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恋してしまった、それだけのこと  作者: 雄樹
第六章 【未来15歳/沙織27歳】
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第68話 揺れる光①【未来15歳/沙織27歳】

 未来はスマホを見つめたまま、固まっていた。

 月明りに照らされたその横顔は、先ほどまでの幸福の余韻をまといながらも、なぜか、そこに少し薄い影が差し込まれているように感じられる。


「…お父さん?」


 未来が小さくつぶやいた。

 心配そうな横顔。

 その言葉を聞いて、その横顔を見て、私は胸がきゅっと痛んだ。嫌な予感…ではないのだけど、未来の表情の中に戸惑いが浮かんでいるのが見えたからだ。


「どうかしたの?」


 問いかけてみる。

 未来は無言で、手にしたスマホの画面を私に見せてきた。


『未来へ。今日は沙織さんのところに泊まっているんだよね。大事な話があるから、明日、帰宅してから少し話をしよう』


 未来の呼吸がわずかに乱れるのを、私は耳で感じ取っていた。


「…大事な話って」


 未来はゆっくりと唇をかんだ。

 その仕草は子供の用でいて、それで同時に大人びていて、未来はいま、大人と子供の中間にいるんだな、と感じさせられる。


「何かあったのかな…つむぎのこと、じゃないよね。それならすぐに帰れっていってくるはずだし」


 不安が、未来の声に少しだけ滲む。

 私はその横顔をそっと抱き寄せた。

 未来はスマホを持ったまま、返信をする。


『それは大丈夫だけど、何かあったの?』


『いや、急用ではないんだ。明日で大丈夫だから、今夜はゆっくりしておいで』


 不安そうな顔。

 その不安を払拭してあげたくて、さらにつよく、未来を抱きしめる。

 心臓が動いているのがわかる。

 この抱擁は、先ほどのしたキスとは違う。

 恋人としてではなく、大事なひとを、支えるための抱擁だった。


「大丈夫よ」


 そっと、声をかける。未来を落ち着かせようと思ってかけたこの声は、自分で思っていたよりも落ち着いた声だった。


 未来の頭をゆっくりと撫でながら、考える。


(このタイミングで…大事な話)


 未来の父親は…姉さんの旦那さんは…いい人だ。

 いつでも誠実で、子供たちを大切にしている。自分をつよく主張する人ではないけれど、自分の中の芯はけっして揺るがない人だ。

 何か大事なことがあれば、必ず正面から、「ちゃんと向き合って」伝えてくれる人だ。


(そんな人だから)


 姉さんは、あの人を選んだ。

 昔のことを思い出して、胸が少し痛んだ。


「…お父さん、もしかして…」


 頭を撫でられながら、未来がつぶやいた。


「私と沙織さんとの関係、気づいてるのかな」

「…それは、ないと思う」


 もしそうなら、未来が私の家に泊まりにくるなんて許すはずがない。


「じゃぁ、なんなんだろう…」

「未来」


 私は、未来を抱きしめる腕に、少し力を込めた。


「何があっても、私は未来の味方だから。あなたの居場所であることだけは、絶対に変わらないから」


 だから、安心して。


 未来の肩が震えた。

 未来は、強い子だ。

 かれど、だからこそ、どんな物事でもまっすぐに受け止めてしまうからこそ、傷つく時も、深く自分を傷つけてしまう子でもある。


(守りたい)


 腕の中の未来を小さく感じる。昔からずっとこの子を見てきた。恋人じゃない時から、ずっと。


「…沙織さん」

「なぁに?」

「今夜、一緒に寝てくれますか?」


 未来の声。私を頼ってくれる声。恋人として寝て欲しい、というわけではなく、家族として抱きしめていてほしい、と、そう言っているように感じる。


「もちろん」


 私は迷わずそう答える。


「…よかった…」


 ほっと息をはく未来の頭を、私はそっと撫でた。

 その髪は、私と同じシャンプーの香りがした。

 先ほどまでの幸福がそこに残っていて、逆に胸が締め付けられる。


(未来…)


 何かが、変わる予感がした。

 いいことが起こるのか、それとも悪いことが待っているのか。

 それは分からない。

 でも。


(私が絶対、守ってみせる)


 どんな変化が待ち受けていたとしても、未来を一人にはさせない。私が必ず、この子の隣にいるようにする。恋人として、大人として。


 未来はスマホを伏せたまま、ぽつりとつぶやいた。


「なんか、怖いです」

「大丈夫。私がいるから、ね」

「…沙織さん、もっと強く、抱きしめて欲しい…」

「ええ」


 私は未来を腕の中に抱き寄せると、そのままベッドに倒れこんだ。

 ふわりとしたシーツが私たちをくるむ。


 同じベッドのなかで、私は未来を、恋人としてではなく、守るべき大人として、しっかりと抱きしめた。


 未来の不安をやわらげてあげるために。


 窓の外では、月が柔らかく光っていた。

 その光が、少し、揺れている気がした。



■■■■■



 翌朝。

 沙織さんのマンションを出た瞬間、風がふいてきて、私を冷たく撫でていった。


(駅まで見送ろうか)

(ううん、大丈夫です…それに、沙織さんに駅までついてきてもらったら…そのまま、家まで持って帰ってしまいたくなっちゃいますし)


 先ほどした会話を思い出して、ふふっと笑ってしまう。

 沙織さん。心配してくれているのがすごくわかる。

 だいすき、だぁ…


 沙織さんの部屋を出る時、お母さんの写真をみて、手をふった。

 お母さん、大好きだよ。

 お母さん、またね。

 お母さん…沙織さんは、渡さないから、ね。


(好きにしなさい)


 と言われた気がして、


(うん。好きだから、好きにする)


 と、心の中で答えていた。


 昨夜は一晩中、ずっと暖かく抱きしめてくれていて、私は安心して眠ってしまった。いやらしい気持ちには…少しだけしか、ならなかった。


 まったくなかったといったら、嘘になる。

 沙織さんの胸、柔らかくて、大きくて。

 自分の胸と比べてしまう…私もまだまだ成長途中なんだから、待っていてね、沙織さん。


(何を待っていて、なんだろう)


 恥ずかしくて、顔が赤くなる。

 暖かい朝だった。

 幸せな朝だった。


 幸せが大きかったからこそ。


(寂しいなぁ)


 外の風の冷たさがより深く、しみ込んでくる。


 駅へと向かう足取りは、どうしても重くなっていた。



■■■■■



 電車にゆられながら、メッセージのアイコンを何度も開いては閉じていた。


『大事な話があるから、明日、帰宅してから少し話をしよう』


 お父さんからの、メッセージ。

 何かあったのだろうか…いや、何かあったからこそ、メッセージを送ってきてくれたのだろうけど。


 何かが変わる予感がする。

 変化が起こる気がする。


(変わることは、悪いことじゃない)


 昨夜、沙織さんと話をしていて、そう思えるようになった。沙織さんも少しずつ変わっていっていたし、私だって、少しずつ変わっている。

 どんなにその道がひねくれていたとしても、前へと進んでいるなら、それはいい変化なはずだった。


(だけど)


 変わってほしくないものも、あるよね。


 ホームに降り立った時、私はまっすぐ家に向かう気になれなかった。

 どうしても、胸の奥がざわざわしていた。


 だから、駅前から伸びる商店街へと、気づけば足が向いていた。


 まだ、時間は早い。

 沙織さんのマンションを出てから、そんなに時間はたっていない。

 今日は休日で、普段は閑散としているこの商店街にも、ちらほら人が歩いている。


 人の足音や、アイスをねだる子供の声が聞こえてくる。


 そんな雑音の方が、まっすぐ家に帰るよりも少しだけ安心するような気がして。


 アーケードを抜けた先の広場。

 噴水の傍で、私は立ち止まった。


「…未来?」


 不意に声をかけられ、振り返った。

 そこに立っていたのは、背の高い、金髪で、耳に三連のピアスをしている男の子。

 同級生の、玲央くんだった。


「玲央くん?朝からなんでこんなところにいるの?」

「なんでって、それは俺のセリフだよ」


 そう言いながら、玲央くんは手にしていた袋を揺らせて見せた。


「俺は、母さんに頼まれて買い出し。なんか豪華な食事作るんだって、張り切っていたから」


 たしかに。

 袋の中身はパンパンで、いろいろな食材が詰まっているのがみえる。


「それで、そっちは?」

「…」


 私は…なんだろう。

 まっすぐ家に帰りたくなくて、っていうべきかな。

 それもなんだか変な気がする。


「なんとなく、散歩」

「散歩って、こんな時間に、家からわざわざ離れたこんな場所まで?」

「いいでしょ?」

「いや、別に悪くはないけどさぁ…」


 玲央くんは頭をぽりぽりとかいている。

 そして、私をまっすぐに見つめてきた。


「なにか、あった?」

「…別に」

「嘘つけ」


 お前、嘘つくの下手なんだからな、と、玲央くんが言ってきた。

 言われた瞬間、胸の奥がきゅっと痛くなった。

 誰にも気づかれたくなかったはずの感情が、簡単に見透かされたような気がした。


「家に帰りたくないのか?」


 玲央くんは優しい声で聞いてきた。

 声は優しいけど、強くて、私の逃げ道をふさいでくる。

 私は答えることは出来なかった。

 でも、その沈黙こそが、答えになっていたと思う。


 玲央くんはため息をひとつつくと。


「ちょうど、俺も散歩したかったんだよね。未来、ちょっと一緒に歩かないか?」

「…玲央くんこそ、嘘つくの下手すぎじゃない?」

「別にいいだろ。俺はバスケ部で、演劇部じゃないんだから」


 その言い方はぶっきらぼうだったけど、優しさが含まれているのが分かった。

 前を歩いていく玲央くんのあとを、小走りでついていく。


 玲央くんは大きくて、玲央くんが2歩あるく間、私は3歩あるかなければいけない。


 大きい男の子。

 でも、怖い人じゃなくて。


 私たちは、何も言わないで。


 歩いていた。



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