下弦の月
「ほ、本当か! やっぱり佐藤は、ここにいるんだな! 」
「いや、いない」
振り向きもせず、男は言った。
「ここにはいないさ」
鳥居が見えてきた。障害物も何もない場所なのに、なぜ今、前に立つまで見逃していたのか分からないほど、この男の髪色と同じく鮮やかに真っ赤な鳥居だ。
男は鳥居の前に立ち止まって振り返り、僕を待っていた。
男の目の前に立って、初めてその奇妙さに気が付いた。
“小さい”のだ。
何が? “自分が”である。
そして、男は“大きい”。
僕が見上げている鳥居の高さは、きっちりと男の背丈がくぐることができる高さだった。
この鳥居は、この男のために誂えてあるのだ。
それだけじゃない。この場所は、この男のためにあるのだ。
高い高いところから、男は言った。
「さあ、行こう」
背筋が震える。
『行こう』と言ったくせに、男は僕が鳥居をくぐるのを待っているようだった。
どうしよう、ここから逃げたくてたまらない。なんで僕はここにいるんだろう。なんでここに来てしまったんだろう。
男の無言が、僕をせっつく。迷う僕の脚は勝手に、一歩、一歩、前に出ていた。
後ろで男がわらっている。
雲一つない蒼穹があり、その下の白い石には泥ひとつなく、間には真白い壁があり、この真っ赤な鳥居があって――――鼻を誘うのは森の緑の香り。虫の音一つも聞こえない。
ついに鳥居の石畳を踏んでしまった。
僕はここに立っているのに――――なんでこの鳥居は向こう側が見えないんだ!
右足が、向こう側の地面を踏んでしまった。
とたんに泥の臭いがした。馴染みのある、水の臭いだ。
身体を水滴が包む。小さな池が、青空を映していた。
鳥居の先は青空の下、霧のような雨が降っていた。
視界を伸ばすようにして、池のほとりを端から端まで観察する。人間は一人だけ――――僕の前を先導する、あの赤毛頭だけだ。
「さ、佐藤はどこに……」
「そう急くな――――ほら、おいで」
僕は男の隣で、池の中を覗き込んだ。
青空が映っている。
雨が降っているのに。
「この池が…何か? 」
「……コウ、おまえは勘違いをしている」
ふう、と男は嘆息した。
「これ以上説明させないでくれ。自分の無知を知るといい。いいかい、ボクの言葉は儀式の元に顔を隠して聞くもので―――――と、いけないな……まるで不遜に聞こえてしまう…あのねぇ、大森昂。ボクの威厳を保つためにも、あまりボクに口を開かせないでくれ。その代わり、おまえの声はいくらでも聞いてあげよう。それがボクの役目だからね」
「は……? 」
「いいや、おまえも口は開かなくてもいい。ボクに向けて語りかけるには、ただボクに向かって想ってくれさえすればいい。礼を尽くして拝んでくれれば、ボクは必ずおまえの心に応えよう。え? ボクは誰かって? そんなことを聞くなんて、ボクに向かって烏滸がましい子だ」
言いながらも、その口は笑っている。
「ボクの名前を聞いたら、君の頭は爆発しちゃうかもね。だから、これだけ教えてあげよう。大丈夫、おまえはボクを知っているよ。
君の国の神様は、願いをそう簡単には叶えないだろう。ただし、こんなにも近くで声を聴いているのだよ。神というものは、たいがいに饒舌で、しかしかわいい御子らの前でなら、格好をつけて言葉少なに恥じらうふりをするのさ。
神は確かにおまえの中にいるだろう。
おまえの横にいるだろう。
母の胸にいるだろう。
父の背にいるだろう。
おまえの息子の拳の中にいるだろう。
お前の娘の唇にいるだろう。
ただし、それだけだ。神は隣にいたとしても、あるいは目に見えていたとしても、生きているうちは何もしてはくれないさ。神はおまえの触れたところから生まれるが、しかしおまえ自身には何も恵んでくれない。
奇跡を願うのはやめたほうがいい。奇跡というのは起きやしない。奇跡とは、しょせん偶然だ。偶然に偶然が重なって、おまえのこれまでとこれからの労に見合っただけの、当然の事象だ。
おまえがボクと出会い、話しているのも、当然の偶然だ。それを人は、運命と呼ぶ。起こるべくして起こった出会いだよ。だから人は、生まれた時から運命が決まっていると云うのだよ。人は必ず死ぬからね。
神はけして、未来は見えないのさ。いいや見ないのさ。見るのは運命、聞くのは御子の声、ただし口は噤むのだ。
ただし、ボクは口も出すし、耳も塞ごう、目もそらそう。おまえの運命を捻じ曲げてあげよう。おまえが望もうが望まないが関係は無い。ボクは一般神様とは違うのさ。
なぜって? いいかい、ボクは、神様だ。神様だけれど、おまえを愛していない神様なんだよ」
男の両手が伸びてきて、僕の頭を掴んだ。
「……おまえの望みを叶えてあげよう。祝福を受け取りなさい」
僕の頭を掴んだ腕が跳ね上がり、池に向かって叩きつけた。冷たい水が、僕を背中から抱擁する。
僕は喘ぐ―――――そして、僕は。
大森 昂は、『コウ』になった。
∞∞∞∞
「いらっしゃいませー」
カランカラン。
耳朶をうったドアベルの音に、僕は顔を上げた。
反射的に、背後を確認する。茶色のドアと、脇に置かれたチョークパネルがあった。夕陽のようなオレンジ色の照明が、木調で統一されたテーブル群を柔らかく照らしている。
「ここは……」
昼下がりの喫茶店。それ以外の何物でもなかった。
パタパタと、バーカウンターの奥から黒い頭が飛び出した。
「いらっしゃいませ」
言ってにっこりとする店員らしい男の濃紺の着流しに、情けなくもびくりとする。そして店員の朗らかな笑顔に、目尻が潤んだ。
店員は驚いた顔をしながらも、微笑を浮かべて僕をカウンターの端に誘導した。
「ご注文はどうしましょうか。暖かいものがいいかな」
優しげに子供に言うように宥められて、今更ながら恥ずかしくなる。
「ちょっと濡れてるね。外は雨が降ってかな……拭くものをもってこよう」
僕の肩を叩いて、店員はカウンターの奥の扉に引っ込んで行った。
店内に客はまばらにしかいない。
角のソファ席に、男が二人だけ。うち一人は、見事に真っ白の後頭部を向けているのでかなりの老人らしい。
「…管理局はどうなってる」
「もうあれは駄目ですね。根っこの先まで腐ってる」
「でも、隊長格の中には踏ん張ってるのもいるらしいじゃないか」
「第四部隊のサティ様ですか? ……そうですね。そうですけれど…あれは、無理でしょう。部下の信頼は一番ですが、権力には弱い典型的なタイプですよ。普段の綱渡りのやり方が祟っている。そこを突かれたら砂上の楼閣だ。逆に、簡単に崩れるからこそ見逃されている節がある」
「第三は? 」
「あそこの隊長は小物だ。最初から捨て駒にされるのが前提の非力な男だった。話になりませんよ……」
声を潜めても聞こえてくる二つの声は、どちらも若いものだった。少なくとも白髪の老人の声は、いつまでたっても聞こえない。ちらりと白髪が振り向いて、僕の頭の上にある時計を確認したので、顔を窺うことができた。
(…若い! )
目が合いそうになったので、あわてて前を向く。見たところ二十ソコソコといった感じだ。
時計を確認した仕草から、敬語で話していたのはこの男だと思った。神経質な言動に似合わない、ごつくて丸っこい赤フレームのメガネに違和感があった。
(でもあのメガネ…どこかで)
そうそう無いデザインのメガネだと思う。
この奇妙な空間で、僕はなんでメガネについて頭を巡らせているのだろう。頭の中で、静電気のようなひらめきが火花を散らしては消える。もどかしい。
可笑しな話だけれど、一種の現実逃避だったのかもしれない。
僕はもう、ここで飲み物の一杯でも飲んだら帰ろうと決めていた。財布の中には、五千円札が二枚と千円札が一枚入っている。――――大丈夫、帰宅するくらいの金はあるはずだ。
そう思ったら、気分もずっと落ち着いてきた。
なら、帰るまでにあのメガネについて思い出そうと決めた。
「……おまえの生家はどうだ」
「………本の一族は、もう駄目です。俺はもうあの一族は滅ぶべきだと思う」
「お前…」
「これはいい機会だ……全部が終われば、また昔みたいな混乱があるでしょう。本の一族はその火種になる。俺達の血を巡って、また争いが起こる。わかるでしょう」
「わかる…わかるけど…」
「肉も血も骨も奪われて、男は胸より上を潰されて、女が犯されて、子供を産まされて、そんな地獄がきっとくる。それならせめて、何もわからないままに、争いと一緒に過去の遺物にしてしまう方が報われる……」
「……何万人といるんだぞ」
「その何万人の一人が俺ですよ。今までの形が、一族にとって一番の幸福の形だったんでしょう。そんな幸福の中でも、俺みたいなのが生まれたのです。もっと酷いものになる前に……」
よく分からない話をしている。まるで役者の独白だ。
ついつい、うなだれた白い後頭部を見ていた。
(“本”―――――)
あんな変な出来事があって、しばらくは図書館には足が向かないだろう。僕はぼんやりそう思った瞬間、びりっと脳内に稲妻が走った。
いきなりカウンターから立ち上がった僕に、怪訝な顔で男たちが振り返る。分かってしまっては、確かめずにいられなかった。
歩み寄ってきた僕を、警戒の眼差しで彼らは見る。白髪の男は間近で見てもやっぱり若く、白い長い髪をうなじのあたりで結んでいた。赤い眼鏡の奥では、葡萄のような紫色の目が細められている。
「――――なんだい、ぼっちゃん」
「どうやら、俺に何か用がある様ですね」
僕は確かめずにいられなかった。
「あなたは、ダイモン・ケイリスクさんですか」
いなくなった中学生のうちの一人、ダイモン少年に、この白髪の人は面差しが似すぎていた。彼が成長したらこうなるだろうというような―――――何よりも、僕にはこの赤い眼鏡をかけたダイモン少年の写真を知っている。中学生がするには不釣り合いな眼鏡だったから、とてもよく覚えていた。
「……ダイモン? 」
「おい、それって誰だ? 確かにこいつは、“ケイリスク”ってぇ苗字だが――――」
「俺の親父が、ダイモン・ケイリスクといいますが」
白髪は不思議そうに言った。
「――――でももう、六年も前に死んでる」
「ああ…おまえ、眼鏡は親父の形見だって、確か言ってたな」
それを聞いた途端、僕は『ああ、これはまだ夢の中なのだ』と実感した。
―――――なら、僕がすることは一つしかない。
「そ、それじゃあ、“佐藤幸一”という人を、知りませんか! 」
「サトウコウイチ? 」
男たちは顔を見合わせて、首を傾げた。
ああ、やっぱり知らないのだ。日本の警察が、五年かけても何も分からなかったのだから――――。
カランカラン。
ドアベルが鳴った。
「あれ、店長はいないんですか」
「おう、おかえり“コウ”、店長なら奥に引っ込んでるぜ」
「えぇ…いくら常連でも、ちゃんと店先にいてくれって言ってるんだけどなぁ……」
息が止まる。
『いいよ、俺の出来ることなら。いつでも言ってよ』
五年間、忘れたと思っていた耳知っている声だった。石のように固まった後、祈りながらぎこちなく振り返る。
佐藤幸一。
消えたはずのあいつが、確かにそこにいた。
溢流するいろんなものが、僕をそこに留まらせた。佐藤がいると分かったとたん、足も、口も、指一本動かない。
あの“神様”は、確かに僕の願いを叶えたのだ。
「あっ、ちょっと、新規のお客様がいるなら言ってくださいよ! 店長は何をしてるんだか、もう……」
「シオンさんはちゃんと応対してたぜ? それで 」
「――――シオン? あの人が、“東シオン”!? 」
そういえば、あの店員の顔をきちんと見ていない。そうか――――そうなのか―――――ここに、ダイモン・ケイリスクも、東シオンも、佐藤幸一も! ちゃんと、いたのだ。
泣きだした僕を、男らは奇妙なものを見るような目で見ていた。ただ佐藤だけは、困ったような心配そうな顔でいる。
「あ、あの、大丈夫ですか? 何かこの人たちに――――」
「酷いな。俺達は何もしていませんよ。この子がいきなり」
僕は思わず、近寄ってきた佐藤の服の袖を握った。触れられる。
「お、おまえは佐藤幸一だな! 」
「そ、そうだけど……あの」
「本当に? ここは天国だとかじゃないんだよな? 」
「よく言われますけど、そんなわけないじゃないですか」
呆れたように奴は言う。
「あれから、こっちじゃ五年もたった。わかんないかもしれないけど、僕は……」
そこまで言って、僕は気付いてしまった。
例えば、僕の手はこんなに小さかっただろうかとか、例えば、自分の手はこんな色をしていただろうかとか、爪の形はこんなではなかったし、佐藤の身長は同年代でも小さい方だったなとか、僕は逆に、どちらかというと縦に長い方だったよな、とか。
窓を見た。
“僕”が映っている。
佐藤と、男たちとの別に、見慣れない茶色い髪に灰色の目をした子供がそこには映っていた。そいつは佐藤にしがみつくようにして、気持ち悪いほど目ん玉をひん剥いている。
――――ああ、これはやっぱり夢なんだ。
なんて悲しい夢だろう。ひどく、むごい夢なんだろう。
とたん、僕の視界は暗転する。
“神様”がくれた奇跡は、確かに身勝手だった。




