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言霊遣いの受難の日々  作者: 春間夏
第三章 「実現力」編
25/29

意地と理想と希望の狭間(後編)

おはようございます、こんにちは、こんばんは。24時間、あなたの隣に這い寄る混と…ゲフンゲフン。春間夏です



書き上がりました後編、今度こそ、実現力編の最終話という事になります。

何だかボリュームがおかしいです



では後書きでまた


―――お前を、『殺す』―――



顕悟と実行の言葉が重なった瞬間、採石場に異変が起こった。

本来、壱声が施した内外を遮断する障壁は…正直な話、とてつもなく頑丈な物に仕上げてあった。

どの程度か、と聞かれれば、『採石場の内か外、どちらかで水素爆弾が爆発しても、そういった事実が存在した事さえ察知出来ない』レベルである。


にも関わらず、その障壁がベニヤ板のようにミシミシと音を立てて軋んでいる。


「………嘘だろ。冗談だとしか思えない」


驚愕に染まった表情で、壱声は呟く。

だがそれは、自分が作り上げた障壁が内部からの負荷に悲鳴を上げている事に対してではない。

そんな事はどうでもいい。当然だ。

壱声はそもそも、『こんな事態にまで耐え得るようには、障壁の強度を設定していなかったのだから』。


「二人揃って…『禁忌語句(きんきごく)』を遣うなんて――」


純粋な戦力となる兵器には、核兵器や生物兵器のように条約や暗黙の了解として使用を禁止されている物がある。

言葉を用いて現象を引き起こす…言うなれば、言葉を武器としている言霊遣いにも、そういった使用するべきでない単語が存在している。

それが、『禁忌語句』である。


例えば、自然に対してあまりにも重度な影響を与えたり、生態系のバランスを崩しかねないような物。

例えば、金銭の偽造など、あからさまな犯罪行為に荷担するような物。

そして、最も厳しく…先の二つが暗黙の了解、マナーやモラルによる禁止なら、こちらは条約ともいえる形で禁止されている言葉がある。


生死与奪に、直接干渉する言葉。


即ち、顕悟と実行が放った『殺す』という言霊は、禁忌中の禁忌なのだ。


「…ねぇ、壱声。何だか、息苦しくなってきてない…?」


まるで高山地帯に居るような感覚に襲われ、詩葉は深く長い呼吸を繰り返す。


「…そりゃそうだ。あの二人、よりにもよって厳密な対象を指定せずに力を垂れ流してるからな。周囲の空気まで殺し始めてるんだろ」


「それって、つまり…どんどん酸素が薄くなってるって事かな?」


「いや、それよりマズい。酸素じゃなく、空気だ。二酸化炭素も、窒素も、例外無く死んでいってる。しかも、『外からの補充が間に合わない勢いで』だ。このままだと、限定的な真空が発生しかねない。将来の夢が干物、なんて変わり者以外は歓迎出来ない状況ってわけだな」


壱声がとんでもない事をさらっと解説している間にも、状況は加速していく。


今、顕悟は右手を空に向かって掲げている。

その右手の直上に、一振りの剣が形作られていく。

しかし、その剣には握る為の柄が無い。

敵の攻撃から手を守る為の鍔も無い。

存在するのは、刃。


正しく敵を殺す役割だけを抽出した、全長10mに達する刀身だけが、禍々しい気配を纏い、実行に対して鋒を向けた状態で空中に浮かんでいた。

それを目にした壱声は、直感で悟る事が出来た。あれには、決して触れてはいけないと。


剣の周囲を取り巻くように風が渦巻いているが、それはあの剣が風を操る性質があるから、という理由ではない。

剣に触れている空気が永続的に殺され続け、その不足分を補おうと周囲から空気が殺到しているのだ。

さながら誘蛾灯のように、引き寄せられたモノを例外無く殺し尽くす。

だからこそ、顕悟もあの剣には触れようとしない…否、触れる事が出来ない。

殺傷、非殺傷の分別が出来ない刀身に触れれば、実現した本人さえ情け容赦無く殺されてしまうから。


「――大した得物だ」


そんな『死』そのものを突き付けられて、尚。実行は微笑しながら呟いた。

恐れる必要など存在しない。なぜなら、今の実行も同様に、その有り様が『死』を体現しているのだから――!


「殺し甲斐が有りそうで何より…!!」


一歩。足を前に出した。

それだけ。たったそれだけで。


踏み締めた地面が、音と粉塵を撒き散らして爆散し、陥没した。


「…っ。ちょ、壱声!もう意味が分からないんだよ!?」


「別に不思議じゃねぇよ。会長の言霊は実行力…今の夢想顕悟を『殺す』事を実行する為に必要な補正を掛ければ、まぁあの程度の現象は起こるわな。つっても、このままで済むわけも無ぇけどな」


「…それ、どういう意味かな?」


「あの状態の会長を殺す為に、夢想顕悟の実現力も出力が上がっていく。そうすれば、それに対抗するように実行力も底上げされていく。あの組み合わせは天井知らずなんだよ…言ったろ?『世界を巻き込みかねない』ってな」


今の二人の状態は、噛み合った歯車のような物だ。

片方が回転の速度を上げれば、もう片方も同じ様に速さを増していく。

どこまでも、何処までも、無尽蔵に。

『周囲に掛かる負荷なんてお構い無しに』。


「ったく、やり過ぎなんだよ。ヒトの体のままで、何処まで破壊性能を追求するつもりなんだっつうの」


「…あの、壱声?状況と話の内容の重大さのわりには、落ち着き過ぎじゃないかな?」


詩葉の指摘も当然だろう。

壱声は今、地面に胡座をかいて座り込んでいる。まるで休日の昼下がりに草野球の試合でも見ているかのような気楽さである。


「…落ち着いてなんかねぇよ。達観してただけだ」


そう呟くと、壱声は立ち上がってズボンに付いた土埃を軽く払った。


「責めてくれるなよ。これからアレを止めなきゃならない、俺の身にもなってくれ」






無数に、断続的に、何かが軋むような音が、実行の耳に響く。


しかし、それは外部からの音ではない。

自身の体の内側からの音だと、実行は苦痛と共に理解していた。


(…流石に無理があるか。奴を殺す為に必要な能力を十全に発揮するには、どうやっても『体の耐久性は無視』する事になるからな…)


実行力の言霊は、実行の体を物理法則の柵(しがらみ)から解放してくれる。

が、それだけの力を行使するのは実行自身。その媒介はあくまでその肉体。


(…普段は大した言霊を遣ってるわけじゃねぇから、普通に運動した分程度の疲弊で済むけど…今の状態はそもそもヒトの限界を超えてる、か。一歩二歩なら問題は無いかも知れねぇが…本格的な戦闘行動となると、どうなるか分かったもんじゃねぇな)


原動力と出力のバランスで言えば、今の実行はミニカーを動かす程度のゼンマイ仕掛けでジェットコースターを動かそうとしているようなものだ。激しい運動をした瞬間に死ぬ可能性すらある。

その行き過ぎた危険性を認識しながら、実行は言霊を解除しようとも、出力を加減しようとも思っていなかった。

そんな事をすれば、実行は間違い無く顕悟に殺される。全力でぶつかり、打ち勝たなければ、仄香との約束は守れない。


(加減をしたら間違い無く死ぬ…が、このまま戦った場合でさえ、自滅を含めた死亡確率は『最低でも』70%って所か…)


余りにも分が悪い。ふざけた選択だ、と実行は自嘲気味な笑みを浮かべる。


だが、拳を握る。顕悟を見据え、獰猛な牙を剥く。

残り3割の生存を掴み取る事に、微塵の迷いも無かった。




――告げる。


我は、言葉を以て数多の事象を決定する。


過ちを糾弾する時間を与えよ。


抵抗を無為に。


殺意を虚無に。


徒(いたずら)に。純粋に。


我が言葉を伝う時間を紡ぎ出せ。


この時間に。


この空間に。


我以外の。


決定力以外の、言霊は無力。


故に、我に。


…俺に、他者の言霊は通じず。


今、この時、この瞬間から。


鶴野壱声という存在は。


他の言霊遣いにとっての、絶対的な抑止力となる。


この制約の下、決定力の言霊を執行する――





顕悟は、実行に対してから一番の戦慄を覚えていた。

実行の言霊は実行力。

だがそれは、言葉にした事をただ単純に行える、というわけでは無い。

正確には、言葉にした事を実行出来るように、『身体能力の限界を超えたその先にまで、パラメータを引き上げる』のだ。


その結果、今の実行は外見にこそ変化は無いが、ただ踏み込んだだけで地面を爆砕する程に破壊性能が強化されている。恐らく、一挙手一投足でビルを解体出来るだろう。

それが『非科学的な力』ではなく、あくまで『強化された物理的な力』で引き起こされたのだ。


だが、顕悟が戦慄したのは、その純粋な破壊力に、ではない。

顕悟の剣は、触れた瞬間に死を実現する。

破壊力だの攻撃力だの貫通性能だの、そんな物は一切関係無い『即死』。

何が相手だろうと、恐れる事に意味は無い。


顕悟が注目したのは、実行の意志の強さだ。

完全に人間の限界を超過した力を、人間の体のままで発揮する。そんな事をすれば、果たしてその使用者がどうなってしまうのか…それを想定した上で、実行は顕悟に拳を向けている。


(…約束を守る為の意地って奴か。良いじゃねぇか、実行力。そういう気概を持ってる奴は嫌いじゃねぇ)


大切なモノの為なら、手段は選ばず躊躇もしない。この一点に於いて、顕悟と実行はとても似ている。

似ているからこそ、今、この場では決して相容れない。


「…さぁ、決着をつけようぜ、有言実行。俺とテメェの意地のぶつかり合い…どっちが強ぇのかはっきりさせようじゃねぇか」


顕悟の言葉に、実行は闘志に満ちた笑顔で応える。そして、二人がお互いを食い潰そうと同時に踏み込んだ時。


その中心に、何かが割り込んだ。




その何かを見た瞬間、実行は咄嗟に拳を引こうとした。

その何者かを見ても、顕悟は構わず剣を突き込もうとした。


そして、そんな事には一切構わず――


『――俺が干渉した言霊は、消失する』


顕悟と実行の間に割り込んだ壱声は、そう呟くと実行の拳と顕悟の剣を掴んだ。


それだけで、常軌を逸したレベルまで引き上げられていた実行の能力は全て打ち消され。

触れるモノ全てを尽殺する筈だった顕悟の剣は、風に吹かれた綿帽子のように消え去った。


「そこまで。…選手交替です、会長」


淡々と呟く壱声に、実行は苦笑を向けた。


「…これからが楽しかったんだけどなぁ。ダメか?やっぱ」


「ダメです。アンタまで禁忌語句を遣ってどーすんですか。あと5秒で全身筋肉痛に蝕まれる人はさっさと引っ込んでください」


「…そこまでキッパリと言われちゃしょうがないか。ま、俺も無用な怪我は切に避けたいしな………ぬおぉ、や、ヤバい…マジで筋肉痛が…ギブミー湿布………」


壱声が戦闘に割り込んだ段階でスイッチを切り替えていたのか、自分の出番が終わったと見るや日常的なボケパートに戻る実行。

…切り替えるにも程があるだろ、と壱声は心の声でツッコんでから、顕悟の方へ向き直る。


「…さて。始めようか、夢想顕悟」


壱声がそう切り出した直後。

特大の鉄球が、壱声の体を横から殴り飛ばした。


…しかし、砕け散ったのは鉄球の方のみ。

殴られた壱声は、何事も無かったかのようにその場に立っている。


「…剣、降り注げ」


顕悟の呟きに言霊が応え、秒間100本もの剣が壱声へと殺到する。


地に刺さり、土を抉り、先に突き立った剣を後から降る剣が打ち砕く。それら全てが合わさり、ビル街一つが倒壊したような爆音が響き続ける。


「………………」


その様子を見ながら、顕悟はゆっくりと右手を上げる。その右手に、少しずつ一振りの剣が形作られていく。


「…大きく」


その言葉に、剣のイメージが一回り大きくなる。


「大きく、大きく。更に大きく!」


膨らみ、伸び、肥大していく。

それは最早、本来なら人の手で持ち上げる事さえ叶わない領域。

切れ味という概念など不要。降り下ろされれば、只の重量だけで相手を死に至らしめる。

だがしかし、この剣には岩壁をバターのように断ち切る程の切れ味も秘められている。

言霊として明確にしなくとも、間違い無く敵に死を刻む、全長30mの大剣。


それを頭上に掲げたまま、顕悟は永続的に降り注ぐ剣とは他に、大小様々な剣を実現していく。

その数…1…13…49…88…158………


666。


「…全本数。同時に一斉射出」


顕悟の言葉を引き金に。

経過時間0.1秒で、その全てが壱声に叩き込まれた。


鼓膜にではなく、全身に。

音としてではなく、衝撃波となって周囲に襲い掛かる程に圧倒的な音量。

更に、巻き上がる土煙が消えるのを待つ事無く、顕悟の右腕が降り下ろされる。


原子力空母すら両断可能な大剣が、土煙を風と共に切り裂き、そして―――


砕け散った。

跡形も無く。

まるで最初から、そんな物は存在していなかったかのように。


「…無駄だよ。今の俺に触れた言霊は全て消失する。どれだけの量を用意しようと、どれだけ大きな物を拵えようと、な」


そして、全てが消え去ったその後に。

五体満足…どころか、全くの無傷で壱声だけが立っていた。


「お前が何の言霊遣いだろうと関係無いんだよ、夢想顕悟。俺の言霊が決定力である以上、物事の決定権は俺にある。それこそが最も重要で、最も優先される真実だ」


「…俺の実現力じゃ、テメェの決定力には敵わねぇってのか」


「そうは言ってねぇ。実現力って言霊には、決定力では出来ない事も可能にするだけの能力がある。だが、お前は『実現力でしかない』。だからこそ、俺に優位性が生まれるのさ」


「………力の完全な分散。全ての言霊遣いに一長一短をもたらしたそれが、今のテメェには長所として働いてるわけか…気に食わねぇな」


あからさまな舌打ちをして、顕悟は壱声を睨み付けた。


「…あぁ、まったく気に食わねぇ。テメェが決定力を握っている以上、俺は実現した現象を現実に固定する事が出来ねぇんだからな」


「だから遙ちゃんを助ける事が出来ない…そう言いたいのか」


「間違っちゃいねぇ。だが、そんな責任転嫁はしねぇさ…運が悪かった。俺の言霊が実現力じゃなく決定力だったら、手っ取り早く遙を助ける事が出来た…そう思うと、愚痴りたくもなるだろうよ」


空を見上げて笑いながら、顕悟は「剣」と呟いた。手の中に、一振り。最も多くの命を奪ってきたロングソードが握られる。


「…知ってるよな?言霊の力の分散、その『例外』。もしも言霊遣いが死亡した場合…その言霊を後の世に遺す為、その言霊遣いの言霊は、最も近くに居る言霊遣いに譲渡される」


「…あぁ、知ってるよ。それで?」


「分かるだろう?」


顕悟の笑顔が、狂ったような物に変わる。


「貰うぜ。テメェの決定力をなぁ!!」


一歩、深く踏み込むと同時。顕悟は手に持った剣を壱声の心臓に向けて突き出した。


しかし、壱声の言霊は未だ健在。

現実に干渉可能なレベルの実現力(フィクション)でも、決定された『消失(ノンフィクション)』には抗えない。

その鋭利な刃は、壱声の服を破く事さえ叶わずに消え失せる。


「…やっぱりそうなんのか。だからお前は間違ってんだよ、夢想顕悟」


「言ってろよ…テメェが何を言おうが、俺が遙を助けんだからなぁ!」


更に振るわれた剣を拳で消し飛ばして、壱声は顕悟を見据えて冷淡に告げた。


「誰がそんな事を望んだ?」


「…あぁ?」


「遙ちゃんは、お前と一緒に過ごす事を望んでいるだけだ。歩けるかどうかに関わらずな。なら、お前が抱えているのは誰の望みだ?誰の願いだ?」


「何が言いてぇんだよ、テメェ…」


「お前は重大な間違いに気付いてない。お前が貫こうとしているのは、遙ちゃんとの約束でも、遙ちゃんの願いでもない。お前自身の願いだ」


壱声は絶対的な優位に立っても、拳による攻撃を加えようとはしない。

当然だ。壱声がこの言霊に欲したのは、顕悟と言葉を交わす時間なのだから。


「遙ちゃんを助けたいなら、その手段は幾らでもあった。その手段を持つ人だって、きっと沢山居た筈だ。けど、お前はその全てを切り捨てて、自分自身の力だけで解決しようと躍起になってる。お前にとって重要なのは、『誰が助けるか』なのか?本当に大切なのは、『誰を助けるか』じゃないのか?」


「…黙れよ」


「第一に考えるべきはそこだろ。助ける為の手段を持ってないなら、助ける事が出来る誰かに頼れば良い。お前自身の手で助けるってのは、あくまでお前の理想だ。お前は自分でも気付かない内に、『遙ちゃんを助ける為』じゃなく、『自分が救われる為』に行動してたんだよ」


「黙れ…黙れっつってんだよ!そんな筈が無ぇ…そんなわけ無ぇだろ!俺は、遙を救うんだよ…罪を、償う責任があるんだよ!!」


「そんなモン存在しねぇよ、テメェが勝手にある事にしてるだけだろうが。お前が一番分かってんだろ?お前はただ、歩けないままの遙ちゃんの傍に居れば、自分がその現実を作り出してしまったって罪悪感に押し潰されそうになるから。だから、先ずはその罪悪感を清算しておきたい…そんな願いが、お前の中じゃ贖罪やら責任やらって言葉に塗り潰されてるだけだって事はよ」


「っ…ぁああああアアア!!!」


壱声の言葉を掻き消すように吼えて、顕悟は飛行機の胴体と等しい程の太さの鉄棍を実現し、素人が力任せにテニスラケットを振り回すような動作で横に薙ぎ払った。


しかし、やはり。どんな質量を持っていようと、どんな運動エネルギーを纏っていようと、それが言霊であるという事実が変わらなければ、今の壱声に対しては何の意味も見出だす事は出来ない。

余りにも巨大な鉄棍は、壱声に触れた瞬間。まるで繊細な硝子細工のように余りにも脆く砕け散ってしまう。


「…だったら」


軋む程強く歯を食い縛り、顕悟は壱声の胸ぐらを荒々しく掴んだ。


「だったらどうしろってんだ!俺はお前じゃねぇんだよ…決定力なんていう馬鹿げた奇跡は持ち合わせちゃいねぇんだ!!たかが実現力で遙を助けようと足掻いてる俺の想いがテメェに分かるわけねぇんだよ!!」


「…分からないとは言ってねぇよ」


呟き、壱声は自分を掴む顕悟の右腕を掴み返した。


「俺にも妹が居るからな。兄貴として、妹を守りたいって気持ちは自分の事のように理解出来る。妹を助ける為なら、自分はどんな汚れ役になっても構わないって思考回路も、全否定する資格は俺には無い。……けど、な。それはやっぱ、俺達(兄貴)の考えでしかねぇんだよ。兄貴としての義務感に取り憑かれて、妹側の気持ちなんて分からなくなってんだよ」


「…妹側の、気持ちだと…?」


「あぁ。この前、俺は妹に聞いてみたんだよ。『もしも俺が姿を消して、お前が知らない所で人を殺しているとしたらどう思う?』って。…妹の答えを要約するとな。『その事実そのものより、家族が何をしているのか分からない事の方が嫌で、悲しくて、寂しい』んだとさ」


「………………」


「遙ちゃんだってきっと同じさ。病院で会った時、遙ちゃんはずっと明るくて、元気で、笑顔で。けど、たった一つ表情を曇らせたのは、歩けないという状況を改善出来ない事にじゃない。たった一人の家族である、お前に会えない事だった。その顔を見た時に思っちまったんだよ…『あぁ、こんなに可愛い妹にこんな寂しそうな顔をさせるようなバカ兄貴は、説教して殴り飛ばして、妹をずっと独りぼっちにしてきた事を直接謝らせてやらねぇとな』ってよ」


「…それは俺が勝手にやる事だ。お前に世話を焼かれる筋合いは無ぇ。今謝った所で、遙の足は治らねぇんだよ」


「…はぁ~」


それまでの緊迫した雰囲気をぶち壊すように、壱声は盛大な溜め息を吐いた。


「…何つぅか、何でそんな風に育っちまったんだよお前は。こんだけ言われても、こんなに簡単な解決策に気付かねぇとか…もう取り繕わずに言うけど、馬鹿だろお前」


「…んっだと、テメェ…」


「はい問題。お前の実現力なら遙ちゃんを歩けるようにする事が出来るが、その為には少なくとも遙ちゃんが起きている間、お前は言霊を使用し続けなければなりません。対して、俺の決定力はそれを事実として固定出来る為、俺がその事実を改めて否定しない限りは遙ちゃんは何の苦も無く歩けるようになります」


「…知ってるよそんな事は」


「では、遙ちゃんを助ける最善の方法とは一体なんでしょう?」


「だから、テメェの決定力を俺が貰っちまえば…」


「はい不正解」


言葉と同時、壱声は暇だった右手で顕悟の顔面を容赦無く殴り飛ばした。

壱声に触れて、更に触れられてもいた為に防御の言霊を打ち消されていた顕悟は明確に当たり前にダメージを受けて地を転がる。


…さっき手を出さないとは言ったが、物事には臨機応変に。想像以上に顕悟が意固地だったので、肉体言語も採用したまでである。


「こんな問題、学校で道徳の授業を受けてりゃ小学生でも分かるぞ?ちゃんと考えたかお前」


「…考えたに決まってんだろ。結局、俺が遙を救えるだけの力を手に入れれば…」


「だからそれが不正解なんだよ。ならお前、目の前で瀕死の重傷を負っている人に『おk、今からちょっと医療専門学校に入学して外科技術を習得してくる』とでも言うつもりか?」


「…んなもん、救急車を呼べばいいだけだろ」


「だろ?つまりそれが正解だ。自分の力で出来ない事なら、出来る誰かに頼めば良い。お前が身に付けなくたって、決定力は今此処にあるんだからな」


「………………は?」


顕悟は、今まで壱声と対峙してきた中で一番間抜けな声を出した。

壱声の言おうとしている事が分からないわけではない。

だが、だからこそ理解出来ない。

今、目の前に居る決定力の言霊遣いは…この鶴野壱声という男は、自分が今の今まで殺されそうになっていた事を全く思考の材料として含めていないのではないか?


そんな感情を含んでいた事を知ってか知らずか、壱声は顕悟に対して更に分かり易いように言い直した。


「だから、遙ちゃんを歩けるようにしたいなら、俺が力を貸してやるっつってんだよ。お前は自分の力でって思いが強過ぎて、誰かを頼るって考えが欠落しちまってんじゃねぇのか?」


「………待て。ちょっと、待て」


それまでの展開をガン無視するような壱声の言葉を、顕悟は頭を抱えながら制止する。


「…お前こそ、まさか今まで寝てたのか?そして未だに寝惚けてんのか?現在進行形でテメェを殺そうとしてる相手の妹を助ける為に、協力する…だと?」


「あぁ。漸く俺が言いたい事を理解したのか」


「…何が望みだ」


「………特に考えてなかったな。ちょっと待て、それならそうだな…じゃ、俺達三人を狙うのを止めにして貰うか」


実際にその場で首を傾げて思案し、挙げ句持ち出した提案は取って付けたとしか思えない内容。

顕悟からすれば、余りにも有り得ない話だ。今まで顕悟に何らかの話を持ち掛けてきた人物は…基本的には金だったが、必ず何らかの『見返り』を用意していた。

報酬があっての仕事、働いてこその対価。

それは同時に、互いにとっての最低限の信頼を保証する為のアイテムだ。

闇の中を生き続けてきた顕悟としては、間違い無く必須の条件なのだ、仕事と報酬の等価交換は。

にも関わらず、眼前の鶴野壱声という男は、こちらが尋ねなかったら、何の対価も求めずに敵の妹の足を治そうとしていたのだ。

余程の善人か、余程の馬鹿か、後で牙を剥くタイプの余程の悪人か。

そういった、ある種気が狂っているような人物でなければ逆に真意など探る術が無い。


「………どうして」


故に、顕悟はそんな言葉しか絞り出せなかった。


「…どうしてだよ。どうしてそこまでしようとしてんだ、お前は。何の見返りも考えずに、どうして………」


最早敵意も殺意も削ぎ落とされたように呟く顕悟に、壱声はやはりあっけらかんと答えた。


「おかしな事を言う奴だな…俺が遙ちゃんを助けたいからだよ。俺自身が望んでいる行動に、見返りやら対価やらを求める必要が有るのか?」


「な………」


壱声の言葉に、顕悟は絶句した。

当たり前のように壱声が口にしたその言葉は、顕悟の過去の生き方全てに痛烈な打撃を与えた。

顕悟は誰かをその手に掛ける度、その対価を求めてきた。

力を取り戻す事を。

ここまでやっても能力を取り戻せないのでは、割に合わないと。


これだけの事をやって来たのに、遙を助けられないなんて嘘だ、と。


そうやって対価を求め続けたのは、つまり。

そんな生き方が、自分にとって逃げ出したい程に辛く苦しく耐え難かったからだ。

誰かの命を奪う事が。

そんな事を依頼し、達成すればさぞ満足そうに笑うような連中を相手にする事が。

何より、そんな道を選んでしまった事が。

間違いだらけの道に踏み込み、結果として抜け出す事も出来なくなり、そうなってしまったらもう、後は壊れたようにそんな事を繰り返すしかなかった、その現実が。

直ぐにでも遙に会いに行きたかった。

傍に居る、居なくならないという約束を果たして、遙がその足で再び歩こうとする努力に付き添いたかった。

けど、汚れたこの手で遙に触れていいのか。

そんな甘い考えを、一度踏み込んでしまったこの闇の世界は許してくれるのか。

どんな光の中に逃げ込んでも、それこそ自分自身の影のように追いかけ回してくるのではないか――。


そこまで思いを巡らせて、確かに顕悟は思い至った。


「…あぁ、そうか。お前の指摘通りだったのか。俺は最悪にも辿り着いちまったこんな生き方を突き詰める事で、逆に俺や、俺の周囲に余計な手出しをされないようにしようと考えたんだ。そして、それを達成する事が出来たその時には、遙が歩けるようになる――そんな『見返り』で、俺自身が『救われたい』と…そう、思うようになっていた」


情けねぇ話だ、と首を竦めて、顕悟はそのまま言葉を続ける。


「俺のやってきた事には、罪はあっても見返りなんて無いのにな。ただ、間違え続けた道の先にも光は射し込んでいると信じたかっただけ、か………」


壱声に語り掛けると言うよりは、自分の中で答えを反芻するように呟くと、顕悟は地面に荒っぽく座って胡座を組んだ。

丁度、顕悟と実行の禁忌語句がぶつかり合う様を眺めていた時の壱声のように。


「なぁ、決定力…いや、鶴野壱声。今更、お前に指摘されてからこんな事を言うのも情けねぇけどよ」


そして、そのまま。深く、深く、壱声に頭を下げた。


「………頼む。俺の妹を…遙を、助けてくれ。アイツの日常を、取り戻してやってくれ………」


「…前半は任された。が、後半に関しちゃ請け負えないな」


壱声の言葉に、疑問と怒気を含んだ顔を見上げた顕悟に対して、壱声は当然だと言わんばかりにフン、と鼻を鳴らした。


「そもそも俺の手に負える話じゃない。遙ちゃんが取り戻すべき日常には、何よりお前が必要不可欠なんだからな」





翌24日・13時。


珍しく例年の平均気温を下回り、病院の入り口前を吹き抜ける穏やかな風を木陰で満喫しながら、壱声は欠伸を噛み殺した。


一応、約束の時間にはなっているのだが、待ち合わせた相手は一向に姿を見せない。

仕方無しに、壱声は昨日の出来事を思い返してみた。

そう、今日の平和な空気が信じられない程の激闘が終わりを告げた、その後を。





「…壱声、そっちは終わったの?」


全てを遠巻きに眺めていた詩葉が、壱声に歩み寄りながら尋ねる。

それに対して壱声は、緊張感を含まない自然な笑みを返した。


「あぁ、俺の望んだ答えは得た。…あれ、会長はどうした?」


「筋肉痛を訴えて湿布を所望していたから、代わりに極限まで基礎体温を落とさせた微生物を密集させた土で体を覆ってあげたけど」


「…って事は、向こうに忽然と現れている前方後円墳みたいなのが会長か。つぅか待て、あれ顔面も完璧にカバーしてるよな?空気穴は設けたか!?」


「…おっと、こいつはいけねぇや」


「舌を出しておどけても無かった事にはしねぇぞ生き埋めの容疑者め!さっさと解放してあげなさい!!」


は~い、と気の抜けた返事をして、詩葉は言霊を解除。瞬く間に古墳型の土が解体され、中から実行がゆっくりと起き上がる。


「…会長、生きてます?」


「………壱声よ。この体の震えと冷えは、決して外部から冷やされた影響だけには収まらないと俺は確信しているぜ………」


ガタガタと震えながら、実行は肩口に残った土の欠片を払い除ける。その動作にぎこちなさが残るのは、やはり重度の筋肉痛の影響だろう。


「大袈裟だよ、実行さん。土の中の生物に、『定期的に人工呼吸もヨロ』って伝えておいたよ?」


「お陰で目の前に図太いミミズが顔を出した時には、流石の俺も肝を冷やしたぜ」


「うわぁあ」


言われた詩葉の方が鳥肌を立てているが、実際にそうしたいのは間違い無く実行だ。

つぅか、やろうと思っても出来ないだろうに、人工呼吸。何故ミミズがその役目を買って出たのか甚だ疑問である。


「…まぁ、それはさておき、壱声」


「おい、俺の生き埋めがさておかれたぞ!?」


「…出番の無い四五六の呪いじゃないですか?」


「…野郎。胴体を消し飛ばしてやる」


「止めたげてください」


軽やかなテンポで立ち上がった四五六の死亡フラグを引っこ抜き(きっかけになる発言をしたのも壱声だが)、壱声は詩葉に視線を戻した。


「…で、何だ?」


「壱声の用事が済んだなら、今度は私の番だよね?」


そう言うと、詩葉は壱声の返事を待つ事無く地面に座ったままの顕悟に近付いていく。


「…夢想顕悟。私なりのケジメを付けさせて貰うけど、構わないよね?」


「………あぁ」


「じゃあ、立って」


言われた通り、顕悟はゆっくりと立ち上がって詩葉に視線を合わせた。その目には、かつての獰猛な敵意は見て取れない。


対して詩葉は、そんな顕悟から視線を逸らすと、スタスタと歩き…顕悟の背後に回った。


「そのまま。こっちを向かない事」


「…?構わないが、こりゃ一体どういう…」


顕悟の問いには構わず、詩葉は顕悟に対して左足を前に半身に構える。そして、両手を招き猫のように掲げて……何かを確認するように、体を前後に揺すり始めた。正確には、重心を右足から左足へ、と移す作業を何度か繰り返している。

そして、いつまで待っても何も起こらない事に顕悟が痺れを切らした時…。


「…オイ、一体何をして……」


「…セィッ!!」


裂帛(れっぱく)の気合いが籠った掛け声と共に、ズッパァァァァアン!!という重く鋭い衝撃が顕悟の尻を直撃した。


「っ!?………っ!!~~~っ!!!」


声にならない悲鳴を上げながら地面にうずくまる顕悟の後ろで、詩葉が右足を振り抜いた姿勢を勝利者の証と言わんばかりに維持していた。漫画なら、足から得体の知れない煙が『しゅうぅぅ…』という効果音と共に立ち上っている事だろう。


「…本場仕込みかと疑いたくなる、見事なタイキックだったな…ケツ割れたんじゃねぇかアイツ」


とは、実行の談である。そして壱声も全く同意見だ。もしかしなくとも、今日一番のダメージを与えたんじゃなかろうか。


「…く、ぉ、がっ……」


「…これでチャラにしてあげる。私はもう、貴方に恨み言を吐いたりしない。貴方に残ってる罪の意識なんて知った事じゃないから、後は好きにすればいいよ」


それだけ言うと、何処かすっきりした表情で詩葉は顕悟に背を向け、壱声達の方へ引き返す。


「………俺の生き方を、俺自身に委ねてくれた事には感謝する」


その背中に、顕悟はそんな言葉を返した。

一瞬、詩葉の足が止まる。


「…今までしてきた事への罪。その全てに関する罰は、いつかしっかりと受ける」


「…言ったでしょ。好きにすればいいよ」


一切振り返らず、詩葉は歩みを再開する。そして壱声の背中に回り込んで、ぽすっと顔を埋めた。


「………少しは気が晴れたか?」


壱声の問いに、詩葉はごく小さく縦に頷いた。そのまま、顔を上げずにもごもごと呟く。


「…後は、壱声にぶつける。そういう、約束」


「そうだったな」


苦笑する壱声に、実行は得心いったように視線を向けた。


「…成る程。詩葉ちゃんが提示した条件が、あれか」


「えぇ。『全部終わったら、野郎のケツに一発タイキックをぶち込む』っていう。…詩葉らしいっちゃ、らしいですかね」


「人を暴力系女子みたいに言わないで欲しいんだよ」


びしびしびしびし。


「その反論を通したかったら、俺に絶え間無く突き込まれている膝を今すぐに大人しくさせるんだな」


びしびしびしびしびしびしびしびし。


「継続するんかい」


まぁ痛くはないからいいけどさ…と呆れ顔で呟いてから、壱声は未だ尻の激痛から復帰出来ない顕悟にも聞こえるように声を張り上げた。


「…俺は明日、遙ちゃんを歩けるようにする為に病院に行くけど。お前も来るよな?」


「…覚悟は決めてる。行くさ…ただ、目的が見舞いだけじゃ済みそうにないけどな……」





…と言うわけで、待ち合わせ時刻を13時に設定したのだ。

因みに詩葉は現在、陽菜の宿題を手伝っている。…とは言え、まともに義務教育課程を修了していない詩葉が、『学校の勉強』という難敵を相手に何処まで戦力になるのかは分からないが。


実行に関しては、朝一番にメールで『…ケツが、痛ぇ………』と送信されてきた。

筋肉痛は全身に及んでいた筈だが、何故にケツだけの痛みを伝えてきたのだろうか。

何だが怖くて聞くに聞けず、『御愁傷様です』とだけ返信しておいた。


まぁ、詩葉と実行は遙と直接面識があるわけではない。急にゾロゾロと引き連れていったら、遙もビックリしてしまうかもしれないので、今日は最初から壱声と顕悟の二人だけで訪れる事にしていた。


「…しかし遅いな」


回想を終えた時点で、約束の13時を10分程オーバーしている。

人相が悪過ぎて職務質問にでも捕まったか?と壱声が中々に酷い想像をした時、漸く病院の敷地に足を踏み入れる顕悟の姿が見えた。


「…随分遅かったな。身分証明書を持ち忘れてたのか?」


「何の話をしてやがる…昨日の蹴りのダメージが抜けてなくて、歩くのも怠いんだよ」


「…改めて聞いとく。保険証は持って来てるか?」


「そこまでじゃねぇ…入るぞ」


平静を装っているが、顕悟の歩き方は少しぎこちない。先を歩く顕悟にちょっと気の毒そうな視線を向けながら、壱声も後に続いて病院の中へと歩き出す。


「尻のダメージを差し引いても、随分大人しいじゃねぇか。さてはお前、久々に会う遙ちゃんへの第一声を決めあぐねてんだろ」


「…うっせぇ、黙ってろ」


「いっそチャラ男みたいに病室に入ったらどうだ?『あげぽよ~!僕の妹マジかわウィ~ねェ~!』とか言いながら」


「病院の中で緊急搬送されてぇのかテメェ」


「冗談だよ。まぁ、んな怖い面して会いに行くのだけは止めとけよ」


誰のせいだと思ってんだ…と呟きながら、顕悟は受付に近付いていく。

それに気付いた顔馴染みになりつつある看護師が、何処か意外そうな顔で顕悟に話し掛けた。


「あ、遙ちゃんの…こんにちは。今日はどうしました?」


「…どうも。あ~…今日は、その……」


視線を忙しなく動かし、言い淀む顕悟。看護師からすればこれまた見た事が無い仕種だった為、いよいよ僅かながら首を傾げてしまう。

暫し逡巡してから、呟くどころか囁くような声で顕悟は用件を告げる。


「………面会、です。遙に………」


「………………………」


看護師は、唖然とした表情を浮かべ、それがまるで自分の事のように嬉しそうな満面の笑顔になり、カウンターから身を乗り出す勢いで捲し立てた。


「は…はい、面会ですね!本当ですね!?今は定時問診も終わってますし、特に病院としての予定も無い時間なので心置き無くどうぞごゆっくり気の向くままに!!喜びます、遙ちゃん絶対に喜びます!しかし更に喜ばせる為にどうでしょう、私が3時のおやつにと秘蔵していた『六文銭』謹製のバウムクーヘンを持って行きますか!?冥土の土産として一番人気ですよ!!」


「三途の川の渡し賃が店名で冥土の土産って不吉過ぎんだろ!?要らねぇよそんなの!!」


看護師に対して野良犬を追い払うような仕種で手を振りながら、顕悟は視線だけで「さっさと来い」と壱声に語り掛ける。

素直に従ってやるのも癪だったので、壱声は買うつもりも無い自販機の飲み物を物色していて気付いてない、という演技をしてみた。

すると、可能な限りに早足で近付いてきた顕悟に5秒後に襟首を掴まれ、耳元でドスの効いた声が響く。


「…そんなに飲みてぇなら奢ってやる。ほら好きなモン買えよ、缶ごと喉に流し込んでやるからよぉ」


「…オーケー、俺が悪かった」


降参、と両手を肩の高さに持ち上げて、壱声は自販機の前から離れる。それでも顕悟が睨み付けてきているので、溜め息を吐きながら遙の病室がある二階へ続く階段がある方へ歩き出す。


「…次にふざけてみろ。関節単位で解体して焼却炉で火葬してやるからな」


「分かった分かった。んな事言われて尚ふざけるのは余程の猛者か馬鹿くらいだって」


後ろを歩く顕悟が放つ禍々しいオーラを気にしないようにして、のんびりとした口調でぼやきながら、壱声は記憶を頼りに廊下を進み、『夢想遙』というネームプレートがある個室の前で立ち止まる。

壱声としては特に気負う事も無いので、顕悟の顔色を窺う事も無くドアをノックする。

中から、先程の壱声に負けず劣らずにのんびりした清らかな声で「は~い」と返事があったので、ドアを引くと同時に、病室の中へ顔を覗かせた。


「遙ちゃん、久し振り~。お見舞いに来た…よ………?」


「………ふぇ?」


直後。全ての時間が止まった気がした。

壱声の目に飛び込んできたのは、確かに夢想遙その子である。間違い無い。

問題は、その遙が部屋着として使用しているのだろう、実に女の子らしいパジャマを『脱いでいる途中だった』事だ。


幸いにも、下は毛布で完全に隠れている。

が、上はそういうわけにはいかなかった。

前のボタンを全て外して、今まさに袖口から腕を引き抜こうとしている状態で、遙は完全にフリーズしていた。

最高級の絹ごし豆腐のように白い肩は全て露出しているのが見えてしまっている。

これまた幸いなのか、上半身で最も見えてしまってはイケナイ部分…胸に関しては、壱声の目線からは腕が絶妙に隠している。

だからといってこの状況がセーフか?と問われれば、壱声は土下座しながら即答出来る。


どう見てもアウトどころか一発退場です、と。


「………え、えと、あの………」


口をパクパクとしながら、遙の顔どころか全身がみるみる羞恥で赤く染まっていく。

その経過をしっかり見てしまってから、壱声も漸く時間停止から復帰し…全力でドアを閉めながら謝罪を叫んだ。


「…ご、ゴメン!マジでゴメン!!」


ドア越しに必死に謝って、この後で更にどうやって許して貰おうかな…と考えようとして。


…ぽん、と。とても優しく肩に手を置かれて、壱声は戦慄すべき事実を思い出す。


「…………………………さ、死ぬか」


(ギャァァァァア!!は、背後に死神が居たぁぁぁぁああああ!!)


振り向けない、とても恐ろしくて振り向けやしない。

今の壱声は、シスコン気味のお兄さんの目の前で妹さんの着替えをリアルタイムで覗いてしまった現行犯の死刑囚である。

最早、背後の顕悟がどんな形相になっているのかすら確認する勇気は無い。


「……ま、待て、落ち着こう、な?確かに今のは俺が悪い、しかし今のは紛う事無き事故ではないでしょうか?」


「成る程確かにそうだな。ところでお前、斬殺と刺殺と絞殺と撲殺と轢殺と圧殺と爆殺と毒殺と銃殺と焦殺と塵殺と壊殺と捻殺ならどれがいい?…まぁ、結局全部体験する事になるけど」


「残機が足らねぇ!?い、いや待て!此処で俺を殺ってしまったら誰が遙ちゃんを助け…」


「心配しなくても、俺がやるさ。『お前から譲渡された決定力』を遣ってな」


「ぬあぁ、このタイミングで『力の分散の例外』が牙を剥いた!?」


万事休すか!せめて遺言とか考える時間くらい貰えませんか、と壱声が時間稼ぎとして提案しようとした時、個室の中から遙の遠慮がちな声が聞こえた。


「あ、あの…もう、大丈夫です。ごめんなさい、看護師さんが来たのかと思って、その、無防備過ぎました……」


「あ、あぁ、いや、俺もほら、ドアを開ける前に名乗っていればあんな事故も起こらなかったわけだし!配慮が足らなかったな、うん!本当にごめん!許して貰えるかな?」


これぞ天の助け舟、と一気呵成に謝罪の言葉を並べ立てる壱声。顕悟と言えども、覗かれてしまった本人が許した相手を消す事は出来まい。


「ゆ、許すも何も無いです!それは、その、やっぱり恥ずかしかったですけど…怒ったりは、してないですから」


(いよぉしっ!!)


心の中ではW杯決勝でVゴールを決めた選手ばりのガッツポーズをしつつ、壱声は横目で顕悟の様子を窺う。

すると、顕悟は短く舌打ちをして壱声の肩から手を離した。

…が、それで安全を取り戻したと胸を撫で下ろす壱声に、ぼそり、と囁く。


「…今の内に体を解しといた方がいいぞ。病院を出た瞬間から全力疾走する事になるんだから」


「………………………」


冷や汗をダラダラ流しながら、何とか表情だけは平静を保とうとする壱声。だが、ぱっと見で利き手とは逆の手で描いたようにぎこちなく型崩れしている。看護師に見付かったら診察室に引き摺られかねないレベルだ。


(…だ、大丈夫だ、落ち着け俺。いざとなったらまた言霊を無効化すればいいんだし…)


そう心の中で繰り返し、ギリギリのラインで落ち着く事に成功した壱声は、それでも念の為にゆっくりと目の前のドアを開けていく。


「…えっと、お邪魔…しま~す」


気分としては、学校で生活指導の先生に呼び出された時と遜色無い。恐る恐る壱声が部屋の中を見ると、先程よりは控え目だが、やはり顔を赤くした遙が上目遣いでベッドの上に座り込んでいた。


「…あの、遙ちゃん。その、やっぱり、さっきはゴメン…」


「だ、大丈夫、です…お見舞い、来てくれて嬉しいです」


「えっと…お詫びと言っては何だけど、ちょっとしたプレゼントがあるんだ」


「…?プレゼント、です?」


「うん、まぁつまらないモンだけど」


反射的にそう答えた壱声は、背中を思い切り蹴り飛ばされて個室の中に転がり込んだ。

その光景に目を丸くする遙を他所に、粗品扱いされた張本人が姿を現した。


「…テメェ、俺をタワシ扱いとはいい度胸してるじゃねぇか」


「ってぇ~…お前な、俺は横倒厳禁なんだぞ」


「だったらデコに割れ物のステッカーでも貼り付けやがれ」


剣呑な雰囲気を前面に押し出して壱声を冷たくあしらった所で、その人物は遙に視線を向けた。


「………………ぁ」


遙は最初、それしか声が出なかった。

自分と同じ、銀色の髪。

昔に比べると全体的に鋭さを増しているが、確かに面影を残した顔立ち。

そして、先程まで壱声に対して向けていたものと同じとは思えない…昔と同じ、優しさを感じ取れる眼。

それら全ての情報が統合され、遙の中で一つの事実を紡ぎ出し…二言目に、それを確認する為の言葉を、喉が鳴らした。


「………お兄、ちゃん?」


問われた顕悟も、何を言うべきか、どんな言葉で返せばいいかと迷うように視線を彷徨わせ、やがてゆっくりと小さく頷いた。


「…あぁ。その…この状況で、この言葉が正しいかどうかは分かんねぇけど…」


ふぅ、と一息吐いてから、顕悟は自分でも長い間使う事が無くなっていた表情を…本当に、何て事も無い日常の中で自然と引き出されるような笑顔を、遙に見せた。


「………ただいま、遙」


「………………っ!」


見開かれた遙の目尻に、瞬く間に大粒の涙が浮かび…慌てて下を向いて、着替えたばかりの寝間着の袖でくしくしと両目を擦る。

そして、何度か肩を震わせてから、未だ溢れてきそうな涙を押し戻すように上を向いて―――


「………お帰り、です。お兄ちゃん!」


堪え切れなかった涙混じりの、満面の笑顔で顕悟を迎えた。

本当なら顕悟に走り寄って抱き着きたいのだろうが、足を動かす事が出来ない遙は一生懸命にベッドの上を手の力だけで移動して、少しでも顕悟に近付いていく。

手に絡まるように付いてくるベッドのシーツをもどかしそうに振り払い――その手を、ベッドに近付いていた顕悟がそっ、と握った。


「…ごめんな、遙。約束も果たさねぇで、ずっと寂しい思いをさせちまった」


「………うん。寂しかった…怖かった。何だか、このままずっとお兄ちゃんに会えないのかも、って何回も何回も思って…泣きそうになっちゃって。その度に、大丈夫って言い聞かせてた。でも…何でだろう。泣かないように頑張ると、余計に、涙が、出て来ちゃって……」


両目から大粒の涙を落としながら、遙は自分の手を握る顕悟の左手にもう片方の手を添えて、包み込むように柔らかく握り返した。


「…だから、今度お兄ちゃんに会えた時に全部纏めてぶつけようと思って、色んな文句を用意してたんだけど…どうしよう、お兄ちゃんが来てくれたのが嬉しくて、全部忘れちゃった……」


「………いつでも良い」


呟いて、顕悟は空いた右手で遙を胸に抱き寄せた。長い髪を梳くように頭を撫でながら、優しさが滲む口調で囁くように言葉を続ける。


「思い出したら、いつでも何度でもぶつけて良い。文句でも、愚痴でも、悪態でも、罵声でも。そう、いつだって良いんだよ…これからは、そんな時間は幾らでもあるんだからな」


「………それって……一緒に、居てくれるの?もう、何処か遠くに行ったりしない?」


「あぁ…今度こそ、遙の傍に居るよ。もしも少しだけ遠くに出掛ける事になる時は、ちゃんと遙に教える…ちゃんと、遙の隣に帰ってくる」


「…そう、なんだ……もう、本当に大丈夫なんだね…」


そう言うと、遙は今まで握ったままだった顕悟の左手から手を離すと、今度は顕悟の背中に両腕を回して抱き着いた。


「………遙?」


「…お兄ちゃん。私ね、お兄ちゃんがまた居なくなっちゃうのかもって、本当に今の今まで不安だったんだ。だから、我慢してたの…我慢しないで泣いちゃったら、お兄ちゃんが居なくなった時には…もう、ずっと泣き続けちゃうから。安心して泣いちゃったら、その後に寂しくなった時に耐えられないから…けど、もう大丈夫なら……お兄ちゃんが、本当に帰って来てくれたなら……良い、よね?私…我慢しなくて、良いんだよね……?」


「………あ、えっと………」


何処か戸惑いや困惑を含んだ表情で頷く事を躊躇う顕悟と、それまで病室の壁に背を預けて事の行く末を見守っていた壱声の視線が合った。すると壱声はやれやれ、と肩を竦めると、態とらしく喉を擦りながら病室のドアに向かって歩き出した。


「…あー、何かすっげぇ喉が渇いたな。これはアレだ、自販機の上から下まで全種類制覇しないと駄目な勢いだな。ざっと30分くらいは戻って来れそうにないなー」


少し大きめの声で棒読みしながら、壱声はドアの向こうへ姿を消した。余りに典型的な気の使い方に小さく溜め息を吐いてから、顕悟は遙にゆっくりと頷いた。





「………で、あの野郎は何処に行きやがったんだ」


壱声が病室を出てから50分。遙も既に泣くだけ泣いて気が晴れたのだが、それから20分経っても壱声が戻って来る気配は無かった。

自分で「ざっと30分」と宣言していたのだから、時間を確認せずにふらついているという事は無いのだろうが、だとしたらいい加減戻って来てもいい頃合いなのだ。

というわけで、仕方無く顕悟が呼び戻す為に探しに出た。


「…とりあえず、自販機がある休憩スペースか」


建前でも水分補給に出掛けたのだから、先ずは言葉そのままの場所を目指す。

すると、あっさりと壱声は見付かった…のだが、何やら入院患者の老人三人と一つの卓を囲んで手を動かしている。


「…んじゃ、こいつは通りますかね」


「ほぅ、ここで五筒(ウーピン)かい。中々いい眼をしとるな若いの」


「いえいえ」


そんな会話のやり取りで、顕悟は躓いたようなリアクションを取ってしまう。


(…な、何で病院で麻雀なんかやってんだよアイツは……)


顕悟の心中のツッコミを知る事無く、壱声と老人達は麻雀を続ける。

すると、壱声の右側に座る老人が、引いた牌を見て、次に場に捨てられた牌を一通り確認してから首を傾げる。


「…しかし変じゃのぅ。河にもツモにも索子(ソウズ)が見当たらん。大島さんも蔵本さんも、索子中心の待ちなのかい?」


「あのなぁ斎藤さんや、聞かれてそうだそうじゃないと答えるうつけが居るわけなかろうて」


「そうじゃな、そんな間抜けはおらんよ」


それぞれに答えながら、次々に牌を捨てていく。全員が引いた牌をそのまま場に捨てるツモ切りを選択しているが、斎藤と呼ばれた老人はともかく、大島と蔵本はリーチを掛けている状態だ。

対して壱声は、特にその会話の中に混ざる事も無く牌を引き―――小さく笑った。


「あぁ、すいません。ツモですね」


「何じゃ若いの、ダマで張っとったんかい?」


「えぇ、まぁ。何せ、『リーチしても意味が無い』ので…」


そう言って、壱声は先ずアガリ牌を卓上に晒す………ニ索(リャンソウ)。

そして、手牌を全て倒すと…十三枚全てが索子。左から順に―――


一一一二三四五六七八九九九。


「「………………じゅ」」


暫く続いた絶句の後、老人三人の断末魔に近い叫びが病院内に響き渡った。


「「純正の九連宝燈(チューレンポートー)じゃとぉーーーー!!?」」


愕然とするのも無理は無い。九連宝燈とは、麻雀の役の中で最も高い点数を取る事が出来る役満という種類の中でも、役が成立した時の見た目の美しさと、そもそも滅多に成立しない難易度の高さから、成立させたら一生分の運を全て使い果たすとか言われているものなのだ。更に、今回のように一から九、どの牌が来てもアガる事が出来る状態の九連宝燈は最早『幻の役』とまで呼ばれ…『アガった瞬間に死ぬ』なんて言われちゃうようなとんでもない代物となっている。


そんな役を目の前でアガられてしまい、老人三人衆はガタガタ震えながら口々に色々と呟き始める。


曰く、

「何という事じゃ…」「儂、初めて見たぞ」「この役を見た人間まで死んだりしないじゃろうな…?」「い、嫌じゃ!儂は孫の顔を見るまで死にとうない!」「そんな事を言ったら、看護師の尻を触るのが生き甲斐の儂はどうしたらええんじゃ!?」「知らんがな!!」

等々。


阿鼻叫喚の様相を呈してきたのと、曲がりなりにも対局が終わったようなので、顕悟は壱声に近付いて声を掛ける。


「…おい、こんな所で関係の無い爺さん連中の寿命を減らしてんじゃねぇよ」


「ん?おぅ、そっちはもう良いのか?」


「もう良いのか、じゃねぇよ時計見てみろ」


顕悟に指摘され、壱声はポケットを探って携帯電話を取り出すと、サブディスプレイを点灯させて現在時刻を確認した。


「…うわ、思ってたより時間経ってたんだな。こりゃ悪かった」


未だに自分達の寿命が心配で震える三人に「機会があればまた」と言い残し、壱声は雀卓から立ち上がる。

遙の病室に戻る廊下をゆっくりと歩きながら、壱声は後ろを歩く顕悟に改めて問い掛ける。


「もう良いのか?」


「良いから探しに来てんだろうが。テメェで言った予定の時間を20分も過ぎりゃ、遙だって心配もするっての」


「そうか…適当に時間を言ったのは失敗だったな。もう少し気にせずに一緒に居られる時間を作ってやりたかったんだけどな」


壱声の言葉に、顕悟は一瞬歩みを止めて…直ぐに、うっすらと笑顔を浮かべて足を動かし始める。


「…んなの必要無ぇよ。これから幾らでも時間は稼げる…」


「嘘吐け。お前、近い内に鬼灯の件で自首するつもりだろ」


今度こそ、顕悟の足が完全に止まる。

立ち止まった周囲に人が居ない事と、遙の病室までは未だ遠い事を確認してから、顕悟は小さく溜め息を吐いた。


「………どうして分かった」


「勘、だな。ついでに言えば…鬼灯だけじゃねぇな。今までに殺した人数の全て、258人の罪を自白する気だな」


「………当然だろ。罪の重ね方は知ってるが、罪の償い方なんてのはそのくらいしか知らねぇんだからな」


「罪を償う…そうは言っても、お前の罪が時間で換算出来るモンとは限らねぇ。どっちかと言えば……」


壱声の言葉を遮るように、顕悟は肩を竦めた。


「…まぁな。258人なんて数を殺して死刑に問われねぇ奴なんて、戦時中の英雄くらいだろうさ」


「なら…」


「勘違いすんな」


ピシャリと言い放ってから、顕悟は不敵な笑みを浮かべた。


「…罪は償うさ、但し俺なりのやり方でな。その為にならどんな手を使ってでも生き延びるし、必ず遙の隣に帰る。今度こそ、お前に気を使われる筋合いは無ぇ」


「………そうかよ。んじゃ、俺は俺がするべき仕事をしますかね…余り遙ちゃんを待たせると、腕を伸ばす練習を始めかねないからな」


「…おい、何だそのよく分からねぇ練習は」


今日一番の怪訝な顔をする顕悟に苦笑を返しながら、壱声は本題を果たす為に歩みを再開した。





「遙ちゃん、入って大丈夫かな?」


病室のドアをノックしながら壱声が問い掛けると、今日最初に病室を訪ねた時と同じように「は~い」と返事があったので、ドアを開けて中に入る。


「………んぅ~~~っ………」


直後。そんな可愛らしい唸り声が聞こえたので、壱声はベッドの上に居るであろう遙へと目を向けると…やはり、と言うか何と言うか。遙は座った状態で、両腕を水平に突き出して、体力テストで前屈の柔軟性を計るかのように一生懸命に前へと伸ばしていた。


「………何してんだ、遙………」


初めて妹のそんな行動を目の当たりにして、顕悟は呆然と疑問の言葉を溢した。

そんな兄に、遙は体勢を維持したままでさも当たり前と言いたげに平然と答えた。


「んぅ?何って…腕を、伸ばす…特訓、だよぉ~…?」


「…遙ちゃん。残念ながら伸びているのは語尾だけだ」


壱声の冷静なツッコミに、遙は「はふぅ…」と大きく息を吐いて、両腕をベッドの上にぽす、と下ろした。そのまま、ちょっと不満そうにパタパタと左右の手で交互に掛け布団を叩く。


「駄目ですよ、壱声おにーさん。語尾だけじゃなくて、ちゃんと肩と肘の関節もちょっとだけ伸びてるんですから」


「やけに現実的な伸び白だなぁ」


壱声と遙ののんびりとしたやり取りの裏で、顕悟はちょっと真剣な顔で「…寂しい思いをさせ過ぎたか…?」と呟いている。

そこまで深刻に考える事だろうか、腕を伸ばす練習………いやまぁ普通しないけど。


兄として妹の成長方向に一抹の不安を覚えている顕悟に「考え過ぎだろ」と苦笑いをブレンドしたフォローをしてから、壱声は遙のベッドの隣に置かれた椅子に腰掛けた。


「…ところで、遙ちゃん。足の具合はどう?」


「あぅ、さっぱりです…腕を伸ばす方が現実的な気がしてきたくらいです」


力が抜けた笑顔でそんな事を言う遙だが、そこに悲観的な感情は見て取れない。

その様子を見て、壱声は何となく…このまま歩く事が出来なかったとしても、遙は前向きに、明るく生きていけるだろうな、と確信した。

けど、だからこそ。


「…大丈夫だよ、遙ちゃん。お兄ちゃんが帰って来て、元気も出ただろう?リハビリを頑張れば、『きっと1ヶ月も経てば歩ける』ようになるさ」


「…そう、ですか?何年も頑張って全然でしたよ?」


「その数年の努力がゼロに還元されるわけ無いだろ?ずっと積み重ねてきた物は、自分でも気付かない内にとてつもなく大きな力になっているものなんだ。後は、遙ちゃんが自分自身の力を信じ続ければ良いだけだよ、きっと」


「…そうですね。不思議です、壱声おにーさんに言われると、何だか大丈夫な気がしてきます」


遙は両手をグッ、と握り締めて、気合いを入れるように「よーしっ」と掛け声を上げる。


「分かりました!すっごく頑張って、絶対歩けるようになって、高校に入学してみせます!」


「…遙ちゃん、今何歳なの?」


「14歳です」


「て事は再来年か…いや、受験時期は来年辺りになるよな。勉強は大丈夫なの?」


「平気です、病院でもずっと勉強してましたから!多分、今から高校受験しても合格出来ると思います」


「マジかよオイ。陽菜の奴に知識を分けて欲しいくらいだ…」


そこまで言って、壱声はふと遙から視線を外して考え込み、何かを思い付いたのか改めて遙を真っ直ぐ見据えた。


「…なぁ遙ちゃん。前に言った通り、今度…いや、可能なら明日にでも俺の妹を紹介したいんだけど。そして、妹の…陽菜の夏休みの宿題、手伝ってあげて貰えないかな?」


「ふぇ?妹さん…の、宿題?」


「あぁ。遙ちゃんと同い年という事は、つまり学年も同じ。遙ちゃんとしては現状で学校の授業でどんな事を教えているのか把握出来るし、陽菜にとっては宿題を終わらせる為の大きな戦力を手に入れる事が出来る。そして何より、お互いに新しい友達が出来る。どうよこの一石三鳥な状態」


壱声の提案に、遙は暫し口を開けて呆然としていたが…やがて、嬉しそうに頷いた。


「…はい!凄いです、然り気無く自分が宿題を手伝う手間さえ省いている辺り、壱声おにーさんは天才です!」


「洞察力高ぇな!!」


裏の魂胆まで的確に見抜かれ、壱声は戦慄しながらそう叫んだ。


「…まぁいいや。んじゃ、陽菜にさっさと伝えてやるとするか…と言うわけで、俺はそろそろ帰るよ。また明日…何時くらいが良いかな?」


「あ、えっと…10時から17時の間なら、いつでも大丈夫です。楽しみに待ってます」


「了解した」


壱声が手を振りながら病室を出ようとした時、顕悟がゆっくりと立ち上がった。


「…俺も、今日はこの辺で帰るわ」


「あ、そうなんだ…今日はありがと、お兄ちゃん…会えて、嬉しかった」


「あぁ、俺もだよ。それじゃ…」


そこで言葉を区切ると、顕悟は視線の置き所を探してあちこちに顔を向け、最終的に窓の外に目を向けながら、ぽつりと呟いた。


「………また明日な」


その言葉に、遙は二度、三度と瞬きを繰り返して…また涙を溢しそうな顔で、大きく頷くのだった。





病室を出てから無言で歩き続けた二人は、そのまま病院の外に出た。

そして、遙の病室に入る直前に言われた一言が怖過ぎた壱声がマジで全力疾走しようと両足に力を込めた時、顕悟が「待てよ」と呼び止めた。


「…礼を言う。が、一つ聞きてぇ。何で『1ヶ月』なんて期間を加えたんだ?」


顕悟の質問に、壱声は力を抜いて立ち方を自然体に戻してから、手持ち無沙汰に頭を掻きながら答えた。


「…確かに、それを言わなけりゃ遙ちゃんはあの瞬間から歩けた。けど、それじゃ駄目だろ?体の機能的には歩く事が可能になっても、何年もの間休んでいた足の筋力じゃ、どんなに軽い体重だってまともに支えられやしない。だから、リハビリの過程で少しずつ、ごく自然に歩く力を取り戻していく…それが一番なんだよ」


「………そう、だな。俺はそれも考えちゃいなかったわけか。お前に言われなかったら、俺は遙を操り人形同然に扱おうとしてたんだな」


「何もそこまで言うつもりは無ぇよ。まぁ、それに…余りにもあっさりと歩けるようにしちまったら、今まで色々と手を尽くしてくれていたこの病院の人達に申し訳無いだろ?」


壱声の視線を追うように、顕悟は自分達がさっきまで居た病院を見上げた。日光を照り返す白い壁に眩しそうに目を細めて、そして小さく微笑んだ。


「…あぁ。全く、その通りだな」


その表情を見て、壱声も顕悟に気付かれないようにひっそりと笑う。

確信した。少なくとも、顕悟の中にはもう、理不尽に命を刈り取る死神は居ない事を。ただ一人の、妹を大事に思う当たり前の人間がここに帰って来たのだと。


今、この瞬間。

実現力の言霊を中心とした大きな動きは、平穏に終わりを告げた。





という事で、漸く実現力編が終わりました。とりあえず、前回が4ヶ月で、今回が3ヶ月…うん、大丈夫。前回より早くという約束は守れているさ一応(苦し紛れ



思い付きだけでここまで書く事が出来て、正直とてもホッとしてます。プロットとか書こうにも、俺の場合時間が経つと段々アイデアに力が無くなってきます。鮮度が命なんです。嘘です、構想の練り方がよく分かってないだけです。でも今までの人生、大体思い付きだけで生きてきたのでこのやり方が一番しっくり来るんです。駄目人間の言い訳ですね



次回からはまたシリアス成分が丸っきり無くなります…次の言霊遣いの設定が出来上がるまでの時間稼ぎ、ではないです。どちらかと言うと、自分の中で本編扱いのシリアスルートはそろそろ過去の話を書きたいんです、実行の。壱声との出会いがどんなものだったのか、仄香との出会いがetc…


まぁとりあえず、まだまだ続くという事です。何せ物語の終わりが見えてませんから作者自身w



あと、次の話は誰も望んでいないのにやって来るあのコーナーの第二回です。節目になると始まるんです。ぬるっと飲み込んでくださいこの事情


ではらば

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