月の妖怪
∞∞∞∞
「やあ、おかえり」
“神様”は、からりと笑って手を振った。
「……おや、泣いているのか。そんなに嬉しいことでも? 」
そこは相変わらず天気雨が降っている。
波風ひとつ立たない池には、金髪のような茶色の髪の毛と灰色の目をした“そいつ”がこっちを見ていた。
「……佐藤、笑ってたよ。冗談言ってさ」
「そうか。あっちは楽しいようだからね。存分に話はできたかい」
「できなかったよ。それどころじゃなくてさ…僕のこと、アイツ分からなかったんだ」
「そう……それは、悲しいね」
「ちょっと、ショックだっただけだよ。なあ、あれは死人の世界ってやつなのか? 」
「死人が行く場所は、もっと悲惨な場所だ。まぁ、あそこもそこそこ悲惨な場所だけど」
「……なあ、なんであんたは、こんなことをしてくれたんだ」
「言っただろう? 言葉を口にしなくたっていい。けれど…そうだな、今のおまえの言葉は、この耳を汚すには良いかもしれない。いいだろう、応えてあげよう。それはね、コウ。ボクがおまえ達を愛しちゃいないからさ」
「あいつは……生きてた」
「そう、生きていた。おまえを忘れて」
「……僕も忘れるよ、佐藤のこと。決めたんだ」
「それで善しとするのかい? 」
「いいんだ。あいつが、幸せになれそうなら。どこかで楽しくやれていれば、僕は……」
「……いけないな、それは」
低い声で“神様”は言った。「…それはいけない」
「コウよ、望まなくては。おまえは死を待つばかりの、意味の無い命に成り果ててしまう。いいのかい、それで」
「……それがあんたが言うところの、“人の運命”ってやつなんだろう? 」
「違うね。そうじゃない」
“神様”は、つまらなそうに言った。
「仕方のない子だ。おまえはあまりにつまらない。わからない。人間ってどうして、こんなにつまらないやつばかりなのか。君は二十年、何を見てきたんだ? 」
「わからない、わからない」と呟く“神様”を、ぼんやりと見上げる。頭を抱えて首を振る様は、まるで子供の癇癪だった。
それも、ひどく寂しげな子供だ。
“神様”とは、こんなものなのだろうか。この時ばかりは恐怖も忘れ、ただ、ただ、不思議だった。
「絶えぬ悦楽を、死後の楽園を望むのに、永久の安楽を望むのに、どうして一人の人間を、そうも簡単に心から消すことができる? どうして執着しない? 人は死ぬだろう。ああ、そうだとも―――だからこそ、その短い“生”で、その縁を手放すような真似をする? おかしいだろう? だって、そいつを手放したくはないのが道理じゃないか。別れがたいと思わぬのか? 」
「…僕だって、別れたくないと思います」
「ならどうして? 」
「僕はあいつが楽しくやってるなら、それでいい」
「意味が分からない」彼は目を丸くした後、気味悪そうな顔をした。
「一度結んだ縁は、切れないと言いますよ」
「縁は切れるさ。目に見えないものだから」
「運命も目には見えませんよ」
「ボクには見えるんだ」
「親子の血の縁は、とくに強いといいます」
「夫婦の縁は、墨で描いた三行半で切れるものだ」
「…人の縁は強いです」
「いいや、人の縁など弱い弱い。おっ死ねば切れるしかないではないか! 」
彼が笑うと、頬の三日月もいびつに歪む。
彼は、実に機嫌が悪そうに無理矢理に声をあげてひとしきり嘲笑し、重く沈黙した。
長い、長い、真っ黒で足首を這うような沈黙の後、彼はぽつりと言った。
「……腹立たしい」
それが今の彼の心情全てが込められた一言なのは明白だった。
僕はまた震えあがり、思わず肩を小さくする。
――――謝罪しないと。
思っても、思うだけで、歯の根ががっちり頬肉を噛んでいる。
見あげた彼の黒々とした目がすうっと細くなり、剃刀のように危なげに光った。
「…そうだな、おまえに見せてやろう…特別だぞ」
袖を捲りあげた白くて長い腕が、肘の上まで池の水に晒される。まるで、白蛇が泳いでいるようだった。
ちゃぷん
ちゃぷん
――――一回
―――――二回
――――――三回…
瞬くように水が円を描く。
「…縁というのは、短く、細い」
背中を向けられていた僕には、その顔を見ることは叶わなかった。彼は唐突に、うきうきした声色で言った。
「短い故に、近くにいなければ届かない。細い故に、何度も手繰って結び直さないと解けてしまう…ふふふ」
池の中で、土砂降りの雨が降っていた。そこは路地裏だろうか、ひどく薄暗い……濡れたコンクリートの間に人影が二人。
カメラのように、池は二人の人物を映し出す。
「さ、佐藤……」
水面が揺れる。
『―――――シオンさん! 』
少年が、前を行こうとする男を呼び止めた。
∞∞∞∞
「―――シオンさん! 」
呼び止められて、男は緩慢に振り向く。男―――東シオンは、雨の中にあっても、袖の一つも濡れていない。
「……どこにいくつもりですか」
シオンと相対した佐藤幸一は、今度は喉を絞るように尋ねた。まっすぐに向けられた視線から逃れるように、シオンは目を伏せて微笑む。
「……分かりきっていることをきくんじゃない」
「死ぬつもりですか! 」
問いではない。断定だ。
「………」
「死ににいくんですね! 待っている人がいるのに…! 帰りたいと言ってたのに、どうして……!」
「コウ……」
ひどく哀しげに、シオンは幸の顔を見返す。
「…生かすために、行く。わかってくれよ」
「……生かすために、あなたが死ぬんですか」
幸の目尻から、涙が滴った。
「あなたは世界一臆病者なんだって、死ぬのが一番怖いって、言ってたじゃないですか。なのに、なのに…そんな惨いことをして、みんなを生かすんですか……」
「幸、俺はね、自分が死ぬのは怖いけど、みんなが死んじゃうほうが怖いんだよ」
「もういいじゃないですか…このままじゃ、あなたは死んだ後すら家に帰れない……」
「俺はいいんだよ」
「あなたは、なんっにもわかってない! 俺達がよくないんです! 」
叫んで、幸は右腕に持っていたものを掲げた。長物の包まれた布袋だ。
毟り取るように袋を捨てると、幸は白刃を構えた。彼の小柄な体躯の三分の一ほどもある日本刀は、雨の滴を滴らせて、鈍色にぼうと光る。
「行かせません――――絶対に」
「幸……」
シオンの眦が、哀しげに垂れる。しかし一瞬のちには、口を結んで一人の“魔法使い”が相対していた。
シオンは幸を真正面から、睨むようにして濃紺の双眼を細くした。
空では、雲が不穏に喉を鳴らしている。
幸が地面を蹴った。
白刃が雨を切り裂きながら、一人の男に向かって弧を描く。
シオンは声も上げず、身じろぎもせず、それを迎え―――――。
稲光が走る。
音が消える。
雨音が戻ってきた時には、人影は一人。
東シオンは倒れた子供に一瞥も無く、肩で雨を斬りながら、路地の向こうに消えた。
∞∞∞∞
「ぁぁあああぁぁぁああぁぁあぁぁあああぁぁぁあああああぁあぁぁあああああああぁぁぁああぁぁあぁぁあああぁぁぁあああああぁあぁぁあああああぁぁぁああぁぁあぁぁあああぁぁぁあああああぁあぁぁああああぁぁぁあああぁぁぁああぁあああぁぁぁああぁぁあぁぁあああぁぁぁあああああぁあぁぁあああああああぁぁぁああぁぁあぁぁあああぁぁぁあああああぁあぁぁあああああぁぁぁああぁぁあぁぁあああぁぁぁああああぁぁぁあああああぁあぁぁあああああぁぁぁああぁぁあぁぁあああぁぁぁあああああぁあぁぁああああぁぁぁあああぁぁぁああぁあああぁぁぁああぁぁあぁぁあああぁぁぁあああああぁあぁぁあああああああぁぁぁああぁぁあぁぁあああぁぁぁあああああぁあぁぁあああああぁぁぁああぁぁあぁぁあああぁぁぁあああああぁぁぁあああああぁあぁぁあああああぁぁぁああぁぁあぁぁあああぁぁぁあああああぁあぁぁああああぁぁぁあああぁぁぁああぁあああぁぁぁああぁぁあぁぁあああぁぁぁあああああぁあぁぁあああああああぁぁぁああぁぁあぁぁあああぁぁぁあああああぁあぁぁあああああぁぁぁああぁぁあぁぁあああぁぁぁあああああぁあぁぁああああぁぁぁあああぁぁぁああぁぁあぁぁあああぁぁぁあああああぁあぁぁあああああぁぁあぁぁあああぁぁぁあああああぁあぁぁあああああぁぁぁあぁぁあああぁぁぁあああああぁあぁぁあああああぁぁあぁぁあああぁぁぁあああああぁあぁぁああぁあああぁぁぁああぁぁあぁぁあああぁぁぁあああああぁあぁぁあああああああぁぁぁああぁぁあぁぁあああぁぁぁあああああぁあぁぁあああああぁぁぁあああああぁぁあぁぁあああぁぁぁあああああぁあぁぁあああああぁあああぁぁぁああぁぁあぁぁあああぁぁぁあああああぁあぁぁああああああああぁぁぁああぁぁあぁぁあああぁぁぁあああああぁあぁぁああああぁぁぁあああぁぁぁああぁぁあぁぁあああぁぁぁあああああぁあぁぁあああああぁぁあぁぁあああぁぁぁあああああぁあぁぁあああああぁぁぁあぁぁあああぁぁぁあああああぁあぁぁあああああぁぁあぁぁあああぁぁぁあああああぁあぁぁああぁあああぁぁぁああぁぁあぁぁあああぁぁぁあああああぁあぁぁあああああああぁぁぁああぁぁあぁぁあああぁぁぁあああああぁあぁぁあああああぁぁぁああぁぁあぁぁあああぁぁぁあああああぁあぁぁああああぁぁぁあああぁぁぁああぁぁあぁぁあああぁぁぁあああああぁあぁぁあああああぁぁあぁぁあああぁぁぁあああああぁあぁぁあああああぁあああぁぁぁああぁぁあぁぁあああぁぁぁあああああぁあぁぁああああああああぁぁぁああぁぁあぁぁあああぁぁぁああああああぁあぁぁああああぁぁぁあああぁぁぁああぁぁあぁぁあああぁぁぁあああああぁあぁぁあああああぁぁあぁぁあああぁぁぁあああああぁあぁぁあああああぁぁぁあぁぁあああぁぁぁあああああぁあぁぁあああああぁぁあぁぁあああぁぁぁあああああぁあぁぁああぁあああぁぁぁああぁぁあぁぁあああぁぁぁあああああぁあぁぁあああああああぁぁぁああぁぁあぁぁあああぁぁぁあああああぁあぁぁあああああぁぁぁああぁぁあぁぁあああぁぁぁあああああぁあぁぁああああぁぁぁあああぁぁぁああぁぁあぁぁあああぁぁぁあああああぁあぁぁあああああぁぁあぁぁあああぁぁぁあああああぁあぁぁあああああぁあああぁぁぁああぁぁあぁぁあああぁぁぁあああああぁあぁぁああああああああぁぁぁああぁぁあぁぁあああぁぁぁあああああぁあぁぁあああああ―――――――」
長く、それこそ喉が枯れるまで、僕はずいぶん長く叫んでいた。
おかしい。これはおかしい。
なんであいつが、佐藤がこんなことになっている。なんで佐藤が死ぬ瞬間なんてものを僕は見ている。なんで佐藤は死ななきゃならない。なんで佐藤が、東シオンに殺されなきゃならない。
まずは、映像を疑う。けれど池の中の映像は鮮明で、詳細に微細に、彼らの表情が読み取れて、声すらも聴き間違えようがなかったのだ。
次に、自分の目を疑う。なんで自分はここにいるんだ? ――――ああ、願ったからだ。いなくなったあいつが、苦しんでいやしないかと。なんで消えてしまったんだと。
最後に、この男を疑う。この人は―――――何がしたい?
はたして“神様”は、僕の慟哭と一緒になって―――――腹を抱えて、笑っていた。
「あっ――――はははははははははははっはははははははははははははははははははははははははははっははははははははははっははははははははははははっははははははははははははははははっははははははははははははははははっははははははははははははははははっははははははははははははははははっははははははははははははははははっははははは! 」
僕がすすり泣く声に変わってからは、池のほとりには彼の笑い声ばかりが響いている。
「あはははははははははははっはははははははははははははははははははははははははははっははははははははははっはははははははははははははははははははははははははっはははははははははははははははははははははははははははっははははははははははっはははははははははははははははははははっははははははははははははははははっははははははははははははははははっははははははははははははははははははっははははははははははははははははっははははははははははははははははっははははははははははははっははははははははははははははははっははははははははははははははははっははははははははははははははははははっははははははははははははははははっははははははははははははははははっははははははははははははははははっははははははははははははははははっははははははははははははははははっははははは!!! 」
奇跡は起こらない。
“神様”は運命を見る。
縁は切れる。それは目に見えず、あまりに短くて細いから。
そうか、そういう意味だったのか。
“神様”は“運命”を知っていたのだ。彼は『いない』と、最初から言っていたじゃないか。
ここにはいない。もういない。佐藤はもう、いなかった。
そんな佐藤に会えたのは、まさしく“神の御業”をいうやつだったのだ。別人の姿で会ったのは、きっと僕が僕のままじゃあ、佐藤に会うことは叶わなかったからだ。
きっと。
……きっと。
「ああ、おかしかった」
笑いすぎて掠れた声で言って、男は涙を拭っていた。
「ねぇ、おかしいと思わなかったかい? あそこには“ダイモン・ケイリスク”の息子だっていう、二十もとっくに過ぎた男がいて、『父親は死にました。六年も前に』なんて言う!“佐藤幸一”は十四歳のままで、“東シオン”は、二十そこそこの見た目だった。知ってるかい? 教えてあげよう。答え合わせだよ! 」
うきうきと男は僕の前に座り込む。
「あのね、ダイモン・ケイリスクは二十五歳で結婚して、四十四歳で死んだんだ。それが六年前。それでね、あの東シオンはあれでも三十五歳になるんだ。そう、三十五の時に十四歳の佐藤幸一と出会って、なんにも分からない彼の世話をしてやった。
――――おかしいだろう? ねえ? だって、佐藤幸一も、東シオンも、ダイモン・ケイリスクだって、おまえと同い年のはずなんだ。
ねぇ、おかしいだろう? おかしいじゃないか。彼らはね、別々の場所で、別々の時間を歩いたのさ。
一番の最短コースは佐藤幸一だった。佐藤のやつは、図書館で消えて、そのまーんま、東シオンのところに落っこちた! ついこないだだ!
だから彼は、おまえの苦難の五年も数か月前のことだったし、夏休みから半年とも感じちゃいなかった。東シオンのことは、まさか自分と同じ日に居なくなった同級生だとは知らなかったから、見たまんま、妻子を捨てて喫茶店なんかやってる、寂しい侘しいただの三十五のおっさんだと思って、師弟関係結んでたのさ。
そこに何の因果か! ダイモンの息子まで居着いてやがる。
面白いだろう? ねぇ? ダイモンは遠回りしすぎたんだ…可哀そうに、三十年も遠回りして…あげくに途中で死んじゃった…ああ、切ないねェ、悲しいねェ……ふふふ」
嘲笑を噛み殺しながら、赤毛が僕の頬にかかるほど、男は僕の顔を覗き込んで首を傾げる。
「あれ? 駄目かい? ちょぅっとは元気になるかと思ったけれど。それじゃあ、もっと凄いことを教えてあげようか」
男は立ち上がると、今度は僕の背後に回り込んで、無理矢理に立ち上がらせた。背後からがっちりと僕の肩に手を置き、固定する。
僕の目は、あの鳥居をぼんやりと見ていた。
池のまわりには、相変わらず霧雨が降っている。だというのに、空は雲一つ無く真っ青で、池にはさざ波ひとつ、波紋一つもない。真っ赤な鳥居の下、石段の一番上を、草履の足が踏んだ。
“東シオン”は、濡れた白刃を右手に携えて、
「…東シオンが、弟子を殺してでも行こうとしてた場所ってのはね、ここなんだ」
“神様”は、僕の後ろから囁く。
「―――――東シオンはボクを殺しに来るんだよ」
シオンは地面を蹴った。
白刃が雨を切り裂きながら、一人の男と、子供に向かって弧を描く。
「知ってるかい? 」
“僕”は声も上げず、身じろぎもできず、
「ここの筋書きではね、必ず“コウ”は、“東シオン”に“殺される”」
神の御手の、されるがままに、僕は。
僕は―――――。




