からっぽのまにまに
※※※※
夏休みが始まって三日目。つまりは、七月二十日である。
虹はこの二日間を家から一歩も出ずに、掃除に費やしていた。
この日も、パン一枚の簡単すぎる朝食をとっただけで、彼女はリビングのテーブルに齧りついた。
書き物をしているようだ。
(…手紙? )
ビスは申し訳ないと思いつつも、肩口にそれを覗き込んだ。
もしそれが、どこかにいる両親に宛ててのものならば――――たとえば、彼女の両親は仲睦まじく旧婚旅行に行っているだとかいうことで――――ビスは胸をなでおろして、この先を見ていられたのだろう。
午前中いっぱいかけ、百面相しながら虹は筆を動かすと、不自然に無個性な茶封筒に入れてきっちりと封をした。
(…その手紙を送るのか)
この三日間で彼女がやってきたことは、まるで死にゆく老人の身辺整理の様にしか、ビスには見えなかった。
淡々と、勤めて無感情に、彼女は自分の跡を消していっている。
これは記憶の世界だ。すでに終わっていることだと分かってはいても、気持ちを割り切ることは難しい。
午後から虹は、出かける準備を始めた。
身支度する中に、ビスはあれを見つけた。
“本”だ。
赤い革表紙、花の―――蓮のシルエット、タイトルは無い。
(本の一族の本じゃないか! )
虹の手でバックの中に消えたそれが見えたのは一瞬だったけれど、ビスが見紛うはずがない。ビスが見慣れた、あの“本”だ。
話を聞いたときから、まさか、と思っていた。あれがあそこにあるのなら、本当の持ち主もいるはずである。
本の一族がここにいる――――?
ビスは首を傾げざるを得なかった。
“本”は彼らの半身である。まず手放さない。命を捨て置くようなものだからだ。
彼らがいるとしたら、それは管理局員のパートナーとしてだけだろう。では虹は管理局に関わって、異世界に渡ったのか?
その仮説にも、ビスは首を傾げる。
(…管理局が、そんなヘマをするとは思えない)
少なくとも、ビスは知らない。記録に残っていないはずがないのに、ビスの脳には記憶されていないのはなぜだ。
しかし、今はそれを考えても仕方がない。記憶を読み進めれば、いずれ分かることである。
虹は家の鍵を閉めて、自転車にまたがった。
向かったのは、やはり図書館だった。
受付を通り、以前虹が熱心にチェックしていた児童書の棚も素通りして、マイナーな専門書の棚にまでたどり着く。背表紙にある文字には外国語が乱立している。人影は当然ながらない。
虹は本棚にもたれかかった。バックから“本”を取り出して、胸に抱く。
そして長く息をつく。
「…ねえ、私、決めましたよ」
自分に語りかけられているような気がして、ビスはどきりとした。
「私にあげられるのは、体と名前、それだけです。親からもらったものですけどね、あげた本人たちがいらないっていうんだから、私の好きにしていいはずです。でも体は勘弁願いたいところですね。後のことを考えると」
虹は、隣に立つ影に向かって話しかけていた。
「私、すごく前向きに考えてるんですよ。協力してくれますよね」
(それで本当にいいのか)
『本当に、いいのかい』
その声と、ビスの心の声とが重なった。
影は形のはっきりとしない、靄のようなものだった。始終、無い風にゆらゆらしている。“それ”は少年の声色で話した。
『本当にいいの? 』
「だって、ほしいんでしょう? これは取引ですよ。持ちかけてきたのはそっちじゃないですか」
『そうだね。でも……』
「いまさら、親からもらった名前をそんな、って? でもあなたもその“親からもらった名前”を忘れてるじゃあないですか」
『でも、僕は名乗っただろう』
「ええ、そうですね」
虹は“影”の名前をこう呼んだ。
「わかってますよ、ニルさん」
影が微笑む雰囲気がする。いや―――靄だった影は、確かに形を整えつつあった。少しずつ、確実に、ニンゲンの形を模っていく。
(――――虹はこれを見せたかったのか! )
「…ねえ、あなたの名前は、『コウ』じゃないんですか? 」
おずおずと、上目づかいに虹は『ニル』を見た。
「違うよ。僕はもう“コウ”じゃない。魔法使いになった時に、たぶん別のものになったんだ」
「トム・リドルが、ヴォルデモートになったみたいに? 」虹ははにかんだ。
「貴方が本当に魔法使いだっていうんなら、私は世界征服のために、魔力電池にされて操られるんですかね」
「まあ…たぶん、今の僕は、あの日記みたいなものだよね……」
しょんぼりと項垂れる――――推定――――『佐藤幸一』少年は、虹とどこか似た、黒髪の小柄な少年だった。
「確かに僕は、その本の通りに殺されたけれど――――でも、その先があったのさ。幽霊みたいなものだよ」
「ふうん。そんなあなたが、私の復讐の手伝いをしてくれるなんて――――変な話」
『ニル』は苦笑して、虹の頭に手を置いた。
「僕はね、生まれ変わりを待ってるんだ」
「そう。私とおんなじですね」
「そうだね。僕も、彼に名前を捧げた身だ。先輩ってところかな。今の僕は、魔法使いでもあるけれど。だから…今の僕と君じゃあ、意味が違う。魔法使いと“取引”して、フェアな方がおかしいんだよ。一口に『名前』っていっても、馬鹿にしない方がいい。名前は生まれて最初にもらうものだよ。この世に生を受けてから、十四年間を君と過ごしてきたものだ。君の十四年間と、両親から脈々と受け継がれてきた『血の縁』が詰まってる。君は、いろんなものを取られるよ。それでいいの? 」
「むしろ、盗っていってもらうためにするんですよ。バカにしないでください」
「言っただろ。今の僕は、魔法使いでもあるんだ。正直、『魔法使い』としての『僕』は――――君との『取引』が、よだれが出るほど待ち遠しい。魔法使いと『取引』するっていうのは、そういうことだよ。この世から消えてしまう覚悟じゃなくて、世界にしがみついてでも生きる覚悟はある? 何があっても、自分を見失わない覚悟は? 自分の物語を、他人にゆだねない覚悟、どんな結末を迎えたとしても、戦い抜く覚悟――――――…」
「覚悟、ありますよ。明るい未来を生きるための覚悟ってやつがです。幸せになるために、私は生まれ変わるんです。次に進むために復讐を置いていくのです。すべて、私が幸福を手に入れるための布石です。だから貴方に、名前をあげるんです」
虹はにっこりとした。
「持ってけ、泥棒」
『ニル』は切なげに笑って、虹の胸に抱かれた“本”に右手を当てた。
「次に会う時に、君と“取引”をしよう。君の名前をありがたく買わせてもらうよ。変わり、君の望むものをなんでも売ろう。七月三十一日に、この場所で―――――』
『ニル』は言い終わるや、あっという間に影に戻って消えた。
彼女ははたして、ハッピーエンドに向かっているのだろうか。
(いや…僕がそれを言うのは、烏滸がましいことだな)
少なくとも、“今”の虹は笑えている。はつらつと、快活に。
しかしその笑顔の後ろには、この過去がある。彼女に降りかかった不幸、彼女が撒いた不幸―――――。
ビスが“不幸”と決めつけるのも、烏滸がましいことなのだろう。わかっている。けれど今がどうであれ、目の前の彼女を幸福だとはとても言えなかった。彼女の両親もまた、不幸である。
ビスにはあの悪夢が、彼女に憑りついているように思う。この身の丈に合わない不幸が、獏を呼んだのだ。
七月三十一日の朝、虹は制服を着て家を出た。鍵はあえて締めなかった。
駅に向かい、一度だけ、いつもの電車に乗った。
そのまま歩いてバス停に向かう。道すがら、見かけたポストに投函するのも忘れなかった。
∞∞∞∞
『ステップファザーズステップ』と同じ作者で、『夢にも思わない』という小説がある。
ある日突然、普通の中流家庭である主人公の家に、五億円が転がり込む、というところから始まる。ジャンルとしては、これも家族愛――――色々な縁の話なのだけれど、これは実は、男と女の自分を賭けた、大博打の話である。(詳細はネタバレになるから言及しないけれど)
本当に、『夢にも思わない』ような出来事が次々と起こる話なのだけれど、これもやっぱりハッピーエンドだ。続編があるので、『ステップファザー』よりも明確なハッピーエンドである。
ばらばらになった家族は、雨降って地固まったのだ。その雨は確実にゲリラ豪雨だけど。
主人公は成長する。大人になる。彼と私は同世代とは思えない。
実を言うと、私も最近、大きな賭けをしていた。
結果は、まあ惨敗だったわけだけど、おかげで決心はついた。どうやら、私に幸運の女神は振り返ってはくれないようなのだ。仕方ないよね――――なんて言いつつ、さんざん泣いて、喚いて、死ぬんじゃないかってくらい泣いて、頭がおかしくなるくらい喚いて、枯れるんじゃないかってくらいにまた泣いた結果なんだけど、そういうのは見せない方がカッコいいじゃない?
私も夢にも思わなかった。
私が、まさか、こんなに人を憎む日がくるなんて。
いやいや、自分をまさか、人生で誰かを一度も憎まないで(または、憎まれないで)生きていけるような、お綺麗な人だとは思っちゃいないけれど、でも、だって、この平和な日本で憎悪を知るのに、十四歳は早すぎるんじゃないのかと我ながら思ったのだ。
そう思ったら、より憎らしかった。
あの悪夢は初夏のことだったか。自由になるために、彼らは私を生贄にしたのである。
きっと私は、この街を離れることになるでしょう。叔母が地方にいるから、きっとそっちに行くことになるだろうと思う。
ボッチでコミュ障の私が、新天地でうまくやれるとは思えないし、何よりあの電車からのあの景色は、もう二度と拝めないかもしれない。
知ってるかい? 景色ってのはね、人が住んでいる限り、少しずつ、確実に変わっていくのだ。
昨日とは違う景色が、今日の景色にもあるのである。明日にはあるのである。
私にだって、ささやかな夢があった。
あの電車の、運転手になれたなら――――そうすれば、この街の変化をずっと見ていられたろう。そんな遠い未来じゃあなくても、高校はあの電車で通えるところがいいなあ――――なんて、思っていたのだ。
無知が罪だっていうのなら、なんにも教えちゃくれなかったのはそっち。
一か月待って、それまでに帰ってきたら全部許すつもりだった。
賭けは負けた。
ひどい裏切りだ。
私はこんなに、信じていたのに。
これを読んでいるあなたには、真相を全て書こうと決めていました。
これを読んだら、お好みの時でいいので、私を尋ねに来てください。私がいないと分かったら、学校にでも、警察にでも、好きなタイミングで告げ口してください。
「あの子実は、お家にずぅっと一人ぼっちだったんですよ」って。
私は世界をひっくり返したって、きっと見つからないでしょう。絶対に見つからないところに逃げますからね。
遺書じゃありませんよ。
でも、そう思って涙のコメントの一つでもアドリブしてくれると、とっても素敵です。
これは私の二度目の賭けで、復讐です。
私がいなくなった後の世界で、あの人たちがどうなるか。
泣くでしょうか、憤るでしょうか。とにもかくにも、私が望む最高のシュチュレーションで、彼らがこの家に再び引き摺りだされることを望みます。
奴らが捨てたんじゃない。私の方から捨てたんだ。
何かのドラマの台詞ですが、素敵な一言ですね。
奇跡は狙い撃ちするものじゃあないから、だから私に奇跡は起こらない。
私が帰るまで家の電気は付かないままだし、冷蔵庫の中身は勝手に補充されないし、床にゴミが落ちても私以外は誰も拾いやしないのだ。
あの兄弟は、一度だって絶望したりはしなかった。なんでかって、そりゃあ生まれついての相棒が隣にいたもんね。『夢にも思わない』の主人公だって、強力な相棒がいたから。
今の私は、人は自分一人じゃタフではいられないんだって、受け入れてしまうことが何よりも怖いのだ。
だから私も、魔法使いに会いたかった。
もし、もしも、この悪夢から逃げ出すことができるのなら、それを何より願うのだ。
あの人たちが逃げたのなら、私が逃げちゃいけない道理なんてないじゃあないか。このまま行きたくもない場所に連れて行かれる前に、行きたくもない場所で自分の心を殺しちゃう前に、私は好きなところに逃げようと決めた。
それはきっと許される。誰が許さなくても、私が許す。
ねえ、おまえが本当の魔法使いだっていうんなら、私と取引をしよう、ってね。
あいにく私には何もない。
ただの子供の私が持っているのは、親からもらった名前とこの体だけ。もらったっていっても、与えた本人たちが放棄したものである以上は、私の自由にさせてもらう。
身体を切り売りするのはマズイから、君がほしいというのなら、喜んで名前をあげようと“彼”に言った。
私の大切な過去をあげるから、もう絶対に寂しくない未来を売ってほしいのだと。
女の子はその身一つで奇跡を起こすんだって、お母さんがよく言っていた。
あの人に会いに行こう。
未来さえあれば、私は自分で奇跡を起こそう。
これが、私の身に起こった全て。
そうして私は、生まれ変わった。
『虹』という、私の物語の語り部になれたのだ。
これから泣くことが増えるだろうと分かっていた。
私は“知って”いる。
これからの筋書きを知っている。
ビスくん、君は、私がそうだったように、たくさんの人に出会うでしょう。 君はきっと、主人公だから。
“私”の記憶を見て、どう思うのか。どうするのか。
たくさんのものを見て、たくさんの悲劇を見て、ハッピーエンドは途方もなく遠いけれど、でも可能性はゼロじゃない。私はそう思ってる。
だって、神様は言いました。奇跡は起こらない、この世の運命は定められているって。
この世はあるべき人に、努力に見合った奇跡しか起こらない。
それを人は運命と云うのだと。
奇跡は起こすのです。
奇跡は起きるのです。
――――――さあ、読者の皆様、お手を拝借!
これからの彼らの旅路に、幸多からんことを!
お顔のある、面白いお月様を見上げて思う。
―――――クリスに会いたいな。
手でも握って、そうだな、できるなら、ちゅーの一つでもしてみたい。嫌われたくないし、ほっぺたでいい。
会いたい人に会えた。
いろんな人に出会った。
恋する人に出会った。
――――ああ、幸せだな。
からっぽだった私の心に、こんなにもいろんなものが詰まって、今の“虹”が出来ている。
お父さん、お母さん、私は、もう寂しくないよ。
……泣いてません。泣いてませんとも。ちょっと奇抜なお月様のお顔が、この眼球に染みたって、それだけのことです。
俺、がんばりましたよね?
……ああくそ、クリスに会いたいよぅ。
とぅーびーこんてぃにゅー?




