てんしゅがどーれ。―転生したら、修学旅行で嫌われてるあの子と同室の俺―
1 月明かりの転生者
修学旅行の夜。
不運な手違いだったのか、それとも誰かの悪戯だったのか。
境界線のように広げられた荷物の向こうに、
白鳥凛花は立っていた。
消灯後も月明かりのせいか、畳の部屋は青く照らされ、
俺には長い黒髪だけがやけに輪郭を持って見えた。
白鳥は腕を組み直した。
片手には文庫本を握っている。
深くため息をつく。
「……最低ね」
白鳥は部屋の隅にまとめられた俺の荷物を一瞥し、それから畳に敷かれた二組の布団を見た。
目を伏せたまま、ゆっくり首を振る。
絞り出すように言う。
「馴れ馴れしく話しかけてくるなら」
「はい」
「今、すぐにでも先生に報告して」
「はい」
「廊下に放り出してもらう」
「はい」
手元の文庫本をぎゅっと握りしめた。
「なにその返事」
もう怒っている。
たぶん俺は、かなり嫌われている。
しかし、
そんな白鳥の冷たい反応にもかかわらず、
今の俺はそれどころではなかったのだ。
制服から着替えた白鳥は、妙に年相応に見えた。
昼間はもっと、本人なりに何かオーラを出そうとしているというか、制服ひとつにも隙を作らないタイプだった。
いや。いやいや。
それよりも問題なのは――
「こっち」の記憶が作り物のように感じられることだ。
今日は修学旅行の一日目で、上野まで来た新幹線のことも覚えている。同じクラスの男子の顔も、もちろん担任の顔もわかる。
白鳥凛花が俺を嫌っていることもだ。
知ってた。
だが今はこう言いたい。叫びたい。
いいか、俺は、ついさっきまで、別の年齢で、日本の別の場所で、自分の部屋で猫を撫でていたんだぜって。
白いソファがあって、
スマホの白い光を見ていた。
妻はもう寝室へ上がっていった。
双子の片方が咳をしたのが聞こえる。
少し待つ。子は起きなかった。
手で覆って疲れた目を休ませる。
もう五十を越えたオッサンなのだ。
その記憶こそ、今の俺にずっと近い。
俺は白鳥を見ずに、洗面台に向かった。
鏡。
洗面台の向こうに、若い男がいる。
パッと見て高校生だ。
目を伏せる。いや、どう見ても。
頬に触れる。
俺って、こんな顔だったっけ。
「ねえ。さっきから、何してるの」
「うん。ちょっと人生の確認をしていて」
「……意味わからないこと言うところ、本当にイヤ」
なるほど。
妙に現実に迫るものがある。
背中を向けて、膝を抱え、視線は本に向けている。
くっきり嫌っている。
いやむしろ、ギャルゲーとかラブコメとかで、どう考えても何か起こる設定みたいなやつじゃないか。
ラノベのタイトルなら、
『オッサン転生。双子の父やってた50男が修学旅行先でまったりスローライフ』
うん、後半まるで違うからタイトル変えるか。
今むしろ修羅場っているし。
白鳥は文庫本を閉じた。
「もういい。これ以上あなたと話してたら、本当に疲れる」
白鳥は顔を上げた。
「私は寝るから」
「どうぞ」
間をふさぐように並べた荷物を示す。
「パーソナルスペース」
「うん。パーソナルスペース」
白鳥は小さなバッグを傍に引き寄せた。
「……信用してないから」
「うん」
「なにそれ」
「信用しなくていいよ」
白鳥はしばらく黙っていた。
それから、布団の端をつまんで持ち上げる。
「……あなただって、私のこと嫌いでしょう?」
「いいや、嫌いになるほど、白鳥のこと知らないし」
「もういい」
白鳥は布団にもぐりこんだ。
肩までかぶって、こちらに背中を向ける。
青い月明かりが、黒髪の端だけを拾っていた。
しばらくして、布団が動く。
また動く。
眠れていないらしい。
俺は窓際に座ったまま、外を見た。
静かな夜だった。
振り返る。
白鳥が、布団の隙間からこちらを見ていた。
すぐに引っ込む。
なんなんだ、この状況。
どうやら俺は――
とんでもなく面倒くさいラブコメの世界に、転生してしまったらしい。
#2 恋愛チート、発動
俺は窓際に座ったまま、ぼんやり月を見ていた。
五十年あまり生きてきた俺としても、他人と同じ部屋で寝ることに平気になれるものでもない。
妻は他人ではないし、
双子は別枠だ。
可愛いのを別にすれば、夜中であれ突然起動する災害警報みたいなものであり、寝る寝ないという次元ではない。
また布団が動いた。
「白鳥」
「……何」
「眠れないなら、その間くらい話すのっていいと思わないか」
白鳥は黙って身を起こした。
「どう思ってくれてもいいけど、俺はいい奴だよ」
白鳥は鼻で笑おうとしたが、少しぎこちない。
「なるほど」
「何、その納得したみたいな言い方」
「いや、怖がらせてたんだなと思って」
白鳥が動きを止めた。
「だって、嫌いな男子と、同じ部屋よ。普通に考えて……」
「申し訳ない」
「軽い」
すると、不意に。
――謝るのね。もしかして、この人、私のこと、これ以上怖がらせたくなくて、そうしているのかしら。
声が聞こえた。
俺は周囲を見回した。
部屋には俺と白鳥しかいない。
――……意外と、そういうことまで考えるタイプなのね。
聞こえた、というより――
頭の中に浮かんだ。
いよいよゲームやんけ。
これ、転生先に来たら能力が一個ついてくるやつやんけ。
俺の場合、相手の心の声が微妙にわかるらしい。
「白鳥って、さっきまで本を読んでいたね。俺も寝る前に少し読むよ」
「ふふっ。いいやつだなんて言っていたけれど、意外と地味な趣味を持っているのね」
――……静かな時間は好きよ。余計なものが入ってこないから。
白鳥は、こちらへ少し向き直った。
俺は聞いた。
「ありがとう。ふだんどんな本を読むか聞いてもいい?」
「特にジャンルは……。古典文学や、哲学的な考察が含まれているエッセイが好きね」
――……あなたに聞かれると、なんだか……自分の価値観を丁寧に紐解いてあげなきゃいけないような、不思議な気分になるわ。
「ギリシャ悲劇とかオススメしたいけど。なんか読んだことある?」
「ええ、もちろん。ソフォクレスやエウリピデス……」
――……まさか、あなたみたいな人がギリシャ悲劇を勧めてくるなんて。……ふふっ、面白い人ね。
いや普通に面白い話題でしょ。
それにしても、白鳥の中で、俺がどんどん良い人になっていくような。
俺は少し不安にさえなってきた。
嘘やん。五十男の普通の会話って、高校生相手にこんなに響くんか。
「俺は『アンティゴネー』かな。兄を埋葬しようとするアンティゴネーと、それを禁じたクレオンの衝突が好きなんだ。単に人間対国家というより、どちらにも譲れない正しさがあって、その正しさ同士が相手を破壊してしまうところが怖い」
――……ふん。なかなかの分析ね。ええ、そうよ。どちらが間違っているかではなく、どちらも「正しい」からこそ、逃げ場のない破滅へと突き進む。あの絶望的なまでの不可避性が、あの物語の真髄だわ。
「……私は、アンティゴネーに共感するわ。国家の法よりも、魂の底にある譲れない信念を優先させる強さ。……たとえそれが、周囲から見れば愚かで、破滅を招く道だとしても」
「アンティゴネーには、優しさのもつ強さがある気がするね。白鳥にも、何か心に秘めた大切なものがあるのかな。まあまだよく知らないんだけど」
白鳥は何か言いかけた。
唇がわずかに震える。
けれど、結局言葉にはしなかった。
耳の付け根だけが、月明かりの下でほんのり赤くなっていた。
――……心に秘めた、大切なもの……。……そんなこと、あなたに言い当てられるなんて。……ずるい人。
いや、ひょっとして、
これは、
ぬるゲーなのか。
「そうだ、もう寝る時間だね。おやすみ、白鳥」
白鳥は小さく、消え入りそうな声でつぶやいた。
「……おやすみなさい、……」
「……おやすみ」
それからは静かになった。
俺は月を見ながら考えた。
どう考えてもチートだった。
これなら、恋愛イベントなんていくらでも回避できるし、必要なら逆に起こすことだってできる。
というか。
最初の「パーソナルスペース」とかどこへ行ったんだ。
そのとき。
暗闇の向こうから、白鳥の小さな声がした。
「……タロー」
初めて名前で呼ばれた。
「何?」
「明日」
「うん」
「自由行動、一緒だから」
「そうだな」
間があって、今度は静かになった。
強くてニューゲーム。
その通りなら、楽勝かもしれない。
#3 同じものをみる
雨の音がしていた。
東から来た台風の雨が、家の壁を叩くように降っている。
双子はようやく寝た。
さっきまで泣いていた片方も静かになり、部屋には雨音と、ときどき空調の低い音だけが残っていた。
俺はスマホの画面を見ていた。
文章を少し直す。
消して、戻す。
言い回しを変える。
そこに書かれている「俺」は、ずいぶん若かった。
同級生のことを気にして、どうでもいい一言に引っかかって、誰かの視線を意味ありげに受け取る。
あの頃は、誰かと同じ時間を持つことさえ、どこか持て余していた。
読み返しても、自分ごとにするには、ひどく遠い。
隣の部屋から小さな寝息が聞こえた。
この子たちも、いつかは、
そう考えて窓を見るが、
向こうは真っ暗だった。
雨の音だけがしていた。
---
翌朝。
目が覚めたとき、白鳥はもういなかった。
俺は布団を片付け、襖のほうを見た。
しばらく待つ。
枕元には、昨夜読んでいた本が残っている。
触るのも妙な気がして、そのままにした。
と、洗面所から水音がした。
白鳥が顔を出す。
昨夜のことなど最初からなかったみたいに、いつもの冷徹な仮面を被り直している。
そう見えた。
白鳥は本をすばやく取り、無言で部屋を出ていった。
おっと。
朝食の時間だったか。
---
修学旅行二日目。
今日の予定は上野での班別行動。
「で、昨日どうだったの? 同室」
佐々木が笑いながら言った。
「……最悪だったわ」
白鳥がまっすぐ前を見ながら即答した。
「本人いるんだけど」
「まったくだよな」
俺は大きく頷いた。
半歩前をゆく白鳥が、ふっと声を漏らして笑った。
黒髪が肩のあたりで揺れる。
背筋が伸びている。
人混みの中でも歩き方が妙にきれいだ。
改めて見ると、かなり目立つ。
ううむ。
やっぱり、何かのキャラっぽいんだよな。
黒髪で、
青い目で、
美人で、
制服がきっちりしていて、
お嬢様キャラ、とか。
「埴輪展行こうぜ」
佐々木が言った。どうやら特別展らしい。
白鳥は足を止めて振り返る。
「私は本館を見たいけど」
「実は俺、無類の埴輪好きで知られていて」
「何よそれ。……まあ、いいわ。その代わり、次は私の番だから」
白鳥はもう前を向いていた。
埴輪展を一通り見たところで、佐々木は満足した様子で、俺たちは本館の日本ギャラリーに足を運んだ。
ある展示の前で、白鳥が長く立ち止まった。
追いついて、俺も眺めた。
「屏風か。俺はこういうの……」
すぐに黙った。
白鳥は展示から目を離さなかった。
やがてゆっくりと振り返った。青い目が合った。
「……ここからは、私の時間よ。
騒がしくしないで」
俺は少し離れた。
金色の背景に溶け込むような、淡い色彩の境界線を眺めた。
背中越しに声がした。
「ありがとう」
白鳥は一人で展示を見ていた。
展示を追う目。
わずかに寄った眉。
動かない唇。
――余白。
空間が、どれだけ雄弁に物語っているか。
佐々木が近づいてくる。
「やっぱり埴輪って面白いよな。顔なんてほとんど描き込まれてないのに、見てると勝手に笑ってるとか寂しそうとか見えてくる」
白鳥がこちらへ戻ってきた。
「白鳥さん、本館はどうだった」
佐々木が無邪気に問いかけた。
白鳥は頷いた。
「……埴輪、もう少し見てもよかったわね」
昼は、稲荷町の路地で偶然見つけた小さな店に入った。
店員に「今日はいい鯵があります」と言われて、佐々木が即決した。
「俺アジフライ」
「じゃ、俺も」
白鳥は俺たちを見て、それからメニューを閉じた。
「……私も」
三人で同じものを食べる。
それが、なんだかおかしくて、俺は笑った。
運ばれてきた大ぶりのアジフライを、俺と佐々木がまず黙々と食べ始める。
やがて白鳥も箸を伸ばし、一口食べた。
目がわずかに見開かれた。
肩が小さく動いて、頬にわずかに色がさした。
でも何も言わず、もう一口食べる。
店内には、聞き覚えのない曲が小さく流れていた。
曲が変わったとき、白鳥が一瞬だけ顔を上げた。
俺もつられて耳を澄ませた。
店を出てしばらく歩いていても、
その曲の一節が、まだ頭の中に繰り返されていた。
#4 わからないままで
店を出ると、昼の光が少し傾き始めていた。
上野駅に引き返すと、大通りには相変わらず人が多く、信号が変わるたびに人の群れが動いていた。
俺より前を歩いていた佐々木が振り返った。
「集合までまだあるな」
佐々木がスマホを見る。
「私は少し歩きたいわ」
白鳥が追いついた。
俺は駅の一画を指差した。
「自転車。借りていこうぜ」
俺が言うと、白鳥が声を出さずに笑った。
「静寂の美学を求めて」
そう付け加えると、白鳥は目を見開いた。
言ってから、少し踏み込みすぎた気がした。
「ごめん。行こう」
「待って」
佐々木が笑った。
「これで上野公園を制覇しようぜ」
まさにそのタイミングで、佐々木のスマホが鳴った。
別の班の友達からだった。
「悪い。俺はあっちに戻る。あいつら忘れ物したらしくて」
そう言うなり、佐々木は走っていってしまった。
人混みの向こうへ姿が消える。
俺が自転車を手に取るころには、白鳥はもうサドルに跨って試乗を始めていた。
昨夜と同じ。
二人。
俺たちは、人の少ない方へ抜けて、不忍池を目指して漕ぎ出した。
「また二人ね!」
白鳥が言った。
「嫌?」
「やめてよ」
即答だった。
白鳥が後ろになり、並び、今度は前に出る。
また並ぶ。
しばらく会話はなかった。
俺は白鳥を見る。
不忍池には、蓮の一面の緑が揺れていた。
風が通るたび、緑の面がゆっくり波打つ。
白鳥もこちらを見る。
少しだけ目が細くなった。
白鳥は自転車のスピードを緩め、空いているベンチの前で停まった。
「聞いていいかしら。あなた、さっき」
「ああ。『静寂の美学を求めて』って?」
白鳥は黙った。
――また。
聞こえた。
心の声。
――この人は、そういうところを見ている。
「なぜ、そのあと、ごめんって言ったの?」
「何でもない……。白鳥って、意外と細かいところ気にするよな」
「あなたが雑すぎるのよ」
「そうかな」
「そうよ」
白鳥は自転車に乗り直した。
ペダルを踏んで先へ進み始める。
俺は、その後ろを追った。
---
しばらく進むと、カフェのある小さなホテルに行き当たった。
「少し座らない?」
「カフェに入るの?」
「ロビーに自販機もあるし」
そう言って、俺はペットボトルを二つ買った。
ロビーのソファに腰掛けた白鳥が、空いた隣をちらりと見た。
「あ」
パーソナルスペース。
俺は少し笑った。
「何?」
白鳥は意味がわかったらしく、露骨に顔をしかめた。
「……あなた、そういうの覚えてるのね」
小さくため息をつく。
「忘れていいわ」
「忘れてほしいの?」
「そういう意味じゃない」
白鳥がこちらを見た。
その目が少し変わった。
「……あなた」
「私のこと、分かってるつもり?」
「分かってるつもりはないよ」
俺はすぐ答えた。
「嘘」
白鳥が言った。
「私が何を言ったところで、あなたにはもう答えがあるみたい」
白鳥の目がさらに細くなった。
「今のあなたの、その顔が嫌」
「どの顔?」
「いつも余裕の顔」
風が吹いた。
白鳥の黒髪が少し揺れた。
「だから、あなたが嫌いだった」
俺は、奥歯を噛みしめた。
「あたしが、あたしが真剣でも、あなたはどこか外側にいるみたいで」
白鳥は黙った。
少し遠くで子どもの声がした。
自転車が一台、道を通り過ぎる。
チート能力、相手の好感度、心の声。
何もない。
俺は深く息を吸った。
「白鳥のこと」
青い目を見た。
「たぶん俺、わかった気になってた」
「怒ってるとか、怖がってるとか。本が好きとか。そういうの一個ずつ拾って、はい理解しましたって」
「随分簡単ね」
「簡単だったよ」
俺は笑った。
「俺の中では」
白鳥は笑わなかった。
そして、目を逸らさなかった。
「だから」
「……だから?」
「今は、わからないままでいい気がする」
「ずるい」
やがて白鳥は立ち上がった。
「戻りましょう」
自転車は近くに返却して、歩いて帰ることにした。
昨夜から何度も見た背中だった。
でも今は、よくわからない。
白鳥は白鳥の理由で歩いている。
俺の知らないことを考えながら。
俺とは関係のない記憶を持って。
俺とは関係のない場所から来て。
俺とは関係のないところへ、いつか行く。
当たり前のことだった。
なのに。
なぜか初めて見たような気がした。
「タロー」
白鳥が振り返った。
「何?」
「遅いよ」
「ああ。ごめん」
俺は少し早足になった。
白鳥は待っていた。
それが何を意味するのかは、考えなかった。
少なくとも、そのときは。
強くてニューゲーム。
ふと、そんな言葉を思い出した。
もう、自分の言葉ではないような気がした。
#5 最後の夜
夜。
二日目は、当然ながら白鳥とは別室だった。
誰かが笑い、誰かが菓子を食い、誰かがスマホを見ている。
佐々木はまだ埴輪の話をしていた。
俺は、喉が渇いたと言って部屋を出た。
ホテルの階段は静かだった。
一階のロビーまで降りる。
窓の向こうに東京の灯りが並んでいる。
自販機で水を買う。
振り返る。
白鳥がいた。
「あ」
「あ」
白鳥は部屋着の上に薄い上着を羽織っていた。
「何してるの?」
「水を買いに」
「私も」
ロビーのソファに並んで座る。
少し距離がある。
「佐々木さん、まだ埴輪?」
俺は頷いた。
「あの喧騒部屋で、よくやるわね」
白鳥はときどき髪を耳にかけ、ラベルを指でなぞり、窓の外を見た。
夜景があった。
「そろそろ戻るわ」
白鳥が少し微笑んだ。
「おやすみ、タロー」
「ああ。おやすみ」
エレベーターへ消える。
扉が閉まるまで見ていた。
---
俺はロビーに残っていた。
白鳥と話した時間は、十分もない。
指、髪、横顔。
どうでもいい断片ばかりが残っている。
俺はソファに沈んだ。
思い出そうとする。
妻。
双子。
仕事。
家。
それなりに生きたはずの人生。
だが、どれも輪郭がぼやける。
言葉を置くと、それらしい記憶が出てくるだけだ。
俺は眉をひそめた。
五十年あまり生きていた。
はずだ。
白鳥の右手だけが、やけに鮮明だった。
爪の形まで浮かぶ。
俺は立ち上がった。
窓の前へ行く。
夜の東京。
その手前に、自分が映っている。
俺は頬に触れた。
五十年。
言葉にしてみる。
五十年。
長いはずだ。
なのに、遠い。
俺は本当に、
そんなに生きていたんだろうか。
窓の向こうに夜景。
こちらに高校生の俺。
どちらが本当かわからないまま、立ち尽くす。
やがて、エレベーターの音が鳴った。
俺は反射的に振り返った。




