第76話 夏が来た。【未来15歳/沙織27歳】
まだ朝だというのに、8月の太陽の光はギラギラと輝いていて、玄関の扉を開いた瞬間にむっとした夏の匂いが鼻腔をくすぐった。
(セミの声…潮風の匂い…夏がきたって感じがする…っ)
私は大きく背伸びをすると、裸足のままで庭にでて、足の裏で土の感触を楽しんだ。
「未来さん、足、汚れちゃいますよ?」
「ちゃんと拭いて戻るから大丈夫だよ、茜先生」
声をかけられて振り向くと、茜先生がつむぎに日焼け止めを塗っている姿がみえる。もうすっかり家族になったんだな、と思うのと同時に、「お母さん」ではなく「茜先生」と呼んでいることで、家族になったとはいえ、まだ他人行儀な壁もあるよね、とも思う。
(でも、仕方ないよね)
お父さんと茜先生が再婚して、新しい家族になってからまだ2か月ほどしか経っていないのだ。
別に急ぐ必要はないから、ゆっくりと、でも一歩ずつ確実に、本当の家族になれればいいと思う。
「ねーちゃー!」
茜先生に日焼け止めを塗ってもらったつむぎが、嬉しそうに笑いながら家を飛び出してきた。
「つむぎちゃん…靴…」
「ねーちゃといっしょー!」
私の真似をして裸足のままだ。茜先生はやれやれといったふうに肩をすくめると、優しい顔つきで私たち2人を見つめてくる。
「冷たい麦茶、準備しておきますね」
「有難うございますー!」
「あいあとー!」
私とつむぎは茜先生にお礼をいうと、2人で裸足のまま庭を駆け回って遊んだ。
夏。太陽の光。潮風。土の匂い。
(なんか、幸せだなぁ)
きゃっきゃと抱き着いてくるつむぎを抱き返しながら、そんな事を思う。
思っていたら。
「おはよ…朝から元気だなぁ」
「おはよう、玲央!」
髪に寝ぐせをつけたまま、義理の兄である玲央がねぼけまなこで起きてきて、家の中から私たちに声をかけてきた。
前までは「玲央くん」と呼んでいたけど、最近は「玲央」と呼び捨てになっている。何回か「玲央お兄ちゃん」と呼んでみたけど、そっちの方はしっくりこなかったので、やっぱり玲央と呼び捨てするのが一番しっくりくる。
家の中で、茜先生とお父さん、それに玲央の3人がテーブルに座って朝ごはんを食べている。それが何も特別な光景ではなく、当たり前の日常となっていた。
(いつかこの光景だって、想い出になるのかな)
ふと、思う。
この街に最初に引っ越してきたとき、家の外から家の中を眺めた景色には、お父さんとお母さん2人だけの姿しか見えなかった。
それがお母さんが亡くなって、そのかわりにつむぎが増えて。
今では茜先生と玲央が加わって。
(家族って、変わっていくんだな)
ちょっとセンチメンタルな気持ちになる。
その気持ちを吹き飛ばすために。
「玲央もこっちにおいでよ!一緒に夏を感じようよ!」
手をふって玲央を呼ぶ。私をまねて、隣のつむぎも「おいえよー!」と言いながらちっちゃな手を振る。
「…仕方ない…なっ!」
玲央はパンを麦茶で飲み込むと、茜先生に向かって「美味しかったよ、母さん」と伝えて、そのまま裸足で庭へと飛び出してきた。
大きな足。大きな体。
夏の光にきらめく金髪と三連ピアス。
「鬼ごっこ、しようぜ」
そう言いながらまずはつむぎを追いかけてくる。つむぎは嬉しそうにきゃっきゃと言いながら、手をあげて庭を逃げ回る。
私は庭の隅にいくと、水道につなげたホースを手に取り、空にむけて水を放った。
陽光を浴びて、水がキラキラと輝きながら2人の上にまるで雨のように降っていく。
「やったな、つむぎ、お姉ちゃんをこらしめようぜ」
「こらしめうー!」
濡れネズミみたいになった玲央とつむぎの2人が結託して私にむかってくる。私もきゃーきゃー言いながら裸足で庭を逃げていく。
当たり前の夏休み。
明るく、暑くて、輝いている夏休み。
これは、完璧な夏休みの朝だった。
■■■■■
「…と、朝からそんなことがあったのよ、凛」
「相変わらず、未来のところは元気ね…」
制服姿で私の隣を歩いている日本人形みたいな綺麗な子は、もちろん、私の親友である白鷺凛だった。
夏休みなのに学校に来ているのは、授業のためではなく部活のためだった。
校門をくぐると、さすがに普段よりは少ないものの、部活に来た生徒たちがそれなりの人数がいて、騒がしく動いていた。
「それで玲央は?」
「バスケ部の部活は私たち文芸部よりも早いから、もう先に家を出ていったよ」
その後ろについていこうとしたつむぎをひょいと家の中に戻している光景が、なんとなく微笑ましかったのを覚えている。
「そうなの。まぁ、颯真のサッカー部もそうだけど、やっぱり体育会系の部活はいろいろ大変そうね」
「その点、私たち文芸部はのんびりしててよかったね」
「…まぁ、部長が部長だしね…」
「はは…そうだね」
言いながら、部室の扉の前につく。
中から騒いでいる声が聞こえてくる。先ほど話題にのぼった、当の部長の声だった。
「…はぁ」
凛は大きくため息をつくと、嫌そうな顔をして扉を開いた。
「おはようございます…って、何しているんですか、神美羅先輩」
「おはよう、凛、未来。朝から仲いいねぇ。先輩、ちょっと嫉妬しちゃうよ」
「…先輩方も仲いいみたいですね…特に嫉妬はしませんけど」
「あら、そう?遠慮しなくていいのよ?」
部室の中には、一台しかない扇風機の風を奪い合っている神美羅先輩と楼蘭先輩の姿があった。
銀髪のびっくりするくらい美人の神美羅先輩が、落ち着いた感じの黒縁メガネをした楼蘭先輩をからかっているようにもみえる。
「それにしても、こんなに暑いとクーラーが欲しくなりますよね」
私は汗をかきながらそう言うと、部室の長椅子に腰をかけた。
「うちの高校、一応進学校でお金もあるはずなのに…そのお金はいったいどこにいっているのかしら」
凛はそう言うと、黙って扇風機の首を私に向けてくれる。
さわやかな風を身体に浴びる…と思ったけど、ただ単に暑い空気が移動してきただけだった。
「お金は天下の回りもの…ただ、私たちをよけてまわっているみたいね…この扇風機と同じように」
そう言いながら扇風機に手を伸ばしてきた神美羅先輩の手を凛がばしっと受け止める。
「可愛い後輩にゆずってくれてありがとうございます、神美羅先輩」
「年上を敬ってくれるその姿、とっても素敵だわ、凛」
「おほめにあずかり恐悦至極です。ささ、その手を離してください」
「嫌よ。人生にはね、譲れない一瞬、ってのもあるのよ」
「それが今なんですか?もったいない」
「今を楽しめない人生なんて、パンの入っていないパンケーキよりも味気ないわよ」
まるでトムとジェリーのように仲良く喧嘩している2人の頭を、こんこんと丸めたパンフレットでたたいたのは楼蘭先輩だった。
「はい、そこまでー。それでなくても暑いのに、2人して部屋の温度をあげないで」
「親友に対してひどいなぁ、蘭子」
「親友だからこそ、これ以上親友が情けなくならないように止めてあげたのよ、由良」
みんなのやりとりを見ていると、なぜか心がほっとする。
そんなわけで、結局、扇風機の風を独り占めしていたのは漁夫の利をえた私だった。ま、暑い風を受けていただけなんだけど。
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「みんな、集まっているみたいね」
部室の扉があき、澄んだ美しい声が聞こえてきた…そう感じているのは私の贔屓目なのかもしれないけど。私にとって世界で一番綺麗な声なのは間違いないのだった。
「先生、おはようございます」
「やっほー、先生」
「こら、由良、ちゃんと挨拶しなさい…水瀬先生、おはようございます」
凛と、神美羅先輩と、楼蘭先輩がそれぞれ挨拶をする。
もちろん、私も満面の笑みで、「おはようございます!」と大きな声で挨拶をしていた。
「おはよう」
沙織さんはそう笑って答えてくれた。みんなに挨拶しているんだけど…一番最初に目があったのは私だし、その言葉の半分以上は私に向けて言ってくれたのだと思う。
「それでは、今日の議題を話したいと思います」
沙織先生は部室のテーブルの一番端に座って、私たちに向けてそう言ってきた。私は扇風機の風を沙織さんへとむける。いつの間にか、この扇風機の所有権は私のものになっていたみたいだから、ここは職権乱用させてもらおう。
風が沙織さんの髪を揺らし、淡い服を夏の光が照らしている。
先生なのに、どこか少女みたいで、けれど大人で。
(どうしてこんなに綺麗なんだろう…)
いつもそう思ってしまう。沙織さんに会うたびに、世界の幸せランキングを毎回更新してくるのがすごいと思う。好き。
「みんな、今夜の夏祭り、参加するのよね?」
沙織さんがそう言った瞬間、部室の空気がぱぁっと明るくなった。
「もちろん、参加します」
「日本の夏といえば夏祭りですよね~トランシルヴァニアにいた時には経験できませんでしたから、楽しみです」
「…由良は日本産まれ日本育ちの生粋の大和なでしこでしょう?」
みんな口々に言いあっているけど、夏祭りを楽しみにしている、という一点だけは共通だった。
それはもちろん、私も。
「私、屋台いろいろめぐってみたいです!」
「うん、未来、一緒に回ろうね」
「ねぇ、私は?私は?仲間外れにされると寂しくてハムスター死んじゃう…」
「神美羅先輩、固形物食べないっていつも言われているじゃないですか」
「屋台っていろいろあるもん。射的とか型抜きとか…」
「はいはい、今年も私が付き合ってあげるから、可愛い後輩に絡まないの」
「ありがとう、蘭子~。愛してるよ~」
「はいはい、ありがとー」
私はじっと沙織さんを見つめる。
沙織さんは私の視線に気づいて、ちょっと頬を赤らめる。もしもここに誰もいなくて、私と沙織さんの2人きりだったとしたら、たぶんもっと赤くなってくれたんだろうな。
「さお…先生も、参加されるんですよね」
「ええ。そのつもりよ」
視線をそらしながら、沙織さんはそう答えた。やった。嬉しい。夏祭りで沙織さんに会える。
「それでは、今日の夕方、文芸部全員で集まりましょう」
文芸部で夏まつりをめぐって、そのレポートを一冊の本としてまとめてみよう、というのが本日の議題だった。
みんなでわいわいと話し合いながら、ふと、神美羅先輩が口を開いた。
「今年は先生も、浴衣で参加されるんですよね?」
去年はスーツ姿で参加してたから、祭りに浮いてましたよ、と神美羅先輩が笑った。
「…一応、ね」
沙織さんの、浴衣!
楽しみすぎる…今から胸がドキドキする。
「みんなも浴衣で集合しましょう…みんな若いから、先生なんかよりずっと似合うと思うわ」
ふわりと、柔らかい声で沙織さんがそういった。
みんな、とひとくくりにされたけど。
でも、沙織さんが見つめているのは、私だった。
私だけ、だった。
(沙織さん、私の浴衣姿…)
(期待してくれて)
(いるん、だ)
嬉しい。
みんながいるのに、顔がにやけてくるのがとまらない。
よーし。
今夜は、可愛い浴衣を着て。
それで。
沙織さんを、もっと私に惚れさせてやるんだから、ね。




