01
エスラゴが、呪言を詠う。
淡く紅い唇を微かに震わせ、管楽にも似た音唱を紡ぐ。
其処に織り込めた意志を以て、周囲を漂う霊素たちを右手へと寄り集わせる。
――うん、やっぱり今日は調子がいい。
想定通りの霊素収束率に朝露がごとく儚げな微笑を浮かべ、エスラゴは霊素温度を連鎖反応限界で固定。造出された炎弾はガラス細工のように端正な指先に弾かれて、五メルほど先に立つ木の根元で接地する。僅かな風でも折れそうな細い幹・三股に分岐した醜い枝・その先に残っていた僅か二枚の闊葉が、瞬時に燃やし尽くされた。
「お見事です、姫様」
「ヴラミル、起きたんだ」
掛けられた声に振り向いたエスラゴは、弾もうとする声を抑えて言う。
「はい、先ほど」
彼女が向けた視線の先で、答えたのはスラリとした長身の美人。着用している黒地ドレスは整ったスタイルによく栄えて、胸部よりを覆う純白エプロンにはただ一つの染みもない。まさにメイドの鏡、と云うべき出立ちだが、エスラゴを優しく睨もうとする目元はどこか眠そうで。魔法プログラムであったころの表情の乏しさもすっかり緩和された彼女の様子に、エスラゴはクスリと笑いを漏らす。
「昨日遅かったんだから、もう少し寝ててもよかったのに……それと私のことは、エスラゴでいいって言ってるでしょ」
此処でのエスラゴの教育係であるヴラミルは、何度言ってもエスラゴを『姫様』と呼ぶのを止めようとしない。他人行儀なその呼び方をエスラゴはあまり好かないが、教育係という役割に拘ろうとする彼女の心情も分からぬではない。ゆえに自分の呼称について言及するのは、日に一度だけと決めている――もっとも時間の感覚など存在しない此処での『一日』など、起きてから寝るまでといういい加減なものでしかなかったが。
「ですがそのような安易な魔法行使は、感心致しません」
案の定、エスラゴの要望には触れずにヴラミルが言う。
「易しくなんかないわ。空間歪曲で破壊範囲を限定しての、対象の完全滅却。
炎系と空間系を複合した高位呪法よ」
「好意であろうと悪意であろうと、軽率な振る舞いであることは変わりません。
姫様ももう少し、王家の子女に相応な、」
「いいのよ、私は次女なんだもの。
そういう難しいことは、兄さん姉さんに任せることにしているの。それに――」
ヴラミルの説教に肩をすくめ、エスラゴが視線を戻す。
その動作に合わせて、肩下まで伸ばされているウェーブの効いた髪が揺れる。
「どうせ、すぐに直るんだし」
彼女の言葉通り、炭屑と化したはずの木はもう元通りに立っている。通常は呪言詠唱ごとに減少するらしいエスラゴの霊素干渉余力も、最大値から変わらない。
「ひまだわ」
物理法則も、魔術原則も、おそらくは時の流れの常識さえも通用しない疑似空間。その理不尽さを呪うかのように呟いて、肩にかかった黄金色の髪を無造作に払い除け、黙っていれば愛くるしいはずの容貌を憮然と歪ませる。
「ねえ、ヴラミル――」
「お待ちになってください」
「待ってるわよ、ずっと。けどもう飽きたの」
「我慢は、」
「限界」
「では、歴史学の復習など、」
「それはいや」
ヴラミルの提案を一蹴し、日も星も見えない黒空を仰ぐ。取り付く島のないエスラゴの態度にヴラミルは小さく溜息を付き、彼女が漏らした吐息の音にエスラゴの耳がピクリと動く。
実のところエスラゴは、この状況をそこまで悲観してはいない。待つのに飽きたのは事実だが、ヴラミルが一緒なら退屈への対処の仕方などいくらでもある。大嫌いな歴史の勉強にしたって、我慢するのも吝かではない。ならば何故、こうも駄々を捏ねるのかといえば――我儘を言った時にヴラミルが見せる、少し困った顔が好きだから。要は甘えて、じゃれ付いているようなもの。もちろんヴラミルのほうは、エスラゴの真意に気付いていないだろうけど……
でも本当に、ヴラミルは自分の気持ちになにも気付いていないのだろうか? いや、だってあのヴラミルだ。変なところで堅物だし、融通も利かない。だから、まさかそんなことあり得ないとは思うけど――でも、もし、万が一。
私が八つ当たりのふりして甘えてるだけだと分かってて、しかもそれを受け入れてくれているんだとすれば――
「ひま! 退屈! 飽きた! もうヤダ!」
照りつける日も無いのに上気した顔を、ブルブルと横に振ったエスラゴが声を張り上げる。その自身の妄想を打ち消すための叫びもまた、一本の木以外には遮るものもない疑似空間に響くこともなく消える。
「だいたいなんで、ヴラミルはそうやって平気な顔でいられるわけ?」
「私はそのように設定された魔法プログラムらしいですから
……といいますか、そのことは姫様が教えてくださったはずですが?」
不貞腐れ気味での問い掛けにまでヴラミルに律儀に返されて、両の頬を膨らませるエスラゴ。
「ヴヴ、プログラムに言い返されたー」
「ですから、反論を行えるようにシステムを弄ったのも姫様です。
そうやっていじけるのならば、なぜそのような改造を?」
「だって、暇だったんだもん!」
胸を張って堂々と言い切り――二次成長期を迎えたばかりの年齢に相応な膨らみを強調することの愚に気付いて、赤らめた顔でヴラミルを睨む。
睨まれたヴラミル、理由が分からずに戸惑いを隠さず首を傾げる。その仕草にますます頬の血色を良好にさせ、視線を据えたまま呟くエスラゴ。
「さっすが、王家に伝わる伝説の召喚魔法。サポート用魔導人格の容貌、体型まで完璧よね」
涼しげな双眸、小さくて柔らかそうな唇、肩口で一度束ねられた後に腰まで伸ばされた赤褐色の髪。自分より三〇セチ以上ある上背を彩るは、胸部・腹部・臀部の理想的な起伏。
ヴラミルの容姿は、まさに女性の理想を体現したもので。羨ましいとか、妬ましいとか、そんな感情は抱くこともできず、ただ、すごいなぁとしか思えない。けれどヴラミル本人はそれに溺惑することなく、毅然とした物腰でいつも自分をサポートしてくれる。そんな彼女が時折見せるあどけなさは、正直、卑怯だと思ってしまうほどに可愛らしい。ギャップが生み出す彼女の魅力を存分に愛で楽しんだエスラゴは、ふと思いついたふりをして言う。
「ねえ。もうやめて、どっか遊びに行かない?」
「だめです」
「どうして」
「勇者様を待たなくては」
「……ちぇっ!」
提案を却下されたエスラゴはふて腐れた顔で舌打ちして見せ、
「だいたい勇者なんて、本当に来るの?」
「伝承では、来ることになっています」
どこか投げやり調子なエスラゴの問いに、いつも通りヴラミルは答えた。