メメント・モリ
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晴光らが階段を上り切った先は、非常口を表す緑色のランプに照らされた防火扉があった。
鉄二枚の重い扉を晴光が押して出たのは、またもや廊下である。それも最初の玄関からの廊下に似た、洋館風の廊下であった。
「窓がある……」
クリスが呟く。窓からは、夜空にぽっかり浮かぶ月までが見える。
「どうする? 窓を割れば、外に出られないこともないと思うよ」
「うーん。せっかくだし、もうちょっと散策してみようぜ」
「……そういう事、言うと思ったよ」
クリスは呆れ顔で肩をすくめる。
暗褐色の絨毯の上を進む。
長く、長く、廊下は続いていた。壁には転々と静物絵画が掛かっている。
「なんでわざわざ果物だとかの絵を描くんかな。本物飾ればいいのに……」
「わざわざ平面にリアルに描くっていうのが楽しいんじゃないの? 」
「楽しいかぁ? それ」
絵画から目を逸らし、天井を仰ぐ晴光にため息をついてクリスは口を開く。
「絵描きの楽しさとかは分からないけど……こういうのって見る側にね、決められたルールっていうのがあるんだよ――――たとえば、あそこの絵には時計と骸骨。時計は人間が創った技術で、時間を測る道具だろ。その横に骸骨なんだから、『人はいつかは死にますよ』って無情さだとかを表現してるの。ヴァ二タスってやつだね。お兄さん、わかる? 」
「そう言われると、なんとなく意味は……」
「じゃあ次ね。あっちは百合とザクロと金色の林檎。百合は聖母マリア様の花だよ。林檎とザクロは禁断の赤い果実……とも考えられるけど、この場合は林檎が金色をしてるから、ギリシャ神話の方かもね。ギリシャ神話のゼウスが、人間の美女を寝取って出来た子供を不老不死にするために、正妻で鬼嫁の女神ヘラの寝込みを襲って母乳を飲ませようとするんだけど、赤ん坊が乳房に噛み付いたもんだから目が覚めて、旦那のしようとしていることに怒髪天で起き上がった。その時に零れた母乳が地に落ちたのが百合の花なんだ。で、ザクロはそんな鬼嫁ヘラの好物。ついでにザクロは、死者の国の食べ物でもあるね。黄金のリンゴの持ち主もヘラだから、彼女を指してるんだ」
「ゼウスがひでえ旦那ってことと、神様のんな下らねえことで、地上のモノが出来る理不尽さは分かった……で、それが何を表してんの? 」
「そこは想像で補うんだよ。はい次、あっちは鎧と卵だよ。鎧は戦うために身を守る防具。立派な鎧は、持ち主の地位の高さも表してるね。そして卵は復活の象徴。イースターってわかるよね? 」
「あれだろ? えーとえーと卵とウサギ! 」
「キリストの復活祭だよ!? なんで知らないの! 」
「だって俺んち代々仏教徒だもん! 」
「簡単に説明すると! 一度死んだキリストが復活した奇跡をお祝いするのがイースターっていうの! もともとは豊穣を祈るお祭りだったのが復活祭と混ざっちゃったから、子供をたくさん産むウサギもイースターのモチーフになってるってわけ。わかった? 」
「うい……」
「で、この鎧の絵だよ。これは脇に地図があるから――――」
「よっ、ようするに! 『俺は勝つぞ! おー!』っていう絵なんだろ!? 」
「……まあ、端折りに端折ったらそんな感じなんだけど」
不満げにクリスは口を尖らせる。晴光は大きく息をついた。
(……こいつにウンチク語らせたら長いってことも、俺はよーく分かった)
肩を落として、晴光は深く息をつく。
そうこうしているうちに、廊下の端についた。今度は扉に辿り着くわけではなく、直角の曲がり角になっている。
窓は消え、代わりにいくつもの扉が並んでいた。
クリスが真っ先に、手前のドアノブを廻してみる。カチリともしなかった。
「なんだかドアノブ自体が飾りっぽいね」
「じゃあ、これも本当に部屋があるわけじゃないのか」
「……そんなこともないかも」
「え? 」
クリスは扉を拳で叩いて言う。「こっち、向こう側は空洞みたい。扉以外の入り口があるか……ここを開ける他の方法があるのかもね」
「そっか。よーし……」
じりじりと晴光は後ろに下がり、静かに腰を落とした。
「ちょっと! 何するつもりさ! 」
晴光は鋭く息を吐くと同時に、長い足を振りかぶった。クリスの脚で三歩の距離を、晴光の脚が一閃する。
―――――硬いものがへし折れる音がした。
クリスが思わず目を覆った次の瞬間には、メキメキと埃を立てながら、扉だった木片があたりに散乱している。
「へへっ! どーだ」
「す、すごい…すごいけど…! あーっもうっ! 」
頭を抱えるクリスの前を、晴光は鼻歌を歌いながら歩いて行く。
「ア――――――――ッ!もぉぉおおおお!」
「何喚いてんだよー 早く来ないと先に行っちゃうぜ? 」
「……ま、負けてない…僕はまだ負けてないぞ…ふふ…こんなのは虹の馬鹿に比べたら……」
「……ぶつぶつ言うなよ。怖いだろ」
ぐいと晴光はクリスの腕を引いて、中に引き入れた。
ふと、二人の耳に音が聞こえる。
それはまるで風の囁きのようで。
まるで、誰かの溜息のようで。
……どこかの誰かの、啜り泣きのようで。
『ふふふ……』
いいや、それは含み笑いだった。男の声にも聞こえるし、喉のかれた女の声にも聞こえる。
どこか物悲しい響きも含んだ、孤独な一人笑いである。
二人は思わず身を固くする。
『うふふふふふ…ふふふふふふふふ………』
「ひ、ひぃ……」
晴光が息をのんだのを見て、クリスはハッとした。
(いやな予感……)
『ふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ……』
ぷつりと、笑い声が途切れる。
『……―――――くっそぉ!』
ガシャーン!
男の野太い怒声、破壊音。場に反響したそれはずいぶんと近くで聞こえた気がした。クリスは咄嗟に晴光の口を押えにかかったが、残念ながら、あと20㎝ほど身長が足りない。
晴光が、体格に見合った特大の悲鳴を上げた。
それからすぐに聞こえた男の焦った声を、クリスは聞き逃さなかった。晴光のシャツの背中に蝉のようにしがみ付きながら、クリスは逃亡を図る晴光に制止を試みる。暗闇の向こうから、謎の男の声が『待ってェ~』なんて言うものだから、晴光はより怯えてしまうのだ。
一人、12歳は血潮が沸騰するのを感じた。
「うるせぇ! 黙れ! ぴーぴーぴーぴー喚きやがって尻からじゃねえと何も分からねえってのか!コノ××××共がッ!!! 」
まず耳元で起こったことの情報処理に、特大のエラーを起こした晴光が停止した。クリスは晴光の背から降り、床に落ちたエモノを拾い、握る。
闇の向こうでは、まだ生存者らしき男が喚いている。なんでも、『助けてくれ』『置いていかないで』?
「……ハァ? 『お願いします』だろうがクソ野郎が―――――」
クリスは静かに、あくまでも静かに、ぶつぶつと沸騰する胸の内を少しずつ零した。もう、命の危険がだとか、今後の身の降り方だとか、アンブレラの教えだとか、そういったものは最早どうでも良い。聖歌隊の一人に紛れて居そうな外見に、『教徒』を意味するクリスチャンという名前を持っているのに、彼は心の底では神様なんてちっとも信じていなかった。ついでに『真の母の愛』とやらも信じていない。
後々、自主的に反省会をしたところ考えるに、まさしく『俺の精神テンションは今!貧民時代にもどっているッ!冷酷!残忍!このおれがきさまを倒すぜッ』という感じだった。
昔(というほど生きてはいないし、前でもないが)のクリスはある意味では気高かったわけだけれど、世間一般的に言うと……ちょっとアレだったのである。工具で頭を殴るくらいは挨拶とドヤ顔で言うくらいはアレだった。
だから――――クリスは後々でとっても後悔して、蒼い目を潤ませながらしょんぼりして晴光に言った。
「お願いだから、あれは忘れて……」




