from noon till dawn
※※※※
今、クリスの目の前には小さな扉がある。晴光では頭はまだしも、肩が半分も通らない。
クリスが四つん這いになってやっと通れるほどの扉である。いや、正確には扉ではない。板切れのついた通気口、といったところだろう。どちらにしろ、利用者は犬か猫あたりだ。
晴光が蹴り破ったドア(これも正確には壁)の奥、毒抜きをしたクリスは、いつにない萎らしさでそれを見ていた。
「これを潜ればいいの? 」
『そうそうそれそれ! いやぁ助かるなあ。出口はそこだけだし、俺じゃあ通れないからさあ! 』
一枚越しに、あの男の声が聞こえる。
晴光はいつになく真剣に、小さな声で「何かあったら大声で呼べよ。俺が壁くらいぶち破るからな」と、クリスの肩を力強く叩いた。
「うん」頷いて、クリスは床に這うと扉を頭で押すようにして、中へするりと入り込んで行く。
埃臭い絨毯から身を起こし、クリスは服を叩きながら部屋を見渡した。
書斎のような部屋だった。奥には大きな窓が、夜風を招き入れてカーテンを揺らしている。照明が無くとも、月が明るく室内を照らしている。
部屋の中心に、椅子が一脚だけぽつんと寂しげに倒れている。
そんな椅子の脇、はたしてその男は、そこにいた。
「やあ」
気安く片手をあげて笑顔を向けてくる男。クリスはもちろん、こんな男は知らない。
(白髪―――その衣装に、目隠し――――)
しかし、クリスの『情報屋』としての曇りない目は、男の微かな情報を読み取って、答えを拾い上げていた。
「本の一族の『禁忌の子』? 」
「あれ、よく知ってるね」
スティールの顔は驚いたようなふうをしていても、声色はさっぱりとしたものだ。畳み掛けるように、スティールは言う。
「俺が禁忌の子なら、どうするんだい? 異世界の人。俺をどこかに売り飛ばす? それともちょっとずつ血を抜いて大量生産する? 」
しまった。クリスは口の端を噛んだ。本の一族を知っているということは、つまりは、そういうことだ。
「……血が半分薄くちゃ、不老不死の薬にするには効果が薄そうだよね」
クリスは唇を引きつらせて言った。スティールは貼りつけたような笑顔で首を傾げ、挑発するように言う。
「俺たちって普通の『本』よりも希少価値だけはあるから、どっかの研究所なら高く買ってくれるかもしれないけど? 」
「今、禁忌の子って三人しかいないんだっけ? 今の管理局の局長と、ケイリスク兄弟…だっけ。お兄さんは“局長”ってほど偉そうな感じはしないし、ケイリスクの、お兄さんの方かな? 」
「ぴんぽーん。そうでーす」
スティールはにやにやとした笑みを張り付ける。目元が見えない装束は、男の底を知らせない。
クリスは、淀んだものが胸の内に溜まっていくのを感じた。
「……ここから出れもしないくせに」
少年は胸の内の淀みを言葉に変えて、少しだけ吐き出した。
「あんたみたいなオッサン、カネを積まれて頼まれたっていらないよ。オジサン、ここから出たくないわけ」
スティールの口元から笑顔が消える。
「……………」
「………な、なんだよ」
たっぷりとした沈黙にたじろいだクリスを前に、スティールは一言、
「…キミってさぁ、イイコだねってよく言われるだろ」
「なっ、う……ざ、残念だけど、ここしばらくは皮肉以外で聞いてないよ」
跳ね返るように返した男の子に、スティールはからりと笑った。
「そう? 俺にはそうは見えなかったけどなぁ」
「クソガキとはよく言われるけどね! 」
「クソガキがイイコじゃない訳じゃないと思うけどねぇ……」
スティールの中に、優秀な弟の姿がよぎる。
クリスはその一言に、自分より小さい手を伸ばして頭を混ぜっ返してくる一人の少女の笑顔を思い出して、すぐに蓋をした。
※※※※
壁紙はブルーと淡い緑、家具は木目調で揃えられた一室。小さな調度品のちょっとした個性で彩るところ、清潔感だけではない華やかさがある。『女性の部屋』だなぁとハンプティは息を吸い込む。微かに、ハーブと石鹸の臭いが混じったような匂いがした。彼女自身の体臭もこんな感じなのだろうと思ったから、男は女の肩越しに、彼女の手元を覗き込んだ。
「なぁにしてんの? 」
「今話しかけないでください」
にべもない。
それはおっとりとした普段の様子とは違う、冷静でアツい科学者の姿であった。
(自分もあんな感じなのかなあ)
どんな世代、分野であっても、のめり込む時の『オタク』の背中は大差ない。打ち込む姿は確かに異様であるが、そんな姿に誇りを持っているところ同種だった。
しかしハンプティは、“そういうところ”気は使わないで話しかける。
「ねぇねぇ、そろそろなんだけどぉ」
「ごめんなさい。私は忙しいです」
机に齧りついたまま、顔も上げずに三月ウサギは言った。
「えー? そう? そうは見えないんだけど」
三月ウサギは、どう見ても“忙しそう”だ。
「ねえ、もうすぐ列車の発車時刻なんだけど」
「そうですか」
「うん」
「私、忙しいので」
「うん」
「動くところは散々見ましたし、見物ならお一人でどうぞ」
「えーっ! あれ動作チェックじゃん! リハーサルじゃん! 人乗ってなかったじゃん! これから本番なんだよ!? 愛する我が子へ『行ってらっしゃい』もナシなの? そりゃあ無いよ! 愛が無いよ! その無駄におっきいおっぱいに詰まってるのは何なのさ! 」
「脂肪ですね。“行ってらっしゃい”」
「そ、そんな……! 」
たじろいだハンプティの脳裏に、雷が落ちる。律儀にも大仰なリアクションのまま動きを止めたハンプティを、三月ウサギはちらりとも振り返らなかった。
淡いアースカラーの壁紙を背景に、たっぷり十秒動きを止めていたハンプティは、強張った肩を落としてトボトボと扉へ向かう。耳だけはずっと後ろを窺っていたが、ハンプティが扉を閉めるその時も彼女はピクリともこちらを見なかった。
「………」
三月ウサギは頭の端で、邪魔なモンスターがいなくなったことを理解する。三月ウサギ、サンディはより一層と深く集中するために、頭の出力を切り替えた。
この時は、確かに快楽が流れているのだろうと思う。それは強烈な心地よさの世界だ。この世界に戻ってくるたびに、サンディの中毒性は増している気がする。頭はトップスピードで回転しているのが爽快だ。
沈黙した空間で、強い追い風を錯覚した。
沈黙の世界の扉が酷い音を立てて破られる。
「ねえねえやっぱりいっしょに行こうよぉー! 」
この時、サンディの頭は全力をかけて『死ね!!!!』と一言、強く念じた。
※※※※
ポーン ポーン ポーン
やけに軽快な音が三回、天井のあたりからした。晴光は怪訝に首を廻して、薄暗い壁を見渡す。
「クリス、そろそろ急げ」
「あ、うん」
返事をして、クリスはスティールに向き直った。どうするの、と視線で訴える。いくら薄っぺらい細身でも、この男は縦にも横にもあるのだ。
男はニヤァとして、「こうすればいいんだろう? 」と、軽く腕を広げた。みるみる男の姿が小さくなって、一冊の『本』がクリスの足元に無防備に転がる。
クリスは『本』を両手で拾い上げた。分厚く固い表紙は、しっとりとした革のような感触がした。
それは大判のアルバムほどもある。重さもそれなりだが、それでもクリスが両手で抱えられるくらいだ。
「おい、まだかよ」
晴光が外から急かす。
「今出るって……」
「早く。やな予感するんだよ……」
ビー!
また音がした。
クリスはその警戒音じみたものに肩を跳ね上げて、飛びつくようにして入り口に頭を突っ込む。
ビー ビー ビー「早くしろ! 」ビー ビー……
警戒音に被せて晴光が叫ぶ。しゃがみこんだ晴光が、扉を押し上げて待っていた。クリスは入り口に向かって腕を伸ばす。そして。
ビー ビー ビー ビー ビー ビー……
クリスは体を押し上げるような振動を、腹に感じた。
「クリス! 」
晴光が叫ぶ。まっすぐ伸ばされた腕がずれる。――――いや、自分が、横に移動されているのだ。クリスを乗せたまま、床が、この部屋ごと動いている。
ずん、ずん、と、体の下から突き上げる振動。晴光の手が離れていく。クリスは咄嗟に身を縮めて頭を引っ込めた。
「クリス! 本を渡せ! 」
晴光が言った。
クリスの固まった頭は、素直に腕を動かした。
晴光の手に『本』が渡る。管理局が守る生きた『本』。彼らが何より信用する『一族』。管理局にとって、大事な―――――。
あの小さな扉から、本を掴んだ腕が消える。
腹の皮をつつくような音が、遠ざかって消えた。
(置いて行かれた)
消えたその一瞬でクリスの脳が融解し、その一言が浮かんだ。振動の中で、クリスは呆然と壁を見る。
間抜けに口は半開き、眼が渇くほど壁を凝視していたし、手は前に出たままだ。クリスはそんな自分にも、まず呆然としていた。
とりあえず口を閉じ、溜まった唾を飲みこんで、瞬きをして、前に出していた腕を引き寄せ、指を丸めてみる。
(……そうか、そりゃそうだよな。管理局の人間だもんな、『本』は大事だよ)
のろのろと立ち上がろうとして、大きく揺れた床に躓きそうになったので、クリスは大人しく座り込んだ。
(まずあれが無いと、あいつ帰るに帰れないんだよ。この場じゃ優先順位は一位だろ。僕を助ける義理なんて、無いし……あ、もっと愛想よくしとけばよかったのか。途中、キレちゃったもんな)
失敗したなあ、と、クリスは考える。
(か、傘……ある。持ってる。よし……そうだ、虹を、探さないと…ここからどうやって脱出しよう。あいつ、生きてるかな……)
長いため息が出た。なんだか、やけに呼吸がやりにくい気がするが、きっと気のせいだ。
気のせいじゃなきゃ可笑しい。だって僕はクリスチャン。情報屋アンブレラに選ばれた養い子。
ただのガキじゃあ、ない。
「笑っちゃうね、まったく……」
噛みしめろ。
何を、とは言わない。今の“これ”を噛みしめろ、アンブレラはそう言うだろう。
噛みしめろ。
(僕はクリスチャン。僕は神様もアンブレラさんすらも信じない。情報は生もの、今見ることが全て。死にたくないなら正しいものを見つけろ、間違えるな、考えることをやめるな、考えることをやめるな、間違えるな、考えることを………)
繰り返すたびに、雨のように痛い何かが降り注いだ。
(虹は…あいつ、死んでないよな……)
虹はよく名前を呼ぶ。
クリス
そう、それが今の僕の名前で――――――。
なんとなしに、クリスは顔をあげた。この轟音以外に何か音がしたような、そんな気がしたのだ。
小さな予感は期待だった。
「クリスぅぅぅぅぅぅううう! 」
目の前の壁が爆発する。
赤いものが見えた。血の色じゃあない。人工色で染めたおかしな赤色だ。
「クリス無事か! 」
崩れた壁に張り付くようにして、切羽詰った面白い顔で、晴光はクリスに右の腕を伸ばす。左腕には、しっかりと『本』が抱えられていた。
(なんか、映画のヒロインみたいだな、今の僕……)
アンブレラは『不甲斐ない』と皮肉をたっぷり言うのだろう。
店長は的外れに怪我の心配をするのだろう。
虹は腹を抱えて笑うのだろう。
クリスは自分の想像に、ちょっとだけ悔し泣きをした。




