第8話 【閑話休題①】お姉ちゃんになった日
春の光は、いつもより少しだけ眩しかった。
それはたぶん、今日という日が特別な日になるからだと思う。
朝から家の中はバタバタしていた。
お母さんを連れてお父さんは出て行ったから、8歳の私は1人で家でお留守番をしていたのだ。
とりあえず朝ご飯の準備をすることにする。
「昨日のカレー…あったあった」
冷めたカレーをお皿に移して、電子レンジに入れる。「あたためすぎると危ないから、気をつけなさいね」と言ってくれたお母さんの声を思い出しながら、ボタンを押した。
――ピッ、ピッ、ピッ。
電子音がやけに大きく響いた気がした。
私は今日から、「お姉ちゃん」になるのだ。
◾️◾️◾️◾️◾️
ずっと待っていた日だった。
お母さんのお腹に向かって、毎日話しかけていた。
「早く会いたいなー」
って。
「私のこと、好きになってくれるかなー」
って。
お母さんのお腹に耳を当てて目を閉じると、中から小さな音が聞こえてきた気がした。
「この中にいるんだよね、赤ちゃん!」
と言ったら、「そうよ。いま、頑張って大きくなっているんだよ」って、お母さんも笑ってくれた。
…笑うたびに、時々、お母さんが少し苦しそうな表情を浮かべる時もあって、それはなんとなく怖かった。
(お腹の中に赤ちゃんがいるのって、どんな感じなんだろう?)
そう思いながら自分のお腹をさすってみたけど、くすぐったいだけだった。
◾️◾️◾️◾️◾️
お父さんが迎えに来てくれたのは、夜遅くになってからだった。
へとへとになっているお父さんの車に乗せてもらって、病院へと向かう。
お父さんは疲れきっていたけど、でも、とても満足そうな顔をしていた。
病室に入ると、お母さんは白い布団の中に横たわっていて、その腕の中に、小さな小さな、「なにか」がいた。
最初、それが人間だなんて思わなかった。
だって、くしゃくしゃな変な顔だし、指だって豆みたいに小さいし、鳴き声もなんかしゃがれた猫みたいに変だったんだもん。
「…陽子、これが、沙織だよ」
お母さんが柔らかく笑っていった。
私は赤ちゃんの側に近づいて、手を伸ばす。
赤ちゃんが少し動いて、私の指をぎゅって握ってきた。
すごく弱い力なのに…そこに命を感じた。
柔らかくて、暖かくて。
ぎゅって私の指をにぎったまま、離そうとはしなかった。
「沙織、お姉ちゃんのこと、もう大好きなのかな」
そう言って、お母さんが笑った。
沙織。
私の、妹の名前。
「沙織」
赤ちゃんに向かって呼びかけてみる。当然、返事はないのだけど、私の指を握る力が少し強くなったような気がした。
「なんか、行かないでって言ってるみたい」
私は、そのまま赤ちゃんの小さな手を両手で包み込んで、そっとつぶやいた。
「はじめまして、沙織。私は陽子。あなたの…お姉ちゃんだよ」
赤ちゃんが、目を開けた。
生まれたばかりだし、まだ何も見えていないはずなのに、それでも、まっすぐに私を見つめている気がする。
くしゃくしゃな可愛い顔。
豆みたいに小さい可愛い指。
猫みたいな可愛い鳴き声。
なんかもう、全部ぜんぶ、可愛くて仕方がない。
私は、この子の中に、いろんな力を見つけた。
弱くか弱い身体の中に、たしかにある力。
生きる力。
笑う力。
泣く力。
そして…暖かくて大きな、愛される力。
そうやって、じーっと赤ちゃんをみつめていたら、後ろから、お父さんの声が聞こえてきた。
「陽子、お姉ちゃんになった気分はどうだい?」
私は少し考えてから、答える。
「…悪くないよ」
そう、悪くない。
ぜんぜん、悪くない。
お姉ちゃんになった喜びもあるけど、それ以上に、私の中にあったのは、生まれて初めて芽生えてきた…「責任感」だった。
「私ね…この子を、沙織を、守りたい。沙織を、いっぱい幸せにしてあげたい。私、お姉ちゃんだもの。沙織をたーっくさん、幸せにしてあげないといけないんだ」
お父さんが、少し驚いたような表情を浮かべた。私の答えが意外だったみたいだ。
「…陽子は、いいお姉ちゃんになれるよ」
うん。
私は、いいお姉ちゃんになる。
立派なお姉ちゃんになる。
生まれたばかりの小さな妹をみていると、「守りたい」という感情と共に、もっと強い、「離れたくない」という気持ちが湧き上がってくる。
「沙織、お姉ちゃんが、いっぱいいっぱい、いーっぱい、あなたのことを幸せにしてあげるからね」
◾️◾️◾️◾️◾️
お母さんと赤ちゃんを残して、私とお父さんは家に帰った。
私は、布団に横たわって、目を閉じる。
布団の中で、手を閉じて、開く。
すると、さっきの小さな手の感触が、まだ私の手のひらの中に残っているのを感じた。
あたたかくて。
やわらかくて。
胸の奥が、暖かくともる。
私の名前は、水瀬陽子。
妹の名前は、水瀬沙織。
わたしの、たった1人の、大切な妹。
布団の中の暗闇の中で、手のひらに残ったあたたかい光を感じながら、私はつぶやいた。
「ねえ、沙織。早く大きくなってね。お姉ちゃんが…たくさん、いろんなことしてあげるからね」
言葉は力になり、力は未来をかえる。
「沙織、一緒に遊びましょうね」
やわらかな笑顔。
「沙織、一緒に笑おうね」
心が、体が、あたたかくなる。
「沙織…お姉ちゃんが絶対に…あなたを幸せにしてあげるからね」
言葉は力になり、力は未来を変えて。
そして生み出された言葉は、自らを縛る…
呪いにもなりえた。
「私が、あなたを、幸せに」
「してあげるから」
「ね」