プリズム
僕の名前は、『昂』。
僕は未だ、“あの時”のことを、後悔している。
※※※※
わいわい
がやがや
初夏の風は暖かく、夏服の白いシャツが眩しい。窓際からは手がのばせば届くほどに、葉桜が茂っている。それはそんな季節だ。
「おい、佐藤いるか? 」
扉から体半分出して、とある男子が声を張り上げていた。どこかで見た顔だから、同学年だろうと思う。
『佐藤』と云われて、『佐藤咲希』が立ち上がった。
「違うよ」彼は近寄ってきた女子相手に、大げさに頭を振った。
「俺が呼んだのは、佐藤幸一の方だよ」
我がクラスには、『佐藤』が二人いる。
「ああ―――あいつなら図書室だよ」
隣で今しがた、弁当を片していた久藤が言う。
「――――わかった、ありがとう」
違うクラスの男子生徒は、困った顔で礼を言って引っ込んでいった。
「なあ、なんで佐藤が図書室って知ってたんだ? 」
よもや推理なんてものが出来るような、隠れた才能が久藤にあったのだろうか。
久藤は太い眉毛を斜めにした馬鹿面で、どこか面白がるような声色で言った。
「知らないのか? 佐藤は昼休みはいつも図書室だ。図書館の主って呼ばれてんだよ」
「司書の先生差し置いて? へぇ……」
僕の知る『佐藤幸一』は、確かにいつも本を読んでいた。
∞∞∞∞
七月も中旬に差し掛かった。期末のテストも終わり、晴れて真夏の無礼講まで秒読み間近である。そんな学生たちのため、夏休みに向けての図書室の貸し出しは早くも開始している。
図書室を利用しないのならば、ネットの広大すぎる海に潜るか、わざわざ炎天下に市立図書館に足を運ぶか、ふだんテレビ欄しか見ない新聞のお世話にならないといけない。
生徒数おおよそ五〇〇名以上の公立中学校、少子化の単語が紙面に飛び交う中、このベットタウン市では無縁なほどに児童があふれている。この時期はつまり、『宿題』という無礼講のための枷をもっとも効率よく外すため、五〇〇名がそれぞれこぞって図書館を利用する時期なのだ。
「こうさ、本を読んで書けって宿題が一番面倒くさいよなぁ…」
隣を歩く久藤は、神妙な顔で大きく首を上下した。
「わかるわかる――――だいたいさあ、いちいち資料探せってんのが面倒なんだよな。プリントの方がまだまし」
図書委員を務める昂はまだしも、この久藤という男は、くりくりの坊主頭に太い眉、ドングリ眼にこんがり焼けた肌を持った野球少年である。『活字離れ』の波に流されるままに、毎日部活に勤しむ十四年の短い人生内容だ。夏休み期間の図書室開放日の存在すら、昂が言うまで知らなかったくらいだ。
図書室内は、ひんやりとするくらい涼しい。
考えることはどの生徒も大差はないらしい。テスト開け、夏休み前というのと、快適な環境に、いつもの活気が一転していた。貸出カウンターも、二人体制で盛況である。
児童図書とライトノベルにしか手をつけない昂が、ふだんは絶対に近づかない専門書の棚が、綺麗に代本の木目で埋まっているのが分かってうんざりとした。
(こりゃだめだ)
売れ残ったなけなしの資料から、お宝を探す慧眼は昂には無い――――しかし図書館を見渡して、昂はその考えを一蹴した。
(……そうだ、“図書館の主”がいた)
佐藤幸一は、かなりの乱読家である。
『なぜ読むか』と云えば、『そこに活字があるから』で、それ以外の何物でもない。
毎月入る新書を把握するのは、司書の次には幸一であるし、廃棄される本を一番手に取ったのも、司書の次には幸一であった。
だからといって幸一も万能ではないので、読んだ本のすべてを覚えているというわけではない。
これは幸一にとっての食事に等しいのだ。食事すれば、食べ物は消化されて、排せつされる。そこに意味なんて存在しない。なぜって、食べなきゃ死ぬから―――。
幸一が認識する『読書』とは、そういう感じである。
クラスメイト二人に頭を下げられては、ふだん大人しい幸一も、悪い気はしなかった。
大森昂と久藤悟。幼馴染で、どちらかといえば騒がしい部類だった。イベント事では、先頭集団に交じっているようなグループだ。幸一はと云えば、縁の下の力持ちに徹する、職人タイプである。
二つ返事で幸一は頷いて、資料に良さげな本を適当に見繕ってやった。
「ごめんな、邪魔しちゃって。本読んでたんだろ? 」
「ううん、いいよ。どうせ俺、これは何度も読んでる暇つぶしの本だし」
昂から見た幸一は、思ったよりもはきはきと喋るやつなんだなぁという印象だった。けれども、嫌味な尖った印象はない。
(たぶん、僕の知らない言葉とかいっぱい知ってるからだな)
言葉の選び方が抜群に上手いのだ。短い会話の間で、クラスの誰とも比べても佐藤少年はずいぶん頭が良さそうに見えた。
「な、また頼んでもいいか? 」
「いいよ、俺の出来ることなら。いつでも言ってよ」
「ならさ、夏休みに僕も本でも読みたいんだ……佐藤がおすすめの本ってあるか? 」
久藤が吃驚した顔で昂の顔を見て、佐藤の表情を確かめて、破顔した。
「いいなあそれ! 乗った。俺にも頼むよ」
「そう、あんまり難しそうじゃないのをさ……だめか? 」
佐藤幸一は、少し考え込んで、図書館を見渡すように首を廻した。
「うん、いいよ。…でも、今の時期はあんまり良いのが無いかも…… 」
「なら、佐藤の本領発揮見せてくれよ! 図書館行かね? 夏休み、久藤と僕と、佐藤でさ」
今度こそ、佐藤幸一は目を丸くする。
「いいけど…こっちこそ、いいの? 」
「いいも悪いもあるか。誘ってるのはこっちだろ。な、ついでに勉強教えてくれよ。昨日のテスト、返ってこなくてもやばいのはわかってるんだ。いろいろ親に言われちゃうからさぁ……」
「げっ、勉強すんのかよ! 」
昂は渋面を作る久藤の二の腕を掴んで、低く囁いた。「協力しろよっ」
慌てて久藤が言う。
「そ、そうだなあ、俺はテキトーに横で本読んでるしさ、な、佐藤」
昂は手を合わせて、幸一に拝んだ。
「な、この通り! 」
幸一が頷くのに、そう時間はかからなかった。
学校をすぐ出ると、いまだ田園風景が広がっている。
少し行くと国道が通っており、別世界のように活気づいている。さらにその右の街道の先には閑静な住宅街があり、古墳群として有名でもあるこの地は、“スーパーを作ろうとして地面を掘ったら遺跡が出てきた”という逸話があるくらいに歴史ある場所でもある。
―――――ここは、様々な顔を内包する不思議な街である。
田園を縫うように通るあぜ道が、昂の通学路だった。テスト開けということで、夏休みまではしばらく部活動も休業の久藤は、太陽に焼けた肌をさらに晒しながらも、つまらなさそうに唇をとがらせていた。
「なあ、なんで佐藤を誘ったんだよ? あんま仲良いってわけでもなかったろ」
「そうだな。でも、これから仲良くなろうと思ってさ」
昂はどこか得意げににやりとする。
「こう、ピーンときたんだよ。佐藤って絶対おもしろい奴だ。僕が保証するね」
「てめーの何がほしょうしてくれるんだよ……」
「人を見る目ってやつだよ。お前のトモダチを信じろよな」
久藤は奇妙な顔をして、とたんに早足になると昂を追い越して行った。
∞∞∞∞
僕が言った通り、やはり佐藤と僕達は気が合った。
夏休み明けには、当然のように三人一緒につるむようになっていたので、クラスの連中には不思議そうな顔をされていたと思う。
僕の人を見る眼は、実に正しかったことになる。
∞∞∞∞
虹は這ってビスに近寄ると、くったりと打ち捨てられた右腕を取った。彼の細腕にはそれでも肉が詰まっていて重い。
青く血管の透けた目蓋は、ぴくりとも動かない。せめてもと頭を膝に乗せて抱え込んだ。
(シオンさん…! )虹は祈る。
(クリス……っ! )
意味が分からないことだらけだ。チビでも情報屋、クリスがここにいたら正解を教えてくれるのだろうか。
「彼に何をした! 」
ニルはイモムシを睨み付ける。爛々と生命の意思がこもった眼は、しかし彼の童顔では眼光の威力も『凶悪』とは言い難い。
虹は病み上がり、ビスは倒れた。(僕がこの子たちを守らないと……)
(……守れるか? 僕が? )
武の心得はある。しかし、たかだか自分がどこまでやれるのか、自信がない。
(エリカ―――――)
ニルは祈る。
(エリカ、どうか僕を助けてくれ。僕に奇跡を起こすとしたら、きっと君なんだ)
冷たい汗が、肌に張り付いている。
イモムシは、虚脱感に苛まれていた。
(やってしまった)
ビスのあの『眼』と、自分の目を合わせる。アリスに託された、最終手段である。
(今、ビス・ケイリスクは能力の暴走状態。そこに僕と目を合わせたんだ――――)
あれはもともと、他者の『記憶』を見る目だ。記憶として“過去”を見聞し、その人物の視点で“現在”を見て、自分に向ければ、“未来”の自分の記憶をも。
もう確実に、『イモムシ』いや、『昂』の記憶を見ているのだろう。
見終わった後で次に目が覚めた時、ビスは小さなその身に余るほど、真実の一端を知ってしまうことになる。
(それはまだ早かったのに)
徐々に―――徐々に……彼には本当のことを、教えていくつもりだった。ビス・ケイリスクが成長するにしたがって、明かしていく真実だった。
(……くそ、忌々しい)
イモムシはニルを睨み返す。そんな甘っちょろい顔で睨みをきかせても、まったく恐ろしくはない。同じく童顔と云われても、追い詰められているだけ、イモムシの方がまだ鋭い眼光をしている。
そう、追い詰められているのだ。
この、ニルという少年がいるから、こいつが『幸』と呼ばれていたから、虹という少女がいるから、イモムシが、『昂』だったから――――!
それすべてが、ビス・ケイリスクの功労であることは、『知っている』イモムシは否定できない。
ビス・ケイリスクによって、イモムシは追い詰められている。最終手段をつい、実行に移してしまったほど。
ビスは見ているのだろう。
今はどこにもいない大森昂の恥部、青春の時――――イモムシの中に、なけなしに残って居座っている“昂”が、ひたすらに悔いている。
(…僕はどうして、佐藤と友達になってしまったんだろう)
あれは、たった一年の短い友情だった。
佐藤幸一は消えた。
ちょうど一年後の夏休み。
七月三十一日、猛暑日―――――。
けれども―――――!
ニルの中に、まだ“佐藤幸一”がいたとしても――――。
(……アリス、僕はあなたを裏切れない)
Fであるからには、彼女を裏切ることなんて出来るはずがない。Fであるからには、少なからずアリスに救われているのだ。
この胸にあるのは、恩義と尊敬と畏怖――――その三つを柱にして、イモムシのアリスへの信仰は成り立っている。
『この世界は、貴方たち一人一人のためにあるんだわ』
いいえ、違います。それは違います。
『私は神様の子なんかじゃあないの。貴方たち一人一人が主人公になるための悪役なのよ』
いいえ、いいえ。
この世界はアリス、貴方のためにある。
僕らは貴方が世界の敵であろうとも、貴方のものであることは変わらない。
どんなに形が変わっても、僕のそれは変わらない。
さあ、目を開けろ――――目の前にいるのは、佐藤幸一か?
……いいや、あいつとは似ても似つかない。
あいつは敵だ。
アリスの“敵”だ。
顔をあげろ。前を向け。すべてをその眼に収めるんだ。
この世界に、主人公なんてものはどこにもいない。
いるのは一人の人間と、それに関わるもう一人の人間だけだ。
そんな、ただの人間を愛してくれるアリスこそ、この世で掛け替えのきかない存在ではないか。
『私はこの世と、貴方たちのためにいるの』
いいえ、アリス……それは逆です。
―――――この世はアリスのためにある。
誰にも邪魔はさせたりしない。




