水滴
向かいを流れる渓流と、そのせせらぎを全身で浴びる。
どうどうと響く音の空白に、入り込むように、鳥の話し声が聞こえている。
靄のように立ち込める湯気の中、湯船の縁に頭をもたれさせる。ちょうど見上げた先には、空が広がっている。
天まで湯気で覆われたような空模様。ぼうとして空を見つめていると、灰で塗りたくられた空の端から、淡い青がこぼれた。
目を刺すようなその透き通る青は、次第に灰のキャンバスを濡らしていった。水をこぼしたように、あたり一面の灰を鮮やかに群青に染めた。
見違えるように澄んだ空の青は、目に染み入るように鮮烈で、湯船に浸かってその様を見ていた僕は、何故か身体がぶると震えた。唇はなにか言いたげに揺れている。
視界の左端から頭上まで横に生えた紅葉の葉は、ついさっきの雨に、装飾具のように水滴をまとっている。そこへ、陽光が差すものだから、さながら水晶のようでさえある。
その高く天に伸びた紅葉は、時折、熱い湯船につかったかのようにぶると葉先を揺らした。その拍子に水滴が、ぽたりぽたりと顔に落ちた。
そうして、雲間が晴れたころはまだ綺羅びやかな水晶をつけていた紅葉も、気づけば残っているもののほうが少なくなっていた。
ただ、その木の中に、決して落ちることのない水滴が一粒あった。
ちょうど視界の上の端を横切るように生えた枝の中腹。まだ視界には灰色しか映らなかったころから、そこにあった。
群青が覗いても、鳥がとまっても、木が鳥肌を立てて震えても、そこにあった。
葉先の方から伝った水滴を、そいつは、ひとつ、またひとつと取り込んでいった。
もう随分膨らんでいるはずのそいつは、頑なにその枝を、離れようとしなかった。まるでなにかを拒むように、必死にその枝にくっついて見えた。
”そりゃあ、さ。
そうしてるのが一番らくだろうけどな。”
もう、過ぎたことなのに。未だに鼓膜にこびりついて取れない。あの突き放すような目つきと裏腹の、憐れむような顔つきが、視界をよぎる。
鳶が横切ったように一瞬、その影に侵される。
大きく、長く、息を吐く。
湯気に混じる。
消える。
あの水滴は、今だその場を動かなかった。
弾けそうなほど大きな粒になりながら。
今にも落ちそうなほど微細に震えながら。
「お前、いつまでそこにいるんだよ。」
枝の中腹で震えるそいつに、僕は思わずそう口をつく。
放った言の葉は湯気に混じった。
混じったと思ったらわからなくなった。
言の葉が混じった湯気たちが、他の湯気たちと戯れながら、緩やかに天へと登っていく。そしてちょうどその枝に、その湯気が届くかという頃、その水滴はぽたりと落ちた。
なんの素振りもなく突然に、この額めがけて降ってきた。額の上で弾け飛んだ。
風呂からあがって身体を拭いても、
浴衣に着替えて、水をのんでも、
夕飯の膳を平らげても、
額に落ちたあの感覚だけは、弾け飛んだあの感触だけは、どうしたって消えなかった。
頭蓋に染み込んだようにさえ感じられた。




