異端者(シオンさんについて)
シオンには妹が一人いる。両親と、妹と、シオンとでの四人家族だった。
家族仲は、たぶん良いのだと思う。両親ともに、どちらかというと古臭い考え方(シオンにとっては当たり前だけれど、余所では違うようなので)で、亭主関白を貫く家庭だった。
寡黙な父と、優しくて厳しい母、気が強い甘えん坊の妹、といったテンプレートな家庭。
裕福と言うわけではなかった。けれど、母が働かないでもやっていける程度には豊かな家庭であった。
ランドセルをおろし、新しい学び舎に迎え入れられたシオンはなぜだか『家庭科部』に所属している。
活動は読んで字の通り。女子部員は二十余名、男子生徒はシオンも入れて三名。見ての通り、女子に人気の部活動である。三名の男子生徒の方は菓子目当ての下手者ばかりで、半年過ぎた秋には一人消え、二人消え、シオンしかいなくなっていた。
二年に上がってもシオンが変わらず家庭科室に通ったのは、彼が思った以上に、彼女らがシオンを歓迎したからだった。
彼女らは、この家庭科室という閉塞された空間を、先輩たちから代々守り継いできた。けれども、毎年迎え入れては去っていく者たちを見るたびに、改革を望んでいたのも確かである。
ようするに―――――もう少し刺激があってもいいじゃない、そんなことを思っていたのだ。彼女らは伝統に飽いていた。
成長期の入り口に立ったばかりのシオンは、好ましい外見をしている。吊った大きな黒目勝ちの眼をしていて、脂肪は付きにくい性質。色も白ければ背も低く、声変わりもまだだった。声が掠れる気配も無い。
初めて家庭科室を訪れた時、年上の女生徒たちは揃ってどよめいたが、やがてシオンと接するうちに、印象を改めたようだった。
その様子はサイコロに似ていた。ころん、転がした第一印象。(きれいな子、でもちょっと冷たそう)挨拶をして、(あれ、シャイなのか)と「この出目は違うな」と転がし、口をきいて(いやいやこれはあれだなえーと)「これも違う」とまた転がす。
人見知りが少女達にだけ剥がれていくのは可愛かったし、からかうときゃんきゃん泣いて面白い。
印象がそういうふうに固まった頃、きれいな見目の臆病な人見知りの少年は、少女社会に両手を広げて迎え入れられたのである。
「憂鬱だ……」
サドルにまたがっただけで、シオンはぐったりと呟いた。
溜息を吐いたシオンの横を、如雨露を手にした妹が「あれ、お兄ちゃんまだいたの」なんて言って通り過ぎていく。これからお兄ちゃんが行くのは戦場なんだぞ、などと言ってやろうかと思う。
愛生、知ってるか。女ってのはすごく怖いんだ。お前はあんなふうになるなよ、と。
中学二年目の七月最後の日は、図書館での勉強会だ。顧問の森先生は、小柄で眼鏡をかけた厳しいお婆ちゃん先生だった。素行や成績が悪いと、部活動に参加させてくれない。一部が下がったら連帯責任で部活動を停止するとも宣言しているから、長期休暇中は合同の勉強会が慣例だった。
去年までは部室の家庭科室でしていたのだけれど、冷房がきいていて冷蔵庫もあるあそこは、勉強で集中するには向いていない。特に最近では勉強会と言うよりいつものお茶会になりつつあったので、今年の部長が「これはいけないわ! 」なんて言って、革新を起こしたのである。
(今年の水沢先輩は、真面目で厳しいんだよなぁ……)
つられて他の先輩方も、この勉強会にやけに熱心だった。団結の強いこの集団にシオンだけが…というわけにもいかず、何より恐ろしくて到底できやしないので、シオンは溜息を吐きつつ宿題を鞄に、自転車を転がす。
場所は図書館。冷房完備だけれど、私語厳禁で、ついでに参考資料はいくらでもある。すでに終わって暇をした人も時間つぶしに好都合。
(でもおれ、あそこ苦手なんだよなぁ……)
市立中央図書館。役所も隣接されているから、この市に住んでいる子供なら一度や二度は学校行事で来たことがある施設だ。シオンの眼には、なんだかいつも薄暗くて、人が少ない割には老人の多い場所、として認識されている。
ホールの壁は一面ガラス張りなのに、どうしていつもあんなに暗いのだろう。中庭の池も緑色に濁っていて、鯉の魚影が薄らと蠢く。目を背けてシオンが「気持ち悪い」と言うと、必ず「なんで? 」と言われる。部のみんなも例外ではないだろうから、シオンは彼女らには何も言わなかった。
ただ毎日あそこに行くのだけでも、シオンはひどく疲れる。学校で六時限過ごすのより、あの施設で二時間過ごす方が疲労感が伴った。
せめてあそこでなければ、楽しい思いだって少しは出来ただろうに。足だって重くなるものだ。
「はぁ……おれって、馬鹿じゃないの……」
我慢、我慢、我慢。
これが大人になってことなのかな、なんて自分を慰める。
あっちを曲がった先の高架下を抜けて、坂を登ったら市役所の赤い屋根が見えるから、公園の前を通って――――――。
目の前を横切った人影に、シオンはあわててブレーキを握った。
キキキーッ!
ひどく甲高い音がして車輪が止まる。シオンは青くなって、目の前の人物を凝視した。口の中がからからに乾いて舌が張り付いている。
「ご、ごめん! 」
先に飛び出してきたあちらの方が声をかける始末。なんだか情けなくなって、シオンはおどおど口を開いた。
「あ、あの…大丈夫ですか? どこか、引っかけました? 」
「いや――――」
歯切れ悪く言って口を結ぶと、相手は視線をどこかへやった。
ずいぶん大きな人だ。高校生かな。なんにしろ、怖い人でなくて良かった。でも、なんだか顔色が悪いような―――――?
思ったとたん、青年はハッ、と息をのんで唇を噛んだ。そのままシオンなんて忘れたように、背中を向けて走り出す。
「あっ! あの、ちょっと! 」
ひどく真っ青な顔で、飛ぶように青年は走り去った。こんなに暑いのに、熱中症にでもかかっていたのだろうか。
(いや、でもあれは、どっちかっていうとオバケでも見たみたいな顔だったな)
なんだか怖くなって、シオンはそっと後ろを振り向いた。
「なんだ、なんにも無いじゃないか……」
ただ、シオンが出てきた高架下のトンネルがぽっかり口を開けているだけだ。
「なんだよ、もう…」
ごちて、シオンは自転車に腰掛ける。
なんだか寒気がする。これを理由に帰ってしまおうかとも思ったけれど、思うだけだ。自宅に帰るより、もうあっちの方が近い。
目の前の坂を見上げてまた溜息を吐いて、シオンはのっそりペダルを踏み出し…すぐに足を落とした。
坂の上から、人が歩いてくる。青空を背景にした鮮やかなブルーの日傘、アスファルトを擦るくらいに長いロングスカートを揺らしながら、女が歩いてくる。
(――――え? )
女が傘を傾けてシオンを見た。時代錯誤はなはだしい西洋のドレスのようなものを着ているのが分かった。そのドレスもまた、青かった。
おそろしく白い肌は汗ひとつない涼しげな様で、女は立ち止って、目を細めてシオンをまっすぐ見る。
――――どこかで蝉が鳴いている。
オバケだ。それも、出てくる場所を間違えたオバケだ。
おい、ここは日本だぞ。それも真夏の真ッ昼間。蝉は鳴いてるし、地面はアスファルト。場所は住宅街のど真ん中。出てくるべきは欧州のお城だとかで、絶対にここじゃない。
たらりと汗が背中を流れる。
それでも、それでも…身が凍るほどの寒気がシオンを襲った。
女と目が合っていると自覚したとたん、シオンはずるりと、緩慢に後退する。今すぐにでも自転車に飛び乗ってUターンするべきだ。もう一つ向こうの踏切を渡っても図書館には行ける。
――――わかってるのに。
シオンは泣きそうになった。
大声を出せば、どこかの家の人が出てきてくれるだろうか。
どこの誰も、出てきやしないだろうという思いがした。ここはもう、隔離されている。おれの声は届かない。
女の眼の色は、とても薄い色をしていた。白金に輝くような瞳が、シオンを縫いとめて離さない。
―――――シオン。
女の口が、確かに自分の名前を呼んだ。彼女の唇がほころんで、愛おしげに、女は言葉を吐く。
「わたくしのことを、知っている? 」
「し、知らない! 」
――――しまった、応えてしまった。
頭を振ってシオンは身をのけ反らすのに、この足だけが動かない。
「あなたのことなんか、しらない……」
「そう、わたくしはあなたのことを知っているわ」
「そんなわけない」
「わたくしは、なんでも知っている」
「……そんなわけない」
「知っているわ、あなたの秘密」
「―――――そんなわけないっ! 」
女が言葉を唱えるたびに、応えたくはないのに言葉だけがするする出てくる。足が動かない。体ばかりが震えだした。
「あなたの名前は? おしえて、シオン」
「東シオンだよ! それ以外、何があるっていうんだ! 」
「わかっているくせに」
「わからないよ! 」
「東シオン? あら、あなたの名前は、本当にそれであってるの? 」
「そんなの……」
「アオイは、本当にあなたの妹? 」
―――――愛生。
赤茶けたまっすぐの髪、ちょっと垂れた茶色の瞳、よく日に焼けた肌の色――――――。
「あなたとよく似ている? 」
シオンはたじろいだ。足が勝手に後退している。
「……おれは」
青がかった黒髪、猫みたいな釣り目、紺色の瞳、色白の肌――――――。
「お母さんは? お父さんは? 」
―――――愛生の眼はお母さんにそっくり。鼻と唇はお父さん。髪は…ああそうだ。お祖母ちゃんがこんなだったっけ。
「おれは……」
―――――シオンは、優しいところがお父さんそっくりね。
ほんとうは分かってた。気付いていた。髪の色が違う。眼の色が違う。級友とも、部のみんなとも、街を歩くどんな人とも、おれと似ている人はいない。
(でも誰も誤魔化したり、嘘をついてはいないんだってことも分かってるんだ。お母さんはおれを、自分の子供だと心から思ってる。お父さんも愛生も、おれのことを疑ってもいない。なら、おれがお母さん達を疑うことは悪いことだ)
「あなたは誰なの」
「……おれは、東シオンだよ」
シオンには妹が一人いる。両親と、妹と、シオンとでの四人家族だった。
家族仲は、たぶん良いのだと思う。両親ともに、どちらかというと古臭い考え方で、亭主関白を貫く家庭だった。
寡黙な父と、優しくて厳しい母、気が強い甘えん坊の妹、といったテンプレートな家庭。
東家は、裕福と言うわけではなかった。けれど、母が働かないでもやっていける程度には豊かな家庭であった。
けして、不幸な家族ではなかった。
部活動ではみんなに苛められるけれど、でも彼女たちを嫌いではなかった。なんだかんだで優しかったし、助けてもらったことだってある。いくら憂鬱だと口で言ってはみても、そんなのは周囲と自分への方便だ。嫌ならとっくに辞めている。
東シオンは幸せだった。
「あなたはここにいるべきじゃない」
「なんで、そんなこと言うんだよぉ……」
はたはたと泣くシオンの頬を、女の手が拭う。そうして傘の下に迎え入れられた。いつのまにか、ハンドルが手から離れている。
涙を流すままに、シオンは女の顔を見上げた。身体がどろりとしたものに覆われているかのように重く、歯の根が合わない。
「おれ、いかなくちゃいけないのに……」
女は笑っている。
「駄目よ。あなたは別のところに行くの」
目の前でおれは泣いているのに、この人は笑っている。
「あなたは違うのだから」
あれもこれも、なんでおればかりが怖がっているのだろう。おれがそうやって、“違う”から、お迎えが来たんだろう。
おれが違うものだから。どこか、別のところから来たものだから。
いつもおればかり、泣いている。
―――――ああ、もう泣いてばかりは馬鹿みたいだ。
家に帰りたいな。
そう思った。