第9話 好きなの【未来8歳/沙織20歳】
朝の光が、部屋のカーテンの隙間から差し込んできた。
いつしか夏も終わり、季節は秋になっていた。
少し冷たくなってきた風が部屋に流れ込んできて、カーテンを揺らしている。
「未来、起きる時間だよ。まだお寝坊さんしているのかい?」
階下から、お父さんが私を呼ぶ声がしてきた。
寝ぼけたまま、のそりとベッドから出て、目をこすりながら階段をおりていく。
リビングに行くと、エプロン姿のお母さんが立っていた。
トーストの焦げた匂いと、コーヒーの香りが混ざって鼻腔を刺激する。
「ちゃんと起きてきたね、ねぼすけ」
「ふわぁ…お母さん、おはよう」
「未来、おはよう」
「おはよう、お父さん」
椅子を引いて、座る。テーブルに置かれたトーストを手に取り、口にいれる。
美味しい。
「未来もコーヒー飲んでみる?」
「苦いからいやー」
「この味の良さが分からないとは、まだまだお子さんだなぁ」
お母さんは髪をまとめながら、私のほっぺたを軽くつついてくる。
「えいえい」
「もう、やめてよー」
相変わらず、お母さんは少しうざい。にこにこしながらいつもちょっかいを出してくる。
お母さんはテーブルの上に置かれていた牛乳パックを手に取って、コップにそそいだ。
「はい、お子さんの未来、牛乳ですよー。赤ちゃんみたいでちゅねー。ちゃんと飲むんで大きくなるんですよー。お父さんの代わりに見張っていてあげるねー」
「…うー、朝からうるさいなー。まるで監視しているみたいじゃん」
「これはね、監視じゃなくって、愛情、って言うんだよ♪」
そう言うと、お母さんはにこっと笑った。
こんな私たちをテーブルの向こう側から見ていたお父さんが、「相変わらず、2人とも仲がいいねえ」と、新聞をめくりながらぼそりと呟いた。
「あれれ?あなたも寂しがってる?かまってほしい?コーヒーやめて牛乳のむ?牛乳?」
お母さんがけらけらと笑って、お父さんにも絡み出していく。
やれやれ、まったく君は、と言いながら、満更でもなさそうなお父さん。
私がむくれて、お母さんがそれをからかって、お父さんもにこにこしている、そんな朝。
こんな、なんでもない、我が家のいつもの朝だった。
◾️◾️◾️◾️◾️
「いってきまーす!」
そう言って赤いランドセルを背負って玄関を出ると、外の空気はすっかり秋めいていた。
すこし大きめの影を道に落としながら、小学校に向かって歩いていく。
潮風を感じながら家の角を曲がったところで、ふと、見覚えのあるシルエットが目に入った。
私が見間違えるはずもがない。
私の、大好きな人のシルエット。
「沙織さーん!」
嬉しくなって、たったったっと走りはじめる。
私の声を聞いて振り返った沙織さんは、柔らかなブラウスにショルダーバッグをかけていた。
大学に向かう途中なんだろう。風に長い黒髪が流されて、それをまとめる仕草が大人びて見えた。
相変わらず…素敵。
「おはよう、未来ちゃん。今日も朝から元気そうだね」
「うん!だって、朝から沙織さんに会えたんだもんっ!」
心の中の気持ちを、そのまま吐露する。
沙織さんは少しとまどった顔をした後、にこりと笑ってくれた。
「有難うね」
「えへへー。沙織さんも大学にいくの?」
「うん、今日はゼミなんだ…でも、少しだけ緊張してるかも」
発表があるんだけど、まだうまくまとまっていなくて…教授に指摘されちゃうかも、と言いながら、沙織さんは小さく笑った。
やっぱり、綺麗。
そんな沙織さんを見ていると、なんだか胸の奥がふわふわしてくる。
「ねえ沙織さん」
「なあに?」
「大人になったら、わたしも沙織さんみたいに素敵な女性になれるかな」
私の問いかけに、沙織さんは少し目を大きく見開く。長いまつ毛がみえる。
そして、それから優しい表情を浮かべる。
「ふふ、それは未来ちゃん次第だね。……でも、きっとなれるよ」
そう言いながら、そっと、私の頭を撫でてくれた。
その一言が、秋風よりもあたたかく、私の胸にしみこんできた。
「それに…」
ぽんぽんって私の頭を撫でてくれた後、沙織さんはにこっと笑うと、言葉を続けた。
「未来ちゃんは、姉さんの子供なんだもの…絶対に、素敵な大人になれるよ」
そう言った沙織さんは、なんとも言えない表情をしていた。遠くを見つめているような、優しさと哀愁がまざったような、今朝の秋のような表情。
「お母さん、たしかに美人だけど…」
私だって、お母さんのこと大好きだけど、でも、それ以上に。
「でも、沙織さんの方が、ずっとずっと、素敵だもんっ!」
「うふふ、未来ちゃん、有難うね」
そのまま2人で並んで歩く。
波の音が聞こえる。潮の香りがする。
隣の沙織さんから、いい匂いがする。
心の中が、どきどきする。
このままずっとずっと一緒に歩いていたかったけど、小学校と大学への道は違っていたので、途中で別れることになってしまった。
「じゃあね、未来ちゃん。小学校、頑張ってね」
「沙織さんこそ、大学頑張ってください!」
手を振って別れたあとも、未来は何度も振り返ってしまう。沙織さんの後ろ姿を目で追ってしまう。
それは、まるで陽だまりを持ち帰りたくなるような気持ちだった。
◾️◾️◾️◾️◾️
学校では、颯真と美月がもう教室に来ていた。
颯真は黒いランドセルを机にどんと置くと、私の方をみていじわるそうに笑った。
「未来ー!今日は忘れ物してないだろうな?」
「今日はって、まるで私が毎日忘れ物してるみたいに言わないでよ」
「だって未来、昨日ノート忘れたって騒いでいたじゃないか」
「もー、うるさいなー」
颯真はいつも私にからんでくる。まるで俺小さなお母さんみたい、うざい。
こんな私たちを見ていた美月が、くすくす笑いながら声をかけてきた。
「ねえ、颯真、あんまり未来にいじわる言わないの」
「別にいじわるじゃねえよ。俺は心配してあげてるんだっての」
「なにを?」
「こんなんじゃ、未来が立派な大人になれないかもしれないじゃないか」
「お母さんか!」
思わず私がつっこむ。
笑って、颯真がはしゃいで、美月がたしなめる。
いつもの光景。
当たり前になった、私の日常。
私は、ランドセルを整理しながら、ふと心の中でつぶやいた。
(なんか、いいな)
この三人の時間、好きだな。
颯真の笑い声も、美月のやさしい目も。
全部、宝物みたいに思える。
チャイムがなった。
1日がはじまる。
私は机に座って、外を眺めながら、朝の沙織さんの笑顔を思い出していた。
ぬくもりを胸の中で抱えたまま、そっと息を吸った。
なんでもないはずの朝なのに、沙織さんの存在が、こんなにも大きくなっているのが分かった。
…やっぱり、好き。
大好き。
気持ちが溢れてきて…止まりそうにない。
◾️◾️◾️◾️◾️
放課後。
私たち3人は、図書室にいた。
今日出されたたくさんの宿題を3人で協力して終わらせよう、という魂胆だった。
放課後の図書室にいるのは、私たち3人だけだった。
窓際の席に3人並んで座り、ノートを広げる。
真面目な美月はノートに細かい文字を一生懸命並べて書いていて、不真面目な颯真はペンをくるくる回しながら、すでに宿題の完成を諦めていた。
颯真は問題集を閉じると、ひそひそ話を美月とはじめた。
「…なぁ、美月」
「なに?」
「未来、ぜんぜん集中してないよな」
そう言いながら、私をみる。
集中していないのは颯真もじゃない…と抗議しようかとも思ったけど。
あらためて自分のノートを見て、愕然としてしまった。
私、開いたままのノートの上に、さっきから同じ文字ばかりをぐるぐると書いていた。
「沙織さん」
この文字だけを、たくさん。
「ごめんね、ちょっと、ぼーっとしていたみたい」
「未来がぼーっとするのはいつもの事だけど…」
心配そうに、美月が私をみつめてくる。
「なにか、悩んでいる事でもあるの?」
美月の声は、どこまでも優しかった。
私は曖昧に笑うと、ペンのキャップを閉じた。
「…悩んでいるように見える?」
「見えたから、聞いてみたんだよ」
「…そう、だよね」
「未来に悩みなんて似合わねぇよ」
颯真が苦笑まじりに口を挟んでくる。
私は少し息を吸って、吐いて、そして。
迷いながら、言葉を選んだ。
いいのかな。
この2人になら、相談しても、いいのかな。
心臓が、静かに高鳴っていた。
「ねえ、ふたりとも。……変なこと、言ってもいい?」
「お、怖いな」
「どうしたの、未来?」
息を吸う。
「…私ね、好きな人、いるの」
一瞬、空気が止まった。
外の風の音が、やけに大きく聞こえる。
美月の手が止まり、颯真の笑いが引きつる。
「好きな人って、どういう……その、あの、えっと…」
「誰だよ!?」
美月と颯真が、同時にきいてくる。
私は俯いたまま、小さな声で答えた。
「…沙織、さん」
沈黙。
紙をめくる音も、遠くの足音も消えて。
ただ、私の心臓の鼓動だけが耳の奥で鳴っていた。
颯真が、ようやく口を開く。
「え…沙織さんって…あの…」
未来の、叔母さんの事?
信じられない、というように、私の瞳を見つめてくる。
私は、こくんとうなづく。
「…うん。その、沙織さん」
私の返事を聞いて、颯真は黙った。今まで見たことがないような表情をしている。
かわりに質問してきたのは、美月の方だった。
「その好きって、家族としての、好きってこと?それとも…恋人にしたいって方の、好きってこと?」
「……恋人にしたいって方の、好き」
再びの、沈黙。
私たち3人しかいない図書室は、まるで湖の底にいるかのように、静かだった。
「……それは、ちょっと……」
沈黙を破ったのは、颯真だった。
「…変、だよ」
言葉が、私の心を突き刺す。
氷の刃が、私の心臓に杭を打ったかのようだった。
颯真の瞳の中に、今まで私が見たことがないような色が混じりこんでいた。
異質なものをみるかのような、困惑した、深い黒曜石のような色。
「……変、かな」
絞り出すように言葉を続ける。
胸の奥がちりちりとしてくる。
「だって…だって沙織さんって…未来のお母さんの妹さんだろ?」
「…うん」
「家族じゃないか」
「…うん」
「それに…」
颯真の言葉が痛い。
私の中に染み込んでくる。
「沙織さん…女じゃないか」
「…」
返事はしない。
できない。
「それに、歳の差だって…」
「12歳」
こたえる。
こたえた。
こたえて、しまった。
「…女同士で、家族で、歳の差あって、それって」
いたい。
いたい。
言葉が、いたい。
「…そういうのって…普通、じゃないよ」
痛い。
痛い。
痛い。
心が、痛い。
でも、何より痛いのは。
瞳。
颯真の瞳。
その、困惑した、黒い黒い深みの底に。
たしかに、「心配」を、感じ取れることだった。
“普通じゃない”――
その言葉が、胸の中でひどく冷たく響いた。
その言葉が、私を心配してくれる颯真の口から出てきたことが、私を思ってくれていることが、ちゃんと、はっきり、しっかりと伝わるからこそ。
本当のことなんだ、と、実感がわいてくる。
「そう、だよね」
私は笑おうとした。
にこって笑って、嘘だよー、嘘。冗談冗談、えへへへーって、笑おうとした。
でも唇が震えて、言葉がうまく出なかった。
喉の奥で、なにかがひっかかっているような感覚。
だって…この気持ちは…
嘘じゃない、から。
「未来」
美月が心配そうに私の名前を呼んでくれる。
でも、その優しさが、かえって私の心を凍らせてくる。
私のことを心配してくれて、私のことを思って正しいことを言ってくれて、それが分かるからこそ、だからこそ。
いまは、遠くに感じる。
「……ごめんね」
私は、ノートの上に書いた「沙織さん」という文字を見つめながら、声を絞り出した。
「普通じゃなくて、ごめんね」
私は、どうしてあやまっているのだろう。
どうして、こんなに心が苦しいんだろう。
どうして。
私は。
普通、じゃないんだろう。
「…でも」
優しい2人。
私のことを心配してくれる2人。
引越し先で出会った、私にとって、初めての「親友」とよべる存在の、2人。
そんな2人だからこそ、嘘はつけない。
ついちゃ、いけない。
「私…沙織さんのことが…お母さんの妹が…」
「年上の人が…」
「女の人が…」
たまらなく。
「好きなの」
再びの、沈黙。
2度目の、静寂。
張り詰めるような、空気。
颯真が、なにも言えずに視線をそらした。
美月は唇を噛み、静かに頷いていた。
2人の目の奥から見えるのは、同情や嫌悪などではなく…理解できないという、戸惑い。
「…ごめんね。気持ち悪いよね。こんな私でごめんね。嫌だったら、もう…友達じゃなくなっても、仕方ないよね。続けられないよね。でもね」
唾を飲み込む。
前を向く。
2人に付き合う。
口を、開く。
「…普通じゃなくても、私は、沙織さんが好き…恋人にしたい方の、好き。結婚したい方の、好き。ごめんね。私、この気持ちだけは…捨てられそうにないの」
もう、私の心は、沙織さんにとられちゃったから。全部全部、とられちゃったから。
初めてみたあの瞬間から、私の心は沙織さんのものになったから。
一目惚れ、したから。
すっごく美人だったから。
顔が好き。
まずは、顔が好きだから。
それから、声も好き。
匂いも好き。
私を優しく「未来ちゃん」と呼んで撫でてくれるその手が好き。
全部好き。
大好き。
この気持ちは、止められない。
私の声は震えていたけれど、それでも、どこまでも静かで、真っ直ぐだった。
美月が、そっとペンを置いた。
その手が、私の肩に触れそうになって…けれど、触れられなかった。
空気の中に、見えない線が一本引かれている。
友情と、恋と、理解と拒絶を隔てる、細い線。
「……未来」
美月の声は、かすかに震えていた。
そして、美月は、颯真を見つめた。
見つめ合い、うなづいて、息を飲んで。
それから。
手を、伸ばす。
2人の手が伸びて。
糸が。
ぷつんと、切れて。
私の肩に、のった。
あたたかい。
2人の手は、とけるように、あたたかかった。
「それで、いいの?」
私は、ゆっくりと頷いた。
だって…もう、どうしようもないから。
私は、普通、じゃないと…
そっちの方を。
今日、自覚して。
親友の前で。
親友2人の前で。
それを。
普通じゃない道を、
選んだ。