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婚約破棄された時計塔の令嬢は、止まった時を動かす力で貴方の心臓を刻みます~もう遅いですわ、殿下。私の針はもう、貴方を指していません~

作者: こうこ
掲載日:2026/01/25

序章 五年三ヶ月と十二日の終焉


「——リディア・フォン・クロノワール。本日をもって、貴様との婚約を破棄する」


王城大広間に響き渡ったその声は、シャンデリアのクリスタルを震わせるほど朗々としていた。


私は静かに瞼を伏せる。


(ああ、ようやく。この茶番劇が終わるのですね)


周囲がざわめく。百人を超える貴族たちが一斉にこちらを向き、扇の陰でひそひそと囁き合う様は、まるで時計仕掛けの人形劇のよう。


「殿下、それは一体——」


「聞こえなかったか?」


第二王子アルヴィン・レイ・ヴェルディアスは、金糸の髪を靡かせて冷笑した。紫水晶の瞳には、隠しきれない優越感が踊っている。


「五年だ。五年もの間、私はこの退屈な女に時間を費やしてきた」


退屈。


その言葉に、私の懐中時計が微かに震えた。左手首の歯車の痣が、ちりちりと熱を持つ。


(退屈、ですか。殿下のお話に五年間相槌を打ち続けた私の忍耐力は、なかなかのものだったと自負しておりますわ)


「心躍る瞬間など、一度たりともなかった」


殿下の傍らで、蜂蜜色の巻き毛を揺らす少女が不安げに——いいえ、不安げを装って——殿下の袖を掴んだ。


エステル・マリー・ホリック。没落寸前の男爵家の令嬢。


彼女の露草色の瞳が、一瞬だけ私を捉える。その奥に浮かぶ勝利の色を、私は見逃さない。


(ああ、やはり貴女でしたのね。殿下の耳元で囁いていたのは)


「殿下……私のせいで、リディア様が……」


「お前のせいではない、エステル」


殿下は「天使」の肩を抱き寄せ、私を見下ろした。


「この女が——リディアが、私に相応しくなかっただけのことだ」


広間に失笑が漏れる。公爵令嬢が、王子に「相応しくない」と。これ以上の屈辱があるだろうか。


普通ならば。


「公爵家の令嬢ともあろう者が、装飾品ひとつ碌に身につけず、会話は退屈、笑顔のひとつも満足に作れない」


殿下の言葉が続く。私は黙って聞いていた。


(装飾品を身につけなかったのは、殿下が「俺より目立つな」と仰ったからですわ。会話が退屈だったのは、殿下が政治の話を「女には分からん」と遮ったから。そして笑顔——ええ、確かに。貴方の前で心から笑える日など、一度もありませんでしたもの)


「そんな女が王妃になれると、本気で思っていたのか?」


嘲笑。


哄笑。


広間中に響く、私を嘲る声。


——カチリ。


私は懐中時計を開いた。


亡き母から受け継いだ、銀細工の美しい時計。その針が、今、静かに動いている。


五年三ヶ月十二日と——七時間二十三分。


それが、私がこの男に捧げた時間の総計。


「……リディア?何をしている」


殿下の声に怪訝な色が混じる。私が黙って時計を見つめているのが、気に障ったのだろう。


「おい、聞いているのか。返事くらい——」


「五年三ヶ月と十二日」


私は静かに告げた。


「——は?」


「殿下に捧げた時間でございます」


懐中時計を閉じる。カチリ、と小さな音が、不思議なほど広間に響いた。


「お気持ちは、確かに刻みました」


私は微笑んだ。いつものように、感情を押し殺した人形のような微笑み——ではなく。


「ですがもう、私の針は貴方を指しておりません」


殿下の顔が強張る。


私が、初めて。


「貴方」と呼んだことに気づいたのだろうか。それとも、私の瞳に浮かんだ何かを見たのか。


「……何を言って——」


「長らくお世話になりました、殿下」


深々と、完璧な礼。


「どうぞ、お幸せに」


踵を返す。


紺青の髪が揺れ、質素なドレスの裾が床を掃く。


広間を横切る私の足音だけが、静まり返った空間に響いていた。


——その瞬間。


ボーン、と。


王城の大時計が、鳴った。


いや、違う。鳴ったのではない。


『止まった』のだ。


「な、何だ……?」


誰かが叫ぶ。私は振り返らない。


広間の壁時計が止まる。貴婦人たちの懐中時計が止まる。紳士たちの懐中時計が、一斉に沈黙する。


——チリン。


微かな音。


殿下の胸元で、何かが砕けた。


「っ——!」


殿下の呻き声。私は扉に手をかけながら、ほんの少しだけ振り返った。


殿下の手が、胸元を押さえている。そこには——王族に生まれた時から与えられる、命の砂時計を象った護符があるはずだった。


今、その護符が。


罅割れている。


(ああ、殿下。貴方は知らなかったのですね)


私は静かに微笑んだ。


(時計塔の巫女を傷つけると、どうなるか。時を司る者を蔑ろにすると、何が起きるか)


「リディア——待て、リディア!」


殿下の声が追いかけてくる。だが私は振り返らない。


扉が開く。廊下に出る。


月明かりが、銀色の軌道を描いていた。


(私は何もしていませんわ、殿下。ただ——貴方のために祈ることを、やめただけ)


懐中時計を握りしめる。


母の形見。クロノワール家に代々伝わる、刻守の巫女の証。


(さようなら、殿下。貴方の時計は、もう私が守る必要はありません)


私の針は今、新しい時を刻み始めていた。



王城を後にする馬車の中、私はようやく肩の力を抜いた。


「……疲れた」


誰もいない車内で、思わず本音が零れる。


五年間。ずっと、ずっと我慢してきた。


殿下の傲慢を。取り巻きの嘲りを。エステルの陰湿な嫌がらせを。


全ては、クロノワール公爵家のため。王家との関係を保つため。そして何より——王国の時を乱さないため。


刻守の巫女が感情を乱せば、時の流れも乱れる。だから私は、人形のように。時計のように。正確に、感情を刻み込めて生きてきた。


「……でも、もう」


懐中時計を開く。


針は、静かに動いていた。王城の時計は止まっても、この時計だけは。私の時計だけは。


「もう、貴方のために時間を止める必要はないのですわ」


窓の外を流れる夜景を見つめながら、私は小さく笑った。


泣いているのか、笑っているのか。自分でも分からない。


ただ——肩が軽い。


五年分の重荷を下ろした肩が、こんなにも軽い。


馬車が、時計塔の見える丘にさしかかる。


月光に照らされた時計塔。私の家。私の帰る場所。


そして——。


「……あら」


時計塔の門前に、人影があった。


黒髪に、月光を映す銀灰色の瞳。質素な職人服を纏った長身の男性。


「——ルーファス」


私の幼馴染。王国一の時計職人。そして——私の秘密を知る、唯一の人。


◆◆◆


第一章 止まった針と、動き出す心


馬車が止まる。


扉を開けて降りると、彼は静かにこちらを見つめていた。


「……聞いたのね」


「ああ。王城の時計が止まった時点で、何があったか分かった」


彼の声は低く、穏やかで——けれど、その奥に押し殺した怒りがあることを、私は知っている。


「リディア」


「……何かしら」


「もう、我慢しなくていい」


——その言葉が。


たった一言が。


私の中の、何かを壊した。


「……っ」


視界が滲む。


止まらない。止められない。五年分の感情が、堰を切ったように溢れ出す。


「……っ、ルー、ファス……っ」


「ああ」


彼の腕が、私を包み込んだ。


温かい。時計塔の冷たい空気の中で、彼の体温だけが確かに温かい。


「よく、頑張った」


「……っ、私、私……っ」


「分かってる。全部、見てた」


「……っ、でも、私、何も、できなく、て……っ」


「お前は十分やった。十分すぎるほどだ」


彼の手が、私の髪を撫でる。


「もう泣いていい。もう我慢しなくていい」


「……っ」


「俺がいる。お前の時間は、もう誰にも奪わせない」


——ああ。


この人は、いつだってそうだ。


私が仮面を被っている時も、人形のように振る舞っている時も。この人だけは、私の本当の姿を見ていてくれた。


時計塔の上で、月を見ながら語り合った幼い日々。


時計の仕組みを教えてもらった、あの温かな午後。


婚約が決まった日、何も言わずに私の好きな紅茶を淹れてくれた、あの沈黙。


全部、全部——。


「……ありがとう」


「礼を言うのは俺の方だ」


「……え?」


「——帰ってきてくれて」


彼の銀灰色の瞳が、月明かりの中で優しく細められる。


「おかえり、リディア」


——ああ。


私は今、ようやく。


「……ただいま、ルーファス」


帰ってきたのだ。


私の、本当の時間に。



時計塔の私室に戻ると、祖母が待っていた。


「——リディア」


銀糸の髪を高く結い上げた七十代の老婦人。オルガ・フォン・クロノワール。社交界では「鉄の時計夫人」と呼ばれ恐れられている、我が祖母だ。


「お祖母様……」


「よく帰ってきた」


そう言って、祖母は私を抱きしめた。


小柄な体躯からは想像できないほど、温かい腕だった。


「……お祖母様、私……」


「何も言わなくていい。お前は、よくやった」


「でも、王家との関係が——」


「あの小僧に時計の読み方も分からぬだろうに」


祖母は鼻を鳴らした。


「五年も傍にいて、お前の価値も分からぬ愚か者との関係など、こちらから願い下げよ」


「……」


「お前は何も悪くない。悪いのは、あの目の節穴な王子と、その取り巻きどもだ」


祖母の金色の瞳——私と同じ、時計の文字盤を思わせる瞳——が、静かに燃えていた。


「さあ、今日はゆっくり休みなさい。明日から、お前の新しい時が始まる」


「……はい、お祖母様」


私は頷いて、自室へ向かった。


窓の外では、月が静かに輝いている。


王城の大時計は、まだ止まったままだろう。


(……もう、知ったことではありませんわ)


私は懐中時計を胸に抱いて、目を閉じた。


◆◆◆


第二章 狂い始めた時の歯車


【視点:第一王子セドリック】


王城の執務室で、私は報告書の山と格闘していた。


「——時計塔の令嬢が去ってから三日。王国の被害状況をご報告いたします」


秘書官の声が、淡々と室内に響く。


「まず、王都の大時計。完全に停止。修復の目処は立っておりません」


「続けろ」


「港湾部の潮時計が狂い、貿易船の入港予測が不可能に。すでに三隻が座礁」


「……」


「農村部では日時計の影が不規則に動き、種まきと収穫の時期が読めなくなったとの報告が」


「被害額は」


「現時点で、推定——」


秘書官が告げた数字に、私は額を押さえた。


「……たった三日で、か」


「はい。そして——」


秘書官が言葉を切る。私は顔を上げた。


「何だ」


「……第二王子殿下の、ご容態ですが」


「弟がどうした」


「今朝から、髪に白いものが混じり始めたと」


——は。


「……何だと?」


「侍医の見立てでは、原因不明の老化現象かと。現在、王子殿下のご年齢は二十三歳ですが、身体機能は——」


「もういい」


私は杖を掴んで立ち上がった。


「弟の部屋へ案内しろ」



アルヴィンの私室は、異様な空気に満ちていた。


「——来るな!誰も入るな!」


扉越しに聞こえる弟の絶叫。私は構わず扉を開けた。


「兄上……!」


「……ほう」


私は足を止め、弟を見つめた。


三日前まで、若々しく輝いていた金髪。それが今、所々に白いものが混じっている。


肌には小さな皺が刻まれ、目の下には隠しきれない隈。


「これは……」


「見るな!」


アルヴィンは鏡を裏返しにして、私から顔を背けた。


「見るなと言っている……!こんな、こんな姿……っ」


「落ち着け、アルヴィン」


「落ち着けるか!」


弟が振り返る。その紫水晶の瞳には、恐怖と——怒りが渦巻いていた。


「あの女だ。リディアだ。あの女が、私に呪いをかけたんだ!」


「……呪い、か」


「そうだ!婚約破棄を恨んで、私に呪いを——」


「違うな」


私は静かに告げた。


「……何?」


「お前は知らなかったのか。クロノワール公爵家の令嬢が、何者であるかを」


「何者って——ただの地味な女だろう!時計塔を管理しているだけの——」


「『だけ』、か」


私は笑った。乾いた、苦い笑い。


「お前の婚約者は——いや、元婚約者は、この王国の時を司る『刻守の巫女』だ」


「……は?」


「王国中の時計が正確に時を刻むのは、彼女の祈りがあればこそ。彼女が王都にいる限り、時は乱れない。作物は実り、船は港に着き、人々の生活は守られる」


「そんな……馬鹿な……」


「そして」


私はアルヴィンの胸元を指さした。罅の入った護符が、そこにあるはずだ。


「王族の命を守る護符も、彼女の祈りによって力を保っていた。お前が彼女を傷つけ、追い出した瞬間——」


「嘘だ」


「護符は罅割れ、お前の寿命を刻む砂時計は急速に落ち始めた」


「嘘だ!」


アルヴィンが叫ぶ。


「そんなこと、誰も教えてくれなかった!」


「教える必要がなかったからだ」


私は冷たく告げた。


「普通の人間なら、五年も傍にいれば気づく。彼女がどれほどこの国に貢献しているか。彼女がどれほど——お前のために尽くしていたか」


「……」


「だが、お前は気づかなかった。見ようともしなかった。だから——」


「だから、何だ……!」


「だから言っただろう、弟よ」


私は踵を返した。


「時計塔の価値も、あの令嬢の価値も。お前には、最初から見えていなかったのだ」


「待て、兄上……!」


「侍医に相談しろ。私には、お前を救う術はない」


「リディアだ!リディアを連れ戻せば——」


「無理だな」


扉に手をかけながら、私は最後にこう告げた。


「壊したものは、元には戻らん。せめて——壊した責任を取れ、アルヴィン」


扉が閉まる。


弟の絶叫が、廊下に響いていた。



【視点:エステル】


「——どういうことですの!?」


私は侍女を怒鳴りつけた。


「殿下が、面会を拒否……?」


「は、はい……。殿下は、どなたともお会いになりたくないと……」


「私は『どなた』ではありませんわ!殿下の恋人ですのよ!?」


侍女が怯える。構うものですか。


「殿下のお部屋に案内しなさい。私が——」


「エステル嬢」


背後から声をかけられ、振り返る。


第一王子セドリック殿下が、杖をついて立っていた。


「セ、セドリック殿下……」


「弟に会いに来たのか」


「は、はい。殿下のご容態が心配で——」


「ほう」


セドリック殿下の紫の瞳が、私を射抜く。


「心配、か。それは殊勝なことだ」


「……」


「だが、今の弟に会うのは勧めない。見るに耐えない姿だ」


「見るに堪えない……?」


「ああ。三日で十歳は老けた。このままいけば、一月後には——」


「っ——」


私は思わず後ずさった。


老けた?殿下が?あの美しい、若々しい殿下が?


「……な、何故ですの?何故、そのようなことに——」


「分からないか?」


「え……?」


「お前が追い出した令嬢のせいだ」


「——リディアが?」


「そうだ。彼女は刻守の巫女。王国の時を司る存在だ。彼女が去ったことで、時の流れが乱れ——弟の寿命もまた、狂い始めた」


「そんな……っ」


嘘よ。嘘に決まっている。


あんな地味で退屈な女が、そんな重要な存在だなんて——


「信じられないか?」


セドリック殿下が笑う。嘲るような、冷たい笑み。


「だが事実だ。お前が弟を唆し、婚約破棄へ導いた結果がこれだ」


「わ、私は——」


「リディア嬢を傷つけたのはお前だ。弟を破滅させたのも、お前だ」


「違います!私は、ただ——」


「ただ、何だ?王子の寵愛を得たかっただけか?」


「……っ」


「残念だったな。お前が手に入れたのは、急速に老いていく男の残骸だけだ」


「——っ」


私は踵を返し、走り出した。


嘘よ。嘘に決まっている。


あの女が、そんな力を持っているなんて——


でも、もし本当だったら。


殿下が老いて、没落して——私はどうなる?


没落寸前の男爵家の娘が、老いさらばえた王子の恋人として——


「……っ、嫌よ」


嫌だ。こんなはずじゃなかった。


私は幸せになるために、殿下に近づいたのに。リディアを追い出せば、全てが手に入ると思ったのに。


「——あの女のせいよ」


憎しみが込み上げる。


全部、全部あの女のせい。


「必ず——必ず、後悔させてやるわ……!」


私は知らなかった。


その言葉が、どれほど滑稽に響くか。


後悔するのは、私の方だということを。


◆◆◆


第三章 新しい時計塔へ


【視点:リディア】


「——隣国シルヴァティカより、正式な招聘状が届いております」


祖母の声が、時計塔の応接間に響く。


私は紅茶のカップを置き、封蝋を施された書簡を受け取った。


銀の月を抱く狼——シルヴァティカ王国の紋章。


「……時計塔の修復、ですか」


「ええ。彼の国の時計塔は、百年前の大戦で損傷したまま放置されていたそうよ。『刻守の技術を持つ者に、修復を依頼したい』とのこと」


祖母——オルガ・フォン・クロノワールは、金色の瞳を細めた。


「そして、修復を担当した者には——」


「シルヴァティカの国賓として迎え入れる、と」


「読んだのね」


「……はい」


私は書簡を閉じ、窓の外を見つめた。


時計塔の窓からは、王都が一望できる。止まったままの大時計。混乱する街並み。


「行きなさい、リディア」


祖母の声に振り返る。


「お祖母様……」


「時計は止まれば直せる。だが、刻まれた時は戻らない」


祖母は立ち上がり、私の頬に手を添えた。


「お前の時間を、お前のために使いなさい」


「でも、王国が——」


「王国のことは、王国の者が考えればいい。お前はもう、あの愚か者のために時間を割く必要はないのよ」


「……」


「それに」


祖母が意味深に笑う。


「ルーファスも一緒に行くのでしょう?」


「——お祖母様」


「あら、違うの?」


「……違いません」


私は頬が熱くなるのを感じながら、目を逸らした。


(分かってらっしゃるなら、からかわないでいただきたいですわ……)


「ふふ、可愛い孫ね」


「お祖母様!」



出発の朝。


時計塔の門前に、馬車が二台並んでいた。


「荷物の積み込みは完了した。いつでも出られる」


ルーファスが報告する。黒髪が朝日に煌めき、銀灰色の瞳が私を見つめていた。


「ありがとう、ルーファス」


「……緊張しているか」


「少しだけ」


嘘だ。本当は、とても緊張している。


生まれてから一度も、この王国を出たことがない。時計塔を離れたことも、数えるほどしかない。


それが今、隣国へ旅立とうとしている。


「リディア」


ルーファスが私の手を取った。


「俺がいる」


「……うん」


「お前の時間は、もう誰にも奪わせない。約束する」


「……ありがとう」


彼の手は温かい。職人らしい節くれだった指が、私の手を優しく包み込む。


「——リディア様!」


門の外から声が響いた。


振り返ると、王城の紋章を掲げた使者が馬を飛ばしてくるのが見えた。


「……来たわね」


「ああ。予想通りだ」


私たちは顔を見合わせ、小さく笑った。


使者が門前で馬を止める。息を切らしながら、書簡を差し出した。


「リ、リディア様……!第二王子殿下より、至急のお召しです……!」


「……お召し?」


「は、はい!殿下は、リディア様に王城へ戻るよう——」


「戻る?」


私は首を傾げた。


「何故ですの?」


「そ、それは——殿下のご容態が——」


「ご容態?お体を悪くされているのですか?それは大変。お見舞いの品でも送りましょうか」


「い、いえ、そうではなく——殿下は、リディア様に——」


「私に、何を?」


使者が言葉に詰まる。私は穏やかに微笑んだ。


「仰ってくださいな。私は殿下の『元』婚約者。今はただの一介の令嬢ですわ。殿下のお召しに応じる義務はございません」


「で、ですが——」


「それとも」


私は懐中時計を取り出した。


「殿下は、一度壊したものを、また拾おうとなさっているのかしら?」


「——っ」


「残念ですけれど」


懐中時計を閉じる。カチリ、と小さな音が響いた。


「時は巻き戻せませんの、殿下」


使者の顔が蒼白になる。


「お伝えください。『リディア・フォン・クロノワールは、本日をもってこの国を発ちます。殿下のご多幸を、心よりお祈り申し上げます』と」


「そ、そんな——」


「さようなら」


私はルーファスの手を取り、馬車に乗り込んだ。


扉が閉まる。馬車が動き出す。


窓の外で、使者が呆然と立ち尽くしているのが見えた。


「……よかったのか」


「ええ」


私は微笑んだ。今度は、心からの笑顔で。


「もう、振り返らないわ」


馬車が街道を進む。


時計塔が、少しずつ遠ざかっていく。


私は懐中時計を握りしめた。


——さようなら、王国。さようなら、殿下。


私の針は今、新しい時を指している。



【視点:アルヴィン】


「——何だと」


私は使者の報告を聞き、玉座から立ち上がった。


「リディアが、国を出た……?」


「は、はい……。隣国シルヴァティカへ向かったと……」


「ふざけるな!」


私は近くの花瓶を薙ぎ払った。


陶器が砕け散る。花が床に散らばる。


「あの女……!私を置いて、逃げるつもりか……!」


「殿下、お気を確かに——」


「黙れ!」


私は鏡を見た。


——そこに映るのは、かつての自分ではなかった。


白髪が増え、肌には皺が刻まれ、目の下には深い隈。


二十三歳のはずが、四十代にしか見えない。


「……こんなはずでは、なかった」


私は鏡に拳を叩きつけた。


「こんなはずでは……!」


婚約破棄をした時、リディアは泣くと思った。縋ると思った。許しを乞うと思った。


なのに、あの女は——


『お気持ちは、確かに刻みました。ですがもう、私の針は貴方を指しておりません』


「……っ」


あの瞬間の、あの女の目を思い出す。


金色の瞳。針のように細くなった瞳孔。まるで——時計の文字盤のような。


「殿下」


扉が開く。エステルだ。


「エステル……」


「殿下、私が参りました……殿下のお傍に——」


「——っ」


私はエステルを見た。


蜂蜜色の巻き毛。露草色の瞳。桜色の唇。


美しい。確かに美しい。リディアよりも、ずっと。


なのに——


「……お前のせいだ」


「え……?」


「お前が、リディアの悪口を吹き込んだ。お前が、婚約破棄を唆した」


「で、殿下……?」


「お前のせいで——私はこんな姿に——!」


「ち、違います!私は、殿下のためを思って——」


「嘘をつけ!」


私はエステルの腕を掴んだ。


「お前は最初から、私を利用するつもりだったのだろう!?没落寸前の男爵家を救うために——!」


「い、痛い……!殿下、離して——」


「離すものか!お前だけは、絶対に——」


「——殿下、それ以上はおやめください」


冷たい声が響いた。


兄上——セドリックだ。


「兄上……」


「見苦しいぞ、アルヴィン。女に当たり散らすとは」


「で、ですが——」


「エステル嬢も、お前に利用されたのだろう。お互い様だ」


兄上がエステルを見る。エステルは私の手を振り払い、後ずさった。


「——もう、耐えられませんわ」


「エステル……?」


「こんな……こんな老いぼれのために、人生を捧げるつもりはありませんの!」


「——何だと」


「最初から、間違いでした……!あんな地味な女を追い出せば、全てが手に入ると思ったのに——!」


エステルが踵を返す。


私は呆然と、その背中を見つめていた。


「……やはり、か」


兄上の声。


「最初から分かっていた。あの女は、お前を愛してなどいなかった」


「……」


「リディア嬢は、五年間お前に尽くした。お前の傲慢を、愚かさを、全て受け止めて」


「……黙れ」


「だがお前は、彼女の価値に気づかなかった。見ようともしなかった」


「黙れと言っている!」


「これが、その結果だ」


兄上が杖をついて、部屋を去っていく。


「自業自得だ、弟よ。せいぜい——」


「——待て、兄上!」


「何だ」


「リディアを……連れ戻す方法は、ないのか……?」


兄上が振り返る。


その紫の瞳には、憐れみすらなかった。


「ないな。お前が壊したものは、二度と戻らない」


扉が閉まる。


私は一人、崩れ落ちた。


「リディア……」


今更、その名を呼んでも。


彼女の針は、もう私を指していない。


◆◆◆


第四章 シルヴァティカの月光


【視点:リディア】


国境を越えてから三日。


私たちの馬車は、シルヴァティカ王国の首都に到着した。


「……綺麗」


思わず声が漏れた。


窓の外に広がるのは、月光に照らされた白亜の街並み。建物の壁には銀の装飾が施され、夜空には満天の星が輝いている。


「月の王国、と呼ばれている」


ルーファスが静かに告げた。


「この国は、夜を愛する民の国だ」


「……素敵ね」


「ああ」


馬車が王城の門をくぐる。


門前には、礼装の騎士団が整列していた。そして——


「ようこそ、シルヴァティカへ。刻守の巫女殿」


銀髪に蒼い瞳の青年が、穏やかに微笑んでいた。


「私はこの国の王太子、エドワルド・シルヴァティカ。貴女のお越しを、心よりお待ちしておりました」


「……光栄ですわ、殿下」


私は馬車を降り、礼を取った。


エドワルド殿下は——アルヴィン殿下とは、まるで違っていた。


同じ王族でも、纏う空気が違う。傲慢さではなく、静謐な威厳。見下す視線ではなく、敬意を込めた眼差し。


「長旅でお疲れでしょう。まずは休息を。時計塔の修復については、明日改めてご説明いたします」


「ありがとうございます」


「そして——」


殿下の視線が、私の隣に立つルーファスに向けられた。


「お久しぶりです、従兄上」


「——っ」


私は息を呑んだ。


従兄上?


「……ああ、久しぶりだな。エドワルド」


ルーファスが——いつもの寡黙な態度を崩さずに——答えた。


「ルーファス……?」


「説明は後だ、リディア」


「……」


私は黙って頷いた。


(後で、絶対に聞かせてもらいますわよ……!)



与えられた客室は、王国の貴賓室だった。


天蓋付きの寝台、銀の燭台、月光を映す大きな窓。私が王国で過ごしていた部屋よりも、遥かに豪華だ。


「……で?」


私はルーファスを振り返った。


「説明してもらえるかしら、『従兄上』?」


「……ああ」


ルーファスが窓辺に立ち、月を見上げた。


「俺の母は——シルヴァティカ王家の姫だった」


「……!」


「政略結婚でお前の国に嫁いだが、政変に巻き込まれて命を落とした。その前に——俺を逃がした」


「それで、時計職人として……」


「ああ。身分を隠して、お前の国で生きてきた」


「……何故、言ってくれなかったの」


「言う必要がなかったからだ」


ルーファスが振り返る。銀灰色の瞳が、月光を受けて輝いていた。


「俺にとって、身分など意味がない。俺が守りたかったのは、お前だけだ」


「……ルーファス」


「お前が王子に縛られている間、俺は何もできなかった。ただ傍で見ていることしか」


「……」


「でも、もう違う」


彼が一歩、近づいてきた。


「お前は自由だ。そして俺は——」


「……」


「俺には今、お前を迎える資格がある」


「資格……?」


「シルヴァティカ王家の血筋として。そして——」


彼の手が、私の頬に触れた。


「十年以上、お前だけを想ってきた男として」


「——っ」


心臓が、大きく跳ねた。


「リディア」


「……何」


「俺と、来てくれるか」


「……どこへ」


「どこへでも。お前が望む場所へ」


「……」


私は彼を見つめた。


夜を溶かしたような黒髪。月光を宿した銀灰色の瞳。


十年以上、私の傍にいてくれた人。私の苦悩も、強さも、全てを知った上で——それでも、私を想い続けてくれた人。


「……ずるいわ」


「何がだ」


「そんな風に言われたら、断れないじゃない」


「断る気があったのか」


「……ないわよ、最初から」


ルーファスが笑った。


片方だけ目尻が下がる、あの笑い方。


「——ありがとう、リディア」


「……こちらこそ」


彼の腕が、私を包み込んだ。


温かい。彼の体温が、月光の冷たさを溶かしていく。


「お前の時間を、今度こそ幸せなものにする」


「……うん」


「俺の全てを賭けて」


「——うん」


窓の外で、月が優しく輝いていた。


私の懐中時計が、静かに時を刻む。


新しい時を。幸せな時を。


——私の針は今、この人を指している。


◆◆◆


終章 私の時計は今、最も美しい時を刻んでいます


【三ヶ月後——】


シルヴァティカの時計塔は、かつての栄光を取り戻していた。


白銀の塔が月光を受けて輝き、精巧な時計盤が正確に時を刻む。私の祈りを受けた歯車が、静かに、確実に回り続けている。


「……完成ね」


私は塔の頂上に立ち、眼下に広がる首都を見下ろした。


「ああ。見事な仕事だった」


隣に立つルーファスが、穏やかに微笑む。


「貴方のおかげよ。私一人では、ここまで綺麗に直せなかった」


「俺はただ、お前の手伝いをしただけだ」


「謙遜しないで。貴方の腕がなければ——」


「リディア」


「何?」


「——もうすぐ、式だ」


「……そうね」


私は頬が熱くなるのを感じながら、目を逸らした。


三ヶ月前。シルヴァティカに到着した翌日、エドワルド殿下から正式な申し出があった。


ルーファスを王族として復帰させること。そして——私を、彼の正式な伴侶として迎え入れること。


「緊張しているか」


「……少しだけ」


「嘘つけ。顔が真っ赤だ」


「うるさいわね……!」


ルーファスが笑う。私も、つられて笑った。


「——リディア」


「何?」


「幸せか」


「……」


私は懐中時計を取り出した。


亡き母から受け継いだ、銀細工の美しい時計。その針は今、静かに、確実に動いている。


「ええ、幸せよ」


「そうか」


「貴方は?」


「俺か?」


ルーファスが私の手を取った。


「俺は——十年以上、この日を待っていた」


「……」


「お前と並んで、同じ時を刻める日を」


「——ルーファス」


「だから——ああ、幸せだ。これ以上ないくらいに」


彼の銀灰色の瞳が、月光を受けて輝く。


私は微笑んで、彼の手を握り返した。



【同じ頃——王国にて】


【視点:第三者】


王国は、混乱の極みにあった。


時計は狂い、作物は枯れ、貿易は停滞し——民衆の不満は頂点に達していた。


「——全て、あの女のせいだ」


第二王子アルヴィンは、もはや見る影もなかった。


三ヶ月前は二十三歳だった青年は、今や六十を超えた老人にしか見えない。白髪は抜け落ち、肌は土気色に変わり、かつての美貌は完全に失われていた。


「リディアが……リディアさえ戻れば……」


「殿下、お気を確かに」


「黙れ!あの女を連れ戻せ!今すぐに!」


「し、しかし、リディア様はすでにシルヴァティカ王国の——」


「知るか!俺は王子だ!俺の命令は絶対だ!」


——哀れな男だった。


自分が何を失ったのか、最後まで理解できなかった男。


時を司る巫女を傷つけ、追い出し——そして、その報いを受けた男。


「……殿下」


扉が開く。第一王子セドリックだった。


「兄上……リディアは、リディアは戻ってくるのか……?」


「戻らんよ」


「嘘だ!あの女は、俺を愛して——」


「愛していなかった」


セドリックは冷たく告げた。


「彼女は最後まで、お前を愛してなどいなかった。ただ——責務のために、耐えていただけだ」


「……っ」


「そしてお前は、その責務すら踏みにじった」


「……」


「これが、その結果だ」


セドリックが背を向ける。


「——待て、兄上」


「何だ」


「エステルは……エステルはどうなった……」


「ああ、あの女か」


セドリックは振り返らずに答えた。


「詐欺と王家侮辱の罪で、昨日処刑された」


「——っ」


「最後まで『あの女が悪い』と叫んでいたそうだ。誰のことかは、言うまでもないな」


扉が閉まる。


アルヴィンは一人、崩れ落ちた。


「……リディア」


今更、その名を呼んでも。


「俺の時間を……返してくれ……」


彼女の針は、もう彼を指していない。



【視点:リディア】


式の日は、満月だった。


白銀のドレスを纏い、月光に照らされた礼拝堂に立つ。


傍らには、ルーファス。


黒い礼装に身を包んだ彼は、いつもより少しだけ緊張しているように見えた。


「……緊張している?」


「少しだけ」


「嘘つけ。手が震えてるわよ」


「……うるさい」


私たちは顔を見合わせ、小さく笑った。


司祭の声が響く。誓いの言葉が交わされる。


そして——


「新郎、新婦に誓いの口づけを」


ルーファスの手が、私の頬に触れた。


「——愛している、リディア」


「……私も」


唇が重なる。


温かい。彼の体温が、私を包み込む。


拍手が響く。祝福の声が響く。


私は彼の胸に顔を埋め、静かに涙を流した。


——ああ。


五年前、婚約が決まった時。私は泣かなかった。


五年間、殿下に仕えていた時も。婚約破棄を告げられた時も。


泣けなかった。泣く資格がないと思っていた。


でも、今は——


「……リディア?」


「ごめんなさい……嬉しくて……」


「泣き虫だな」


「うるさい……」


ルーファスが笑って、私を抱きしめた。


「——おかえり」


「……ただいま」


私は微笑んで、懐中時計を見つめた。


銀細工の美しい時計。その針は今、最も美しい時を指している。



窓の外で、シルヴァティカの時計塔が時を告げた。


澄んだ鐘の音が、月光の中に溶けていく。


私は新しい時計塔の守護者として、この国の時を守っていく。


愛する人と共に。幸せな時を刻みながら。


——私の時計は今、最も美しい時を刻んでいます。


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― 新着の感想 ―
とても素敵なお話ありがとうございました。時計好きなので、面白く読めました。不思議で美しい、でも残酷な「時」を見事に書きあらわした物語、堪能しました。
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