凛として咲く花の如く
Ⅹ1
流螺旋を描くように太い幹には、零れ落ちんばかりの紅い花が咲いていた。丸い花の形を、下から伸びた白い指先がなぞりなぞり、掬い上げるようにして、零れんばかりの花弁を摘まむ。
薄桃色の指先は名残惜しげに離れ、豊満な胸の前に収まった。
ほぅ…と、三月ウサギは艶っぽい溜息を吐く。
(……ああ、帽子屋さん。どうしてあなたはここにいないの……)
「――――なあんてこと、思ってるだろう? 酷いなあ、俺がいるっていうのに」
「……ハンプティさん」
隣に立った男の長身を見上げ、三月ウサギはまた溜息をついた。
「おいおい、人の顔見て溜息つくなよ。失礼だなあ」
スーツを垢抜けて着崩した男は、痩せた胸を張って自分のブロンドを掻いた。高い鼻の上には片眼鏡が。レンズ越しの青い目が、三月ウサギを見分するように見る。
「…うう、なんですかぁ……じろじろ見て……」
控えめに睨むオレンジ色の眼を見返し、にっこりとハンプティは返した。
「いいやぁ…そんな格好もできるんだなあって思ってさ。いつもキモノ、だっけ? それじゃないか。白衣はほら、チェシャーさんがいつも着てるけど、やっぱり白衣ってコスチュームは女性が着てこそ初めて価値があるよね。似合ってるよ。すっごく素敵だ」
「あ、あれは振袖っていうんです! 未婚女性だけが着ることのできる清楚な装いです……ハンプティさんって、いつも言葉が多いんですよ。素直に喜べません……! 」
控えめながらも語尾を強めて、三月ウサギは胸の前で組んだ指を強く握りしめた。
(……ああ、この人のこと、わたしまだ苦手だわ)
この男との出会いからも、もう三度は季節が巡っている。それでもこの軟派な男を、三月ウサギは好きにはなれなかった。いまだ、仲間と素直に受け入れることすらできない。
この男が窮地に陥ったとしても、たぶん助けたりはしないだろう。他のメンバーならば、迷わず自分は腕を差し伸べることが出来るだろうに。
(……ああそうだ、イモムシくんは大丈夫かしら……)
ぽわんと可愛い弟分の顔が浮かぶ。あの子を育てたのは、三月ウサギと帽子屋のようなものだ。
“F”という組織は、まっとうな子育てには向かない。それはアリスやチェシャーを筆頭に見てはっきりとしている。彼らは基本的に、与えれば与えるだけ貪るのである。また、与えられるだけの環境どころか、強奪する力もあるのだから、当たり前の結果ともいえる。
そんな教育汚染の巣窟で、ちっちゃなイモムシ少年を、理性的に育て上げられたのは帽子屋の功績だろう。
芋づる式に、帽子屋の秀麗な横顔も浮かぶ。一人でに熱くなった頬を手の平で冷ましながら、三月ウサギはぽやんと男の上背を、後姿の逞しさを思い浮かべて感傷に暮れた。
(帽子屋さん……どうしていなくなっちゃったの? 今こそFには貴方が必要なのに)
もちろん自分にも…というところまで思考が進んで、冷めかけた熱がまたぶり返す。
アリスに無理を言って植えてもらった樹木は、きちんと三月ウサギが頼んだ紅梅性八重、鴛鴦。花びらが積み重なった八重の紅色の花弁を持ち、鴛鴦の別名をつけられたこの樹がきっとふさわしい。『飛び梅』でも、桜は去りゆく主人への思いが募って枯れてしまったけれど、梅と松は枝を飛ばして主人を追ったのだ。一つの華に二つ実をつけるこの淡紅八重は、三月ウサギ一人くらいの願いの重さ程度では、花弁は散りもしないだろう。
空には青白い三日月が、三月ウサギを嗤っている。
こんな時でさえ、春のウサギのように色に溺れる自分は、なんて浅ましいのだろうかと三月ウサギは思いながらも、一人の男に焦がれるのをやめられないのだ。
「あ、また溜息ついてる」
「……もうほっといてください」
「なんだよ、ツンケンしちゃってさ。女の子のアンニュイな日ってやつかい」
三月ウサギは耳の先まで真っ赤になった。
「なっ―――――! 」
いざ物申そうというところで、軽やかながらも静かな声が梅の下へかかる。
「二人とも、そろそろターゲットが網にかかりそうです」
「やあ久しぶりじゃないか! 報告ありがとう、白ウサギちゃん! 」
トレンチコートに中折帽の下、とろんとした飴色の眼で目礼して、白ウサギは沈黙したまま踵を返していった。
華奢な男装の少女の後姿を見送りながら、三月ウサギはまた溜息を吐く。
「まさか、美女二人に挟まれるなんてね。この仕事、意欲的にならざるを得ないなあ」
馴れ馴れしく肩を抱こうとした腕を掻い潜り、三月ウサギは白ウサギの背を追った。
「しばらくこのメンバーでやっていきたいくらいさ。ねぇ? 」
真後ろに張り付いたハンプティが、にやにやと言う。
背中いっぱいに嫌な汗をかきながら、三月ウサギはハンプティを振り切るために足を速めた。
※※※※
「あーちくしょう。ここどこだよー」
晴光は重い腕を持ち上げ、紅い頭を掻いた。
「どっこ見ても木ばっかじゃんかぁー。眼に優しくても心に優しくねーよー」
人っ子一人いない森の中を、晴光はとぼとぼ歩いた。一人歩きの寂しさを紛らわすための独り言は必要以上に大きかったが、全てこの広がる樹海に飲み込まれていく。
「だれかー……」
晴光の逞しい上背よりも、ずっと高い樹木たちが見下ろしているような気がして、晴光はぶるりと背筋を震わせた。
(……こんなん怖いわけあるもんか。実家の夜の廊下の方がずっと怖かったろ! )
晴光の生家は寺だった。家業が家業だけに、同じ屋根の下にご遺体がある夜だってあったのだ。
「怖くねえ。怖くねえし! 」
(よし、走ろう)
晴光は夜闇をねめつけて、ぴかぴかの琥珀色をした体育館を思い浮かべた。十四のあの夏まで、晴光にとっての戦いと言えば、あの狭いコートの中だった。
今でも、ここぞという時には幻聴がする。スタートダッシュはホイッスルから、シューズが板を踏みしめ、腕を伸ばして天空のあのボールを掴む。
この森もよくよく見てみれば、寺の裏手にあった林に見えてくる。
(あんなのは庭みたいなもんだった)
自分の膝を叩き、叱咤して、鼓舞して、晴光はぐいと目前の獣道を睨む。
(今の俺には本がいない。早くファンを見つけてやらねーと……)
桃色の髪をしたあの子の他に、ちらりと脳裏にもう一人の黒髪の少女の顔が浮かぶ。ざわざわと騒ぐ胸を撫でさすり、晴光は繰り返した。
(大丈夫だ。みんな無事だ。すぐにみんなと合流できる)
脳みその奥の方で、じりじりと肌を炙る熱と真っ赤な糸が幕を張っていく。そこにいるのは赤い蜘蛛―――――晴光はそんなイメージを振り落とすため、より腕を早く振る。
管理局に来てほんのすぐのころ、人殺しを見たことがある。ファンや、エリカやニルや、そのほか誰かがあの人喰いの蜘蛛の糸に絡みとられると考えたとたん、いつも晴光はたまらなくなった。
そして、それを考えると、晴光はいつも以上の力が出る。足はいつも以上に軽く、腕はいつも以上に力が入る。
宵の梢の間に、ちかちかとした灯りが見えた気がした。進むごとに灯りは増え、蛍火が篝火になっていく。ふっつりと森が途絶え、眼下にきらきら色とりどりの蛍光色が広がった。
見知らぬ場所だ。けれど、見知った光景だった。
巨大すぎる車輪型の乗り物を見上げて、晴光は怪訝に眉を寄せる。ライトアップされた看板には、華美に装飾された文字が躍る。
「なんだここ……遊園地か? 『イースターランド』………? 」
❤❤❤❤
「これは試練よ、マリア」
「彼らを試すの? アリス」
「試す? そうね、見極めるってほうが近いかしら。だってどうにしろ、彼らは渦中に巻き込まれる筋書きだもの」
「筋書きと書いて運命とでも云うの」
「そのとおり」
「殺すつもり? 」
「死なないわ。それもまたそういう筋書きだもの」
「もしもの話よ。逆に貴方の仲間が危険にさらされたりしたらどうするの」
「どうもしないわ。私が信じてる限り、彼らは死なない」
「貴方はアリスだものね」
「そうよ。私はアリスだもの」




