ヴァーチャル・インサニティ
※※※※
虹は言った。
「俺はこの人が佐藤幸一だと確信しています! 」
彼女の記憶の中に、そう確信する何かがあるのだ。
虹から『コウ』というキーワードが出た以上、あとは彼女に張り付いてさえいれば、事はうまく運ぶ――――そんなふうに思ったビスが考えを改めるのは、そのすぐ後のことだった。
虹が住んでいるのは、ビスの目にも、裕福な家庭の子供だと知れる家だった。
彼女の両親は、裕福さと引き換えに、家にいることは少なく、母親の帰りが日を跨ぐことなどざらである。そもそも、裕福になったのも最近のことらしい。彼女が中学に上がってからのことだ。
母親が彼女の進学にあわせ、自身も仕事に復帰して、一気に収入が増えたのだという。
虹に張り付くようにして門をくぐる。それもすっかり慣れたものだった。
最初は、違和感に気が付かなかった。
それもそうだ。ビスはこの家には二日しかいなかった。飛ばされた十か月のこともある。
(…薄暗い)
それというのに、夕暮れが、やけに朱るく照りつけていた。部屋におちる影が、足元をどろどろと流れている。
虹は淡々と、風呂を沸かし、部屋を軽く掃除をして、食事をして、テレビをつけることもせずに眠りについた。
その日は、陽が落ちても気温のなかなか下がらない、寝苦しい熱帯夜だった。
それは、夜にやってきた。
ビスはリビングに留まり、朝の訪れを待っていた。『飛ばして』も良かったけれど、考える時間がほしかったのだ。
幸い、この世界で疲労は感じない。
時計の音だけが、やけに大きく響いている。深夜でも、外からの明かりで真暗とは程遠い。締め忘れた遮光カーテンの下にある、レースのカーテンごしに満月が見えた。
ぎぃ……
蝶番が軋む音に、ビスは椅子からぱっと立ち上がった。
リビングの扉が開いている。虹が下りてきたのだろうか。階段を踏む音は聞こえなかったが―――――?
扉の隙間に身を滑り込ませ、廊下を確認した。無人だ。
玄関のドアにある曇りガラスの小窓から、門前の街灯の明かりが見えた。
ひたひた
ひたひた…
無音で忍び寄る影を感じ、ビスは階段を仰ぐ。
“それ”を視界に収め、鋭く息を吸った瞬間に、ビスの脚は宙に浮いた。
視界が回る。固いものに、背中から叩きつけられる。それが壁か床か、天井かも分からなかった。
痛みを感じるより一瞬先に、頭が働いた。とっさに横に転がって、転がりながら痛みに身を縮めた。
(――――痛みに呻いている時間はない! )
痛覚を追いやって立ち上がる。
視界に捉えたそれは――――影だった。
かろうじて動物のシルエットをしているそれは、女のようなぶくぶく膨らんだ両房を胸に持っていた。でっぷりした腹を重そうにゆすりながら、短い手足を右に左に、体を動かしている。顔は長く、真ん中から鼻のようなものが垂れ下がっている。
(なんだこれは――――)
胸まで垂れ下がる鼻から、その体と同じ影が垂れ流されて、床に溜まっていく。
「オレ ユメ」
喘ぐような声で、化け物は言った。
ぜいぜいとした声は、金属が擦れるような唸り声に変わっていく。
「ヴギィィィィィィィ………」
小山のような黒い背を揺らし、獏は荒い息を吐いて唸った。
「お、おまえは、なんですか」
「オレ アクム」
「悪夢…? 虹の…? 」
「×××……×××……」
「彼女の、悪夢? 」
「×××ノ アクム―――――」
嫌々をするように、獏は激しく首を振った。獏の顔から流れる影が、もぞもぞと床の上で這いまわっては悶え、ビスの足首に、べたつく触手を伸ばして縋り付いた。
ヴギィィィィィィィイイィぃイイイイイイ!!!
獏の咆哮は、世にもおぞましく不快な音としてビスの脳を揺さぶる。
(これは、虹の夢)
(彼女の悪夢なのか――――)
ビスは身を低くして、咆哮する獏の横腹をすり抜けた。
(振り返るな、振り返るな、振り返るな、振り返るな―――――)
階段を駆け上がる。虹の部屋のドアは、まるでビスを迎え入れるように、不自然に開け放たれていた。
ここは虹の記憶の世界。
“アレ”は、虹が創ったものだ。
もうもうと部屋中に影が立ち込めている。
(虹はどこだ――――)
この年頃の少女の部屋としては、破格の広さであろう一室だが、それでもけして広くはない。せいぜい、この扉から、室内全てを見渡せるくらいのはずだった。
影は彼女を覆い隠し、人外魔境の様を表している。
これは虹の記憶だ。夢の記憶だ。
熱帯夜のはずだ。だというのに、汗はひたすらに冷たい。
「――――虹さん! 」
聞こえるはずがないと分かっていた。しかし、彼女が目を覚まさない限りはこの悪夢は解けない。
(朝を待つしかないのか……)
ヴギィィィィィィィイイィぃイイイイイイ……
階下で、獏が啼いている。
ふいに、ぴたりと鳴き声がやんだ。
ひたひたと、音も無く、真っ黒の巨体が迫っているのがわかる。あれはビスを追ってきている。
(ここにいても意味がない)
これは、虹の夢なのだ。
は、と、瞠目してビスは振り向いたと同時に、後ろに倒れた。
自分で倒れたのだ。獏の短い腕が触手で倍ほどにも伸びて、ビスの真上を鞭のように空振りしていく。
転がるようにして右足を踏み出し、ほとんど這い這いで、隣の部屋のドアノブを掴んだ。
―――――これは虹の夢。
ほとんど博打だった。ドアノブが回る。
ビスは室内に、左の脇腹から倒れ込んだ。フローリングがビスの肋骨を歓迎する。獏は部屋には入ってこなかった。
呻きながら、ビスは身を起こした。口の中に血の味を感じる。
その部屋は、おそらくは虹の両親の寝室だった。
顔をあげたビスが驚いたのは、その部屋が極端に荒れていたからだ。
開け広げられたままの押入れ、中身がぶちまけられた箪笥は横倒しになっている。花柄の壁紙はべたべたしたものでどす黒く変色していた。糖度の高いジュースか何かだろうか。暗い中で見ると、それは血痕にも見えた。
カーテンは布の端がレールに引っ掛かっているだけで、レールが歪んで滑車が落ちているのを見るに、強く下に引いたのだろう。ベットのシーツはマットごと、何か刃物で真っ二つに裂かれている。その上に、燃えた紙くずのようなものが降り積もっていた。
ベット端に、炭に変り果てる前だったはずのものが落ちていた。
指先ほどに切り刻まれたそれは、写真だ。切れ端の中で、女の生首が笑っている。
おそらくは、家族写真。
今でこそ沈黙が降り積もっているが、それは誰かの憤怒が残した傷跡に見えた。
写真はここで切り刻んで、どこかほかの場所に持ち込み、そこで灰にして、またこのベットに撒いたのだろう。
ひどく、冷静な破壊だった。
だからこそ。
だからこそ、その人物はどれほどの怒りをこの部屋にぶつけたのか。
疲労は感じないはずなのに、ずっしりと体が重い。
そんなことをしたのは誰か、と考えた時、ビスには一人しか浮かばなかった。なおも冷たい汗をかいた。
しかし今は、ここで朝まで乗り切ることだけを考えよう。
ビスは思考に蓋をして、目を閉じた。
その夜、彼女の両親は帰ってこなかった。
虹は八時に起き出すと、パンを一枚だけ焼いて朝食を終えた。
(……洗濯物が溜まっている)
パンパンに山になった籠の中身を、虹はテレビアニメを見る片手間に、手早く選り分けてネットに入れ、洗濯機に放り込んだ。
虹はその後、おもむろに大掛かりな掃除を始めた。
家じゅうの扉を、窓と言う窓を開け放ち、二階の自室を始めに、上から清めていく。リビングは特に念入りに、ワックスがけまで行った。
掃除には一日かかったが、虹は両親の寝室だけは、ドアに触れさえもしなかった。
ビスの憶測は、その作業を見届けた後では、ほとんど確信になっていた。
―――――ああ…この子は今、一人ぼっちなのだ。
洗濯物には一つとして、虹以外のものらしい衣服は、混ざっていなかった。




