第99話 バレンタインデー【未来16歳/沙織28歳】
2月13日。
私はキッチンに立って、大きく息を吐いていた。
(明日は、バレンタインデー。今年はいつもと違うチョコを沙織さんに渡すんだ…)
毎年、私の気持ちと一緒に沙織さんにチョコレートは渡している。でも、そのチョコは市販のものばかりで、手作りチョコに挑戦したことは無かったのだ。
(でも、今年は…)
私は、そっと唇に手を触れた。
そして、沙織さんのことを思う。私の沙織さん。大事な沙織さん。この気持ちを伝えるには、もう市販のチョコじゃ物足りない。
エプロンをつけて、ボウルを取り出すと、板チョコを割った。
緊張する。失敗したらどうしよう…普通に買えば、美味しいものを渡すことができるのに、わざわざ自分で作って、そして美味しくないものができたら…沙織さんに、変な顔されてしまうかもしれない。
(ううん、大丈夫)
沙織さんなら、絶対に喜んでくれる。そう信じながら、お湯を沸かしていく。ぐつぐつと大きな泡が出始めたので、割ったチョコを入れたボウルをそっと浮かべる。
湯煎。
(温度に気を付けて…焦がさないように…ゆっくり…ゆっくり…)
ボウルの中でチョコレートが溶けていくのを、じっと見つめていく。
キッチンが甘い匂いで包まれていき、なんか、バレンタインデーが近づいてきたんだな、と実感が湧いてくる。
(沙織さん…)
どうして、こんなに沙織さんのことが好きなんだろう。8歳の時に一目惚れして以来、私の心の中にはずっと沙織さんがいる。この気持ちは年々大きくなってきていて、もう私の中身は沙織さんで一杯になっている。
(好き…大好き)
この好きっていう気持ちを、形にしたい。
木べらでチョコレートを混ぜながら、ずっと沙織さんのことを想う。この想いが手から木べらに伝わって、そのままチョコレートにまで混ざりこんでいくんじゃないかな、と思う。
それが、手作り、ってことなのかな。
沙織さんと初めて出会った日のことを思い出す。
8歳の私は、初めて会った叔母があんまり綺麗だったから、一目で恋に堕ちて、そして、思わずこう言ったんだ。
「けっこん、してください」
ふふ…あはは。
ちっちゃい頃の私、馬鹿だなぁ。今ならわかる。叔母と姪で、12歳も年が離れていて、女と女なんだから、結婚なんてできるわけないって。
溶けたチョコに生クリームを少しずつ加えていく。混ぜすぎないように、でも分離しないように。
気を付けて、気を付けて。
私の心が混ざりこんでいくチョコレートを眺めながら、私は心のうちをそっとつぶやいた。
「結婚、してください」
今の私も馬鹿だった。
8歳の私は、何も知らないから無責任にその言葉を出すことができた。
16歳の私は、全部を知った上で、それでも溢れる想いを止めることができないから、この言葉が漏れ出してくる。
(教師と生徒)
(秘密)
この関係は…いつか終わりが来てしまうのかもしれない。学校に、世間に、お父さんに、バレてしまって、消されてしまう運命にある関係なのかもしれない。
(それでも)
自分の気持ちに嘘をつくことは出来ない。私は、沙織さんが好き。大好き。だからこそ、大好きな人と…これから先も、一生、一緒に生きていきたい。
型に流し込むチョコを、慎重に整える。
表面をトントンと叩いて、空気を抜いていく。
(美味しくできるかな)
チョコレート。私の気持ち。
明日はバレンタインデー。
1年に1回、自分の気持ちを堂々と伝えることができる日。
(私の気持ち)
沙織さんは、絶対にチョコレートを受け取ってくれる。もう、チョコを受け取ってもらえるかもらえないかなんて悩む関係は…とうに過ぎている。
私と沙織さんは恋人で、お互い好きあっていて、私の気持ちは沙織さんに届いていて、沙織さんの気持ちも私に届いている。
(大好き)
だから、もう、この先を。
気持ちの先にある未来を。
一緒に、背負ってもらいたいって思うのは、私の我儘なんだろうか。
出来上がったチョコレートを冷蔵庫に入れる前、いろいろな考えが頭に浮かんだ。
(頑張れ、私)
冷蔵庫の扉を閉じて、目をつむる。
8歳の頃の私が、笑顔で手を振りながら、応援してくれている気が、した。
■■■■■
2月14日。
バレンタインデー当日。
校内はなんとなく、桃色に包まれているような気がする。
普段と変わりない平日のはずなのに、甘い香りが漂っているような気がする。
「未来…これ」
凛から、綺麗な包装紙に包まれたチョコレートを渡される。
「別に、お返しとかはいいからね。知っていると思うけど…でも、改めて、気持ちだけ伝えさせて」
教室内なのに、堂々と渡してくる凛が、いつもより凛々しくかっこよく見える。黒髪が綺麗で、その瞳もまっすぐ私に向けられていて、そして、この気持ちに応えてあげることが出来ないのを申し訳なく思ってしまう。
「凛…」
「何も言わないで」
ただ、渡したいだけだから。
そう言うと、凛は自分の席に戻っていった。
私の手には、凛からもらったチョコレート。凛の手には、何もない。
バレンタインデーは、素敵な一日で、そして、残酷な一日だ。
私の鞄の中には、チョコレートが入っている。
1個だけ、入っている。
このチョコレートを渡す相手は決まっていて…それは、凛ではないのだった。
人を好きになるっていうことは、好きじゃない人を選ぶっていうことなのかもしれない。
でも、それでも。
私は選んだのだから、だから、せめてこの気持ちに正直になることが、選ばなかった相手への最低限の礼儀、なのかもしれなかった。
■■■■■
放課後。
私は、今日は生徒会室に行けない旨を凛に伝えていた。
これは一番、残酷なことかもしれないけど…分かっていながら、あえて、そうしていた。
「うん…」
凛の瞳が潤んでいるのが分かった。
私はなんてひどいことをしているんだろう、と思った。
自分を好きです、と言ってくれた相手に対して、あなた以外の人に好きって言うんだよ、と伝えているようなものなのだから。
「…未来…がんばってね」
でも、凛は。
私の大事な親友は、そっと私の背中を押してくれた。
涙が出そうになる。けれど、ここで泣いてしまったら、それは凛に対しても、私に対しても失礼なことだから、
「うん、ありがとう…凛」
とだけ言って、私は教室を出ていった。
歩く。
歩く。
いろんな人とすれ違う。
笑っている人。
普通の人。
あの人はチョコレート渡したのかな。
あの人は?あの人は?
そもそも、バレンタインデーだからといって、浮かれている人だけじゃない。別に普通の、ただの何でもない一日として過ごす人の方が大半なのかもしれない。
生徒会室には向かわないけど、生徒会室の方を眺めてはみる。
ちょうど、歩いている2人の姿が見えた。
雪原くんと、朝比奈さん。
私の可愛い後輩。
なんかいつもより…距離が近い気がする。
もしかしたら、あの2人も、チョコレートを渡したのかな。
(バレバレだもん)
少し、笑う。
バレバレ。恋をしている女の子は、周りにすぐにバレてしまう。
輝いて見えるから。
(だから、たぶん私も)
いろいろ、バレバレなんだろう。
私は、ずっと恋をしているから。
8歳の頃から、ずっと、同じ人に、恋をしているから。
待ち合わせ場所につく。
校舎の裏側。大きな木の下。
ちょうど死角になっていて、誰にも見られない場所。
…たぶん、見られない場所。
(はぁ…)
緊張する。
手にした昨日つくったチョコレートが、私の緊張で溶けてしまわないかな。
(バレンタインチョコレート)
今まで、毎年、ずっと沙織さんに渡していた。
でも、学校で渡すのは初めての経験だった。
本当なら、誰にも見つからない場所で渡すべきだと思う。わざわざ学校でなんて、他の人に見つかる可能性のある危険を犯すべきではないとは思う。
(けど)
止められない。
私は…馬鹿だから。
この溢れる気持ちを抑え込むことなんて、できなかった。
「…未来」
私の名前を呼ぶ声が聞こえた。
世界で一番好きな声。
木漏れ日の下、沙織さんの姿が見えた。
「沙織さん…」
スーツ姿。校内だから当たり前かもしれないけど、沙織さんはスーツ姿で…つまり、教師の格好をしていた。
私はもちろん、制服。どこからどうみても、高校生の姿だ。
女子高生と、担任の教師。
学校内で会うのは当たり前の姿なのだけど、バレンタインデーにチョコを渡しあう姿としては…あってはならない姿、だとは思う。
「ごめんなさい、こんなところに呼び出したりして」
「ううん、いいのよ」
…私だって、同じだから、と沙織さんは言ってくれた。
同じ…同じ、なんなのだろう。
同じように呼び出したかった?同じように会いたかった?同じように…キス、したかった?
風が吹く。
2月の風は、冬と春の間の風で、まだ冷たいけど、その中に暖かさが混ざっているような気がする。
「沙織さん」
私は、手にしていたチョコレートを取り出した。昨日頑張って作った、手作りチョコレート。私の気持ちがつまったチョコレート。
「未来」
沙織さんも、チョコレートを手にしていた。私でも知っている、高級ブランドのチョコレート。この街には売っていない。もっと離れた街にある、特別なお店。私のために準備してくれていたんだ、買いに行ってくれていたんだ、そう思うだけで、もう心が溢れそうになる。
「好きです」
「好きよ」
そう言って、お互いのチョコレートを交換する。
交換するとき、沙織さんの指がちょっと私の手に触れて、それだけで気持ちよくなって、幸せを感じてしまう。
(…)
しばらく、見つめ合う。
沙織さん、綺麗な沙織さん。
うるんだ瞳で私を見てくれている沙織さん。
好き。
そして、沙織さんも、私のことが好き。
自分の好きな人が、自分を好きでいてくれるなんて、こんな幸せなことがあってもいいんだろうか。本当に現実なんだろうか。
渡してもらったチョコレートを、ぎゅっとする。
沙織さんの気持ちが詰まっているチョコレート。
見ると、沙織さんも。
私の気持ちが詰まったチョコレートを愛おしそうに抱きしめてくれていた。
食べてもらいたい…私の気持ちと一緒に、沙織さんに食べてもらいたい。
変わらない気持ち。
初めて会った時から、8歳の時から、ずっとずっと、変わらない気持ち。
好き。
大好き。
一目惚れ。
今でもずっと、一目惚れしてる。
ふと。
8歳の私が、背中を押してくれた気がした。
ふと。
凛が、背中を押してくれた気がした。
私は一歩前に出ると。
沙織さんを見る。
今では私の方が大きくなった。
見上げるんじゃない。
まっすぐに、同じ視線で。
口を開く。
「沙織さん…」
息を吸って、吐いて、そして。
「愛しています」
告白して。
風が吹いて。
昔から変わらない気持ちを…ううん、昔よりずっと大きくなった気持ちを、伝える。
「私と…結婚してください」




