ノルニル
※※※※
女の声がする。
【――――ビス・ケイリスク】
僕を呼んでいる。
【そっちに行ってはいけない】
【それ以上は見てはいけない】
【耳を貸してはいけない】
【それ以上見てはいけない】
【目を開けなさい】
【耳をふさぎなさい】
【目を開けて考えなさい】
【返事をしなさい】
【呼ぶ声に返事をしなさい】
【呼んでいる】
【呼んでいる――――】
【呼んでいる―――――――】
僕を呼んでいる。
「――――ビスくん! 」
長く本を読んだ時のように、米神と目の奥がにぶく痛んだ。手足の末端は、痺れて感覚が遠い。
目前の見覚えのない少女は誰だったかと一瞬考えて、次の瞬間には、ぼやけた頭に記憶の濁流が流れ込んできた。
空では月が笑っている。黄色の雲を取り巻いて、憮然と少年が自分を見下ろしていた。
ニルが大慌てで駆け寄ってきて、額やら手首やらに触れる。
「頭痛は? 吐き気は? 体のしびれや悪寒はありませんか? 」
ビスもまさか『全部あります』とは言わなかった。
症状の原因など分かり切っている。このおかしな状況のせいだ。
ビスは「大丈夫ですから」とニルを押しのけ、頭を振って、深呼吸を繰り返した。
――――大丈夫。
そうだ、これで手札は増えた。
こんなにリアリティの無い世界にいるというのに、夜気は冷たく、脳髄まで冷やしてくれる。
ビスはまっすぐに、目の前の少年を見た。
ビスの一挙一動を待っている彼は、どこか呆然としているようにも見えた。
「あなたの名前は【大森昂】」
ニルが「えっ」と声をあげたが、かまわず続ける。
「【佐藤幸一】の友達だった人」
ニルの肩が跳ねた。ニルの黄色の瞳が、イモムシに釘付けになる。合わさった視線に、イモムシは耐えるように首を垂れた。
「【大森昂】は【神様】に楯にされて、【神様】を討とうとした【東シオン】の刃を受けた」
言いながら、ビスは立ち上がった。
「あなたの名前は、【大森昂】。その姿は、あなたのものじゃないですよね」
「……そこまで見ましたか」
ふぅ――――と、長くイモムシは息を吐いた後、後ろ頭を掻いた。頭に手をやったまま、おもむろにニット帽を取る。
瞬きの後には、【イモムシ】の姿は一変していた。
金茶の髪、灰色の目、そばかすの浮く肌――――。体格はそのままに、面立ちすらも別人に変わり、そこにいるのは凡庸な外見のコーカソイド人種の少年だった。
ニルと虹は、ぱくぱく口を開いては閉じている。
イモムシは言った。
「大森昂はもういない」
「あなたが大森少年なのは、他でもないあなたの記憶が証明しています」
「証明できないね。この世に昂と僕を同じ人間だと証明する術はないんだ」
吹っ切れたように、イモムシは笑った。
「そりゃ、確かにあんたの眼なら分かるだろうさ。でもあんた以外には、僕と昂を結びつけることは不可能だ。人種どころじゃない。この体は遺伝子からして違う人間だぜ? はっ、無理だね」
「以前のあなたとの記憶がある人なら? 友人、家族、恋人――――いっぱいいるはずだ」
イモムシはちらりとニルを一瞥した。
「無理だ」
「どうして」
「人間ってさ、割と外見に頼ってるんだ。言っただろ、指紋どころじゃない。遺伝子からして違うって。別人の体になる経験なんてそうそう無いからピンと来ないだろうけど、僕は本当に全部変わったんだ。眼も、耳も、舌も脳みそも――――前の僕よりちょっとだけ頭の出来が良くなってるし、舌の好みも変わった。その上、この姿になってずいぶん経ってるんだ。思い出なんて目に見えないものじゃあ証明できるわけがない。……たとえ親友だとしてもね。そもそも、証明する必要性がどこに? 」
「……無いと言い切るんですか」
「無いね! 僕は【F】だ! アリスのしもべで、息子で、仲間。それ以外になるつもりはない。たとえ昔の自分だとしても、もう他の誰にもならないよ」
「じゃあ…なんであの記憶を見せたんですか」
「ふん。結局のところ、あんたはそれが聴きたかっただけか」
イモムシは、表情豊かに唇を曲げた。右手は手持無沙汰に、ジャージの首元のジッパーを指先でいじくっていた。
「あんたの足止めに決まってるだろ。現にほら、僕のヘヴィーな過去にあんたは混乱して、無駄に大切な時間を過ごしてるじゃないかよ」
軽薄そうに、イモムシは薄い唇を笑顔に変える。
「ほらほらほらほらほらぁ~ねぇいいの? もっと仲間をちゃんと見てみなよ。刻一刻とあんたらの時間は削られてるぜ」
虹が悲鳴をあげた。
「――――ニルくん! 」
ニルが苦しげに胸元を掴み、膝をついていた。
「……ニル君に毒を盛りましたね」
「ははっ! やっと表情が変わったね、ビス・ケイリスク! 僕も無表情を保つのには苦労したけどさぁ、あんたは正真正銘の鉄仮面だもんね。実はその鉄仮面にイラついてたんだ」
「彼はっ、君の友達でしょう…っ」
イモムシは一転、冷ややかにビスを見下ろす。
「……佐藤と友達だったのはあいつだ。僕はアリスのしもべで、息子で、仲間。…そもそもさ、“そいつ”は誰だ? 佐藤幸一か? 違うだろ。だってそいつを【佐藤幸一】だって、僕に証明する方法も無いもんな」
イモムシは「仕様がないな」とでも言うように、首を振って嘆息した。
(彼を佐藤幸一だと証明する方法がない…? 本当に? )
疑問は沸騰しそうな脳みそに反響するばかりで、答えが迷走する。
(…もう駄目だ)
今回ばかりは、誰も犠牲を出さない結果になると思っていたのに。
「――――証明なら俺がしましょう! 」
力強い声がした。
「俺はこの人が佐藤幸一だと確信しています! 」
親指を自分の胸に押し当てて、虹は言った。
「……へぇ、いったいどうやって? 」
「主に、俺の記憶に基づいて証言します! 彼は佐藤幸一くんです! 」
「…証言? そんなの証明にならないね。言っただろ。記憶なんてそんな目に見えないもの、証明にはならない」
「そうですね! 」
虹は大きく頷いて、胸を張った。
「…ただし、それが二者以上の証言なら? 」
「二者以上……? 」
怪訝に、イモムシは声を低くする。
「そうです! 俺と、俺の記憶を見たそこのビスくん! 二人の証言ならどうでしょう? 話を聞くに、ビスくんは先ほど貴方の記憶を見て…いいえ、見せられて、貴方を【大森昂】なる少年だと確信したそうじゃあないですか。嘘偽りできない記憶と言う真実を、第三者たるビスくんにまるっと裸にしてもらい証言していただく―――どうでしょう? 」
挑発的に、虹はイモムシに指を突きつける。
「おやあ? 表情が変わりましたね? 」
嘘だった。イモムシはぴくりとも表情筋を動かしていない。動いたとしたら――――それは、虹のハッタリが利いた今だけだった。虹はイモムシを追い詰めるようににじり寄る。
「ほう…ほうほうほう、つまりこの方法は、心の底では貴方も信じるしかない正統な証拠というわけっすね? 」
「…言っただろう。そんな、形の無い“記憶”なんて証拠――――」
「いいえ、ビスくんが嘘を言わない限り、俺の証言は証拠になるはず! そうですね…なんなら、別々に証言することにしましょうか。俺と、俺の記憶を見たビスくん。二人が別々に、同じ証言をしたならば、それは限りなく証拠となるだけの情報でしょう。違いますか――――大森くん! 」
ぽかんとして、ビスは虹の後ろ頭を見ていた。
「お忘れですか? 他でもない、ゲームマスターのあんたらが決めたんじゃあないですか。俺のこのゲームでの特性は“息子”っす! 得体のしれない“毒吐きジャバウォック”を討つは、この虹の役目と心得ました! 」
「…いいよ。好きなだけ証明しろよ」
ビスはごくりと唾を飲んだ。
❤❤❤❤
それは煮そろ時じ、俊るりしオモゲマたちが
幅りにて環繰り躯捩んする頃
ボショバトたちのみじらしさ極まり
居漏トグラがほさめる頃
「息子よ、ジャバーウォックに用心せい!
噛みつく顎に、つかむ爪!
呪侮呪撫鳥にも警戒を、して
おそかなき犯駄酢那智をも避けよ!」
男子、ねれたる妖剣を手にとり
かねてより追い求めし恨髄の敵――
そして男子はの木の傍らで休み
しばし回想しつつ立ちつくす。
そしてけそかき思いにふけるうちに
炎の瞳のジャバーウォック
憂騒たる森中よりのそり出で
呆拷しつつ襲じむる!
一撃二撃! ぐさり、またぐさり
ねれたる刃が舞い踊る!
男子そやつを屠り頭を取りて
闊歩大笑して騎ち帰る。
「してジャバーウォックを仕留めたか?
ほくれし息子よ、わが腕にまいれ!
嗚呼ゆるばしき日かな! 億歳! 兆歳!」
父は喜びに高笑い。
それは煮そろ時じ、俊るりしオモゲマたちが
幅かりにて環繰り躯捩んする頃
ボショバトたちのみじらしさ極まり
居漏トグラがほさめる頃
ルイス・キャロル著/『鏡の国のアリス』ジャバウォッキーの詞 『プロジェクト杉田玄白』http://www.genpaku.org/alice02/alice02j.html引用)




