カンパニュラ博士の悲壮
10.
後方、二等車両。
木目を模ったベンチに座る少年は、たまらず欠伸をした。
ここらでは珍しい、黄色い肌をしている。背はそう高くもなく、しかし突飛して低いわけでもない。
山吹色の民族衣装も、このあたりでは見慣れないものだ。
ゆったりした衣装に隠れてはいるが、体つきもけして華奢ではない。
茶色の髪に、鮮やかな黄色の瞳の色。面立ちだけは極めて童顔で、それが特徴といえる。
(暗いなぁ……)
当たり前の感想を述べて、ニルは振動に身をゆだねながら、耳を澄ませた。
“本”の“中の人”たるニル少年は、エリカと晴光より二つ年上。外見では五つは若く見えるけれども、“本”と見なくても、十二分に大人の範疇になる年齢だ。
(……これじゃあ本なんて読めないや)
人柄を一言で言えば、温和な活字中毒者である。
本とは、赤い革表紙の冊子と、人間の姿と、二つの体を持つ特殊な“ニンゲン”のことである。
生物の能力を増幅する効能を身に持ち、それを狙われて異世界人からの侵略を受け、現在は管理局に保護を受けている。
しかし従僕も擁護も良しとしない彼らは、こうして管理局職員のサポート人員として貢献している。
本当ならば、保護される関係であることは承知の上なのだ。こうして自ら身の危険にさらすことは、大変受け入れがたいことなのである。ビスの頭痛も察することが出来よう。
しかし同時に、それほどまでに不測の事態だった。
(三人じゃ、この任務は明らかに手が足りない)
世界の“筋書き”を守ることは、その世界のバランスにつながる。
余所者が手を出すと、影響は甚大になる。“あるはずがないもの”がそこにあるのだから、当たり前といえば当たり前の話だ。
管理局は異邦人がした後始末を、同じ異邦人として処理しているに過ぎない。
けれど、世界を渡ることには危険が付きまとう。だから管理局は、常に人員不足だ。
でもだからといって、エリカや晴光のような、研修生の臭いも抜けない新人をこの任務に就かせたことが解せない。
ついで、ビスが本部に応援を呼ぶ気配がないことも。
(…あの人は、変なプライドに縛られるような人じゃないと思うんだけどな)
本の体と、この人間の姿の体は繋がっている。ニルがここに居れば、エリカらは迷わずここにも来られるだろう。今のニルは目印だ。
ガタン…ゴトン…ガタン……
こうして座っていると、普通の旅行をしている気分になってくる。ニルはぐっ、と伸びをして、やれやれ立ち上がった。
「…ん? 」
ふと視線を感じ横を見ると、そこに光る眼が二つあった。
「うわっ」
焦点の合わない眼で見上げてくる子供は、確かジジという名前だったか。飛びのいたニルにジジは不思議そうに首をかしげると、無言で向かいに腰を下ろした。
「……」
「な、何かな……」
「ダルタンが……」
言ったきり、ジジはうつむいて膝をぶらぶらさせる。
「ダルタン? ダルタンのところに行きたいの? 」
ジジは少し考えて、頷いた。
「……ダルタンは、どこ」
「う、う~ん……」
ニルはダルタンの居場所を知っている。なにせ、彼を閉じ込めるその現場にいたのだから。
エリカもそうだが、ニルは子供に弱い。むしろ、ニルと一緒にいてエリカがそうなった、というのが正しい。
ニルはジジの癖っ毛を撫でてやり、頭を巡らせた。
相変わらずの鉄仮面だが、そこはかとなくションボリしているように見えてしまう。
「…僕とここで待つ? 」
「……」
ジジは首を横に振った。
「……連れてって」
「えっ…う、う~ん、それは……」
これは困った。どうやら、彼はニルがダルタンの居場所を知っていると思ったいるらしい。いや、確かに知っているのだけれど。
そこで、ダルタンがジジに向けた一言を思い出した。
(おい、ジジ。お前は先に行け。魔法使いの罠だ、お前なら出られんだろ)
(魔法使いはな、子供が特に好きなのさ。だから魔法使いは、子供にだけ寄ってくるんだ)
「……ねぇ、君は、この特急の中を迷わないで通り抜けられるの? 」
ジジは頷いた。
ニルは考える。
(この子がいたら、この車両を動ける……)
そうすれば、後方の管理車両にも難なく行けるだろう。けれども。
「そう……なら、ここをまっすぐ行ってみて。エリカっていうお姉さんを知ってるね。彼女がいるから」
エリカの傍には、今ビスがいるはずだ。彼に委ねれば間違いはないだろう。
ジジはまた少し考える仕草をして、頷いた。
ジジの背を見送ると、一仕事終えた気分でニルはまたぐっと伸びをした。
ふと、また視線を感じて隣を見た。
金釦をきらめかせ、砂色の髪をした黒服の子供が立っていた。
※※※
鼻をすする音をBGMに、ニルは手ぬぐいを彼女に差し出した。
帽子を小脇に置いて、ライラはさめざめと巻き毛を伏せて、顔を手で覆っている。
「リ、リオンが、おっ、おかしくなっちゃったぁ。も、もう、特急は終わりだわ」
何故か十四歳の少女の姿をしたライラは、リオンと揃いの車掌服を着ていた。丸い目のふっくらとした頬の、可愛らしい少女だった。
ライラは畳んでいた手ぬぐいを広げると、それを膝に広げて顔を伏せるとまた一際大きく泣く。
ニルはなんとも言えず、困った顔でしゃくりあげる彼女の肩をさすった。
「なんとかなるよ、とは僕には言えないよ。でも、なんとかするなら君じゃないかな」
「ど、どうにも出来なかったから、困ってんのっ」
「でもライラちゃんの話じゃ、君のプログラムは全部破壊されたはずなのに、こうして出てきて来られてるんだろう? 」
「そ、それもわかんないのよぅ…なんでこの体でだけ出てこられたのかも、どうやってそうしたのかも、ウイルスまき散らしたやつが何考えてんのかわかんない。そもそもボク、この体は一番嫌いなんだ。だから普段からメンテナンスもしてないし、接続も切って、貨物車両に仕舞いっぱなしだったのに。それを引っ張り出してきたってことも、わかんない……」
言っているうちにまた気持ちが盛り上がってくる悪循環。ライラはまたワァンと声を上げて泣き出した。
「なんでよりにもよってこの体なのよぅ! 猫や小鳥が可愛くて好きなのにぃ」
「今の君も可愛くないことはないよ」
「うるさいバカ! 人間にはねぇ、好みってのがあるのよ! 可愛いの基準も人それぞれなの! 子猫や小鳥なら誰がどう見ても可愛いでしょうが! 」
「こ、小鳥や猫を嫌いな人だっているじゃないか……」
悲壮は怒りに還元されつつあるようだった。ライラは悲鳴を怒声に、涙を悔し涙に変えて、拳を握って立ち上がる。
「これだけはわかってるのよ! こんなこと出来るのは車掌プログラムのリオンだけってことはね! あいつ、ウイルスに寄生されてチョーシ乗ってんのよ! プログラムに自我は邪魔ってのが定説だけどね、んなこたぁないのよ! 車掌は接客業よ、人の心がなくてどうするってのよ! なぁによあのニタついた笑顔! ばっかじゃないのよ、お客様引いてたじゃない! 」
ニルは完全に気圧されている。
「ばっかじゃないの! 弟の癖に生意気なのよ! 十四でさっさと死んだくせに、お互い死んでプログラムになってから仇で返してくるなんて! ばっかじゃない! アタシがリオンが死んでから、どんだけ苦労したって思ってんの! 二人だったのが一人になっちゃったら、一人で二人分やるしかないでしょう!? どいつもいつもばっかじゃないの! リオンなんて姉さん大っ嫌いよ! 見てんでしょ! ちょっと出てきて文句の一つでも言ってみなさいよ! 五十年も双子の弟っていう職務を怠慢してたくせにねぇ……」
「ちょちょちょっ、ちょっと待って! 」
ニルはあわててライラの肩を掴んで座らせた。
「何よ! 邪魔するつもり!? 」
「こ、ここで喧嘩はしないでよ! 頼むから……」
「何よ、気が収まんないの。じゃあどこでしろっての? ふん、もういいわ」
ライラは鼻息荒く、すっくと立ち上がると、靴を鳴らして前部車両へ出て行く。
「すさまじいなぁ……」
ニルはぽかんと口を開けて見送った。
11.
父がこの特急、『リオン』の名を弟に名付けたのは、やはり弟が待ち望んだ男の子だったからだと思う。
リオンは昔から泣き虫で、構われっ子だった。あたしは負けん気も強くて、我ながらなかなかにしっかり者だったから、子供心にいつも父の膝に居るリオンを見ては内心「あたしはリオンのオマケなのね」などといじけていた。
あたし達には、兄弟がたくさんいた。
父の手がけたプログラム達。それらを遊び相手に、ライラとリオンは育った。その頃のあたしたちは、彼らもまた、あたし達と一緒いることを喜んでくれる、心ある存在だと疑わなかった。
『ライラ』は受胎の天使の名前。魂を導き、命を贈る。
その意味を知ったのは、可笑しいことに、父が死んだあとのことだった。
その日、ボクらは久々の地面を踏んだ。十三歳の誕生日から、半年たった頃のこと。
土壁の並ぶ街に降り、その感触を肌で楽しむ。最近はずっと難しい顔をしていた父も、少しばかり安らいでいるように見えました。
近年、多くの住居は半分地下に潜るようにしてあるのです。短い階段を下り、薄暗い、見知らぬ店に入ります。
扉をくぐったとたん、「アレス! 」父が太い声で叫びました。
「エイダ! 」
奥のバーから顔を出した男が、満面の笑みで寄ってきました。父は初めて見る顔をして、そのアレスという男と肩を叩きあいます。
「……娘か? 」
「ああ、あと息子だ」
「双子か! 」
双子が珍しがられるのには慣れています。子供というだけでも、たいがいチヤホヤされるものだから。双子ともなれば半ば見世物なのです。
ボクらの躱し方も堂に入っているもので、人見知りのふりをして父の陰に貼りつくと、大人は微笑ましそうな顔で、父はそこはかとなく嬉しそうに、「人見知りでね」と言います。ついで、あいさつの一つでもしていれば、あとは気の知れた姉弟二人で楽しくできるのです。
食事も終わり、ボクらがテーブルの端でボードゲームに乗ずるようになると、彼らは酒を取り出して【大人の話】とやらを初めました。
議題はやはり、“データ化政策”のことです。新聞はもう、その話題以外を書き連ねていません。父の抗議文はやがて数を減らし、特急を降りることが増えました。
おそらく、こうして話をしに来ていたのでしょう。父らは、何か計画することがあるようでした。
ゲームに熱中する半分、耳は会話を聞き、概要を拾います。
ボクらを連れてきたということは、きっとそういう事だからです。ボクらも、何かしら考えなければならない年になったのです。
アレスおじさんが言いました。
「……そこで、俺は国を出ようと思う」
「そうだな……逃げるのが良い」
父が首肯します。
(亡命……)
活字の中でしか触れたことが無い単語が浮かびました。
「でもお前はどうする。特急に乗っていちゃあ、身動きは取れないだろう。それどころか、政府に居場所は丸わかりだ」
「……私は、リオンを捨てられんよ」
特急の“リオン”のことだとは分かっていましたが、びくりとしました。
「家族はどうする。……ウチが預かってもいいぞ」
ボクらはもう、ゲームなんてしていませんでした。大人たちの目がボクらを見ます。
「……ボクは嫌だ」
そう言いました。父の顔を見て、もしかしたら、命をかける返答になるかもしれないと、言った後に少し後悔しました。
そして――――片割れの顔を見て、やはりこれで良いのだと思ったのです。
「ボクは父さんとみんなでいるよ」
これが、“ボクら”の総意です。
父は、ボクらから視線をそらし、テーブルの木目を睨んで溜息をつきました。
“涙をのんで”。
父のその姿に、今度はその一文が頭に浮かびました。
十四歳の誕生日も間近のこと。その日も、父は特急を降りていたので、ボクらは子供達だけで、車内を歩き回っていました。
車掌仕事もこの一年で本格的に鍛えられ、ずいぶんと慣れたものです。
後方は貨物車両から二等車両、一等車両、貴賓車両と続きます。貨物車両と二等車両は一番車両数が多く、人も多くいます。個室なのは一等車両からで、料金に食事が盛り込まれているのも一等車両から。
リオンは前方の貴賓車両と一等車両、サービス関連のシステム管理を、ライラは後方の二等車両と貨物車両、運行関連のシステム管理を担当していました。
リオンは男のくせに、よく機敏に気の付く少年でした。ライラはといえば、年齢を増すごとに人見知りが増してきて、機械いじりを好むようになってきました。
そう、最初はこの役割は逆だったのです。
この割り振りは父の方針でした。
ロボットでも足りるところも譲り受け、いざという時は父が居なくても出来るように。
それはまるで、父が居なくなる準備をしているようだと、思ってもあたし達はけして口にはしませんでした。
そう、あれも、深夜のことです。
砂漠を音もなく滑っていく砂上特急列車『リオン』は、眠りの静寂に包まれていました。あたしは後方管理車両から、灯りをつけずに薄闇を歩いていきます。お客様の眠りを妨げてはなりません。
途中、同じく見回り中のリオンとすれ違いました。声なく音なく片手を合わせ、すれ違います。これは父のいない夜の、一つの儀式でした。
これが、あたしがリオンを見た最後になりました。
あたし達は互いに同じ時刻に管理車両を出て、反対の管理車両に向かって歩き、そこで一度通信で異常を確認し、また引き返して自分の持ち場の管理車両に戻る、という方法で見回りをします。
途中、相方と顔を合わせるのは二度。行く時と戻る時で、声を交わすのは、通信する一度きりです。
貴賓車両を通り、あたしが前方車両に入ると、パネルのランプがついていました。リオンが向こう側にいるという合図です。あたしはマイクを手に取り、話しかけました。
内容のことはあたし達だけの秘密といたしましょう。いつも通りの会話だったとだけ、申し上げておきます。
リオンの報告は、『状態以上ナシ』。
最初の異変は、あたしが気が付きました。
紙が擦れるような音がスピーカーからしたのです。微かな、気のせいの様な音でしたが、後から思えばそれは本当に聞こえたのでしょう。
リオンも何か、気が付いたようでした。
『……あれ? ちょっと待って――――』
『どうしたの? 』
背筋をくすぐられる小さな“異変”でした。
確かにまだまだ子供でしたが、子供では無くなりつつありました。責任と重圧の自覚はありましたし、父に応えようとことさらに必死でした。
思えば、ライラより遙かに気の付くリオンが気が付かなかったことがオカシイのです。
ガサリ……
向こうで、動き回る音が聞こえます。
『……リオン? 』
犯人はあたしの声も聴いていたのだと思うと、あたしはどうしようもなくなります。
ピ―――――――――――――――――――――――――――――――――
高らかにホイッスルが鳴りました。
※※※
【反政府組織 砂漠特急を襲撃】
紙面に躍る文字、文字、文字。
襲撃の容疑者の名前の中に、アレスおじさんの名前がありました。
あたしはこの事件で、世間から見た父の立場を改めて実感します。
政府から依頼されて特急を作ったエイダ・カンパニュラ博士は、政府側の人間と認識されていました。
父がデータ化計画に反対したことは非公開でしたし、もちろん反抗政府の団体との繋がりも、露見されてはいません。
父の立場は危ういものでした。
父は一言、「あいつじゃない」と言いました。
それで十分でした。
【カンパニュラ博士 ご子息死去】
それで、もう十分でした。
※※※
リオンの葬儀は隠れるように行われましたが、父の怒りはすさまじいものでした。
久しぶりに会った母は何かに憑かれたように憔悴しきり、あたしも、あの時のことはよく覚えてはいません。
ただ、父は怒っていました。静かに、無音で…恨みを胸に収めていました。
あたしは特急を降りました。父がそう言ったからです。母と暮らし始めました。特急の中はどんなにも安穏だっただろうという、そんな暮らしでした。
あたしは毎日の生活を勉強に打ち込み、父の様な科学者を目指しました。
また特急に乗りたかったのです。次に特急に乗る時は、エイダの娘ではなく、実力の上だと決めました。
それがあたしの夢になりました。
才能はあったのだと思います。けれどやはり、父の壁は厚く高く、あたしは勉強漬けの毎日でした。
特急の運行に必要な勉強は、なんでもしました。それこそ、あの特急に張り巡らされた緻密な機械たちの役割を、一人でも賄えるくらいの技術と知識を求めました。
父の自殺は、あたしが二十二になった時。リオンの命日でした。
父が亡くなり、五年ほどして、母も亡くなりました。
あたしの名前の意味は、母が死に際に、繰り返し言ったことでした。
父を超えることは叶わず、あたしは車掌に手をあげます。ほかの人を絶対に乗せたくはありませんでした。
政府から派遣される人間など、あの特急には乗せたくありませんでした。
再びあのタラップを踏んだ時のことは、忘れもしません。
“データ化”は着々と進み、現在、人類の三分の一はそうなのだそうです。
そんなことはどうでもいいのです。あたしはデータ化の恩恵は受けないと決めていました。他がこの先の未来にどうなろうと、そんなのはもう、あたしが死んだあとのことでしょう。
あたしはこの特急で、天寿を全うするのです。
しかし再び乗った特急は、幽霊船特急に改造されていました。
そう、あれは幽霊特急です。
特急には、とある装置が組み込まれていました。
特急は不特定多数の人間が乗車します。安価で、受け入れ口が広く、身分の差はありません。特急に乗れば、面倒な手続きもなく“壁”から“壁”へと渡ることができました。人々は、一生のうちに一度は特急に乗るでしょう。
それを利用して、この特急には全人類分のデータを保管するホストコンピューターが搭載されていました。
父が最初に、開発を断ったあれです。父がこれを作ったというのです。
―――――そんなバカな!
ここで、この特急で、“データ化”をするというのです! この特急を、全人類を改悪させるための網にしようというのです!
――――――――そんなバカな!!!
そしてあたしは、リオンに再び会います。
彼は最期のあの時のままの姿で、この特急の管理プログラム【リオン】として存在していました。
あたしが十四の時にやっていた仕事を、あの頃のリオンがやっていました。
父はリオンが可愛くて仕方なかったのです。この特急の名前をつけるくらいに、愛していました。
父は悪魔に魂を売ってでも、リオンを蘇らせたかったのです。
特急は、幽霊製造機になっていました。