第86話 水族館デート【未来16歳/沙織28歳】
雨音で目が覚めて、ぼんやりした頭で窓を見つめた。
雨粒が窓にあたっているのがみえる。そのまま細い雨の線が垂れている。
今は五月。
梅雨には一か月ほど早いのに、雨音はやむ気配はなかった。
(せっかくの沙織さんとのデートの日なのに)
そう思うと、ため息をついた。
今日は日曜日。普段なら沙織さんとは平日しか会えないからあまり好きな曜日ではないのだけど、デートの約束をしている今日は別だった。一日中、沙織さんを独占できる。昨日からずっと楽しみにしていたのに。
「仕方ないか」
くよくよしていて雨が止むならいくらでもくよくよするのだけど、そうはならないのだから、悩むだけ時間の無駄だ。ならば、ちょっとでも明るい笑顔を沙織さんに見てもらいたい。
私はベッドから飛び降りると、壁にかかった大きな鏡の前に立つ。寝ぐせがひどい。まずはこれを直さないと…
鏡の前でにこっと笑う。
「可愛く、なるぞー!」
自分に言い聞かせるようにそう宣言すると、私は洗面台へと向かった。
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リビングに行くと、お父さんと茜さんの姿はなくて、かわりに玲央とつむぎが一緒に遊んでいた。
今日は朝から、「再婚一周年一か月前記念」として、お父さんと茜さんはプチ旅行として夫婦水入らずで出かけているのだ。仲がいいようで、嬉しい。
「お、起きたか、ねぼすけが」
「ねーちゃー、ねぼすけー」
テレビゲームのコントローラーを握ったまま、義兄の玲央と妹のつむぎが声をかけてくる。寝坊…というほど遅く起きたわけじゃないんだけど、両親とこの2人が早起きなだけだろう。
「おはよー」
そう言いながら、つむぎの頭をぽんぽん叩く。つむぎは嬉しそうに身体をゆすって、そのままゲーム画面のキノコ人間が運転していたカートが道を外れて壁に激突していった。
「あー、ねーちゃのせいでコースアウトしちゃったじゃない」
非難の声をあげる妹に、「ごめんねー」と謝りながら、食卓に向かう。そこには茜さんが用意してくれていたであろうサンドイッチが置いてあったから、手に取って食べる。
「今日は出かけるんだろ?」
「うん。夜までには帰るから」
「…楽しんでこいよ。つむぎは俺が見ておいてやるから」
「ありがと、ね」
そう言ってくれる玲央に感謝する。義兄が味方になってくれているのは、正直なところ、本当にありがたい。
玲央から言わせると、味方になったのではなく、共犯者に巻き込まれた、というものらしいけど。
玲央とつむぎはまた別のゲームを遊んでいた。今度は作業服のヒゲのおじさんが、マンマミーヤとか言いながら駆け回る世界的に有名なゲームだった。
(この2人、仲良くなったなぁ)
8割の嬉しさと2割の寂しさを感じながら、私はデートの準備をすることにした。
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家を出て、電車に乗って、地元からけっこう離れた目的の場所へと向かう。
(もしも沙織さんと一緒に暮らせていたら、この移動時間もずっと一緒にいられるのにな)
そう思って、ため息をつく。
私は高校二年生。まだ家から出ることはできないのだけど。
(…大学生になったら…)
ちょっと想像して、そして頭をふる。うん。まだ遠い先の未来のことは分からないけど、ちょっと先の楽しい未来のことだけを考えよう。
今日は一日、沙織さんとデートなんだ。
心がほわっと暖かくなる。
電車の窓の外では、雨がすごい勢いで後ろに向かって降っている。早くつかないかな、と思いつつ、この移動時間も、恋する人に会うまでの時間も、デートの一部なのかな、と雨に向かって夢想した。
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目的の駅についた時、雨は収まるどころかますます強くなっていて、アスファルトを濡らしていた。
空は灰色で、吹いてくる風は5月にしては少し冷たい。
(沙織さん…もう来てるかな…)
約束の時間まではまだあるけど、たぶん沙織さんは先に来て待ってくれているだろうという予感があった。
沙織さんは、いつでも、私の前を歩いていて、それで立ち止まっては私を振り向いて待ってくれているから。
滑らないように気を付けて走って、駅構内の待ち合わせの場所に向かう。
休日なので人も多いけど、私の目はすぐに大好きな人を見つけ出した。
白いブラウスに、雨の日でも似合う柔らかなカーディガン。
「ごめんなさい、遅くなりましたっ」
小走りで駆け寄ると、沙織さんは私を見て優しく笑ってくれた。
「ううん。私も今来たところだから」
駅に吹いてくる雨粒のせいか、沙織さんの髪が濡れているのが分かる。沙織さん、絶対にここで長く私を待っていてくれたはずなのに、私に気を使ってそんなことを言ってくれている。大好き。
「水族館までちょっと歩きましょうか」
そう言うと、沙織さんは自然に私に手を差し出してくれた。私も遠慮なく、その手を掴む。手をつなぐ。
ちらっと沙織さんの右手を見る。指輪、してくれている。えへへ。
今日は私の右手にも指輪がはめられている。普段、学校では見られないようにネックレスにしているんだけど、今日はデートだから、特別。
「すごく、楽しみです」
「私も…とっても楽しみ」
できるだけ雨があたらない場所を歩いていたのけど、ついに屋根が途切れてしまう。
傘を取り出すために、沙織さんは私とつないでいた手を離した。
手の平に空気が触れて、冷たくて、少し、寂しい。
鞄から折り畳みのベージュ色の傘を取り出している沙織さんを見て、私も自分の鞄から折り畳みの傘を出そうとする。
そんな私を見て、沙織さんはちょっと考えた後、耳打ちをしてきた。
「未来、少しだけ、濡れてもいい?」
そう言うと傘を開いて左手で持ち、私の右手の前に持ってくる。
「相合傘、しましょう…恋人みたいに」
いいながら、ちょっと恥ずかしそうに視線を逸らす。上気した頬に雨粒があたっている。可愛い…可愛くて仕方ない。
「もうっ、沙織さん、恋人みたい、じゃなくって、恋人ですよー」
嬉しくなって、傘を握っている沙織さんの左手に手を添える。
そしてそのまま、くっついて、私たちは雨の外へと一歩足を踏み出した。
頭上の傘にあたる雨音が響いてくる。
できるだけ濡れないように…できるだけ近づけるように、私と沙織さんは肩と肩を寄せ合う。
(…あ)
いい匂いがする。香水の匂い…ううん。香水だけじゃない、沙織さんそのものの匂い。ほっとして、落ち着く、優しい匂い。
雨音は私たちと外の世界を遮断してくれて、たくさん人がいるのに、世界は私と沙織さんの2人だけしかいないような錯覚におちいらせてくれる。
(どうしてこんなに、沙織さんの事好きなんだろう)
そう思いながら歩いてみるけど、よく考えたら、沙織さんと出会ってから沙織さんを好きでなかった時代なんてないのだから、考えるだけ無駄だった。
早々に考えることをやめて、沙織さんとの2人の時間を堪能する。
車の音、雨の音、傘に落ちる雨音の細かい響き。
世界は完璧だった。
「よく考えたら、雨の日に水族館に行くっていうのも、なかなか趣が深いかもしれないですね」
「そうかしら?」
「だって、水の中から、水の中に行くんですよ?」
「うふふ。たしかに、そうね」
沙織さんが笑ってくれる。笑った時の身体の振動が、合わせた手から直接私に伝わってきて、それだけで胸がじわっと暖かくなる。
水族館への道は、ちょっとだけ距離があって。
そこまで強くない雨だけど、傘から外れた私の肩と沙織さんの肩は少しだけ濡れてしまって。
濡れた肩は少し冷たいけど、それ以上に心が暖かいから、もう少し、この道を2人きりで歩いていたいな、と思った。
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水族館に入ると、外の雨音はほとんど聞こえなくなった。
雨音はしないけど、代わりに人のざわめきが多くなる。さきほどまで世界は私と沙織さんの2人きりだったのだけど、今は人の世界に戻されたような気がしていた。
チケットを買って、中に入る。
ちなみにチケット代は、私もちゃんと出した。
「私、社会人なんだから、未来に奢ってあげたかったのに…」
「恋人同士なんですから、私だって払いたいんです」
水族館の中は、青い光に包まれていた。
周りは、ガラスの壁。
その中にたくさんの魚たちが泳いでいる。
「海の底みたい…」
両手を広げて歩き回る私の姿を、沙織さんは優しく見つめてくれている。
それは保護者の目ではなく、恋人を見つめてくれる目。熱い視線だった。
「沙織さんっ」
振り返って、沙織さんを見つめる。
大きな水槽の前に立つと、沙織さんが青く包まれて、いつもより優しく見える。
自慢の彼女。世界中に、私の彼女はこんなに綺麗で神秘的なんだよー!って伝えてしまいたい。
「なぁに?未来」
「えへへー。なんでもないです」
小走りで沙織さんの元に戻る。
沙織さんは、そっと私の手首を軽くつまんでくれた。
「変な未来」
「私、自分でもわかるくらい、今、浮かれているんです」
「…」
「大好きな人と、デートしてるんですもん」
私の言葉を聞いた沙織さんは、何も言わず、黙ったまま、つまんでいた私の手首から指をほどいて、その代わりに、そっと、私の指に触れた。
「…沙織、さん?」
いつもならすぐに手を握ってくれるのに、今は、握らない。
ただ、指先に触れてくるだけ。
(…)
もどかしくて、胸がきゅっとする。
なぜか、息が止まる。
ちょっとだけふれた指先から、私の鼓動が全部流れ出てしまいそうだった。
そのまま、沙織さんは、ゆっくりと私の右手を触っていく。指が少しずつ動き、触って、離れて、そのたびに身体がびくっとしてしまう。
(あ)
私の右手の人差し指にはまっている指輪を、沙織さんがこすっている。
指が増えて、二本、三本。
そして、沙織さんの手全体で、私の指にはまった指輪を愛おしそうに包み込んでくれた。
「私も…ね、浮かれているのよ」
吐息がもれた。
沙織さんが私を見つめてくれている。今ではもう、私の方が少し背が高くなっていた。
いつの間にか、身体だけは、沙織さんに追いついて、それどころかちょっとだけ追い抜いてしまったのかもしれない。
指が絡まってくる。
手がつながれる。
絡まった指が動いて、まるで私をずっと求めてくれているみたいだった。
青い光。
柔らかい光。
胸の奥に響く鼓動。
近い。
沙織さんの匂いがする。
今日はずっと、沙織さんの匂いに包まれているから、帰宅した後も、沙織さんの匂いが私に染みついてしまうかもしれない。
それなら…シャワーで洗い流すのは…もったいないな…
沙織さんの匂いがとれないように、私の身体の奥にまで沙織さんの匂いでいっぱいにしたいな、なんて思ってしまう。
あぁ、私、浮かれているなぁ。
沙織さんより私のほうが絶対に浮かれている。
でも、もしも。
沙織さんが、私に浮かれてくれているなら…
嬉しい。
「沙織さん、好きです」
周りに人がいるなんて関係ない。
私は心の中に思い浮かんだ言葉を、そのまま口にした。
「好きです…好きです…もう、たまらなくなるくらい、好き…」
言葉が足りない。
どれだけ好きって伝えても、私の中にある沙織さんへの想いを表現するには重さが足りていなかった。
沙織さんは、そんな私の言葉を聞いて、嬉しそうに笑ってくれて。
少し死角になった壁際に私を押し当てると、耳元で囁いてくれた。
「私も…未来が…好き」
そして、ちょっとした沈黙の後。
「ううん」
と言った。
ううん、って、否定されちゃったのかな、と一瞬だけ思った。
でも、違った。
かぷ。
耳たぶを、軽く噛まれた。
驚いて、文字通り心臓が口から飛び出しそうになって、びっくりしたまま沙織さんを見て、そしたら沙織さんは悪戯っ子みたいに笑っていて、そして、小さな声で、でもはっきりと、私に伝えてくれた。
「好きだけじゃ足りない…未来…」
どくん。
どくん。
心臓の音。
「愛してる」
アイシテル
えへへ
えへへへへ
もぉ、むり
幸せすぎて、私はこの日の水族館デート、あとはどうやって家に帰ったかも全部忘れてしまっていた。
私の心は深海に沈むマリンスノーのように、沙織さんへの思いで満ち溢れている。
沙織さん、私も。
私だって。
愛しています。




