神の名前に堕ちる者
Ⅹ4
鼻の上に乗せたガラスをキラリと煌めかせ、男は大仰に腕を広げて、スクリーンに映し出される映像を仰いだ。
「今度のこれはすごいよ! なんてったってこの俺と三月ウサギちゃんの初めての共同製作だからね! いやあ、アリスにも直に歩いて見てほしかったなあ」
「アリスは見てるよ。ちゃんと…この世界で、アリスが分からないことなんて、無いんだから」
白ウサギは、ぽつぽつとハンプティの肩越しに言う。言葉少なな彼女の、珍しくも反論するような口調に、ハンプティは笑った。
「ああ、そうだった、そうだった。そのへんのさ、アリスの…なんていうんだろ。ルール? をさ、知っていても、まだまだ俺には実感が薄いんだよね。法則も全部無視したやつじゃない、あれって。理系の俺にはイマイチ理解しがたいのさ」
「アリスはアリスだから」
白ウサギのその短い一言は、彼女のアリスに対しての敬愛と、ハンプティの不遜を咎めるものとが混在している。
「ああ……『神様の子』、なんだっけ? 」
ハンプティは鼻で笑い、肩をすくめて、少女の顔をちらりと窺い見た。無表情を貫く白ウサギに少しの落胆を感じながらも、彼女がステッキの握りを直したことは目敏く把握している。
「君たちのアリスに対するそれって、まるで宗教だよね」
神に振り回される子羊を憐れんで、本当に悲しげな声色を出して、ハンプティは『F』という組織そのものを皮肉った。
「燔祭ってあるだろ? 君たちは神様のためなら、自ら祭壇上で体に火をつけるんだ。……文明的現代人代表として、僕ぁ…たまに君たちの自己犠牲が悲しくなってくるよ」
「アリスは神様じゃない」
白ウサギは力強く言った。
「わたしは確かに、アリスのためならどうなったっていいし、なんだってやるだろう。でも、それはアリスがわたしにとっての神様だからじゃない。そもそもあんたが言うことは最初から間違ってる。民が生贄になることを、アリスが何があっても望むはずないじゃないか」
「へえ、そんなふうな心理になるんだ。興味深いなあ……でも信者って、たいがい『天の御心を信頼しております』なんて言っちゃうんだよね。無自覚な信仰だよね、それってさ」
「………」
白ウサギには、この男のよく回る口を閉ざす方法が、もう暴力しか思い浮かばなかった。重い口を閉ざし、嫌悪を喉の奥に押し隠して、ハンプティから背を向ける。燻る怒りを呆れと嫌悪で宥めすかし、軽蔑することで鎮火した。
この男を『F』に入れることを、他でもないアリスが選んだのだ。新しい仲間が入るたび、とくにチェシャーやクイーンあたりが新メンバーに反発することは恒例だったが、この男の時は今までの比ではない否定の仕様だった。
この男は自分が何度、命の危機に瀕していたか把握しているのだろうか。そのたびに苛烈な怒りを収めているのが、他でもないこの白ウサギやキング、そしてアリス本人だというのに。
しかし白ウサギは、この腹の立つ弁こそが、この男のいる理由なのだと思っている。
この男の理論は極論だ。けれど、それは『F』を『表』から見た理論なのだ。『F』があり、そのトップであるアリスが世界を総べる以上、白ウサギ達も広い視野で自らを顧みなければならない。この、スカスカの人間性の男でも必要なのだ。
いつかこの男がアリスを裏切る時があれば、その時こそわたしが……。
白ウサギは、そう心に決めている。
※※※※
その重厚な姿に違わず、にぶい音を立てて扉は客人を閉じ込めた。指先が触れただけで開いた扉だったのに、と晴光は相変わらず青い顔で背筋を震わせる。
薫るように立ち上る、霞のようなランプの灯が微かにクリスらの足元を照らし出した。
ぼんやりと玄関ホールのようなものを想像していたクリスは、怪訝に顔をしかめる。
そこは晴光とクリスが肩を並べられるほどの廊下が、まっすぐに伸びているのみだった。横に広がっているように見えた屋敷は、さて何故だか縦に長いらしい。
ランプの灯りに外れたところは、より闇濃く一寸先すら見えない。歩を進めるたびに黒いベールを裂くようにして、脇に控えるランプが点いて先導した。
ジジジ…と、ランプの灯が燃える音が響く。そんな沈黙に耐えかねてか、晴光は口を開いた。
「…これでさあ、この先向こうに扉だとかがあって、立札に『当店、注文の多い料理店です』なんて書いてあったら笑えるよな」
「その時は、ここは後回しにして帰ろうよ。衛生状態も悪そうだ。ろくな目にはあわないに決まってる」
クリスは晴光の斜め後ろを歩きながら淡々と言いながら、油断なく左右の壁に青い目を走らせていた。
(左右に部屋の扉は無い。窓も無い…)
そっと、壁に近寄って、手の甲で叩いてみた。目の前を歩く大男が、音に驚いて挙動不審に身体を跳ねて振り返ったが気にしない。
(……壁の向こうは何もない…もしくは、めちゃくちゃ壁が厚い? )
クリスは右の壁を見定めて、コン、コン、コン…と、三歩ごとに壁を叩いて歩く。最初はちらちら後ろを気にしていた晴光も、やがて前に集中するようになった。
いくらか歩いたか。そう何分も過ぎたとは思わなかったが、短い時間でもないように晴光は感じた。行く先の闇を睨んでいた晴光は、本当に扉に辿り着いたのを見て、足を止める。
「扉だ……」
「そうだね……」
緑色に塗られた扉には当然、文字なんて書いていない。
ふと、クリスは扉の脇に眼を止めた。
傘立てがある。見覚えのある色が、そこに誂えたように収めてあった。
「僕の傘だ」
「え? なんか言った? 」
「これ、僕の傘なんだ」
クリスは慎重に、傘を取り上げた。長靴と同じ黄色の傘。長さはだいたい、クリスの身長ほどもある。
クリスがグリップを握ると、これは慣れ親しんだ自分の得物だとしっくりときた。トレンチコート女との戦いのさなかで、どこぞへ吹っ飛んだとばかり思っていた。
けれども、ここにあるということはあの女の手の者が拾ったのだろう。
晴光がランプを持ってくる。手を借りて、ランプの乏しい明りの中で、骨の際まで検分した。
(見たところ異常なし……かな。一応は、これで戦える体裁になった)
クリスは少しだけ、肩の力を抜いた。
「ちゃんとお前のだったか? 」
「うん! ありがとう、お兄さん 」
「そうか。よかったな」
ランプを手元に寄せていた晴光は、自分の事のようににっこりと笑って見せる。
(…さっきまであんなに怯えてたくせに)
クリスはよっぽど、ここで幸福そうにな満面の笑顔を出せる神経の方が怖かった。
「ねえ、お兄さんはどこから来たの? 」
「俺? 俺は、なぁ……」
晴光は口籠って、誤魔化すように苦笑いしながら唸った。クリスはふうん、と目を眇め、控えめに口を開く。
「……ドゥ イエン フプーラィ エィン ドゥム(こいつ、馬鹿じゃないのか)」
「は? どいつがバカでなんだって? 」
(…やっぱり馬鹿なんだ、こいつ)
クリスは肩をすくめて、曖昧に笑った。
「僕の国の言葉でしゃべってみたんだ。わかった? 」
「へー、お前の国の言葉か。なあ、正解はなんて言ったんだ? 」
分かってたくせに、とクリスは心の中で嘯く。
国に、土地に、独自の言葉があるように、世界にもそれぞれ言葉がある。異邦人にとって、言葉は最初につまずくだろう恒例の難関だった。
クリスは襟に隠れた首筋――――肌に直に感じる小さな金属の感触を、服の上から弄る。―――――そんな、言葉の問題を克服するアイテムがあるというのを、クリスは身を以って知っていた。そして、それがとても高価で希少だという事。
ついでに、そんな大層なものを必ず持っている人種がいること。
翻訳機の形はいろいろだ。しかし大概は、肌に触れさえすれば良い。見えないところに付けられるようになっているから、傍眼にはまったく分からない。
きっと言葉と一緒に、意味も重なって聞こえたはず。
(こいつ、管理局のやつなんだ)
ふうん…と、もろもろを含んでクリスはにんまりとする。
(僕らの生存率がぐっと上がってきたじゃないか)
「ねえ、お兄さん。そろそろ行こうよ」
「え? んん、そうだな……」
「ここでぐずぐずしてたって仕方ないじゃない」
晴光は、「それもそうだな」と頷いてドアノブに手をかけ、そして開いた。
蝶番がさび付いた音を立てて、眼球を白い光が支配する。
眩しいほどに明かりが降り注いだ次の部屋に眼が慣れたころ、彼らは目映く白いその部屋をまじまじと見つめた。
部屋――――いや、また廊下であった。長く長く、白い廊下がまっすぐに続いている。床のみが暗褐色をした古ぼけた絨毯だった。
清潔そうな白でも、よくよく見れば古ぼけて黄ばんだ壁は、どこかサナトリウムの風情がある。ランプも必要ない今度は、本当の無音が支配していた。
「…この建物って、どっちかっていうと、横に長かったよな? 」
晴光が低く言った。
「うん、そう見えたけど、でも……あ、もしかしたら」
クリスは閃いた仮説を挙げる。
「…もしかしたら、ここってゆっくり円を描いていたのかもしれない」
「円? でも、まっすぐの道だったぞ」
「ほら、さっきの廊下は、ほんの自分の前後1メートル範囲くらいしか暗くて見えなかったでしょう? なら、少しずつ少しずつ道が曲がってたって、廊下の向こう側が見えないから分からないじゃない。方向感覚を錯覚させてたんだ。それなら、あの廊下がやけに長かったのも説明がつくよ。直線より曲線のほうが狭い面積で長く伸ばせる」
「なるほどなぁ…あれ、でもじゃあ、ここは? ここは明るいし、向こう側も見えてるぞ」
「ここはたぶん屋敷の地下なんだよ。曲がると同時に、ちょっとずつ道が傾いてたんじゃないかな」
「ああ、そうか。なるほど……それで窓が無いのか」
白い廊下は、衣擦れと自分たちの声だけが響く。クリスはゴム底の長靴で、晴光もスニーカーだったが、その微かな足音も絨毯が全て吸い取っていった。
向こう側が見えているからか、今度の扉にはずっと早く辿り着いた気がした。
これも病院めいた、チタンの白い扉である。扉を開くと、そのまま急こう配の階段が、上へ上へと続いていた。




