賢者いわく
3.
「綺麗でしょう? 」
アリスは、大きな青い目を輝かせて眼下を手で指した。
高さを競い合うように整列する摩天楼は、その鏡面に澄み渡る青空を写し、陽光にきらきら光っている。文明の発展しつくした象徴ともいえる景色――――ガラス越しにそれを眺めながら、ビスは不思議と頷いていた。
きっと、やけに空気が澄んでいるからだ。緑が多い(というよりは、ただ田舎というだけだけれど)“本の国”に、慣れきっているビスの脆弱な体にひときわ感じ入る。
実をいうと、今朝から終始やまない頭痛に悩んでいるビスである。寝冷えと、ビスは経験から自己診断を下した。あれだけ厚着をして寝て、どうして寝冷えするのか自分でも分からないが、とにかく寝冷えからの風邪未満である。
「でしょう? 」
アリスはそんなビスの様子に、満足げに、尊大に、誇らしげに、もう一度頷いた。銀色のビルの森を誰よりも高いところで見下ろして、アリスは薄い胸を張る。
白と青のシャツワンピースに、細身のネクタイを締めたアリスという少女は、見たままの十二歳の少女にしか見えない。
実年齢以上に、立ち振る舞いが静寂を保つビスとは逆に、三十路に手が届く女性にはまったくもって見えないのだ。
肩に届かないほどに繊細に鋏を入れられた髪や、走りにくそうな丸い靴や、つるりとした白い肌は、保護者に傷一つ許されたことが無い健やかな子供だった。
「ここってね、夜景もすごく綺麗なのよ! 楽しみにしていてね」
「はい。楽しみにしています」
「楽しみにしてるなら、少しは笑ったらどうなのよう」
アリスは可笑しそうに、はにかんだ。ヒールの高い靴を履いているので、ビスよりも幾分背が高い。それも、少女が背伸びしているようにしか見えないのに。これがまたどうして―――――。
ビスはそっと、無邪気な笑顔から目を逸らした。すると、壁に張り付く金色の眼とかち合う。
その男は白衣を着ているのに、モデルのような長い手足をした美丈夫だった。白衣の下も、そう着ないような洒落た趣味なので、引っかけた白衣がいかがわしく見えてしまう。
鋭い目をすがめて、壁と同化する白衣の男は、ビスを見下ろした。
「今日一日、楽しませてよね」
「はい。お約束いたします」
「ふふっ」
アリスがはにかむ。
頭痛どころではなく、男の視線が、痛い。
こんな、こんな少女が。
―――――彼女こそが、この世界を掌握しているのだ。
※※※※
ビスは紙片を捲りながら、顎に人差し指をあてた。
アリス・リデル。
世界で最も読まれている小説の、主人公の名前を持つ女の名前である。
一つの世界を制する女王様、という割には、いたって普通の少女だ。特記して美人というわけでもなく、大きな青い目が印象的な、表情がよく変わるのが可愛らしい。ただそれだけの印象だった。
アリス・リデルは、この世界では表向き、とある会社の社長とされている。その会社を、仮に“F”と呼ぶことにする。
Fは製薬会社から発展した、大型企業である。ゆりかごから墓場まで、を地で行く大財閥だ。
“アリス”は、その創立者の孫とされる。彼女は十五年前に創立者たる社長職を譲り受け、以後、その手腕でさらなる発展を迎えている。
ついで、“アリス”は、Fのウェブマスコットガールの名前でもある。身体は3D、声の持ち主はいるようだが、いわゆる『中の人』のことは、トップシークレット扱い。
“世界征服を果たした独裁者”と『設定』、いわゆるキャラ付けされている。
毎月十六日に、ウェブ上の特設ページでの『独裁宣誓』なるものが聴けるが、これはようするにウェブラジオだった。
“アリス”の顔は、まだまだある。
管理局――――『物語管理局』の、母体となっている組織、『異世界管理局』から、“一級保護認定”された生命体。
“保護認定”ようするに、『存在が珍しくて保護しないと危険なので、我々が守りましょう』というものだ。
本の一族もこの保護認定を受けて、管理局と生活を共にしている。彼女は単体で、その指定を受けた稀有な存在である。
一応は、彼女も管理局の職員の名前に名を連ねている。しかし扱いは格段にVIP扱いだ。彼女は研修も受けたことが無ければ、この世界からほとんど出たことが無い。
「ううん、それは違うわ。わたし、出してもらえないのよ。出る気もないけどね」
だから彼女の肩書で最も適格なのは、この世界の独裁者、という地位になる。
開放的な窓から見えるFのポスターには、ウェブアスコットガールの“アリス”の笑顔がでかでかとプリントされている。それはポリゴンにしてはやけに精細で、けれどもどこか違和感がある、ぎりぎりのラインのイラストである。
肩までの黒髪に、頭の青いリボン。大きな青い目をした十代前半の少女。
彼女は十五年間、姿が変わっていない。
ビスと同じ、時間を止めてしまった子供になる。
ビスは眉根を寄せて、紙片をポケットに入れる。本が収まっていないコートの下は、スペースに余りあるほどだ。
アリスには常に、管理局により身辺に護衛が付けられている。けれどもそんなもの、形ばかりのもの。彼女にだって、自分の身を守る私兵はついている。彼女に張り付くのは、彼らだけで事足りる。
ようするに、このアリスが治める世界に異邦者を侵入させなければいい。管理局は、そちらに人員を裂いているから、彼女に付く職員は、完全に彼女が楽しむだけの“お客様”扱いだ。
ポスターのポップが目に入る。
―――――なまじ、この世界では絶対の権力者なのだから。
“アリスちゃんは面白そうなことが一番ダイスキ!”
どこから入手したのか。アリスはプロフィールを見て、ビスをはじめ、何人かを護衛任務に指名してきたという。
(自分の様な下っ端の下っ端に目をつけなくとも――――)
ご機嫌伺いなんていうのが一番苦手だというのは、ビスの人柄からして明白だった。
※※※※
「いいですか。チェシャーさんはロリコンとかじゃあ、絶対ないんです」
真っ黒い目の視線は、今にも物理的に脳天から釘を刺しそうだった。
連れ込まれた会議室は、スクリーンを映写するために暗幕がかかっている。昼下がりの西日が細く差し込むだけの会議室というのは、怪しげな雰囲気を醸し出していた。
短髪に黄色い肌をした少年は、アリスの秘書だという。これは見たままの十七歳。緑色の中華服を着て、分かりやすく出身国籍を主張している。
アジア系は表情が分かりにくいというが、その面はビスにも負けず、それに増しての鉄仮面の少年である。
彼もまた、実年齢よりは落ち着いているようで、一本通しの淡々とした語調は、ここまで一度も崩れはしなかった。
――――この時までは。
「アリスはあれで、三十路手間なんですからね。チェシャーさんとは、同い年の幼馴染です。たまたまアリスさんが“あんな体”なだけで、けして少女を愛でる趣味だとか、性倒錯趣味だとか、そういうことはありません。むしろ、ヘビーでメタルでバイオレンスな趣味趣向の方なんです」
ビスは大いに困惑していた。
鉄仮面を突き合わせて、自分は何の話をしているのだろう。
チェシャー……というのは、アリスの脇に控えていた、あの白衣の男である。アリスの伴侶だと聞いている。
「いいえ、お顔に出さなくても、少しは思いましたでしょう。アリスの横に、彼の様な身の丈が立派な男がいて」
否定をする前に、矢次に彼はつづけた。
「あの夫婦はですね、仲睦まじいおしどり夫婦なんです。アリスは彼を心から愛していますし、チェシャーさんの献身はすさまじいものです。彼の情は、アリスにだけにしか注がれません。ワタシはご夫妻の養子に入っていますが、彼の敵意は、アリスを害するものすべてに向きます。ワタシにも例外なく、その時が来ればためらいがありません」
それは違う方向で、また危ない人物ではないだろうか。彼の言葉に、心なしか熱がこもってくる。
「ワタシは“芋虫(The Caterpillar)”の地位を与えられていますから、それでもまだいいほうです。アリスは、仲間をことさら大事にしますから、チェシャーさんにも一瞬考えるだけの理由があります。しかしアナタはこの世界の人じゃない。つまり、アリスの国民ですらないんです。注意してください。もちろん、他の管理局の方にも」
ビスは頷こうとした。
「あと、」
まだ続くのか。
ついに芋虫はビスの肩を、震える手で掴んだ。鉄仮面がぐっと近づいてくる。
「――――今回は居ませんが、アリスの近くにはいつでも“彼女”の眼があります。チェシャーが献身なら、彼女はアリス教の一の信者です。盲信者です。彼女の行動はまさに予測不可能、いつ何時、ねぐらから出てくるか誰にもわかりません。彼女は獣です。化け物です。赤いものには、最新の注意を。なるべく近づかないでください」
「赤いもの、ですか」
赤い猛獣。冬眠から身を起こす血糊にまみれた猛虎のようなものを、ビスは連想した。
「そうです。赤いものです。彼女は全身が真っ赤ですから――――いざとなったら、アリスを置いて逃げてください。チェシャーさんを楯にしてもいいです。危険物同士で、しばらくは相殺できますから。それも、長くは続きません。あの二人はアリスのことに関しては同意しています。彼女は、彼女は――――」
「お、落ち着いてください。その方の名前は――――」
「あ、赤といえば分かるでしょう。女王ですよ、クイーンです。赤の女王様です。首切り女王です。ハートを物理的に、素手でキャッチできる怪物です。扱いはゴジラと一緒と言えば理解できますか? とにかく手近な怪獣同士をぶつけて、その隙に逃げてください。運が良ければ、ウルトラマンが来てくれます。この場合のウルトラマンはアリスです。アリスなら、三分もあれば収められます」
「あの、彼女は護衛対象では――――」
「そこはジャンケンと同じですよ。チェシャーやクイーンは化け物ですが、アリスにはぐずぐずに弱い。アリスはこの世界では絶対強者でいられるけれど、“異世界人”という未知には成す術がない。けれど、アナタは異世界人には対抗策がある。そういうことです。
いいですか、アナタ方がやるべきは、アリス周辺の暴風雨から身を守ることです。アリスは放っておいても楽しいことは自分で見つけられますから、構ってやらなくてもかまいません。なるべく一般人にも目を配って、身を守りつつ、その“いざという時”に備えることです」
ついにアリスの周辺人物は、猛獣、怪物、怪獣、自然災害と進化を遂げた。
十九年のビスの人生は、数々の少ない選択の中で選んできた道だった。しかし今回のこれは、明らかな貧乏くじだ。
自分の体調を計算しながら、(ああ、これはまた倒れるな)と、ビスは頭痛を忘れることにしたのだった。




