ナルニアに行くにはまだ早い
ハッピーバレンタイン!
イモムシ少年の、世界で一番大切な女性との番外編です。
「わたし、イモムシが管理局の新人なんかに負けるとは思ってないの。あんたは、一言『やれ』と言えばやれちゃう子だもんね」
アリスはソファに寝そべりながら、大きな欠伸を手の平の下でした。イモムシは義母のまつ毛の一本が涙で濡れて、目尻が滲むまでを、じっと観察しながら待つ。
「…んでもねぇ、勝たなきゃ面白くないじゃない。負け戦って、プレイヤーも観客もゲームマスター的にも萎えるわよね」
ごろりと寝返りをうったアリスは、腕置きをあごにあてがい、目を閉じた。イモムシは何も言わず彼女の背に跨って、腰を指先で押す。
「……ん~、そうね、キイワードを決めましょ。それをプレイヤーが言えたら勝ち」
「……キイワード、ですか」
『言えなかった場合』なんてものは、聴かずともイモムシには分かる。
「そう。言えなかったらあんたの好きにしていい。三月ウサギの実験体に廻したり……管理局員って戦う訓練もしてるでしょ? チェシャーも最近ストレス溜まってるみたいだしねー、そっちに提供してもいいわ。もちろん、おまえの練習台でもいい。ただ、生かすなら返却するつもりで、殺すつもりなら殺してね。無駄にダラダラ生き延びさせる方が後々に面倒だわ。管理局もたぶん『死体を返せ』って言ってくるから」
「………」
了解の意をこめて、イモムシはアリスの背を押した。
「管理局は死者を見返らない。でも生者にはとことん執着するのよね~……あの組織のそんなところは、わたし好きなのよ? 人情味があるじゃない」
アリスは猫のように伸びをした。彼女にはもう、出会った頃ほどの大胆さはない。代わりに、思慮深く、慎重になったと感じていた。
アリスの敵が、七年前よりも増えたからだ。
新たに表れた“敵”は、異世界からの使者という強大すぎる組織だった。今まではどんな“敵”も、しょせんはアリスの世界の民草でしかなかった。しかしアリスの能力は、この世界を脱出すれば無力である。
彼女はこの世界を守るため、かつての敵でもある人々を守るために、異世界の組織を相手取って、交渉に交渉を重ねている。彼女は能力が無くても類稀な頭脳があるが、言ってしまえば、それしかない脆弱な女に成り下がる。
丸裸に剥かれているような交渉だ――――現在の『F』は、そんなアリスの負担を減らすために活動していると言っていい。
夫で主治医、『F』内では筆頭の戦闘人員でもあるチェシャー猫こそアリスの傍に必ず控えているが、たとえアリスが招集をかけたとしても、昔のように幹部十二人全員が揃うことは無いのだろう。メンバーの動きの把握を任されているのは、他でもないイモムシである。それが実感としてよく分かった。
『F』をイモムシは“家”と認識している。アリスにスカウトされたメンバー…『三月ウサギ』、『眠りネズミ』、『ハンプティダンプティ』あたりは、ビジネスとしての認識が強い。奇しくも彼らは、現在『F』に残留しているメンバーで、戦闘力の無い技術者のメンバーだ。
一番アリスに依存している『クイーン』『キング』の姉弟は、現在は管理局の犬として勤労している。辻公平こと、『ジャック』は『クイーン』についていった。『白ウサギ』は、仲人役として管理局とを行き来する毎日。イモムシ自身も、アリスの傍でこんなにゆっくりしているのは久々のことだった。
こんな時、『帽子屋』がいれば、と思ってしまう。
帽子屋、役職は『世話係』。アリス、クイーン、キング、チェシャー猫、白ウサギと同じく初期メンバーで、幼いかつての彼らの世話係だった。彼自身は、お茶を淹れるのが上手で口が悪いだけの普通の男だ。
最年少のイモムシですら立派に成長した今、帽子屋は真っ先に辞職を申し出た。実家を継ぐと言い張っていたが、今はアメリカに渡って、バックパーカーのような真似をしているらしい。
――――帽子屋がいたころが懐かしい。
ああ、どうしてこうなってしまったのだろうと、考えることが最近はよくある。イモムシだって、まだ十七歳の思春期の少年だ。家族が離れ離れになるような不安を、アリスのために動くことで押し殺している。
このゲームに、イモムシの心が躍らなかったかといえば嘘になる。まるで昔のような、『F』らしい仕事だった。
そうだ、アリスはこうだった。『F』はこうだった。ただ耐え忍ぶようなのは、『F』らしくない。彼はきっとそれが分かっていた!
帽子屋はアリスを叱りつけられる唯一の人だった。アリスはもう、帽子屋に怒られるようなことはしない。チェシャーだってそうだ。泣き虫のキングは泣かなくなった。あの暴君のクイーンだって、みんな我慢している。黙って耐えることが出来るようになった。
――――みんな大人になってしまった!
イモムシだけが、ずっと『イモムシ』のままだった。
イモムシは、寂しさで泣いたことはない。けれど今なら、親にはぐれた迷子の気持ちがよく分かる。
イモムシは誰よりも『知って』いるから、無駄なことはしない。泣く時間も体力も、今は無駄である。これから先も無駄である。感情すら無駄だ。アリスを守るためにだけ動く、ただの機械でいなければ。
「そうね、こう聞くといいわ」
アリスはここ数年で一番楽しそうに、ゲームの勝利条件を提示した。
「正解を言えなかったら、全力で潰しにかかりなさい。ただし正解したら、何があっても全員を生かして負けを認めるのよ」
「楽しそうですね」
「ええ楽しいわ! 久しぶりにとっても楽しい! 」
「ぼくも……貴方が楽しいと、楽しくなります」
「我が社の社訓を忘れたの?
“楽しむべき時はいかなる時も。全力で、日々の業務を楽しむこと”!」
そう、イモムシらしくないが、ワクワクしていた。
大人になったら、ナルニアには行けません。
次に行くのは、彼らが世界のしがらみってヤツから解き放たれた時です。
『アリス』なのに、ナルニア使ってすんません。これが言いたかっただけ(お茶目)。
ナルニア、実写映画する前から愛読書です。




