間章:カサブタ
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クリスには、姓はない。
ある志のために、自分の名前をまるっと全部、過去と一緒に投げ捨てたからだ。
与えられた“クリスチャン”という名前に、多大に含まれた皮肉を彼自身以外に知る人間は、たった一人しかいない。名無しだったクリスに『クリスチャン』という名前を与えたその人だけだ。
クリスはその生い立ちから、神も仏も、サンタクロースも歯の妖精も信じちゃいない。もちろんのこと“クリスチャン”というわけでもないし、神様を信じていないからといって、人間賛歌なんぞは糞食らえと思っている。
そんなクリスの養母になったその人は、情報屋を営む異世界人だった。
その女に名はない。
…いや、あるのかもしれないけれど、クリスは知らなかった。たぶん、誰も知らないのだと思う。クリスチャンになる前の名前を、もう彼と養母以外には知らないように。
彼女の名前をクリスは知らないのだから、彼女は生粋の情報屋なのだろう。
彼女は太陽が嫌いだった。
陽光を憎むようにして、いつも屋敷の奥深くで、締め切った窓に黒いカーテンの引かれた部屋で、椅子に座って紅茶を飲んでいる。
ごくまれに客の前に出る時だけ、部屋から出て応対する。肩に大きなこうもり傘を差して。
そんな彼女についた俗称が、『アンブレラ女史』。
彼女は情報屋なのに、一歩も外には出ないという噂である。そしてそれは事実だ。
クリスだけが知っている。
あの女には何でもわかるのだ。彼女はすべて知っている。
アンブレラは、不思議な金色の目を持っている。
クリスはそれだけ知っている。
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喫茶アスタというのは、僕が(不可抗力的に)深く関わりを持ってしまっている、奇怪な喫茶店である。
どこが奇怪なのかと説明するのなら、店の構造から説明せねばならないだろう。
建物は、奥行ある長方形だと思ってほしい。
店の出入り口は二つ。お客さんが出入りする表の入り口と、カウンタ裏から行ける廊下(棚が並んでいて、倉庫のようになっている)にある、従業員用のぼろい裏口。
カウンタ裏の廊下は、出るとすぐに、上に向かう階段が見える。二階はシオン店長や、バイトのアイツが寝起きする生活空間になっている。僕は行ったことがないけれど、さらに三階にロフトと、地下室倉庫もあるとかないとか。
まあ、そこらへんはいたって普通だ。ただの倉庫と、ただのロフトと、ベットとタンスと小さなデスクがあるただの寝室が六つほどあるってだけ。
さて、前述した二つの入り口、扉を開けるとどこに繋がっていると思うだろうか。
まあ、当たり前に外なのだけれど、裏口と表口では『出る“外”が違う』。
裏口から出ると、目前に迫るコンクリートの壁が聳えている。コンクリートの間を抜け出ると、喫茶アスタは、ビルとビルの間でサンドイッチにされているのが分かる。まっとうな国ならばどう見ても違法建築に引っ掛かる具合の、ぎゅぎゅう詰めのサンドイッチだ。
ちなみに店内の窓からは、青空と緑がまぶしい森が見える。このへんからちょっとおかしい。
しかし問題は表口の方。
表口は、正直僕にも、どこに繋がるかが分からない。
もとから所在が分からない店だけれど、これはいかにもオカシイだろうと僕でさえ思う。ていうか誰だって首を傾げると思う。
アスタには、いろんな客が訪れる。
人種も、国籍も、時代も、生まれた世界すら違う人々が、ふらりと迷い込むのだ。
店の入り口には、チョークでこう書かれたボードがある。
『一見さんは大歓迎。
二度目なら幸運。
三度目で常連。
武器は持ち込みOK
兵器は持ち込みNG
喧嘩はご法度。
※店への危害が加えられたと判断した瞬間に退出を願い、今後の来店を拒否いたします。
再度ご来店の際は、店員の指示に従ってください。お客様の来店資格は当店が判断いたします。
当店では、絶対的な御身と精神の安全をお約束いたします。』
誰にも傷つけさせないし、誰を傷つけることも許さない。この店はそういうふうになっている。
つまるところ、平和主義の君主・東シオンの城なのだ。この店は。
時々、管理局から逃れた犯罪者――――ようするに、自分たちが『悪いこと』をしていると自覚している異世界の商人なんかも迷い込むけれど、店主の東シオンは分け隔てなく彼らを保護し、ひととき休息を取らせて送り出す。
「この店でシオン店長がやってることって、たまに無駄なんじゃないかと思うんだよね」
ある日の昼下がり。カウンターでココアを啜りながら言うと、あいつは気持ち悪い満面の笑顔を浮かべた。
「店長のすることが無駄だったら、俺はここにはいませんよぅ」
「…ああ、そうだったな。お前も店長に保護されて居着いたクチだったな……」
そう、このアルバイトは店長の信者筆頭で、東シオンが言うのならば黒も白に染めてしまえる危険人物(頭がね)だ。
「いまいちわかんないな。店長ってさ、やってることは偽善的じゃないか。お前ってさあ、店長のどこがそんなに好きなんだよ」
「一番は顔ですね」
奴は即答した。
「あの黒目がちの釣り目、色白で真っ黒の髪――――まさしくパーフェクト。俺の好みにストライクです。そんな美貌なのに癖毛なところはカワイイですし…うふふ、気の強そうなお顔をしているのに、純な性格もギャップがあってポイント高いです。さらには、あんなにやさしい人なのに、ひとたび武器を持てば一騎当千の腕前…素晴らしい」
はふぅ、と、虹は頬に手を当てて、熱っぽい息を吐いた。
「シオンさんの魅力は底なし沼っす…俺はこのままシオンさんに溺れて死にたいとすら思います……」
「お前はもう十分手遅れだよ……」
ドン引きする僕のカップに、虹は薬缶を差し出してココアを補充する。仕事は忘れていないらしい。
「さっきも言ったけど、店長のやってることってやっぱり偽善的だよ。たかだか一時の安全を保障しても、どうせまた元のところに帰すんだろ」
ほとんどの異世界人ってやつは、自分が世界の異物だとは知らずに過ごしている。
それがある日、いきなり世界から拒絶されて、見知らぬ土地に放り出される。末に野垂れ死んで、管理局に死体を回収されるっていうのが通過儀礼というか“お約束”みたいなもんだ。
どこで生きても、どこで死んでも、管理局は追いかけてくる。異世界人ってのは、どこに行っても世界を乱す存在でしかない。
管理局が異世界人を捕まえて提示するのは、『自分たちの仲間になれ』っていう、そういうことだ。
管理局の飼い犬になるなんて御免だね、というやつらは、怒涛の変化の中で、否応にも逞しく泥と血を啜って生きている。
ガキの僕だってそうだったのだから、東シオンはもっとだろう。虹はすさまじく幸運だと改めて思う。
「いやあ、でもクリスは、アンブレラさんのところにきた時、一回は泣いたでしょう? 安心してさあ」
ぎくり、とするのは、僕の心に思い当たることがあるからだ。誰よりも苦労知らずの癖に、こいつのこういうところが僕は忌々しい。
「…そうだね。まあ、僕も小さかったしね」
「大人でもねえ、泣くとおもいますよ。いっぱい怖い目に遭って、心が乾いてささくれてる時に…あったかいお茶を出されたら、そりゃあ涙も出ますよ」
「………」
アンブレラさんのところに来た最初の夜、まず自分の部屋を用意された。疲れ切っていた僕は、そこで与えられた服を着せられて、与えられたベットに横になって、眠って、夜中にふと目が覚めた。
もとを正せば僕の体温で温められているんだけれど、暖かい布団と、そこで何事も無く熟睡できたことがあんまりにも嬉しくて、僕一人がこんなに安心できる場所にいることが悔しくて、僕の過去は名前と一緒に消え失せたのだと思うと悲しくて、僕は布団の中で息を殺して泣いたのだった。
「ここは、休憩する場所っすから。休憩したら、また戦えます。ここはそのための場所だって、店長は言ってました」
「…ふん」
僕が知る限りこの店は、管理局から逃れられる唯一の場所である。けれど、だからこそ僕は、東シオンは甘い―――と、いまいち共感はできないのだ。
店長は強い。強いのに――――なんで戦おうとはしないんだ?
「…ああ、分かりました。クリスはあれですね、シオンさんみたいな草食系の分かりやすい善人よりも、アンブレラさんみたいな、ラスボスになりそうなグレーゾーンの鬼畜参謀タイプが好みなんすね。主人公の喧嘩っ早い熱血漢よりも、ライバルのクールで不良な切れ長イケメンを応援しちゃう捻くれたタイプだ」
虹はとんでもないことを言って、したり顔で頷いた。
「なっ…! 好みだとかそういう話じゃあないだろ! ただ、シオンさんのやってることは理解できないってことを言ってて――――」
「どうせぇ、ナルトよりサスケ派だとか、幽助より飛影がカッコいいだとか、真の主人公は教授だったとか、ピッコロさん超クール! とか言うんでしょ! もうっ! 」
「それ全員敵じゃないか」
「どうせアンパンマンよりバイキンマンに感情移入してるんでしょ! 」
「それはみんなそうだろ!? パンよりバイキンの方が感情豊かじゃないかよ」
「んもう、ああ言えばこう言う。反抗期なんだから。男は汗と努力と敗北と泥臭さとマザコンを受け入れてから大人だって、この前読んだ本に書いてありましたよぅ」
「ま…マザコンじゃねぇってーの! 」
「またまたあ、尊敬してる人はお母さん、って日記に書いてたくせにぃ」
「誰が! いつ! ぶっ殺すぞクソアマが! 」
「あら……楽しそうなお話をしてますのね 」
時が止まった。
「そして時は動きだグボフゥッ! 」
お前…本当にいいかげんにしろよ……。
僕はいつもの定位置、カウンターの端っこに座っている。横にあるのは壁で、目の前にあるのはカウンター。前にも後ろにも左右にも動けない僕らの顔に、濃い影が落ちる。
僕はそっと、立てた中指をカウンターの下にしまった。
……あれ、おかしいな。今は昼間だし、照明だって明るいはずなのにな。やけに暗いぞ。
「アンブレラさん、久しぶりっすね! あ、俺、仕込みしなくちゃいけない頃合いですね! ちょいと失礼しますね! 飲みたいものがありましたらお好きにどうぞ! じゃあクリス、ばいちゃ!」
右手はぶつけて赤くなった鼻をさすりさすり、左手をあげて、虹はカウンター奥の倉庫に繋がる扉に引っ込んだ。そんな低い鼻なんて潰れればよかったのに。
「うふふ…」
口の前に手を当てて、アンブレラさんは切れ長で細い目をもっと糸のようにして、にっこり笑う。
「……は、ははは……アンブレラさん、珍しいですね。店の方に出てくるだなんて……」
「ふふふ…あら、たまにはわたくしも腰を上げることもありますわ。例えば…ほら、珍しい素敵なお話を聞けそうな時だとか…」
たぶん僕の顔は、とても笑えちゃいないだろう。アンブレラさんは膝の上にある僕の手をそっと手に取り、さするようにして僕の中指を握り、またにっこりとして、そして―――――――……。
……その後のことは、とてもとても、口で言えたことではない。
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