第5話:部活動の狂気(後編)
廊下の板張りに響く自分の足音だけが、今の誠に聞こえるすべてだった。肺は焼けるように熱いが、講堂の扉を開けた先に待ち受けているものへの恐怖は、呼吸困難の苦しみなど比較にならないほど痛烈だった。
(クソ、クソ! 狐乃香のことに集中しすぎて、狸子さんにも呼び出されてたのをすっかり忘れてた! もし着いた時に彼女がいなかったら、間違いなく部員たちに全部ぶちまけられて、僕は殺される……。恐ろしすぎるだろ!)
走りながら、我らがちっぽけな主人公はそんなことを考えていた。
ついに重い両開きの扉を押し開けると、そこにあったのは静寂だった。客席の照明はすべて落とされ、ただ一本の白いスポットライトだけが、警察の尋問室のようにステージの中央を孤独に、そして鮮烈に照らし出していた。
そしてそこには、圧倒的なエレガンスを纏ってステージの中央に座る狸子の姿があった。
彼女は誠が入ってきても見向きもしない。腕を組み、背を向け、その髪はまるでこのシーンを映画的に見せるために計算し尽くされたかのような完璧な流れで肩にかかっている。
誠は唾を飲み込んだ。もっとも、心の底では「狸子がまだここにいる」というだけで勝利だと思っているのだ。……おめでたい奴である。
(落ち着け、誠。深呼吸だ。たった……55分遅れただけじゃないか。大したことない。国によっては、これくらいが定刻だっていうし……)
彼は立ち止まったまま、自分のあまりの愚かさに思考を巡らせた。
(……で、それはどこの国だよ!? クソ、そんなことはどうでもいい、今は集中しろ!)
「だ、団蔵さん、来ました……」
「……来たのね」
狸子の声は震え、まるでシェイクスピアの悲劇から抜け出してきたかのような悲しみに満ちていた。
彼女はゆっくりと立ち上がったが、まだこちらを振り向かない。前で組まれた彼女の手は、微かに震えていた。
「時が止まってしまったのかと思ったわ……。それとも、私はこの世界から見えない存在になってしまったのかしら……」
彼女は囁くように、あまりにもリアルなすすり泣きを漏らした。誠の顔から、一気に血の気が引いていく。
「この暗闇の中で、一秒一秒、静寂を数えるのがどんな気持ちか分かる、誠くん? 扉が開く音を待ちながら、私は自分の死を三回もリハーサルしたわ……」
彼女がようやく振り向いた時、誠は一歩後ずさった。彼女の目は赤らみ、一筋の涙が頬を伝って白いスポットライトの下で輝いていた。
「もしかして……私は、思っていたほどあなたにとって大切な存在じゃなかったのかしら……」
彼女はこれ以上ないほどドラマチックで悲しげなトーンで告げた。だが、読者の諸君、騙されてはいけない……。
(これ、間違いなくここ数年で最高の出来だわ。これで誠くんをパニックに陥れられるはず……。彼の反応を見るのが楽しみで仕方ない!)
一方、誠は完全なパニック状態に陥っていた。謝るべきか、抱きしめるべきか、それとも逃げ出すべきか。彼の脳は、一日の午後に詰め込むにはあまりに多すぎるドラマ情報を処理しきれずにいた。
(これ……これって、あのアニメの第34話のシーンにそっくりだ。ヒロインが雨の中で待っていて、遅れてきた主人公に泣きついて、主人公は何を言えばいいか分からず失言して、彼女がもっと泣いちゃうっていう――)
彼は凍りついた。
(待て、これ、全く同じ展開じゃないか!!)
「ごめん! 本当に、許してくれ!」
誠は九十度の角度で深々と頭を下げた。
「緊急の……技術的なトラブルがあったんだ! 廊下の迷宮で迷子になってしまって!」
「言い訳なんて、風に流されるだけのただの言葉よ、誠くん……」
彼女はステージの端に歩み寄り、痛みと非難の入り混じった眼差しで彼を見下ろした。
(どうすればいい? アニメの主人公ならどうする? 主人公なら、彼女を本当に泣かせるくらい真実味のある感動的なセリフを吐いて、それからハグして、BGMが流れるはずだ。でも、僕には感動的なことなんて言えない。僕はただ、違法にアニメを観るだけの男なんだ……!)
誠は自分の愚かさに悶絶し、内面で激しく後悔した。
「でも……許してあげてもいいわよ、誠くん。もしあなたが本当に反省していて……私の時間と心を本当に大切に思ってくれているのなら。……私の『罰』を受け入れなさい」
誠は唾を飲み込んだ。その『罰』という言葉は、歯ブラシで講堂を掃除させられるか、それ以上に最悪なことを予感させた。
「つ……償い(ペニテンシア)?」
冷や汗が項を伝うのを感じながら、彼はかろうじてそう口にした。
狸子は、庭園に降り立つ女王のような優雅さでステージを下りた。そして彼の数センチ前で立ち止まると、実体のない涙を完璧な所作で拭い、深くため息をついた。
「あのね……今日は特別なシーンを用意していたの。演劇部がどんなものか、あなたに見せてあげるためにね」
「シーン……?」
「ええ。でもそのためには……あなたの助けが必要なの」
誠は何かがおかしいと感じた。具体的に何が、とは言えないが……何かが。
「どんなシーン、なんですか……?」
狸子は彼を見つめた。その一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、彼女の仮面が剥がれ、そこには本物の何かが――彼が一体何をしでかすのかという、演技ではない純粋な好奇心が宿っていた。
「ハイパーメロドラマティックな愛の告白よ。アニメの最終回レベルで、心を剥き出しにするようなね。もし私を感動させられたら、解放してあげる。でも、もしダメだったら……そうね、演劇部は今学期いっぱい、重い小道具を運ぶ奴隷を必要としているのよ」
誠は頭が真っ白になった。
(愛の告白? 僕が? 僕がこれまでの人生でした最もロマンチックなことなんて、RPGで仲間に回復アイテムを分けてあげたことくらいなんだぞ!)
彼は絶望した。だが、依然として深い悲しみを演じ続けている狸子の顔を見て、55分という遅刻の重みが彼を押しつぶした。
「……分かりました。やります」
誠は肩を落とし、プライドを飲み込みながら承諾した。
狸子は心の中で小さくガッツポーズをした。(やったわ!)と彼女は思った。彼女は再びスポットライトの下へと戻り、ステージに上がるよう彼に合図した。
「ああ……大事なディテールを忘れていたわ。良い演技には『観客』が必要だと思わない、誠くん?」
誠は呆然とし、思考が停止した。
「……えっ??」
そして、出来のいいホラー映画のように、講堂の照明が一つ、また一つと点灯していった。
舞台袖の暗闇から、幕の裏から、そして客席の下から――演劇部の部員たちが一人ずつ姿を現した。手帳を手にし、カメラを構え、その表情にはプロとしての好奇心と、例の「地下室の件」以来の誠に対する個人的な恨みが入り混じっていた。
誠は数えた。全部で11人。
「……ずっと、そこにいたのか?」
「良い演劇には、目撃者が必要なのよ~」
誠は狸子を見た。11人の部員を見た。そして出口を見た。
体格のいい部員が、すでにドアを塞いで立っていた。
(オーケー。逃げ場はない。これが今の僕の人生か……)
狸子は、半分は罠、もう半分は正体不明の何かを秘めた笑顔で彼に手を差し伸べた。
「さあ……アドリブよ、誠くん。私は、あなたが自分を愛していないと思い込んで、永遠に海外へ引っ越そうとしている女の子。あなたのすべてをぶつけてみて!」
彼女は演出家としての口調を取り戻し、命じた。
誠は、足元で軋む木製の階段を上がった。彼女の前に立つ。最初は、お気に入りのアニメのセリフを思い出そうとした。
だが、どれもしっくりこなかった。そこで、彼はただ彼女を見つめた。空っぽで、暗く、冷たい講堂。自分のせいで、1時間近くもここで一人座っていた狸子を想像した。申し訳ないという感情は、もはや演技ではなくなった。それは本物になったのだ。
そして、彼の中の何か――おそらくは、プロセス抜きで論理問題を解いてしまうあの奇妙な本能が、カチリと音を立てた。
彼は膝をついた。
不器用でもなく、恥ずかしがるでもなく。ただ、それが正しいことだと決めた人間のような自然さで、彼は跪いた。
部員たちは息を呑んだ。
狸子は瞬きをした。それは、彼女の頭の中にあった脚本には存在しない動きだった。
そして、誠は話し出した。台本なし。テクニックなし。リハーサルなし。
「団蔵さん。遅れました。まともな言い訳なんてありません。たとえあったとしても、あなたが丹精込めて準備したこの場所で、一人きりで待たせてしまったという事実は変わりません……」
突然、空気が変わった。誠は叫びもしなかったし、大げさな身振りもしなかった。彼はわずかに歩み寄り、狸子の手を迷いのない強さで握りしめた。その力強さに、彼女は完全に虚を突かれた。
「行かないでくれ……」
誠は言った。その声はもう震えていなかった。低く、空気を切り裂くような誠実さに満ちていた。
「自分が馬鹿なのは分かっています。遅刻するし、鈍感だし、目の前にあるものの価値も分かっていないように見えるでしょう。でも、あなたがいなくなったせいでこの講堂が空っぽになってしまう……その予感は、他の何よりも僕を恐怖させるんです……」
狸子は困惑して瞬きをした。そんなセリフ、彼女が想像していたどの脚本にも存在しなかった。
「演技なんて分かりません。上手くなんてできません。でも、誰かが何かのために努力したのに、相手が現れなかった……。それがたとえ体験入部だったとしても、どれほど深く傷つくことか、それだけは分かります」
彼は目を閉じ、一度深く息を吸い込んでから続けた。
「だから……本当に、すみませんでした。お願いです……僕にチャンスをください。ここへ向かって走っていた一分一秒、僕はただ、もう一度あなたの笑顔を見ることだけを考えていたんです。もし今あなたが行ってしまったら、スーツケースだけじゃなく、この『モブ』が主人公を目指そうと思った唯一の理由まで、持っていってしまうことになるんだ……」
誠は彼女をじっと見つめていた。その瞳はあまりにも純粋に輝いていて、狸子の頬には奇妙な熱が宿った。人生で初めて、稀代の名女優が言葉を失った。これは演技ではない。……誠の本心だった。
講堂は、絶対的な静寂に包まれた。
狸子はステージの上から彼を見下ろしたままだが、頬の火照りは収まらず、頭の中はカオスと化していた。
(どうして……これが本物かどうかが読み取れないの? 私はいつだって、人の心を見抜いてきた。いつだって、誰だって。なのに、彼だけは……)
部員の一人――地下室の一件以来、誠を最も毛嫌いしていた辛口の部員が、思わずといった様子で呟いた。
「……今のは、良かったぞ」
別の部員も静かに頷いた。
カメラは回り続けている。だが、もはや誰も録画内容のことなど考えていなかった。彼らはただ、今目撃したものを咀嚼していた。
胸に走った奇妙な鼓動をまだ引きずりながら、狸子は咳払いをし、「先輩」としての態度を取り繕った。頬はまだ微かに紅潮していたが、それを勝ち誇ったような笑みで隠そうとする。
「……ふふ、どうやら狐乃香のデータは間違っていたようね。あなたはただのエキストラじゃないわ、誠くん。……危険な才能を持っているわね」
誠は何も言わなかった。ただ静かに頷き、立ち上がって自分のカバンを拾い上げた。
「それで……オーディションには合格しましたか?」
狸子は彼を見る。口を開き、そして閉じた。
人生で初めて、彼女はどの「仮面」を被ればいいのか分からなかった。この瞬間にふさわしい仮面など、一つも存在しないと感じたからだ。
「……あんた、バカね」
ようやく、彼女は低い声で言った。ドラマチックでもなく、演技でもない、ただの言葉。
「今日、もう一度言われました」
「今日? 誰がそんなこと言ったの?」
誠は一瞬、硬直した。
「……別に、大した人じゃありません」
狸子は彼をじっと見つめる。その瞳が、わずかに細められた。
(午後4時の予期せぬ予定。そして今度は『大した人じゃない』……。興味深いわね)
だが、彼女がそれ以上口を開く前に、部員たちが爆発した。
「最高だったぞ!!」
「台本なし! リハーサルなし! 完全にナチュラルだ!」
「狸子様、彼を演目に入れましょう!」
誠は、もはや「地下室の悪役」ではなく「天から降ってきた原石」として見る部員たちの熱狂に飲み込まれていった。
喧騒に囲まれる誠をよそに、ステージの中央で一人、狸子はそっと自分の胸に手を当てた。
(『大した人じゃない』……。一人しか思い当たらないわね)
その問いは、彼女が思う以上に心を熱く焦がしていた。
狸子が物思いに耽っている間に、誠は新しくできた(そしておそらく人生初の)ファンたちから逃げるように駆け出した。
ようやく校門を潜り抜けると、夕暮れの涼しい風が彼の顔を打った。彼は疲れ果てていた。脳みそが、急勾配の道を42キロもマラソンしたかのように重い。
(生き残った……。一日のうちに、学園の二大レジェンドと対峙して、まだ生きてる……)
彼は茜色に染まる空を見上げた。
(でも……どうして、人生が前よりずっと複雑になった気がするんだろう?)
演劇部には、期待の新人。ディベート部には、未解決の変数。そして星野 誠は、自分が事態を二倍もややこしくしてしまったことに、これっぽっちも気づいていなかった。
おめでたい奴である。
第5話:完
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【作者より】
皆さん、お久しぶりです!
(約1週間ほど空いてしまいましたが……)約束通り、第5話をお届けします!
まず最初に、新章の更新が遅れてしまったことをお詫びさせてください。実は勉強の方で色々と忙しくて……皆さんも分かってくれますよね(笑)。
さて、ここまで読んでくださって本当にありがとうございます!
もし楽しんでいただけたなら、お気に入り登録などで応援してもらえると、執筆の大きな励みになります!
明日は(強い意志と信仰を持って!)第6話を出す予定です。絶対に出しますので、楽しみにしていてくださいね。
それでは、次の章でお会いしましょう!
作者:零時卿




