閃光少女
私の名前は×××。
今は『虹』と自称している。
本当の名前は、どこかにいってしまった。
∞∞∞∞
『盗まれた記憶の博物館』、という児童書をご存じだろうか。
ドイツに住むとある姉弟が、『忘れてしまった』父親捜しをするところから始まるファンタジーだ。
それも、ただ忘れたのではない。ついこの前までいっしょに暮らして、博物館に勤め、保護者として立派に姉弟を育てていたシングルファザーが、ある日突然に人々の記憶からいなくなるのである。
父を覚えていたのは、日常に明らかな違和感を感じた幼い姉弟と、一家とは限りなく他人である一人の女性だけ。
事件に絡んでいるのは、『忘れられた』もの達が行く異世界。父をそんな異世界から連れ戻すため、『こちら』と『あちら』、二つの世界で奮闘する大冒険の物語である。
最後はもちろん大円満。
事件が結び付けた縁の繋がりが新しい家族を迎え入れる感動のラストは、青少年のココロにはこう、キュンとくるものがある。
大冒険が結び付ける『縁』というものに憧れるのは、いつの世も、誰にでもある欲求ではなかろうか。
だから私は、あの人に会いたかった。名前なんて目に見えないもので対価を支払えるのなら、なんてお手軽だと思ったのだ。
それくらい、私は本物の魔法使いに会いたかった。
物語の中、異世界にいる悲劇のあの人――――東シオンという、魔法使いに。
∞∞∞∞
…ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン。
ビス・ケイリスクは、目を開けてみて驚いた。
(あれ、自分は……)
確かにビスは、虹の『眼』を見て、彼女の記憶の中に入っていったはずなのだ。周囲にあるのは、ベンチがずらりと並んだ長い廊下。窓から午後の柔らかい陽光が照らしている。
ビスは窓のガラスに張り付いて外を見た。
瓦の屋根屋根、その上を通る電線、雲の形すら故郷とは違う。過ぎていく景色に、この長細いものは乗り物なのだと知れた。
やはりここは、虹の記憶なのだ。
ビスが『波紋の目』で見るのは他人の記憶だ。――――だからもちろんのこと、ビスが『見る』のは、その人の見た景色、聞いた音、体験したものでしかない。
だとすれば、自分はどうしてこの足で立って、好きに動いているのだろうか。
自分の手の平を触りながら、ビスは箱の中に詰め込まれた人々を見渡した。
隣の男の腕時計を覗き見るに、午後四時十分。窓の外の野山から紅葉が見えた。秋の昼下がりといったふうである。
これは虹の記憶だ。虹自身も、この近くにいるに違いない。
時間帯もあって、車内の人はそう多くは無い。仕事帰りの男、学校帰りの学生、行楽帰りの夫人…。
ふと、一人の子供が目に付いた。
小柄な体躯に紺色のセーラー服を着ている。つやつやした黒髪を、肩にもつかないほどずいぶん短く切っていた。窓の外を熱心に観察する暗い横顔が、あの快活な少女の容貌に似ている気がしたのだ。
ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン。
少女はどこか遠い目をして、座席のパイプを握りしめていた。
※※※※
まる一日、『虹』(と、思われる)少女を見た。
『虹』は、おそろしく大人しい少女だった。教室の隅で、ぼうっとしているばかりである。話しかけられなければ会話はほとんどしない。幸いにも休み時間に会話を交わす固定の友人はいるようで、しかしそれ以外の時は、本を読んでいるか、なぜか折鶴を折ることに没頭している。(ルーズリーフを切って紙から作るこわりようである。)
放課後は、通学路から外れて駅に向かう。定期券で構内に入ると、ちょうど停車した快速をやり過ごして普通列車に乗り込んだ。がらがらの車内の入り口近くを陣取り、じっと窓の外を見て五駅分。
ちょうど隣の市まできたところで、反対の路線に乗り換えて、今来た駅を通過。
結局、一時間かけて五駅分を往復するだけだった。
そのまま帰宅した後は、夕食をとって、宿題をし、入浴、ベットに転がって漫画を読んで、就寝――――という、いたって普通の学生の生活を送っている。
「次を、×××さん」
「はい」
彼女の名前はわからない。名前を呼ばれると、そこだけが抉れたように、ひしゃげた音に聞こえた。
(…らちがあかない)
彼女から離れてみようかと思ったのは、そんな時だった。しかし。
教室の引き戸に手をかけてみて、無理だと悟った。扉は固く閉じて、ビスの手では開かなかった。
(…そうか、ここは記憶の中だから)
この世界のあらゆるものには、ビスが触れて影響を出すことはできない。
つまり、誰かがこの扉を開けない限り、実質ビスはこの教室に閉じ込められているのと同じである。
「―――――月の頃はさらなり。闇もなほ、蛍のおほく飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし…」
古文が少女の抑揚のない声で朗読される。
動けないと分かると、時間を無駄に過ごしている気がしてくる。ビスは長く息をついた。
∞∞∞∞
小さなころから、乗り物に乗ることが好きだった。
労せず遠い地へ運んでくれる魔法の箱から、じっと外を見るのが好きだった。
物心ついたときには、誕生日には、図書カードか電車の定期券か、バスの乗車券の束をせがんでいた。
動くものから、流れる雲や空の色を見るのが好きだったから、街道を通らざるを得ないバスよりも、建物と距離を取っている電車の方をなんとなく好むようになった。
でも高速道路を走る車からの景色も好きだったので、車の免許を取れる年齢になるのが待ち遠しく思う日々だ。
中学の通学路から脇道を逸れると駅に出ることを覚えたので、誕生日に定期券を買ってもらって、友人が部活動に励む時間に毎日小さな旅行を繰り返すようになった。
『乗り物に乗って』、『景色を見る』ことがこの行動の意義なので、いわゆる鉄オタの人たちとは違って、路線だとか時刻表だとかにはまったく興味をそそられなかった。
定期が切れる三か月間ほとんど毎日を、見慣れた街の景色を俯瞰して眺める。空の形が同じ日など一度として無い。見慣れた街並みが見慣れない空に照らされているのを、シャッターを切るようにして記憶にストックした。
乗り物が好きだったので、自分から動くことは心底嫌いだった。走ることなど嫌悪していた。マラソン大会など、親の仇ほど憎悪していた。
人には確かに足がある。しかし、しかしだ。
それをわざわざ早く動かす必要は無いのではなかろうか。風を感じるのに、汗だくになる必要は無いのでは無いだろうか。ならば自転車の方がまだマシである。
のんびり歩くことと自転車はそこそこ嫌いではなかった。
生来マイペースな性質なので、『小さな旅行』も、一人旅を好んでいた。
※※※※
『記憶』の中で、ビデオの早送りのように場面を飛ばせることに気が付いたのは、二日目の夜になってからだった。
なにぶん、『大森昂』の時とは勝手が違う。『大森昂』の時は彼自身の視点からだったためか、彼がより印象的なところを切り取っていたように思う。
『虹』の記憶では、ビス自身の確固とした意思の自覚がある。制限はあっても、ビスの視点で自由に行動ができるのだ。
記憶の中の少女と過ごすうち、ビスの中には彼女が『虹』だという確信が固まってきていた。
場面を飛ばすと、必ず『彼女』の隣に出るのだ。
これつまり、この記憶は『彼女の視点で』進められていると考えていいのではないか。
ほかには外見の酷似も、名前が聞こえないという特異点もある。けれどもそれ以外にも、昼間に確認した事実があった。
授業後、教諭の背中に張り付いて教室を出た。『彼女』の行動範囲は『学校』『駅』『自宅』、それ以外の場所を回ってみようと思い立ったのだ。
結果。ビスは校門から出て十分で、来た道を引き返すこととなった。
校門を出て五分で、景色がおかしいことに気が付いたのだ。
電柱の背が異様に低いと思ったのが最初。次に、通学路の脇にある竹林がやけに茂っていると思った。あれでは陽も差さない。
次のかど、昨日に少女が通っていた道以外を行こうと思ったのがいけなかった。
巨大すぎる家々、視界が白く染まるほど眩しい陽光、かと思えば小人のように小さな影法師の盆踊りを横目に、野山の景色を四角に切り取る窓辺があり、レースのカーテンが揺れている。
熊のように大きな、真っ黒い影法師の犬らしきものの尻尾の先を横切ってしまった瞬間に、ビスは行く先の困難を悟って来た道を戻っていた。
ビスはあの混沌とした情景を、平日昼間の街が『虹』の記憶に無いからだと推察した。『虹』はまだ幼いといっていい年だ。学業に拘束されている間の昼の街を、彼女はほとんど知らないのだろう。
彼女の学業のスケジュールを見るに、週末には休みがあるようだったので、さっそくそこまで飛ばしてみた。
土曜の朝。彼女は休日は家から出る気が失せるようで、部屋着のままテレビを眺めている。
彼女の母親について玄関を出た。
一日かけて地道に足で調べたのは、『休日は昼間でも行ける場所がある』ということだった。
通学路はもちろん、おそらく母校だろう小学校への道と、コンビニ、本屋、駅、電車も乗ることができた(ただし五駅先まで)。あとは――――図書館。
必ず『虹』がふだん通るルートがある。それが実物により近しく、鮮明に記憶されている道なりで、ビスが行動できる範囲だ。つまり、『虹』の行動範囲でもある。
(…やはり彼女が『虹』だ)
夕方までかけて足で調べ抜き、図書館で『彼女』の後ろ頭を見つけた時、ビスは確信した。
ビスは、この図書館に見覚えがあった。
『虹』が訪れたこの場所――――役所に隣接した『中央図書館』と名された本の森は、『昂』の記憶で見た、『幸』の消えたあの場所と合致する。ここは、消えた少年たちがいたのと同じ街なのだ。
『コウ』と呼ばれる彼らは、共通してこの図書館に足を運ぶのだろうか。
虹は児童書の棚をたっぷり四〇分かけて吟味し、図書館を後にする。
昇降口を虹の後について出て――――ビスの耳に飛び込んだのは、セミの鳴き声だった。
前に歩く虹の背中は、大きな紺色の襟をした白いシャツに包まれている。
(――――これは、記憶の場面が飛んだ? )
さきほどまでは確か秋だったはず。枝が真っ赤だった桜の木は、今は青々と茂っている。ビスは呆然と花壇を仰いだ。
格好が涼しげになった以外、虹はまったく変わらなかった。
相変わらずぼんやりとしていて、相変わらずどこを見ているのか分からない遠い目をしている。
アスファルトが風景をぬるぬるに溶かしているのに、暑さを感じないビスも眩暈がした。慌てて、場面を飛ばしてみる。
「――――して、明日から夏休みです……」
集会らしきところまで飛んで、慌ててビスは日付を確認できるものを探した。
猛暑に校内のどの扉も開け放たれているのは幸いで、職員室で掲示板に張られたカレンダーを見つけた。
(…明日から夏休み、だって? )
それならば、今日は七月十七日だ。
(『佐藤幸一』が消えたのは、七月三十一日―――――)
佐藤幸一だけではない。十四歳の少年たちが、行方不明になるその日まで一週間と少しである。
まだ『佐藤幸一』とも、『大森昂』とも、ビスは――――『虹』は、出会っていない。
いや出会ったとしても、佐藤幸一がニルだという証拠を手に入れなければ意味がない。
夏休み――――虹は休日に入る。それも、長期休暇だ。
虹だって夏の盛りに気が大きくなって、行動範囲を広げるくらいはするだろう。少なくとも、無気力なこの『記憶の中の虹』はまだしも、ビスの知る『虹』は、そういうタイプと相違なく見えた。
この虹も過去の彼女なのだから、そういった面があると信じるしかない。
するとおそらくはビスにだって、格段に動ける自由が手に入るのだから。
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私の名前は×××。
今は『虹』と自称している。
本当の名前は、どこかにいってしまった。
『魔法使い』にやってしまった。




