シングシングシング
「ごめんなさいアンブレラさん! もう下品な言葉は使いません! いついかなる時もお行儀よくしますから! 」
自分の声で跳ね起きたクリスの耳に最初に届いたのは、「ひょええ」と野太い悲鳴のようなものだった。それはどう聞いても、『あの女』の声色ではない若い男のものに思え、クリスは緊張すると同時に安堵の息を吐くという、矛盾した反応を示した。
怪訝に男を見返す。立派な体躯はしていたが、『男』というにはいささか幼げな顔をしている。染めているのか、生え際に黒いものが混じった赤い髪をしていた。
(……だ、誰だ)
疑問を口に出す前に、クリスの脳に理解が追いつく。(―――――いや、そうだこいつ…“上”のコースターにいたやつだ)
あの奇抜な頭を忘れるはずもない。だとすれば、自分は助けられたのだ。クリスは冷徹に納得し、怯えた顔を取り繕った。
「…なあ、大丈夫か? 」
晴光は、大きな体を屈ませてクリスに問うた。街道の花壇脇に置かれたベンチのごつごつした感触は、地べたとそう変わらないだろうとクリスは感じたが、この少年の精一杯の気遣いなのだろうことも分かった。
長く拘束された体はべったりと重くて、掻き回された脳みそは頭痛を、絡まった三半規管は吐き気を、今なお呼び込んでいる。
クリスは最初、どことも知らない森の中を歩いていた。そこで、あのトレンチコート女に襲われたのだ。
そして気付けば、狭い座席に拘束されて座らせられていた。それからのことは、いったいどれだけの事だったのか分からない。何時間も与えられるGと掻き回される視界に耐え続け、やがて意識が朦朧としてきた。どんな折檻よりも、幼いこの骨身に滲みたのは確かだろう。
晴光の手を借りてやっと起き上がったクリスは、切々と説明した。晴光はわかりやすく同情の表情を見せる。
もっと説明するならば、クリスは確かに襲われはしたけれど、しっかり武器を手に交戦をして、僅かながらも反撃している。しかしそれは当然言わなかった。まるきり敵わなかったのは事実だったのだし。
愁傷な顔をして黙り込んだ晴光を前に、内心で舌を出しながらクリスは被害者面をして唇を噛んだ。
(……あいつがいないのはまずかったな。むかつくけど、虹のやつとは絶対合流しなきゃ帰れない。あいつ、一人じゃどこぞで野垂れ死ぬだろうし……)
苛々を押さえ込み、上目使いに晴光を見て、クリスはおずおずと言う。勤めて年齢よりも幼く見えるよう心掛ける。
「あ…あの…一緒に来た子が、いるはずなんです。ぼく…その、あいつが心配で…知りません、よね? 」
(虹のやつ、どこにいるんだ。僕に面倒かけやがって……)
苛々するその感情が、世間では真実に『心配している』というのだとは、クリスはまったく気付かなかった。
「そっか、こんなとこに一人きりってほうが可笑しいよな…」
晴光は真面目な顔で頷く。
「俺はまだ誰にも会ってないけど……どんなやつなんだ? 」
「小さい、黒髪の女の子。黒いズボンに、緑色のエプロンをしてる」
「小さい? 何歳くらい? 」
「……十二歳、くらいかな」
虹の外見を思い出して、クリスは言う。(…どうせ、十五には見えないし)
「へえ、じゃ、おまえは何歳なんだ? 」
「……十三歳」
嘘だ。十二歳だった。
虹を十二歳と言った手前、横並びになるのは我慢ならなかった。
「十三かぁ! 」
晴光は破顔して、その大きな手でクリスの金髪をくしゃりと撫ぜる。
「じゃ、妹が心配だろ? 早く見つけてやらなきゃな! 」
晴光はクリスの頭を叩いて立ち上がる。
「よし、いくか」
クリスは目前の満面の笑顔に、一瞬狼狽えて呆然とした。
(……はぁ? )
意味が分からなかった。(何こいつ。自分も探す気なわけ)
しかも“妹”ときた。
(僕…黒髪だって言ったよな? どうして僕と兄弟だっていうんだよ)
虹と兄妹。
考えただけで、地面を蹴って転げまわりたくなるほどのすさまじい違和感がクリスを襲った。
「あいつとは、兄弟じゃないよ……」
予想を超える破壊力のあった空想にぐったりして、クリスはそれだけは否定した。
珊瑚を思わせる小石が張られた白い石畳が、LEDの青い明りに発光しているように思える。
そこは中世欧州の貴族の庭を模した道並みに変わっていた。
しかし肝心の屋敷は、よくよく見れば不自然に屋根が迫り出し、二、三階の窓などは、遠近法を狂わせた異様に小さな大きさをしているのがわかる。頭の上を覆うように傾いてくる屋根が、見える空を狭くしていた。
屋敷、というにも一つ一つの建物は小さくて、張りぼての扉は引いても押しても開かない。ガラス窓の向こうにはカーテンが引かれて室内が窺えず、ただ明かりだけがついて、わざとらしい影法師が中で生々しく生活を営んでいるのが不気味だった。
晴光はぎょっとしては、もう三度は歩みを止めそうになっている。そのたびに、クリスがいかにも『怯えて先を促す子供』として袖を引いてやり、やっと足を動かしていた。
「い、いやあ、こういうのってさあ、ほんと苦手でさぁ」
言い訳のようにそう苦く笑って言って、晴光は頭を掻いた。クリスは内心、呆れと侮蔑の溜息を吐く。
「でも…お兄さん、ほら」
クリスは目の前の屋敷を指した。その屋敷だけは他とは違い堂々と腰を据え、開け放たれた門と、その奥の使い古された扉がある。門脇の禍々しく発光するパネルが、客に入り口を指していた。
いわく、『ミセス・ケールの悪夢の館』。
「お兄さん…大丈夫? 」
「あ、ああ! 大丈夫、大丈夫! ラクショーだし……」
「ねえ、本当に大丈夫? これたぶんホラーハウスだよ……ほら、わざとらしく入り口のライトが切れかかってる」
「は、ははは、はぁ…」
誤魔化すように乾ききった笑いと、大きなため息を吐いて、晴光はうなだれた。
※※※※
どこかで、扉の開く音がした。
彼の敏感な耳は確かにそれを聞き、椅子を蹴って立ち上がる。
目元を覆う布は分厚く、灯りの有無さえ見えやしなかった。それでも彼は壁伝いに扉を、窓を探そうとする。色の無い手で床をまさぐり、四つん這いになって蜘蛛のように這って進んだ。
彼の常闇の中に、ひとすじ光が差す。彼はここにきて初めて、その声をあげた。
「誰かいるのか」
声は届かない。
「誰か――――――」
気が逸る。ああ、早くあいつを迎えにいかないといかないのに。
開け放たれた窓から顔をのぞかせた三日月が、下界をあざ笑うように瞬いた。




