グロウアップ
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『ステップファザーズステップ』という小説を、ご存じだろうか。有名な作家さんだし、一度はドラマ化もされたから、そこそこ知名度はある小説だと思う。
両親が揃って、それぞれの愛人と手に手を取り合い失踪してしまった――――という世にもまれな体験をした双子の男の子達のもとに、お隣に入ろうとしていた泥棒が落雷事故で落ちてくる。物語は、そのおっちょこちょいな泥棒の視点で始まる。
この双子は困っていた。それというのも、そろそろ“保護者”が必要だと感じていたからだ。
泥棒を介抱した双子は思いつく。
―――――そうだ、こいつを僕らの“お父さん”に仕立て上げよう、と。
どこかでこの小説のことを『奇跡が降りそそぐ物語』と評していたのを覚えている。
双子には、多くの奇跡が降り注ぐ。
まずは彼らが一卵性の双子であったこと。両親が何も知らず、それぞれ愛の逃避行に出たタイミング。
そしてお隣に泥棒が視察にきていて、それがまさか落雷のとばっちりで双子の元に落ちてきた。しかもその泥棒は、悪人らしからぬお人よしだった――――とくれば、双子には神様でも付いてるんじゃあないかと思えてくる。
ちなみに、一卵性双生児が生まれる確率は0.4%、日本で落雷事故に遭う人は、10年間で150人以下である。
ついでに双子は揃って素晴らしく頭の出来がよく、文面から見るに不細工というわけでもないようなのだ。こりゃあツイてる。たぶん幸運の神様みたいなものが憑いている。
……っていっても、本を閉じてしまえば、「そういえばこいつはフィクションだった」と気付くのだけれど。
この世は世知辛いことに、そんな奇跡は起こらない。
いいや…起こるかもしれないけれど、可能性は0ではないけれど――――それでも0.00001%の一例にぶち当たるのに、私はきっと役不足だ。奇跡は狙い撃ちするものじゃあないから。
※※※※
記憶の世界において、ビスの行動範囲は限られる。
記憶の持ち主である“虹”がより印象深い場所以外は、彼女自身のイメージが不確かであり、何があるか分からない。
例を出すなら、平日の昼間の街。
学生である虹は、学業に束縛されている間の昼間の街を、まったく知らないからだ。具体的な情景の固まらない記憶の中は、ただ心象風景が流れているイメージの世界でしかない。穴だらけの世界は、いつ足元が抜けるとも知れず、進むのは困難だった。
同じ理由で、夜の街も出歩くことはできない。虹は極めて健全な子供であった。
この法則は、記憶が休日に進むと、縛りが緩む。
虹はあまり行動的な少女というわけではないようで、行動範囲が広がるといっても、偏ったものだが。
(それでも広い街の中で、行動範囲の“縛り”があるというのは、自分にも都合がいい)
虹の記憶の世界の法則としては、もう一つある。
ここは記憶の世界である。ビス自身は、ものに触れることは出来ても、影響を及ぼすことはできない。
誰の目にも映らず、ビスが立てる音を耳咎められることもない。扉ひとつ開けることができないのだ。
もし目の前を扉で遮られなら、記憶の中の“登場人物”が、明けてくれるのを素直に待つしかない。
ビスは虹の行方を探し、校内を歩き回っていた。
記憶を“飛ばして”最初に出た、集会をしていた体育館にも戻ってみた(そこには確かに虹がいたはずだ)が、集会はとっくに終わっていたようで、体育館には鍵がかかっていた。
虹の教室にも行ってみた。夏も盛りに入り、窓がどこも開け放たれているのが救いである。虹はいなかった。
職員室に戻ってみて、虹のクラス担任の女教諭を見つけた。そこで、ビスはようやく虹の居場所を耳にすることになる。
同僚の壮年の教諭を言葉を交わす中で、すっかり耳慣れた不快音がしたのだ。
「×××さん、やっぱり熱中症かしら」
「ふだん倒れない子が倒れると、どうしても心配になりますよねェ」
この記憶の中で、虹の名前は呼ばれることが無い。
「×××さんねぇ……」
女教諭は少し考え込む仕草をして、同僚に声を潜めた。
「…最近、顔色が悪い気がして、心配なんですよね」
「まあ、多感な時期ですからね。小さなことでも、彼らにとっては大きな変化になりますから。そっと見守りつつ、待ってやることですな」
「でも…なんだか……――――いえ、言葉じゃ、なんとも言い難いんですけれど」
「子供にはいろんな困難があるものですよ。私たちにとっては、小さいことかもしれませんがね。程度にしろ、まずは様子を見るのが賢明ですな」
「そうですねぇ…」
(虹は倒れたのか)
ビスの知る虹なら夏の暑さにもけろりとしていそうだが、確かに―――この記憶の中の彼女なら、熱中症で倒れるということも、ありえそうな気がしてくる。
ビスは、電車の窓辺にいる、幽霊染みた立ち姿を思い出した。
この記憶の世界の持ち主のはずなのに、彼女が誰より生気がない。
しかし具合を悪くしたというのなら、保健室だろう。ビスは開け放たれた扉を出て、リノニウムを踏んだ。保健室は職員室と同じ一階で、廊下の端と端である。
虹ははたして、そこにいた。
※※※※
「……本を拾ったんです」
木の引き戸の向こう側で、虹の声がした。ずいぶん久方ぶりな気がする。
声色は、弾丸のように言葉が飛び出てくる今とは比べるまでも無く舌っ足らずで、話をすることに慣れていない気がした。
保健室は空調がきいているため、窓も扉も締め切っているのだ。さらに熱中症の子供がいるというのなら、当たり前のことだった。
ビスは扉の前で、じっと彼女の声を聴いた。
「本? 」
女の声が聞き返す。
「先生、お話……きいてくれますか」
「ええ…もちろん」
養護教諭は応えた。
「変な本を拾ったんです」
「どんな本? 」
「なんか赤い革張りで…綺麗な本です。古臭くて、でもぜんぜん綺麗で、なんだか高そうな。図書館で見つけたんですけど、ビニールのカバーがかかってなくて…」
「図書館で見つけたの? じゃあ、図書館の本なんじゃない? 」
「表紙の折り返しのところにもバーコードがないし、タイトルも無いんです。落し物に届けようと思ったけど、なんとなく持って帰ってきちゃって」
「落し物なら、探してる人がいるかもしれないわ。早めに届けた方がいいんじゃないかしら。高そうなんでしょう? その本」
「ううん……そうなんですけど…でもそれ、もう去年の秋のことなんです。すっかり忘れてて、この前、部屋から出てきて」
「あら、タイミングを逃したってやつね」
「…そう、それです」
ふう…と、虹は細い息をついた。
「それでですね、その本なんですが」
ふわふわした覚束ない声で虹は続けた。
「…先生、その本、すごく面白いんです」
まったく面白そうな言い方ではなかった。
「へえ…何か本に仕掛けでも? 」
「いいえ、ただの本です。書いてあることが、ふつーに面白いんです」
「ふうん…小説だったの? 」
「いや、日記ですかねぇ…いや、自伝、私書ってやつ、かも。ずうっとね、独白なんです。誰かに読ませる前提、って感じの…」
「あら、先生も気になるわ、その本。どんな内容なの? 」
「それがですね、その人は“魔法使い”なんだっていうんですよ。起こることもファンタジーで…だから、フィクションなんでしょうけど、面白くて。“彼”がですね、魔法使いに弟子入りするところから始まるんです」
「へぇ…」
「それは、“彼”が、師匠の魔法使いに殺されるまでの話なんです。“彼”の師匠は、大きな使命があって…たぶん、行ったら死んじゃうんですよね。特攻隊みたいな役目を、“彼”の師匠は負っているんです。だから“彼”は師匠を止めようとする――――でも、師匠も使命ですから、弟子でも邪魔をするなら薙ぎ払わないといけない」
「それで殺しちゃうの? 残酷な話ねぇ…」
「いいえ、弟子も、わかってるんです。師弟して、似た者同士なんです」
まるで実在の人物を言うように、虹はきっぱりと言った。
「弟子も、ここで止めたら殺されるってわかってるんです。師匠は使命のために家族も捨てて、仲間も殺していますから……一番、師匠のとこが好きで、恩を感じてる“彼”が、分からないはずがなかったんです。でも止めたかった。“彼”も、故郷を失くして天涯孤独でしたから。師匠が死んでしまったら、弟子には意味が無かったから……その“本”は、実は“彼”の長い長い遺言だったんだって、最後に分かるんです」
「へえ……」
養護教諭は、それ以外に感想の言葉が出てこないようだった。
「不思議なのは、まだあるんです…その語り部の名前がですね、“コウ”って、いうんですよ」
「コウ? ×××さんも、確かあだ名が“コウ”よね」
「そんなんです。それが、なんだか……いいなあって……」
語り終えた虹は、満足したのか、ぶつりと言葉を切らした。教諭も言葉を探し、自然と沈黙する。
ようやく。
ようやくだった。
「見つけた……」
扉の前でビスは、固く拳を握った。




