ワールドパターン1 本の虫の場合~Rebirthing~ ※後篇※
そこにいたのはもう、温厚で勤勉で冷静な、“健全”を体現したあの少年の姿ではなかった。
今にも死体になりたそうな濁った眼をした少年である。彼がこうして、地面に立っているのが不思議なほどの顔色だった。
「あ、あぁぁ、うあ……」
虹が呻く。
「お、おかしいっすよ……なんで、そんな……クリス……どうしてここに居ないんすか」
彼女の独り言に、返事を返す者はいない。イモムシはふと、ビスの眼を上から見返した。
「あやまりましたね」
どこか誇らしげに、イモムシは言った。
「……は? 」
「貴方は誤った……間違えましたね、と言いたかったんです」
ふぅ、とイモムシがため息をつくと、黄色い靄も彼の周りを取り巻いた。
「言ったじゃないですか……私は全力でアリスの敵は潰しにかかりますよ、と」
「言いましたね、確かに。しかし――――」
「誰しも触れられたくないことはあるでしょう。秘密というのは露出するべきでないから秘密なのです。空気に触れた秘密は劣化する。しかし言葉はそうではない。言葉というものは、飲み込めば飲み込むだけ、胎の底で腐っていく。腐ったそんな汚物だけが、秘密というものの品質を変える。それが、良いものになるか、悪いものになるか。見てみないことには分からないものだ。それを露見させるのが、Fでの私の仕事。役目なのです」
「……人の秘密を暴くのが? 」
「いいえ、無節操には秘密を盗んだりはいたしません。アリスに必要な秘密のみ。今回の彼の“秘密”は、“たまたま”私が収集した、必要な、有益な情報の一つだった」
「よく喋りますね」
「必要ならば口を動かします。こういう時は喋るものだというのは、我が社の社訓で決まっている方針ですから。―――――貴方が誤ったのは、彼をこの選んでしまったこと。人選のやり方がやり方でしたので、彼の運が悪かった、と言えばそれまでですが……しかし彼は、最初から最後まで有効な手段とはならなかった」
「………」
ビスは黙る。黙るしかない。
「っだーもうっ! この無表情ボーイズもーいやっ! 」
虹は飛び上がるように立ち上がる。
「選手交代は認められないんですか! ニルさんは心意喪失に戦意喪失です! なんならここらで、この虹ちゃんが出陣してもいいのですよ! 」
「ほう……」イモムシは目を眇めて、虹を見下ろした。
「では、最後の問題は、あなたに答えていただきましょうか」
(……また笑っている)
ビスはイモムシの増えた口数と、あのにんまりとした笑顔に、唇を引き締めた。
「しかし今更、ルールの変更は認められません。ですからそうですね、打開案を提案します。ほら、あのルールを適用しましょうか」
・一度に限り、他の仲間との相談ができる
「これを【貴方がニル君に答えを指示する】という形にするなら認めましょう。どうです? 実質の選手交代ではありませんか? 」
※※※※
今回の件について前置きしておきたいのは、これは、ビス・ケイリスクその人の戦いだったということだ。
僕は土俵にも上がらずに―――いいや、土俵に引っ張りあげられても、戦おうとすらしなかったのが真実だ。
だからこれは、僕と、ビス・ケイリスク、虹、それぞれの闘争の物語ではなく―――――そして僕ら三人の共闘、というわけでもなかった。
ビス・ケイリスクは孤独に戦って、一人で勝利をもぎ取り、さらに僕らに分配したのである。
彼のことは、最期まで優しい人だったと僕は思っている。博愛でも正義感でもない、ただあの人は、自分がそうあるがままに僕らを助けた。それがどんなに凄いことか。
あの人は優しく、誰よりも強い人だった。
そう、まるで……シオンさんを僕が思い出すくらいに。
※※※※
このゲームは仕組まれていた。
ビスは後悔した。もう遅い、わかっている。重々承知である。
盤上は最初からイモムシの手の平、いいやアリスの手の平か。――――どちらにしろ、これは勝負に見せかけた我々の駆除だった。
【問い死 虹の師、魔法使いの名前を答えよ】
ただ、これだけの問題である。ビスに限っては、たったそれだけで何のことは無い。
虹は答えた。そして、あとはニルが答えを口にするだけだった。
「――――ぼ、僕は、その名前を言えない……っ 」
「ど、どうしてですか! もう勝ちが決まったも同然なのに! 」
「言いたくない! 無理なんだ! 」
ニルはさらに恐慌状態へと陥った。虹もこの状況に動揺している。ビスも正直、今自分が本当に冷静になれているかの自信がない。
(ニルの秘密)
それがそのまま、ビスが抱く疑問の真実になるのだろう。
「なんでですか! “東シオン”ですよ! ほら、一瞬です! 」
ニルはなおも、首を横に振る。
その秘密の多くを占めるのが、おそらくは“東シオン”――――虹の師にして、魔法使い。そして、エリカの父なのは確実だ。
「僕には、その名前を言う資格は無い――――っ」
(資格がない)
つまりは、彼は現在進行形で彼ら父娘に―――――イモムシの言葉を借りすのなら――――罪を犯しているのか。
または、それに準ずる後ろめたいことがあるのだろうか。
そしてニルは、それを後悔している。
本の国は管理局の元、異世界人から守られ法治されている。東シオンがどれだけの土地で勇気を謡われる英雄だろうと、管理局に指名手配されている犯罪者であることは変わらない。
しかし裏を返せば、犯罪者と烙印を押しているのは管理局という組織のみで、虹のように慕う者のほうがずっと多いのだろう。
エリカは父親に会ったことが無い。それは管理局がさんざん調査した。
つまりは――――ニル少年と東シオンに、実際の接点はあるはずがないのである。
(……間にいるのは、娘のエリカ)
だとしたら――――ニルはエリカに何かをしたのか? 彼女の父親の名前を言う事すら、【資格がない】というようなことを?
ニルとエリカ―――――飛行機の中での彼らは、確かにずいぶんと仲が良く見えたが……。
下世話な可能性が浮かぶ。いいや違う――――彼らのそれは、そうじゃない。
しかし愛情が無ければ、【資格がない】とは言わないのではないか。罪を後ろめたく思わないのではないか。十字架を背負うことなどしないだろう。
十字架。
そう、十字架だ。情あっての後悔、何らかの思い入れのある人物と、それに仇なした、自己への積年の恨み。
――――秘密。
“秘密というのは露出するべきでないから秘密なのです。空気に触れた秘密は劣化する。しかし言葉はそうではない。言葉というものは、飲み込めば飲み込むだけ、胎の底で腐っていく。腐ったそんな汚物だけが、秘密というものの品質を変える。それが、良いものになるか、悪いものになるか。見てみないことには分からないものだ。”
“なぜかニルという少年は、彼女が学ぶことを一緒に学び、彼女と同じだけ鍛錬し、彼女以上に本を読み、冬越し前の栗鼠のように、あらゆる力をその身に貯めこんでいるのだ。
ドングリ眼の温和そうな顔をしているが、能力値のどの面から見ても、このニル少年は一隊員の専属補佐で終わる人材ではないのは明らか。誘いもそれだけ多いはずである。何のために、と謂われれば、エリカのためなのだろう。
エリカ・クロックフォードは、彼女自身が特異な存在だった。東シオンの娘―――先天的に、付属された“特異点”。
彼女に行き過ぎともいえる献身をするニル少年の行動は、さしずめ後天的な“特異点”。
――――もしかするとニル少年の方が、より根の深い特異点なのではないか。”
“……たぶん、脱水症状だ”
「……虹さん」
「な、なんすか? 」
虹は大げさに肩を跳ね上げて、首をかしげた。
「君は、今回がニルくんと初対面ですか」
「そ、そうっすよぅ……どーしてどこで会うってんですか」
「本当に? 」
「―――――ほ、本当です! 」
「ニルくん、じゃあなんで君は、虹さんが“脱水症状”だと分かったのですか」
「………え」
「は………? そ、そうなんすか」
ニルは目を丸くした。
「おかしいじゃないですか。脱水症状は、主に眩暈と頭痛と関節の痛み等々。本人の意識が無い状態で、それら症状の確認は行えません。あなたは彼女が魔法を使った後、あのような状態になると知っていたのではないのですか」
「…………」
ニルは答えない。
「あなたは、東シオンを知っているのですね 」
「………―――――」
ニルは、答えない。
蒼い顔。震える手足。
そして、そのまま少年は静かに崩れ落ちた。
ニルは後悔している。
ニルはもう、あの時以上に怒るということが出来なくなってしまった。だから、ずいぶんと温和になったと云われる。
それは間違いだ。あの時ほどの理不尽を、彼は今の世界に感じないだけ。最初から感じることをやめた。怠惰になっただけなのだ。
彼はもう、笑顔以外を浮かべたくない。後悔すら捨てたはずだったのに。
空は晴れているのに、冷たい雨が降る。そんな不思議な夕立の日だった。
市立中央図書館。魔女に出会ったその場所から、ニルは夢から覚めたように、あの喫茶店を訪れる。
そして、東シオンという、世界を変えるために生まれてきた魔法使いに出会ったのだ。
「――――ニルくん! 」
虹がニルに駆け寄る。
ビスはまざまざと、あの飛行機でのアリスの言葉を思い出していた。
“沈黙、すなわち、保留です。答えを出さず、現状を現状のまま、様子をうかがっている、という状態。実に賢いですね。まことにすばらしい。これも辻クンの日ごろの行いの良さでしょうか。しかしながら、事は常に受動的です。あなたの周りも、あなた自身も、変化しないことはありません。今この時にでも、罪を知られた辻クンが、我々共々あの雲の彼方へダイブするかもしれません。“選択をしない”という一つの選択で、すべてがおじゃんになるという事態だってあるのです”
「ニルくん――――」
虹の膝に頭を抱えられたニルは、真っ白の顔色をして目を閉じている。服の裾を握りしめる手の甲は白く血管が浮かぶほど握りしめられ、わずかに痙攣していた。
ビスは顔を上げ、イモムシを睨み付ける。
「―――――どういうつもりですか」
「さて……なんでしょう」
「ニル君に何かを――――毒を、盛りましたね」
「さぁ……こうも責められて、自分で服毒したのではないのですか? 」
「イモムシさん! これはゲームなのでしょう! 命の危機など――――ばかばかしい! 」
「そうですゲームです! しかし私は、アリスに選ばれたイモムシだ! 」
「……頭のいい貴方なら、わかるでしょう? 」甘く宥めるように締めくくり、イモムシは尊大に、また黄色の煙を吐いた。
「私は命をかけている。貴方がた管理局の職員も、生きるうえで常に天秤に命というものを乗せている」
「彼は“本”です! 管理局にとっては、彼も保護対象です……アリスと同じように! 」
「いいや、彼はこうなることを想定……いや、空想しては、日々望んでいたはず」
ビスはたまらず、イモムシの前に躍り出た。掴みかかろうにも、背丈が足りないのが口惜しくてたまらない。イモムシはそんなビスを前に、表情を隠すように、くつろげたジャージの前を上げ襟元に顎を埋めた。
「そんな……」
「彼の秘密は根が深い。彼はその秘密を、墓まで持っていく覚悟がある。そうすれば誰にも暴かれないから」
「……そんな」
「貴方は、正しいことをしています。彼の秘密は、暴かれるべきこの世の真実に繋がるものだ」
「ビスさん! 俺じゃあどうにもなりません! 」
虹の悲鳴の混じった声に、ビスは我に返った。――――そうだ、考えている場合ではない。
ビスはイモムシに背を向け、ニルの横に跪く。ビスにあるのは知識だけだ。それも雑学のような、断片的な知識でしかない。
(――――体の痙攣)
(――――顔色がどんどん暗い色に変化していく……)
(――――発汗、脂汗、爪の色が白い)
めまぐるしく頭のチャンネルを切り替える。しかし導き出される毒の種類が分かっても、ここでの最善の策が浮かばなかった。
虹がおろおろと、持ちあがったニルの右手を握る。
「し、しっかりしてくださいよぅ! 俺、こんなところで貴方を看取りたくないです! 」
ニルは薄く目を開け、苦悶を滲ませながらも笑った。
「虹ちゃん……お願いが、あるんだ」
「なっ……そんな、最期の言葉みたいなこと……」
「そうだよ……最後の言葉だから、君に言えるんだ」
背筋が凍る台詞だった。
「ニル君――――」
虹は別人のように顔を引き締めると、耳をニルの口元に寄せた。
ほとんど吐息のような声だったが、ビスにも確かにその言葉は届く。
「――――シオンさんと、エリカを頼む。……君にしか頼めないんだ」
「そんな、どうして俺に……」
「だって“俺”も―――――……」
こんな時だというのに、微笑を浮かべた彼からの言葉は、子供同士の秘密の教えあいに見えた。
「……そんな」
虹はぽろりと、ニルの上に零した。
「俺は……あなたにもっと早く会いたかった……」
―――――――だって俺も、魔法使いの弟子だからね。
暗転。




