか恐々で。何かせずにはいられないのにどうすればいいのか分からなくて、結果エスラゴの行動は支離滅裂に暴走中。いじらしさを押し出した次には悪女の素振りを垣間見せ、淑やかに振舞ったかと思えば子供っぽく駄々を捏ねてみる。そんな自身の態度がどう受け止められたのか気になって、平静を装いつつの横目でヴラミルを窺い見る。

 絶対きっと恐らく多分、ヴラミルも私のことを悪しからず思ってくれているはず。そう自分に言い聞かせ、なけなしの勇気を振り絞る。精一杯の健気さを必死になってアピールして、それにヴラミルが示す反応の一挙手ごとに狼狽する。


「お気遣い頂き、申し訳ございません」

「何よ、そんな格式ばっちゃって。変なヴラミル!」

「何処か、おかしかったでしょうか?」

「えっ! あっ! そういうわけじゃないんだけど……」


 ヴラミルが首を傾げるだけで、はち切れんばかりに高まる鼓動。縺れ絡まりかけた舌を、何とかほぐして言葉を紡ぐ。


「私が勝手に心配しただけなんだから、ヴラミルはいちいち畏まらなくっていいの!」

「そういうものなのでしょうか?」

「うん、そういうものなのよ」

「では……ありがとうございます」

「っぇ⁉」

「気遣って頂けて嬉しいと――私もそう、勝手に思いましたので」

「…………………………………………ぅん」


 ヴラミルをギュッとしたいという思いを辛くも自制して、口篭もるように頷く。赤面している顔をけれど意地になって逸らさずに、見つめ続けるエスラゴから、ヴラミルがそっと目を伏せた。


「ですが何故、私のことなどを御気に掛けていただけるのでしょうか」


 覚悟を決めて、相手を信じ、それでも隠し切れない恐れで兢々としたヴラミルの言葉。けれど浮き立ち助長したエスラゴは、その遜り過ぎる物言いをいつもの自虐と聞き誤る。


「だって、私はヴラミルのことが――」

「その『ヴラミル』とは、何なのでしょう?」


 好きだから、と最後まで言わせず。縋るかのように問うヴラミル。


「それは本当に、私なのでしょうか?」

「何言っているのよ。ヴラミルはヴラミルでしょ?」


 思い詰めたような声音に違和を覚えたエスラゴは、けれどヴラミルの真意にまでは届かない。


「今の私は、ヴラミルです。プログラム人格用に用意されたこの躰に心理回路を埋め込んで頂いたことで、そうなりました。けれど――それ以前から、『ヴラミル』は存在していました」


 突き付けられたヴラミルの言葉はエスラゴに息を呑み込ませ――息を呑み込んでしまったという過ちを彼女に自覚させた。


『今のヴラミル』の自意識は、エスラゴが施した心理魔法で生じたもの。だからそれが施される以前の『魔法プログラムとしてのヴラミル』は、たとえ記録を引き継いでいても『今のヴラミル』にとって『自分』ではない。そんなヴラミルの告白に言葉を詰まらせるという反応は、エスラゴが二つを混同していたことの証明で――二人の間を決定的に断絶させるに足るものだ。


「やはり、そうなのですね」


 零し落されたヴラミルの声が孕むのはただ諦観だけで、エスラゴに対する非難の色は一滴たりとも混じらない。


 だって、分かっていたことだから。当たり前のことだから。


「待ってよ!」


 だから悲しむようなことはどこにも存在しないのだと、言い聞かせるようにヴラミルは微笑む。


「待ちなさいって、言ってるの!」

「……何故、待つ必要があるのですか?」


 エスラゴが好きだった『魔法プログラムとしてのヴラミル』は、もう何処にもいないのに。その存在を上書きして、消し去ったのは私自身なのに。それでもエスラゴが見捨てずに声を掛けてくれることが嬉しくて。だからどうしようもなく悲しくて、彼女を素気(すげ)無く振り払おうとして――


「……ヴラミルの、バカ!」

「ぇ?」


 そんな彼女の意思を無視して、エスラゴはヴラミルを理解する。

 寂しそうに、怯えるように、悔いるように、憂えるように。なのにそんな面様を浮かべてなんかいないのだと自分自身を欺いて。虚勢を張って強がって、それが強さだと勘違いして。


「臆病者の、根性なし! ひねくれ屋の、スカポンタン!」


 面と向かった初めての罵倒に僅か身を竦ませたヴラミルを、更に続けて貶し付ける。自分のことは棚に上げて、身勝手な想いを野放図に叩き付け、


「独り善がりの卑怯者で、トンチンカンのコンコンチキで、……でも、それでも好きなんだもん」


 潰えてしまいそうな小声を、末尾に置いたきり押し黙る。

 そのままそっぽを向いたエスラゴを、自然に追い駆けるヴラミルの瞳。吐露された想いに揺さ振られ、それが自分に向いていなくても応えたいという衝動に駆られる。代替品で構わないから、彼女に傅き全てを委ねたいという誘惑に身を焦がし、

 でも――


――臆病者の、根性なし! ひねくれ屋の、スカポンタン!

――独り善がりの卑怯者で、トンチンカンのコンコンチキで、


 そのまま先へ踏み出しかけたヴラミルの足を留まらせたのは、彼女をそう誘ったのと同じくエスラゴによってなされた叱責。その指摘は正しくヴラミルの正鵠を射抜いているもので、そんな自分ではきっとエスラゴとは釣り合わない。だから、ヴラミルは考える――自分自身がどうなりたいのか、そのために何をすべきなのか。




 取り繕う余裕など微塵も無く、エスラゴが曝した思いの丈。ヴラミルの内に打ち込まれて彼女を揺るがせたそれは、同時に吐き出したエスラゴ本人にも動揺を強いる。逆切れで発憤し、捲くし立てた後はそっぽを向き――そんな自分がどう映ったのか不安に思う反面で、言葉に出したことによって膨れ上がるはヴラミルへの不満。

 なんで、どうして、彼女は分かってくれないのだろう。こんなにも大好きで、ずっとずーっと想っているのに……そりゃあ狼狽を露わにしちゃった私もちょっとはいけなかったけど、けどだからってあんな試すような真似をしなくてもいいじゃない!

 そう、悪いのはヴラミルなのよと、不貞腐れて片意地を張る。勝手な理屈を捏ね上げて、それが勝手であることも内心ではちゃんと承知して、それでも認めるのは癪だから臍を曲げ頬を膨らます。

 もちろん拗ねて不貞腐れているだけでは、何の解決にもなりはしない。けれど改めてヴラミルと向き合うのは今は気恥ずかしすぎて、だから収まり切らない感情を内に悶々とさせたまま、所在無さ気に進められたエスラゴの足取りは木の根元へと突き当たる。

 この疑似空間で二人の他に、唯一立っている樹木。幾度と無く伐って燃やして、その度に必ず再生されてきた理不尽の象徴。だから改めて破壊し直すような気分にもならず、そこに寄り掛かったエスラゴは、いっそ全てを曖昧なままに先送りしようとワザとらしく小さな欠伸を掻いて、


「うん、もう今日はいいや」

「……いい、とは?」

「疲れたから、もう寝るわ」

「はい、分かりました」


 仏頂面なエスラゴの言葉に、いつも通りヴラミルが応じる。


「おやすみなさいませ――エスラゴ様」


 ヴラミルの返答に何気なく頷いて――けれど彼女が口にした言葉に、エスラゴは目を(みは)らせた。

 そう、『姫』ではなく、『エスラゴ』。顔を持ち上げたエスラゴに慌ててそっぽを向けたヴラミルは、聞き違えなくそう言った。それは取るにも足らない些細な変化なのかも知れなくて、しかもまだ『様』付けで格式ばっているところも気に入らない。それでも彼女が称号ではなく名前で呼んでくれたことがうれしくて、エスラゴはコロリと機嫌を直す。


「うん! おやすみ、ヴラミル」


 否応なく綻ぶ相貌と抑えきれずに弾む口調で、応じたエスラゴの声の先――背けることで懸命に隠そうとしているヴラミルの頬は、確かに赤く染まって見えた。


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