第83話 始業式ジェラシー【未来16歳/沙織28歳】
もうすぐ、始業式が始まる。
この始業式前の、何とも言えない緊張した雰囲気が、私は嫌いではなかった。会場内は少しざわついていて、生徒たちも新しいクラスごとに固まって座っている。私は職員の席から、そんな様子を見ていた。
(…未来がいる)
どれだけ離れていても、私が見逃すはずがない。これだけたくさんの生徒に囲まれていても、私の彼女は輝いて見える。
目があった。
私が未来を探している間、未来も私を探していたのだろう。
気持ちが通じ合えたみたいで、嬉しい。
(あ…)
離れた席の私を見ながら、未来が胸元に手をやっているのが見えた。未来の胸元…制服で隠れていて見えないけど、あの場所には、昨年のクリスマスに私がプレゼントした指輪がネックレスとして飾ってあるのを、私は知っている。
(未来…好きよ)
心が暖かくなって、私はまわりの教師に見つからないように、そっと、右手で唇にそっと触れた。私の右手の人差し指には、未来とお揃いの指輪がはめられている。
(気づいて…くれるかな)
未来の顔がぱぁっと明るくなったのが見えた。すごく、嬉しそうな顔。遠くから見ていても、頬が桜のように紅潮しているのがわかる。
…私だって、たぶん同じ顔している。
好きな人と、心がつながる。
これ以上に幸せなことって、この世の中に他にあるのだろうか。
「ふふ、水瀬先生、嬉しそうですね」
隣に座っていた結城先生が、こちらもまた、嬉しそうに語り掛けてきた。
金髪で、美人で、人生の先輩で。
いい匂いがする。いい香水をつけているんだろうな、と思う。
「ええ。新しい一年の始まりですもの」
「あら?本当にそれだけが原因ですか?」
「そ、それだけです…」
「ふぅん」
結城先生は微笑すると、ちらっと私の指先を見て、
「相変わらず、素敵な指輪ですね」
と言った。私は顔を真っ赤にしてしまう。この人は…いったいどこまで知っているのだろう?いや、分かっているのだろう?
いろいろな考えが頭をよぎってきて、目を白黒させながら見つめ返す私の様子がよほど面白かったのか、結城先生はからからと笑いながら、「水瀬先生も素敵ですよ」とまたからかってくる。
「も、もぅ…」
「式が始まりますよ。静かにしなさい」
私がいろいろ反論しようかとしていた時に、教頭の白鳥先生が注意をしてきたので、私は背筋を伸ばして黙った。
うん。気を付けよう。
私は教師なんだから、生徒の模範にならなくちゃ…
(本当は、駄目教師なんだけどね)
どうしても視線が未来の方を向いてしまう自分の事を自覚しつつ、それでもできるだけ、私は教師として道を外れないようにしようと思った。
■■■■■
普通の高校の始業式での校長の話は、たいてい長いものだろう。
過去の偉人の言葉を引用したり、自らの経験を語ったり、生徒たちにあるべき姿を訓示したりと、ある意味、校長としての最大の見せ場でもあると思う。
ただ、うちの高校の場合。
「おはようございます。みなさん、体調は大丈夫ですか?元気に楽しく、新しい一年間を過ごしてくださいね」
だけ言って、終わる。
校長はもう定年間際の年齢で、60代前半のお年なのだが、見た目だけならもう70代といってもいいくらいの方だ。正直、歩いているのを見るだけでこちらの方がハラハラしてしまう。昔はすごい人だったらしいのだけど、今はもうその片鱗を感じることは少ない。
校長の話が短かった分、その後、生徒たちに注意事項などを説明する白鳥先生の話は長かった。
これでバランスがとれているのだろう、と思うと、少しおかしくなってしまう。
とどこおりなく式は終わり、生徒たちが先に会場から退出する。
結局、長い式だった。
私は大きく背伸びをすると、ぱんっと頬を叩く。
よし、気持ちを切り替えて、教師として、頑張ろう。
生徒たちを一年間、私は導いていかないといけないのだから。
そして受け持ちのクラスに入り、まっさきに、恋人の姿を探す。
すぐ分かった。
クラスで一番の美人を探せばいいのだから、簡単な話だ。
(可愛い…)
未来の姿を見て、心がふにゃっと溶けていくのが分かる。
私は教師、私は教師。
誰か一人だけをえこひいきするなんて、しちゃいけないんだから。
「おはようございます、この一年間…いいえ、卒業までの二年間、このクラスの担任を務めさせていただく、水瀬沙織です」
挨拶をする。
生徒たちの視線が私に集まる。
クラスの人数は40人。
40人分の視線…
39人の視線と、1人の視線。
(未来…)
熱い。
未来からの視線だけが、比べようもなく、熱い。未来1人だけで、他の39人の視線よりもずっとずっと熱いものを感じる。
(抱きしめたい)
口では生徒たちにいろいろな新学期始まりの注意事項を説明しながら、私の心の中は未来のことで一杯になっていた。
(去年より、ずっと可愛くなっている…)
もちろん、去年もすっごく可愛かったのだけど、今はその可愛らしさの中に、大人に近づく色気…も内包されているように感じる。もう、全身が輝いて見える。キラキラしているようにみえる。
未来の隣の席に座っている男の子が、未来に話しかけるのを見て、心がもやっとした。
(…話しかけないで)
(私の未来なのに)
私の受け持ちの生徒たちは、高校二年生、つまり、全員私より12歳も歳下なのだ。16歳の子供たちなのだ。私は28歳。もういい大人だ。そのいい大人が、12歳下の子供に向かって嫉妬していた。
(駄目教師)
あらためて、そう思ってしまう。
駄目だとは思うけど、でも、湧き上がってくるこの感情には嘘がつけない。
独占したい。
できることなら、私の名前をかいて、持ち去ってしまいたい。
落ち着け、落ち着け、私。
教師としての私と、女としての私が争っているのが分かる。
今のところ、何とか教師としての私の方が、女としての私を押さえつけることができてはいるのだけど…
(いつまで、持つかな)
年甲斐もなく嫉妬してしまうくらい、狂いそうになるくらい、恋焦がれる情熱が私に残っているなんて、知らなかった。ううん、気づいていなかった。
これが、本当の私、なのだろう。
もう一度未来を見て。
未来も私を見つめていて。
にこっと笑いながら胸元に手をやってくれているのを見て。
私はそれだけで、春の中で溶けそうになる。
■■■■■
放課後。
始業式の日は終わりが早いので、放課後といっていいのかは分からないけど、それでも一応、放課後。
私は校舎の壁にもたれかかって、空を見ていた。
うららかな、春の空。
澄んだ空気は透き通っていて、遥か彼方の宇宙までみえる気がする。
(未来の体温、感じたいな)
色ボケ教師の私は、そんな爽やかな空の下で、こんな爽やかでないことを考えていた。
(ぎゅっとして、抱きしめて、そして)
(唇)
(触れ合いたいな)
はい、駄目。
ここは学校なのに、まだ新学期の初日なのに、私は何を考えているのだろう。何って、恋人のことしか考えていなかった。
放課後に、未来は文芸部に顔を出すといっていた。
今年をどうやっていくか、話し合いをするらしい…話し合い、といっても、あの神美羅さんが主体でやっていくのだから、ちゃんと話し合いになるのかしらね?と思って、少しくすっと笑ってしまう。
私は文芸部の顧問だから、顔出しにいってもいいだろう。
いや、初日だし、行くべきだ。
けっして、未来に会いたいからじゃない。
私は未来と2人きりなら会いたいし…いちゃいちゃ、したいけど、でも、周りに人がいるとできないから、2人きりじゃないなら無理して会いにいくべきではない。
うん、そうだ。
私が文芸部に今から顔だしするのは、私が顧問だからであって、それ以上の意味も、それ以下の意味もない。
(仕方ないよね)
と自分に言い聞かせながら、ウキウキとしながら、足をはやめる。
今の文芸部は…
(3年に、部長である神美羅さんと、副部長の楼蘭さん)
(2年に、私の可愛い恋人の未来と、未来の親友の白鷺さん)
みんな、女の子ばかりで、可愛くて、いい子ばかりだ。
もちろん、一番可愛いのは断トツで突き抜けて未来なのだけど(神美羅さんは除外。なんとなく、神美羅さんは別枠)。
私はにやける顔をなんとか抑えつつ、28歳の大人として、顧問として、恥ずかしくないような落ち着きを持って、そして、文芸部の部室の前についた。
扉の向こう側から、談笑が聞こえる。
どうやらもう、みんな集まっているみたいだ。
一番大きな声は、神美羅さんの声。これはもう当たり前だった。
それをたしなめる楼蘭さんの声も聞こえてくる。相変わらず、だなぁ。
みんないつも通りで、これから一年間、また同じように楽しい日々が続くのだろう。
「みんな、そろっているかな」
私はそう言って、扉をあけた。
中にはおなじみの顔が…銀髪で紅い目をした神美羅さん、眼鏡で見た目は大人しそうな楼蘭さん、日本人形みたいな白鷺さん、世界で一番可愛い私の大事な恋人の未来、
…その中心に、知らない男の子が立っていた。
白い肌。
落ち着いた雰囲気。
背は高くない。痩せているというか、華奢。
見るからに、文学少年、といった感じの趣。
「あ、水瀬先生、やっほー!」
明るい声で手をあげると、神美羅さんがドヤ顔でその男の子を紹介してきた。
「わが文芸部に、さっそく期待のニューフェイスが加わったよ」
そして、じゃーんと口で効果音をつけながら、その子の後ろで手を広げる。その男の子は…今まで女の園だったこの文芸部に入ってきた異質な存在は…私を見ると、儚げな表情を浮かべて、口を開いた。
「1年2組、雪原遼です。顧問の方ですね。どうか宜しくお願いいたします」
綺麗な声だった。
澄んだ声だった。
私の未来の隣に、男の子が、立っていた。
「…文芸部顧問の水瀬沙織です。歓迎します。こちらこそ、よろしくね」
そう言いながら、私の心の中に、蠢く感情があった。
もやもやとした、ぐじゅぐじゅとした、なんともいえない、どろりとした感情。
この感情の名前は、たぶん、そう。
嫉妬、だった。




