最果てまで(ダイモン=ケイリスクと、その母について)
おばさまが死んだ。
彼女は、自分が死ぬということを分かっていたのだと思う。おれに準備をさせたのが、その証拠だ。
自分の世話は自分でやく人だった。医者も、自分の“その後”の処理も、棺桶ですら、自分で手配していたのだから。筋金入りである。
昨日30日は、朝から突然のひどい雨が降っていた。インターホンの音が遠く聞こえるほどで、扉を開けたのはやっぱりおれ。時刻としては九時ごろ。おれは部屋で本を読んでいたから、これを居間でテレビを見ていたら気付かなかったところだ。玄関には、お医者の先生が濡れ鼠のうえ、蒼い顔で立っていた。
先生は慌てた様子で、挨拶もそこそこにおばさまの所在を尋ねた。おばさまの夜は七時半には寝室へ行ってしまうか、深夜の三時になっても起きているかのどちらかだった。しかし朝は、五時には起き出して何かしら作業をして、この時間は庭を見るかラウンジで本を読んでいる。
そしておれは、今日はまだおばさまの顔を見ていなかった。他でもない、おばさまが「明日の朝にお医者様が来るまで私の部屋には近づかないように」と言ったから。
濡れ鼠の先生を、おれは寝室へと案内した。
おれはおばさまがもう駄目だってことは、他でもない本人から言い含められていたから知っていたし、先生も当然知っているものだと思っていた。でも先生は、「まさか」と思っていたらしい。だっておばさま、本当に直前まで元気だったから。二月前におばさまを健康診断をしたのは、他でもないこの先生だったしね。
「明日の九時に私は死ぬから、確認に来てください。雨には気を付けて」
二十九日の夕方に、そういう電話が来たらしい。先生は冗談だと思ったけれど雨が降り出して、やっぱりなんだか不安になったのでやってきたらしい。
おれは先生が寝室から出てくるまでに、部屋に戻って服を着替えた。いいや、もちろんこの時間まで寝間着を着たままだったわけじゃない。普段着から正装に着替えたのだ。今回のために、わざわざジャケットをおばさまと仕立てに行った。喪服ってやつだ。
部屋から出てきたお医者様は、自分のほうが死んでしまいそうな顔をしていた。そういえば、先生はおばさまと茶飲み友達だったから。
着替えているおれをみて、酷く驚いた様子だったけれど、次には悲しそうな顔で、お悔みの言葉を溜息と共に吐き出した。
「……君も知っていたのかい」
先生は涙の浮いた目を、おれのネクタイあたりに向けて言った。
「家族ですから」
「君も、寂しくなるね」
いいえ、おばさまは前の日の夜、寝る前に言ったのだ。
お医者の先生が来るまで、寝室には近づかないように。いつも通りに着替えて、洗濯をして、朝ご飯を食べて、先生を待ちなさい。明日は庭に水を撒かなくてもいい。午前中に雨が降るから。
業者には事前にきちんと頼んである。先のことも、何も心配することは無い。
しばらくは知らない人がたくさん来るだろう。慌てずに名前と所在を聞いて、招き入れなさい。それらはきちんと紙に書いて保管しておくこと。
毎日かかさず朝・昼・夕と、二回のお茶をして、洗濯と庭の水まきを欠かさないこと。掃除は月に五回でいいから、徹底的に。
病気になったら、夜中でも先生に電話すること。あの人はそれが仕事なんだから、何の遠慮もせずに頼りなさい。
おまえはやれる子だから、教えた通りにやりなさい。分からなければ、電話脇のメモをよく読むように。
「いいえ、寂しくなんてありません。だって、おばさま言ったんです」
いいですか。おばさまはどこにも行きません。
わたくしは、ずっとおまえの『目』の中にいるのだから。
だからあなたには、もう二度とわたくしを見ることは叶わないけれど。
「――――けれど、先生や、他の人は、おれの眼を見たらおばさまが見えるのだって」
次にインターホンが鳴ったのは、ちょうどお昼頃。朝の雨が嘘のように、雲一つない晴天の下、汗を拭い拭いやってきたのは葬儀の業者の人だった。「お引き取りにあがりました」と、頭を下げたので「ありがとうございます。お待ちしていました」と返すと、狐につままれたような顔で言った。
なんでも一週間くらい前に、今日の正午を指定して「遺体を引き取りにきてください」と電話があったそうな。「なんだか変だな」と思いつつ、マニュアル通りのあれこれを聞いて、最後に「そういえば、どちらのご遺体を? 」と聞くと、「わたくしのを」と。
悪戯だと思ったそうだけれど、そうしたら昨日の晩にも「二十二日にお電話した者ですけれど」と電話があって、「明日の正午にお願いします。中学生の男の子がいますけれど、彼に聞けば全部分かりますから」と言って切れたという。お金も振り込まれているのが確認できちゃったので、行かないわけにもいかず、行ったら本当に電話の主が死んでいたものだからウワァ…という感じ。
その次は、これがどうしてか警察の方だった。葬儀屋さんが不気味に思って通報したのだ。
一週間も前に、自分が死ぬから棺桶を…なんて電話をしたものだから、すわ自殺かそれとも…と。
二人組の刑事さんは、おれの顔を見て間違って虫でも飲み込んでしまったような顔をしていた。少し玄関で当たり障りのない立ち話をしていたら、次の瞬間に、音も無く近づいてきたお医者先生にぶっ飛ばされていた。
いやはや驚いたけれど、メタボリックな体系をした刑事さんが、先生はふだんの紳士っぷりを投げ捨てた先生に、文字通り1.5mくらいぶっ飛ばされていたのだ。しこたま床に腰を打っていたので、とても痛そうだった。
先生は、玄関の脇にある応接室に刑事さんを引っ張っていき、一時間ほど話をしていた。
けっきょく、刑事さんは揃ってげっそりした顔で帰っていき、先生は見たことが無い雄々しい顔をして、鼻息荒く「もう大丈夫」とおれの肩を強く叩いた。
先生が『お話』しているあいだに葬儀屋さんは準備をし終わって、あとは火葬場に向かうだけの段取りがついていたので、おれは先生の車で火葬場に行った。
火葬にしたのは、他でもないおばさまの意思である。「後腐れなく」ということだそうな。
あれ、遺体って、死んでからこんなに早く燃やせるもんだったっけ? と気付いたのは骨壺を受け取ってから。
時すでに遅し。おばさまはぴちぴち新鮮なまま、生物をやめたかったのだ。おばさまの蔵書に、九相図の載った画集があったのをおれは知っている。死んだら人間は世界で一番汚いものになってしまうから、さっさと燃やしてしまうのがいい、だとかなんとか言っていた。だからおれは、おばさまの体をきちんと見ていない。それに気づいたのも火葬場からの帰り道だったから、おれはとことん鈍い。
おばさまは死んだあとですら、自分のことはきっちり終わらせて、おれのことばかり考えてくれていたんだってこと。
それから家に帰って、メモ通りにあれこれの電話をした。学校だとか、役所だとか、おれも知らないおばさまの知人だとか。その『おれも知らない』人たちの中に、おれの親戚、親兄弟もいたのかもしれない。ちょっと思ったけれど、やっぱり興味はなかった。おれにはおばさまがいたから。
さて、おれが重大なことに気が付いたのは、本当にだいぶ後のことだった。これはぶっちゃけ、もっと早くに気が付けばどうにかなったことだったのだ。
リビングのソファで、おれよりぐったりするお医者先生に尋ねてみた。
「ねえ先生、おばさまの名前って知ってますか」
先生は、いつもおばさまを「ケイリスクさん」と呼ぶ。
「あれ、そういえば……」
先生は首をひねって、難しい顔で唸った。
「ケイリスク…ナントカ、だろう? 」
「ケイリスクは、おれの苗字だけど、おばさまの苗字じゃないですよ」
「そうだったのかい。いやはや、てっきり……正解は? 」
「それが、分からないんですよねぇ……」
おれは、テーブルの上の骨壺を見た。
「は? 」
「ええと、だから…おれ、おばさまの名前、知らないなあって今気づきました」
「フルネームを知らないってことかい」
「いいえ、苗字も、名前も…そういえば何歳なのかも知らなかったなぁ」
「…………」
先生はぽかんとした。
おれたちは揃って、骨壺を見る。当たり前だけど、眺めたっておばさまはなんにも言わない。
「…なんで知らないんだい」
先生は今更、当たり前のことを聞いた。
「たぶん、おれが訊かなかったから、じゃないですかねぇ」
「外に『Calyx』って表札があるじゃあないか」
「それはたぶん…この家がおれの名義だからです。表札を見せられて、『家主はおまえなんだよ』って家の手伝いをするたびに説教されたし…」
「本当に、分からないのかい。書類だとかは? 学校に提出するのがあるだろう」
「ああ! そうか! 」
おれはおばさまの部屋に行って、学校関係の書類を引っ張り出した。当然、保護者の名前と捺印だとかがあるはずである。
「―――――ありました! 」
「あったか! どれどれ……」
うちではこういう書類が来るたびにおばさまの元に持っていき、おばさまが処理をしておれに手渡す、というやり方を取っている。俺の元に帰ってくる頃には、おばさまはきっちりどんな書類でも茶封筒に入れて渡されたから、おれは新鮮な気持ちで、書類の束を手に取った。
先生はサインを見たとたん、「あっ」と声をあげた。
「『苗代 照朱朗』……照朱朗? 男の名前じゃあないか! 」
「まさか…おばさまは、おじさまだったんですかね? 」
「いやいや! そんなわけはない! わたしはあの人の健康診断を二か月前にしてるんだ」
「そもそも、おばさまって日本人なんですかね……」
「……君が知らないことは、わたしは知らんよ」
どんよりした声で先生は言った。
夜になると、泊まっていこうかと先生は言ったが、再三奥さんからの電話があったことに気付いていたので断った。
やることといったら、おばさまがいないというだけでいつもと変わらない。
さて、謎の人物『苗代 照朱朗』の正体が分かったのは、驚くほどすぐのことだった。
※※※※
七月三十一日、この日も晴天。早朝のこと、この夏の日に早くも空が白み始めた頃に電話が一本鳴った。目を擦り擦り、おれは布団から這い出て受話器を取る。
「はい」
男とも女とも言えない静かな声がした。
「朝早くに申し訳ありません。訃報を今しがた聞き、こんな時間にお電話いたしましたことをお許しを。――――あなたがダイモンくん? 」
「はぁ…そうです。ぼくがダイモンです」
「今、そちらへ向かっています。会えますでしょうか」
「いいですよ。あの、お名前を教えていただけますか」
「これは、失礼しました。苗代照朱朗と申します」
車の音がしたので、おれはインターホンより先に扉を開けた。このへんは大きい家の多い区画なので、道路も遠く、人通りも少ない。朝のエンジン音なんて新聞配達のバイクくらいのものだった。
門脇に襤褸っちいの軽自動車が止まっているのを認め、おれは門を開けてやるために近づいた。運転席から出てきたのは、おおよそこの車に似つかわしくない人物だった。
細面の切れ長の目を細め、『苗代照朱朗』はおれに向かって片手を挙げる。頭を下げたときに、結い上げている長い綺麗な赤毛が着ている羽織を滑った。
「はじめまして。苗代照朱朗です」
この世のものかと思えないほど、おっそろしく、異様に、綺麗な人間がいる。おれは久々に緊張して、家に招き入れた。
「懐かしい…」
苗代さんは、玄関に一歩入って呟いた。
「ここに来たことがあるんですか? 」
「あるもなにも、実はあたしもここで育ったんだ。…ああ、ここの照明も……おばあ様はけっきょく変えなかったのか」
「あなたは、おばさまの孫なんですか! 」
早朝には大きすぎる声が出て、慌てて口を噤む。苗代さんはふっと微笑んで、柱を指でなぞった。
「…そうだよ。正確にはね、おばあさまの娘の養子だね。でも、亜香子さま――――おばあ様の娘さんね、その人は勤めに出ていたし、後々によそで結婚もしたから、身体が弱かったあたしはここでおばあ様に育ててもらったようなものだったんだ」
「おばさま、子供がいたんですか! 」
「亜香子さまはとうに亡くなったし、子供もいなかった。あの人の縁者は、おまえさんくらいのものだよ。おまえさんはあの方の最期の養い子さ」
「あの……家の中、見て回りませんか? 」
遠い目をする横顔に問いかけると、彼は驚いたようにおれを振り向いた。
「いいのかい? 」
苗代さんは、本当にこの家のことをよく知っていた。応接室の柱の傷、台所のタイルが一つ剥げている由来だとか、おれの部屋にある窓は夏の花火大会の穴場だとか、そういうことばかりを知っている。
「この家はもうあたしの家じゃないからね」
と、苗代さんはひどく恐縮しながら、おれの後をついて部屋を見て回って、当時との違いをあれこれ教えてくれた。
「あたしのことは、苗代さんじゃなくて照朱朗と呼んどくれね。その名前はあんまり使っていないから馴染みが無くて」
朝食のころになると、苗代さんもずいぶん砕けていた。
「あたしはおばあ様の計らいで、あんたが小学校に上がった頃から後継人ってことになっている。もちろんおばあ様がいなくなった今、あたしはあんたの保護者だ。これでも金には困ってないし、そこそこ偉いんだ。だから養うぶんには心配することは何も無いよ。あたしと来たければそれでもいいが、おまえさんが一人でもこの家でやっていけるというのなら、今まで通りに過ごせばいい。あたしはあんたが自立するまでの金は出そう」
ちょっと悪そうな顔をして、苗代さん―――――照朱朗さんは言う。
「あとあと立派になって返せ、なんてあたしは言わないよ。あたしは老後の世話もいらないし、大人になるまでの金を出すだけの金庫だとでも思ってもいい。ただ、悪く転がるなら、とびっきりの悪になっとくれよ。あたしみたいな地位と権力と人徳ある悪にね。そうすりゃあ、あたしの自慢話が一つ増えるんだから」
照朱朗さんは、ちょっと刺激が強すぎる声色で囁く。
「どうだい、おまえくらいの年の餓鬼にゃ理想的な保護者だろう? 」
陽が高くなったころ、先生がやってきた。先生は照朱朗さんに驚いていたが、名乗るとすぐにそれを信じた。おれが言うのもなんだけど、照朱朗さんは割と怪しい人物だと思う。
なぜ、と先生に訊いた。すると、「あの人は、ケイリスクさんの若いころに似ているからだよ」と教えてくれた。
「あの人も綺麗な赤毛だったんだ」
「先生は、照朱朗さんのことを知らないんですか」
「たぶん彼がこの街に居たのは、ずいぶん昔のことだろう。わたしがケイリスクさんに出会う前だ」
「でも先生も、この街の生まれなんでしょう? どこかで会っているかも」
「それは無いな」
なんだか含みのある感じで、先生は照朱朗さんと顔を合わせて笑っていた。
「そう、おばあ様も亜香子さまも、それは見事な赤毛でね。あの母子はよく似ていらしたよ。あたしが引き取られたのは、そもそも他人の空似ってやつだった。言った通り、あたしは体が弱かったから『自分とおんなじ顔した子供が余所で野垂れ死ぬのはごめんだ』って言って」
「子供が野垂れ死ぬなんて、いまどき苦労なさったんですね」
「あたしの頃は、まだそこらで子供が死んでる時代だったのさ」
「それっていつごろ? 」
「ははは…」と、可笑しそうに笑って、照朱朗さんは言う。
「向こうの川沿いに、まだ妓楼があったころ」
「ギロウ?……それって、どれくらい前ですか? 」
「空を飛べるのが、鳥と虫と阿呆と煙だけだったくらい」
おれは首を傾げて先生を見た。先生は苦笑いをしている。
昼時には少し早すぎるくらいの時だった。
「さて、そろそろお暇しようかね」
「そんな、もう? 」
「もうあたしが来てから時計の針が三周はしているじゃないか。もともと、おまえさんの顔を見るだけのつもりだったんだよ。本当なら昨日の朝には着いておくべきだった。手違いでね、おばあ様の手紙が、昨日の深夜まで手元に届かなかったんだ。お蔭で出先から一晩かけて帰って来たのさ。徹夜明けにこの夏の日差しは、あたしにゃキツい」
照朱朗さんは手帳を取り出し、メモを書いておれと先生にそれぞれ手渡した。
「あたしの屋敷の電話番号と、携帯電話の電話番号だ。屋敷が山奥でね、携帯の方はまずつながらないと思っとくれ。屋敷には必ず人がいる。誰かしら出るだろう。先生、この子をよろしくお願いいたしますね」
「ああ、任されましたとも」
照朱朗さんの帰り支度は手早かった。さっと羽織を翻し、来た時と同じように、颯爽と車に乗り込む。車が襤褸なのが残念でならない。と、門を出たところで、照朱朗さんは車を止めて窓を開けた。
「あっ、そうだ、あたしとしたことが忘れていた――――――」
「なんですか? 」
「ウン」照朱朗さんは頷き、ちょいちょいとおれを手招いた。おれは近づいて行って、窓を覗き込む。
「いいかい、ダイモン。おばあ様を訪ねてくるやつで、気をつけなきゃいけない女がいる」
「そんな人、おばさまに聞いてないよ」
「まず大丈夫だからだ。あの人は、あたしのことも言っちゃいなかったろう? あたしとあんたが説明なしにも上手くやるってことが分かっていたからだ。あの人の千里眼はすごい。確実な未来を見通すよ。おばあ様が何にも遺さなかったのなら、たぶん安全だとは思うんだけれど……でも、もうおばあ様はいないからね。まずいやつのことは知っていた方がいい」
「その人って、どういう人なんです? 」
「名前はあたしもよく知らん。おばあ様と同じように、名前を名乗らない」
「……照朱朗さんも、おばさまの名前を知らないの? 」
「あの人らは名前を名乗らない。夫以外にはね。その名前も夫と時と共に変える。あたしも、おばあ様が当時使っていた名前は知っちゃあいるが、そりゃもう死んじまった名前だ。あの人の生まれてから死ぬまでの名前は、きっとその女以外にゃ知らないんだろうさ。そいつは、おばあ様の妹なんだ」
おれはなぜか、ぎょっとして肝を冷やした。
「い、妹? おば様、縁者はおれ以外にいないんじゃ」
「あの女とは縁を切ってるからね。それでも、あの女はおばあ様のことを狙っていた。ここ半世紀はどこぞで何をしてるんだか分かっちゃもんじゃないが、訃報を聞いたら何かしら動くはずだ。……そう不安な顔をするんじゃあない。さすがに昨日の今日には無いだろうよ」
柳眉を寄せて、照朱朗さんは想像の中のその人を睨んだ。「忌々しい女だ。おばあ様は、いつもあの女に煮え湯を飲まされていた」
おば様の妹。どんな人なんだろう。
「趣味が変わってなきゃいいが……あのね、西洋かぶれのドレスに日傘を差した女が来たら、顔も目も合わせずに追い返しな。特に蒼が好きだ。蒼い服を着た女は追い返せ。顔はともかく年のころはなんとも言えんが……ババアではないだろうね。肌が青白くて、いやぁな狐みたいな目つきした子供が産める程度の年の女だよ」
具体的なのか抽象的なのか、よく分からない特徴だと思った。怖い顔をして何度も照朱朗さんは言い含める。
「いいかい、おばあ様が死んで一番厄介なのの筆頭があの女だ。阿婆擦れだが頭はいい。油断大敵だよ」
「ずいぶんその人のことを嫌うんですね」
「好きになれるもんかよ。あの女はな、昔――――――」
吐き捨てた照朱朗さんは言葉を切り、次には困ったような顔をしてハンドルを握った。
「―――――いや、これはいいんだ。あたしも、夕方にはまたここに来るからさ……すまないねぇ、憎いが勝って、あんたのことを考えちゃいなかった。言ったろう? あの女が昨日の今日に何かするってのは、どだい無理なんだ。おとなしく、いつも通りしてな。おばあ様にそう言われてるんだろう」
「はい。大丈夫です。おれ、照朱朗さんや、先生たちが思っているほど寂しく思ってないんですよ」
照朱朗さんは、真っ黒い目でおれをまっすぐに見た。
「……ダイモンよ。おまえは、おばあ様の最後の養い子だ。おまえの瞳の中には、確かにおばあ様がいる。そのこと、ゆめゆめ忘れるな。おまえはどんなやつからも、おまえの中のおばあ様を守らなくちゃあいけない。それは宝だ。おまえの次は、おまえの子供に、孫に、きちんと受け継がなきゃあいけない。守り抜くのが一番の孝行ってもんだよ」
おれはひとつ頷いた。しっかりと。
はたして蒼い女がこの街に現れたのは、その日のうちの事だった。