おしゃかしゃま
女子回。
Ⅹ2
雪が雨に変わる。
喉の奥からむせ返るような鉄臭さがした。
骨がぎしぎし云っているのが分かる。
炎を背にした、あの女の肢体のシルエットが、鮮明に焼付いていた。
生臭いにおい。血で編んだ汚らしい糸を手繰り、体を揺らす女は、まるで紅い蜘蛛のように見えた。
母と訪れた馴染みの商店が燃えているのを横目に、炎と炎の壁の間を縫うようにして、少年が私の手を引いている。
足がこんなに痛いのに、こんなに息が苦しいのに、五感だけが鋭く周囲を観察している。こんなに寒いのに、握られた手のひらだけが真っ赤に熱い。
「逃げるぞ」
そう一言、私の左腕を引いた見知らぬ男の子の手は、じっとりと汗で濡れて震えている。けれども力強く、私の手は手放さなかった。
訳が分からなくなっていた、あの時の私を助けた男の子。
だから彼に恋をしたっていうわけじゃない。
けれどこの人のためになら、私はなんでもしようと思ったのが、きっと最初。私が生きる道しるべになったのだ。
※※※※
人類は、進化を諦めてはならぬ。
人類は知恵を得た。それが悪魔の知識だったとしても、それを扱う頭がある。てのひらがある。足がある。
私は欲望にまみれているか? 齢は百を超した。この左腕は、若輩の頃に国に捧げたものである。百の生の中でおよそ八十年の永いとき、この腕無くとも身を粉にして労働に勤しんできた。脳の働きをやめて朝日を拝んだ日などは一度だってない。
私は欲望にまみれているか? 否、ちがう。私はこんなにも、人類に尽くしているではないか。
人は幸福であることを諦めてはならぬ。神が言うのは、そういうことではないのか。
歩みは止めてはならぬ。その先が断崖絶壁だとして、飛びこまねばならぬ。
母なる海は、私をきっと優しく抱きしめるだろう。そしてそのまま眠ったままの私を、潮の流れに成すがままに、ゆっくりと岸へと運ぶのだ。
人は進化を諦めてはならぬ。この世に神はいないのだ。
我らには知恵がある。我々ははるか古代より、知恵を使役し、のうのうと生きてきたではないか。炎を使う術を以って、戦い、切磋琢磨し、より高みを、発展をしてきたのである。それを誰が咎めたというのか。
それが何をいまさら神などに耳を貸す。その眼は何のためにある。その鼻は何のためにある。その口は無駄な戯言を垂れ流すのか。その脳は、考えることは怠慢してはないか。
私の脳は絶えず知恵を絞ろう。この口は、私が出来うる限りより高らかに知恵を語ろう。その鼻は、より正しい分析するために使おう。私の眼は、何よりも真実を見たい。輝かしい、私の子供たちの未来が見たい。
いいか、神はいない。
人類よ。進化を諦めてはならぬ。臆すること無かれ。臆病者は去ればよい。しかし本当に神がいるというのなら、怠慢なるノアは見捨てられるだろう。
ジェームズ・フェルヴィン教授は学者たちの前でそう語り、それを最後にいなくなった。
パーカー博士曰く。
これらの言葉は、教授なりの人類賛歌である。我々は発展を諦めてはならない。知恵の探求は人類の夢だ。知識欲こそが進化のための機能である。
研究所のオフィスは、芳香剤に交じって消毒用アルコールの臭いがした。窓際に吊り下げられているポプリは、パーカーが研修で南イタリアに行った際、この部屋の主のために土産に買ったものだった。
うっとおしく晴れ渡っていたが、風は生暖かく来訪者たるパーカーを撫ぜている。パーカーの背中は、生温い汗で白衣の下までぐっしょりと濡れていた。
「人が人を讃えて何が悪いというのです!これはおかしい――――フェルヴィン教授の頭の中には、もしかしたら―――――この世で一番先を行く知恵が詰まっていたかもしれない。それは大いなる損失です」
「元、教授だよ。ジェームズ・フェルヴィンが教授だったのは、もう十年も前のことだ。とうに死んだ耄碌の戯言だ」
遮る目前の上司の言葉も聞こえなかったように、パーカーは畳み掛けた。「いいですか、フェルヴィン博士の言葉は、私にとってはきっかけでしかありません。なによりも、私も知りたい!進化の先にある人々のかたちを見て、声をききたい! だから私は研究をやめませんよ! 」パーカーは鼻息荒く続けた。「しいては、追加の研究資金の相談なのですが――――――」
「研究資金。それは誰の? 」
「もちろん! わたくしの、です! 資金の無心をするのは最も苦手な一時ですけれど、それでもこればかりは引くわけにはいきませんわ。教授、共に高みを目指しましょう。研究所の名を後の世にも語り継がれる新たな神話とするのです! 私はそのためなら―――――この腹にラットの子を宿してもかまわない! 」
机を叩き、パーカーは目を輝かせて言い放った。
老人はその言葉に憐れむように首を振り振り、パーカー博士に一枚の紙を突きだす。
「君は実に優秀だった。それこそ、若い才能が一つ消えたとしたら我が研究所の大きな損失だ………サンディ博士……いやぁ実に、残念だよ」
老人は、そんなピストルを構えたマフィア映画のドンのようなことを言った。博士はその紙を手に取り、上から下まで、びっちりと這う文字を脳に迎え入れる。彼女は笑い顔を凍りつかせたままで、舌だけをやっとのことで解凍した。
「……え? あ、あの……教授……? 」
「いいかい。神がいるかいないか、それはもう私達には関係ないのだよ。人が人である限りは、人と宗教は――――思想とは切り離せない。君は、ジェームズ・フェルヴィンが今何をしているのか、知らないのだろう」
子供を諭すような猫撫で声で、老博士は言う。
「ジェームズ・フェルヴィンは、確かに天才だった。けれどもね―――――その知恵は、まだ早すぎたのだよ。まだこの世界には、ふさわしい準備ができていなかった。そしてまだ、フェルヴィン博士の知恵を借りるには許容が足りん。君はまだ若い。きっとチャンスもある。生き急いではならんよ。まぁ…ようするにだ―――――この研究所に、君のような悪魔を置いておくわけには、いかんのだ」
良く晴れた日のことだった。若き研究者、サンディ・オリヴィエ・パーカー博士こと――――後の『三月ウサギ』は、職と未来を失った。
※※※※
ファンが目覚めると同時に、真っ白な光の幕が目の前を拓けた。
「目が覚めた? 」
女の声。真っ白の視界に、ファンは目を細める。
首を廻そうとして、がっちり頭が固定されているのに気づいた。何も見えない―――――白い目隠しがされているのだ。
猿轡を噛みながら声無き悲鳴を上げて、ファンは拘束の下で身動ぎする。
「ごめんね。でも、これも必要なことだから」
謝罪をする声は、けれども声色から喜色を隠しきれていない。興奮に声が裏返った謝罪は、ファンにさらなる恐怖を呼び込んだ。
「どうかな…動けないけど、なるべく居心地はいいようにしたんだけど……ごめんね、本当にごめんね。でも――――――本の一族を使えるなんて…こんな機会、これから絶対に無いから……」
(この声、知ってる!)
ファンは拘束具の下で、手の平をぎゅっと握った。
(あのひとだ。“F”の、学者のお姉さん……! )
しとやかな印象だった立ち姿と、この異様な声色とを、ぐにゃぐにゃに混ぜて頭の中に詰め込む。今は納得するしかない。
(Fが管理局に反乱したの? )
“本”に手を出すとは、そういうことだ。そんな状況で頭に浮かんだのは、隣に立つ“彼”のことだった。
(――――じゃあ、晴光くんは!? )
「ごめんね。本当はこんなことは、しちゃいけないんだけど…でもせっかくだから」
興奮入り混じる学者の声。
脳裏に紅い絡新婦が浮かぶ。
「ちょっと苦しいかもしれないわ。でも、心配しないで」
炎と、手を引く彼の後姿と紅い蜘蛛とが、交互に浮かんでは消える。
(晴光くん――――! )
あの赤い海から、ファンを掬い上げた大きな手の平。絡新婦から一緒に逃げた力強い腕。この目立つ髪色を綺麗だと言ってくれた唇。「気にするなよ」と、次の日には真っ赤に染めてきた髪。優しいひと。
――――わたしのすきなひと。
(助けて、晴光くん)
ファンはあの日から、彼以外には助けを求められない。ここにいないあの人にしか、縋ることができない。
我武者羅に少年の声を呼びながら、ファンの胸は痛んだ。
(――――私は、助けてとしか言えない)
悔しさを噛みしめながら、ファンは悪夢に堕ちていく意識の中で、彼の声を聴いた気がした。




