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助走も補助魔法も無しに、上空へと跳躍するツォッポ――唐突に発生した轟音とともにその姿が掻き消える。
「行ったのかしら?」
「おそらくは」
「あいつ、『またな』って言ってたわ」
「はい」
「また来るつもりなのかしら?」
「この擬似空間の位置を再度特定するのは、技術的に極めて困難なはずですが……」
魔法プログラムであるヴラミルの言う『極めて困難』は、『実質不可能』とほぼ同義。それでもあの男なら、そんな不可能も可能にしてしまうような気がしないでもない。
「姫様は――」
「ん?」
「姫様は、また来て欲しいのですか」
「どうだろ。少なくとも人間的には、あんまり好きなタイプじゃないのよね……私がヒトをタイプ分けするっていうのもおこがましい気はするけど。でもまぁ、あれでも――」
「いれば、暇が潰せますか?」
ヴラミルの言葉を肯定しかけ、慌てて首を横に振るエスラゴ。
「べっ、べつにヴラミルとこうしているのが退屈って分けじゃないのよ」
「ですが彼がいたほうが、はやく時間が経つ気がする」
意地悪く断定するヴラミルに、渋々ながら頷く。
「だけどわたしは、ゆっくり流れる時も好きだし、あなたとだけ一緒にこうやって過ごすのも気に入っているわ」
そう言った彼女は赤くした顔を隠すようにヴラミルから背け、ゆえにヴラミルが漏らしたほんの小さな笑みを見逃した。
漆黒の空、一本だけ立っている木、何もない平坦な地面と、照れ臭さを誤魔化すべくエスラゴは忙しなく視線を動かして――だがすぐに、諦めて言う。
「ねえ」
「なんでしょう、姫様」
応じるヴラミル――それはもう全くいつも通りのやり取りで、いつからそれを繰り返してきたのかなど二人とも覚えていない。だからエスラゴは、何の躊躇いもなく前言を翻す。
「退屈だわ」
「お待ちになってください」
「待ってるわ、ずっと。けどもう飽きたの」
「我慢は、」
「限界」
「では、礼儀作法の復習など、」
「あれ、歴史学じゃないの?」
ヴラミルが空間から取り出した本の題名は、『ルランド王国淑女の作法』。それを燃やすための呪文詠唱を中断し、エスラゴは首を傾げた。
魔法や算術などにはとても及ばないが、動作を伴う礼儀作法の習得は歴史学ほど壊滅的な状況にはない。ヴラミル相手ではあるが、一通りの実技もすでに済ませているはずだ。
「確かに、礼儀作法についての学習課程はもう終了しております」
エスラゴの心中に答えるかのように、ヴラミルは言う。
「ですがいざ実践、ということになった場合、相応しい所作やマナーを本当に実行できるのでしょうか?」
「ヴ……」
「少なくとも先ほどのツォッポさんに対しての振る舞いは、礼節に適っていたとは申し上げられません」
そもそもおにぎりをのどに詰まらせて唸るなど、マナー云々以前の問題だ。こればっかりは言い逃れる術を持たず、エスラゴは渋々顔で教本を受け取る。
「あれは……初めて会った奴の前だったから、ちょっと勝手が違ったのよ」
「と、おっしゃられましても。今後姫様がお相手される方々も、みな初対面なはずなのでは?」
「分かってるわよ、そんなこと」
憮然とした表情で、パラリパラリとエスラゴは本の頁を捲る。目次に並んだ項目の内容を思い出しつつ、
「でもヴラミルじゃない人間と話すなんて、あれが初めてだったんだから……」
ヴラミル相手に練習した時みたいには上手くできないわよ、と小さく呟く。
「よろしいですか? まず一五頁の、舞踏会における手袋の取り扱い方についてですが……」
エスラゴの言い訳については触れずにヴラミルは講義を開始して、不満げに溜息を付いたエスラゴも指示された頁を開き聴講。ヴラミルの話に頷きかけ――だが怪訝そうな表情で視線を挙げる。
彼女が感じ取ったのは空間の歪み。ツォッポが去るときの時空接続と基本的には同種であると、魔法使いの本能が囁く。異なるのは、行為に宿る術者の意思。内に荒れ狂う焦燥のまま、空間が歪みこじ開けられる。
「ねえ、ヴラミル――」
ツォッポが戻ってきたみたい、忘れ物でもしたのかしら。口に出しかけたその言葉を呑み込む間すらも惜しみ、エスラゴはヴラミルを突き飛ばす。
ヴラミルを押した勢いを殺さずに、自らも地に転げ込むエスラゴ。彼女とヴラミルが一拍前まで立っていた場所が、身の丈ほどもある氷の刃によって貫かれる。
地を貫いた刃の向きから、攻撃の方向を悟る。同時に素早く立ち上がり、低い姿勢でジグザグに駆ける。止まったら、殺られる――触れる空気より確実に肌が感じた直感を、彼女に向けて降り注ぐ刃の雨が肯定する。
「姫様!」
「うん」
いつの間にか併走する位置についていたヴラミルに、漏らした息だけで頷く。降り注ぐ刃の向きと間隔。空間に生じた魔力の乱れ。そして何より、大気を震わせるほどの意志。その全てが、敵の位置を明確に指し示している。
「上!」
そう、ツォッポが消えたのとほぼ同じ場所。放たれた雹剣を躱しつつ、無詠唱魔法をカウンター気味に投じる。その掌大の炎弾を障壁であっさりと阻んだのは、エスラゴとほぼ同年代に思われる少女。後頭部で一房に纏められた黒髪を無造作になびかせて、整った容姿に配置された双眸をエスラゴたちに据えている。
酷く、冷たい視線。首元より下の体躯を覆うは、黒味の強い紫のローブ。さらにその上に纏っている暗黒色の怨詛の念が、周囲の大気を染め上げる。
「泥棒猫の、においがします」
圧倒的な存在感で空間そのものを縛り付け、眼差しをエスラゴたちに据えたまま、少女は静かに言葉を紡いだ。




