吸血鬼の恋
恋愛要素(※当者比)
9.
君たちの役目は見届けること。
ボクの望みが果たされるその瞬間を。
ボクの願いが世界を変える瞬間を。
息をひそめ、声を殺し、終幕をお待ちください。
危険ですので、明かりがつくまではお席は立たれませんよう。
それまでどなたも下車は叶いませんので、あしからず。
薄闇の変わり映えのしない通路を、もうずっと歩いている。
二等車両に入って、もうずいぶんとたつ。車両を二十は過ぎたはずだ。
(おかしいわ)
「何か、おかしいな……」
ダルタンはそういって足を止めた。思わず思考が重なり、エリカはたまらなく嫌な気分だ。
「おい、ジジ。お前は先に行け。魔法使いの罠だ、お前なら出られんだろ。奴を見つけしだい殺せ」
「わかった」
光る金目は、すぐに暗闇に消えた。
「魔法使いって……? 」
エリカが上目づかいに尋ねる。
「言っただろ。子供にだけ寄生する奇病だ。俺はそれの感染者を捜してんだ」
「……そのために、この特急に乗ってる子供を狙ってるの? 」
「ああ」
ダルタンは腕を組んで天井を見据えた。
――――ガタン、ゴトン、ガタン……
音はそればかりで、あとは息をひそめた二人の人間の息遣いだけがする。
窓も無い車内は、完璧な密閉空間だ。
「……ふん」
ダルタンは不満げに鼻を鳴らす。
「面倒だな……」
ダルタンは身を低くすると、次の瞬間、大きく足を振り上げた。
鋼がひしゃげる大きな音がして、天井が剥がれて落ちてくる。冷たい空気がなだれ込んできた。
ぽっかりと、満点の星空が覗く。
特急はテロ対策もあって、装甲はそれなりに厚い鉄板が埋め込まれているはずである。もちろん、天井もその例外ではない。
エリカは生唾をのんだ。
「上がるぞ」
「えっ」
巨躯がエリカの脇にひざまずく。腰をかかえ持ち上げると(エリカはその時あまりのことに眠っていた子猫を腕から落としてしまった)、そのまま肩と左の上腕に腰かけさせ、右腕だけで二人分の体重を屋根の上まで上げた。
とたん、砂を孕んだすさまじい風圧にエリカは顔をそむけた。
褐色をした屋根は、丸いカーブを描いていて人が歩くようにはできていない。砂が積もらないようにとできている仕様だ。
しかしダルタンは身軽に――――むしろ、首にかじりつくしかない意中の娘に、足も軽やかに屋根の上を散歩し始めた。
「顔を上げてみてみろよ」
ダルタンがエリカの頬に口を寄せて言った。
「今で時速八十㎞ってとこか。速度はだいぶ落ちてる。景色ぐらい見られるはずだぜ」
おそるおそる、顔を上げてみる。エリカは目を開けた。
見切れないほど、星があった。空だけが四方にあった。天上で一つ一つがくっきりと輝き、まろやかに銀河が横切って流れている。
その下には、落ちかけた月に照らされ、砂漠が銀に地上に満ちて風に波打っているように見えた。
東の空だけが、少し明るい紺色になっている。
「お前の目の色だ」
ダルタンがそれを指さして、やけに嬉しそうな声で言った。
居心地が悪い。
この男に、そして自分にも呆れさえする。なんだこの状況は。なぜ私は口説かれているのだろう。
何よりも、この何もない、美しいだけの情景は、嫌なことを思い出してしまう。
―――――ああ、人の足跡が消えかかった世界ほど、淋しく思う風景は無い。
過去にはせる彼女を、ダルタンは肩から、腕の中へと収めた。
「わっ――――」
「へへっ」
無邪気に笑うダルタンの目に、一時消えていた一瞬の獰猛さが戻る。男は舌なめづりすると、目の前の白い首筋に噛みついた。
「ひっ――――――」
脈を捉える犬歯に、エリカの背筋を悪寒と痛みが走る。逃れようと反射した体を、エリカは意思で押さえ込んで、その一瞬を耐えた。
ダルタンはすぐに彼女の首から顔をそむけた。
「辛抱できなかった」
急激な緊張による興奮に、エリカは大きく息をつく。声色が震えるのが悔しい。
ダルタンはエリカに顔を向けないまま、左手で口元を拭った。
表情はうかがえないが、いつになく愁傷に見えるのは間違いだろうか。だとしたら、恐らくは謝られているのだろう。
抱いたエリカを緩慢に見上げてきたダルタンは、先ほどより青ざめているように見えるのも、錯覚だろうか。
「お前は猫の血だな。俺には……お前の血は飲めなかった」
「……猫の血? 」
「“猫”と“蛇”と……俺が、吸血鬼が飲み込めない血のことだ。吸血鬼にとっちゃあ毒になる。……猫の血は、魔女の眷属の血だ」
「………そう」
エリカは短く答える。
「………」
ダルタンは無言で、物言いたげにエリカの目を見返した。
「……ここ、寒いのね」
「……」
長い沈黙の後、ダルタンはゆっくりと歩き出した。
また天井を踏み抜いて、エリカはやけに広い空間に降り立った。一等車両あたりにあたるはずだが、殺風景なほどに何もなく、広いばかり。
エリカはブーツの爪先で、青い絨毯の敷かれた床をなぞった。
(これは――――……)
こんな場所は、一等車両の間にあるはずがない。
ダルタンも、驚くほど素早く静かに、巨躯の脚を付けた。
エリカはダルタンに向き直る。
ダルタンがはっと彼女を見た。その顔が、別れ際の恋人に向けるようなものだったことは、錯覚だったとしよう。
また嘆息して、エリカは胸に下がる三つ編みの裾に手をかける。
黒髪が夜風に煽られながら背に広がった。邪魔な大きすぎるメガネはポケットに。
顔を上げる。胸を張る。
エリカはこの場にふさわしい笑顔で、ダルタンに笑いかけた。
※※※※
彼女の遍歴について、さわりだけ述べようと思う。
フルネームは、エリカ・A・クロックフォード。
クロックフォードなる珍妙な姓は、母方の姓である。
孤児だった母を祖父が引き取った際に、手持ちの小説から軽い気持ちで引用したらしい。
生まれはとある青い惑星。“魔法使いの国”と呼ばれる王国の城下町。
海に囲まれたその小さな島国は、その世界で唯一“魔法”という特殊技能を持って生まれる“魔法使い”の生まれる国である。
史実では、それによって、古来より先進国としてその文化を磨いてきたという。
曇り空の下にあるこの国はを、ある女神を称えるところでは“神のおわした聖地”と云い、ある迷信深いところでは“魑魅魍魎が跋扈する魔都”だと云い、ある学業を享受するところでは、“最小の強国”であると言う。
魔法とは、この国に置いての技術である。国民の魔法の認識の説明は、いかんともしがたい。
例えば、南のあの国では、皆肌がよく焼けて黒い。さらには男女問わず筋肉質で、とても強そうだ。
彼らはこれと、同等程度にしか『魔法が使える』ということを認識していない。
――――つまりはそういう種族。ようするに国民性。さらには体質であるという。
身もふたもない。
かつては搾取に傾倒し、血濡れた歴史を歩んだこともあった。しかしそもそも、彼らの扱う魔法なるものに、兵器として利用できる威力は、これっぽっちも無かったのである。
一般的には、チャッカマン以下、石炭以上とされている。火をつけるには、石炭という燃料そのものはもちろんのこと、市販のライターよりも役に立つが、極東の高性能ライターほどではない、という意味である。
かつての歴史の上で、“魔法”なる未知との遭遇に踊らされた敵国は数多かった中、当の国民は自転車の練習程度の気軽さで各自ご家庭で技術を磨き、主に家事に用立てていたのだ。
科学が世を支配する以前より、科学の上をいく“技術”として、彼らは魔法を認識してきた。“魔法”をより知るために“科学”を学ぶ。そして――――彼ら魔法族いわくの――――――科学という無駄使いエネルギーの作用を、当時のどの国よりも深く理解し、手中におさめ、勝利を掴み取ったのである。
エリカの故郷、“魔法使いの国”は、“実力”と“風評被害”で、今の安穏を手に入れた摩訶不思議国家であった。
しかし彼らの国に伝わる逸話には、こんなものが存在する。
後に国土となる一つの島に、一人の“魔女”が降り立った。王となるものを選別し、玉座へと導いた彼女は、最後の時までを王と連れ添う。
魔女は才知と美貌に優れ、時に未来すらを予知して、永劫国を守護する、大いなる魔法をかけたのだという。
彼女はそうして、魔法使いの始祖となった。
紫の目を持つ偉大なる魔女。
エリカもまた――――確かにその血を引く、英知に通ずる魔女の一人なのである。
この場にはダルタンとエリカのほかに、姿を見せないもう一人がいる。
“本”の持つ温もりを、エリカは肩の力を抜いて、斜に立ちながら感じた。
『エリカ』と、名前を呼んでくれる少年の声。ニルという名前のこの本に、エリカは恋をしているわけではない。今後もする予定もない。
ただ彼は――――誰よりも、エリカを知ってくれている人だ。エリカも、積極的にその人のことを知りたいと思ったのは、彼が最初で、二度目がビス・ケイリスク。この二人だけだった。
いくつかの友人も持ったけれど、その他はなかなか彼女の琴線には触れない。
自分に無いものを、欲しいものを与えてくれる人。近しいものに向ける親愛、友愛、無条件にその大切なものを与えてくれるという行為への尊敬、敬愛。
例えるなら―――兄というものに向けるものではないだろうか。
エリカにとって、ニルはただの本ではない。彼ら“本”は、喋るだけではないのだ。
(……ニルが居なければ、私はこの場にも満足に立てない)
大きく一歩、エリカは絨毯の上を踏みしめた。
カ――――――――――――――――――ン
絨毯の上では、いくらヒールで蹴ったところで音が鳴るはずがないと言うのに、それは鉄を打った時の音に良く似ている。
ダルタンはそれを、じっと見ていた。
「……止めないの? これ、貴方をやるための準備なのだけれど」
「必要がねぇからな。……俺はもうちょっと、今のお前を見ておきたい。猫を被ってない方は新鮮だ」
「まだ口説くのね」
「俺はお前に惚れてるからな」
「……その話、まだ続いてたの」
「口では言ってなかったと思って。好きだ、惚れてくれ」
「……」
カ――――――――――――――――――ン
エリカは無言で、また床を蹴った。
ドレスの裾と、長い黒髪が月夜にたなびく。
「猫一匹分を剥したくらいで……私の猫の皮はこんなもんじゃないわ。魔女を見くびらないでちょうだい」
「ああ、全部見てやるつもりでいる」
男は楽しげに、魔法の前戯を待つ。
しかし、彼女は魔女である。
魔女とはもともと、暦と天候を読み解き、自然に住まう霊魂と対話しようとする者を、称するものの一つだ。大元を辿れば、巫子などの神職とそう変わらない。
ケルトの魔女などは、祭祀や神話伝承―――ようするに宗教から、法律、政務―――政治まで執り行ったという。
その地位は、名高い騎士よりも、場合によっては王よりも尊いとされる。
王ですら助言を賜る。神話の時代なのだから、自然を読み解くドルイドの役職は、神と人の仲人役という重要なものである。
――――しかし、大元がなんだとしても、エリカの知る“魔法”は、そのような神聖なものではない。
彼女の国でも、かつてはそのような“魔女”として恐るるに足る力が在ったのだろう。前述の魔女の逸話などは、まるごとドルイドの逸話と重なる。
けれど現代においては、その神秘の力も主婦の相棒レベル。
―――――だから“本”が重要なのだ。
“本”の役割は、いわば増幅装置である。
神話の中にしか存在しない神秘。奇跡を行使する力。
それを具現化することを可能にする、生きた装置。それが本。
(それが、私の相棒……)
ニルが、懐で照れたように小さく笑った。
気高くありたい。
誰よりも強く、強く、真実を見極める力がほしい。
この男は強い。強大だ。私はきっと、敵わない。身体の強さも、精神の強さも。
けれどこの男は、エリカがいいという。魔女であるエリカをほしいと言う。男として、エリカという名前の、魔女ではない少女に惚れたという。
そして、魔女でも構わない、エリカがほしいという――――――。
「……嫌な人」
ぽつりとつぶやいて、エリカはひと時、目を閉じた。いつのまにか、エリカの右手にはいつぞやの銀の杖が握られている。
―――――こうなったら、とびきり長い、とっておきの呪文を使おう。
「――――六が二つすぎ、十三番目の時、おわす猛禽が金の目をすがめた。水は甘く、風は豊か、大地は芽吹き、火は清らかに【六が二つすぎ、十三番目の時、おわす猛禽が金の目をすがめた。水は甘く、風は豊か、大地は芽吹き、火は清らかに】」
少女の声と、少年の声が重なる。
「両眼は昼と夜を総べ、永久、天で黄金に輝く。大地はその眼の元に。我賜る。【両眼は昼と夜を総べ、永久、天で黄金に輝く。大地はその眼の元に。我賜る】―――――」
(空が、やけに明るい)
月が、彼女の頭の上で満ちていた。
月の形なんてダルタンは覚えちゃいない。しかし夜明けも間近に、だいぶ傾いてはいたはずだ。あれだけ星が見えたのだから、満月だったということもないだろう。
彼女らは、尻尾のついたものにまたがり、夜空を飛ぶ。
そうして時に森に集まり、たき火をたき、“悪魔”と酒を交わしてダンスをするのだ。
女は月と共にある。魔女もまた、然り。
ダルタンは腰を低くして構えた。
カ―――――――――――――――――――――――――ン
三度目はより高らかに響いた。
とたん、肌が泡立ち、心臓を直接指でつつかれたような、異様な居心地の悪さが襲う。
足を踏みしめ耐えた。
この場に、魔女の魔法が満ちる。
一人の異形の者として、ダルタンも物を知らぬわけではない。足踏み、高く響く鉄を打つ音、自然の豊穣を願い讃える文句―――足踏みで地を示し、音で場を示し、呪文で意思を示す。
即興の動作で簡略化されているが、結界と呼ばれるものだ。
本当なら、こんな行きずりの場所で行わず、段階と順序を積んで、楔を打ち込むのだという。しかし彼女は結果として、力の源となる満月すら召喚してみせた。
古き血で紡ぐ魔女の業。
吸血鬼もまた、魔女伝説を起源とする伝承だ。しかしそれは古の魔女ではなく、正真正銘、悪魔と交信する怪物としての魔女。
連想するのは、十字架に背き、冷たい墓の土の中で人知れず起き上がっては、生者の血を求める姿。それも、ただの生者では我慢が出来ない。とびきり美しい、神の祝福のある娘。
吸血鬼だから、この魔法がこんなにも居心地が悪いのか―――――だとしたら、この因果にダルタンは笑うしかない。
「すげぇ……」
ダルタンはうっとりとこぼした。
「すげえなぁ、お前……全部が全部、俺の好みだよ。お前がどんな奴でも関係ねぇ。お前のなら、なんでも飲み込める。いくら猫かぶってても、どんなにひどく騙されたっていいんだ―――――」
「……飲み込まれちゃあ困るのよ」
手の先から、肘程の長さしかない杖。その先から、蛇が這うような紫電が走った。
冷たい色の小さな稲光は、白い靄を立てて大きく肥大し杖を白くぼやけさせる。
エリカは体を斜めに、右腕の杖を突きだした。
月明かりを背に、銀色の一振りの剣が彼女の右手に出現する。
ダルタンが大きく腕を広げる。
エリカは床を蹴って、目の前に開けられたその胸に向かって疾走した。